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世界観が違う

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Twitterでもtelegramでも、大量の情報が流れてきていて、しかもその大半がフェイクだったり充分な確認が取れないまま流された不正確な情報という日々、かろうじてファクトチェックするともう情勢が変わっている、という事態の連続でなかなか記事を書けずにいます。

そんな中、10年以上前から紛争地であるシリア北西部に住む人の投稿した「日常風景」があまりに衝撃的だったので、そちらのお話を。

その投稿をしたのはとある都市の虐殺事件のサバイバーで、故郷を追われて反政府勢力の統治するシリア北西部に避難してきた「ごく普通の」青年です。

その彼が「微笑ましい日常の光景」として投稿したもの。
それは「殉教者のお葬式ごっこ」をしてはしゃぐ子供たちの姿でした。
「殉教者役の子供が一番楽しそうにしている」と、笑顔の絵文字を添えて投稿された写真の中で、確かにどの子供も無邪気で屈託のない笑顔を浮かべていました。

ここで注意したいのは、「殉教者」とは、いわゆる過激派戦士となって敵と戦って死ぬことだけを指す訳ではないということです。
イスラム教徒同士が助け合って生きる「ウンマ(イスラム共同体)」と呼ばれる世界観の中で、助け合いの中で誰かを助けるために亡くなったり、彼らを敵視する人々によって生命を奪われることは全て「殉教」となるようです。
例えば、災害救助中に二次災害や救助隊を狙ったダブルタップ攻撃によって亡くなったり救急隊員は「殉教者」ですし、今まさに虐殺事件が進行中のガザで亡くなったパレスチナの人々も「殉教者」です。

投稿した青年は、まだ少年時代に経験した虐殺事件で何人もの親戚が「殉教」しました。
また、「解放された地域」に避難してから、兄がロシア軍と戦って「殉教」しています。
さらに、シリア北西部では毎日のようにロシア空軍による空爆や、政府軍による砲撃があります。
そして、あの地域の小学生たちにとっては、ヘリや飛行機のエンジン音がしたら、すぐに林や建物の影に隠れながら安全なところまで必死に走るのが「当たり前の下校風景」です。
もちろん、その途中で負傷したり生命を落とす子供は珍しくありません。

そんな日常を送る彼や、近所の子供たちにとっては「殉教」することは、「いつ自分や家族の身に降りかかるかわからない、ごく普通の日常の出来事」の1つです。
おそらく、我々のような「平和な日本の平穏な暮らししか知らない」人々にとっての交通事故よりも、ずっと身近でごく当たり前のものなのでしょう。

だからこそ「殉教者」の役をすることも、何ら忌避するものではなく、むしろ「皆で天国に送り出してもらえて安心できる」という感覚なのかもしれません。

とは言え、輝くような笑顔で「葬式ごっこ」に興じる子供たちと、それを微笑ましく見守る大人たちの姿は本当に衝撃的でした。
もちろん、宗教的な死生観や価値観の違いもあるとは思うのですが……

それ以前に、彼らにとっての「死」が「当たり前の日常」すぎる。

むやみに「死」に怯えたり拒否感を抱くのも考えものですが、子供たちが無邪気に「葬式ごっこ」に興じるほどに「死が身近な時代」は何とかして1日も早く終わらせたいものです。

※この記事の元となった「シリアに住む青年のSNS投稿」についてはソース元の明記を控えさせてください。
彼は本当に「ごく普通の善良な青年」なので、興味本位で多くの人の目に晒したくはないのです。
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