詩さんと初田ハートクリニックの法度

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ケンゴくんと詩さんと初田ハートクリニック

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「え? そんなにかかるんですか?」
 その日、精神科のクリニックの受診を終え薬局に訪れた虎門とらかどケンゴは、処方箋を渡すと同時に受付で「現在、一時間半程お時間をいただいています」と告げられ、呆然とショルダーバッグの紐を握りしめる。
 初田ハートクリニックのある商店街には、他にも病院が何軒があり、この薬局にはそれぞれの病院の患者が薬を求めに来るので、曜日や時間によってかなり待たされることもある。
(マジか……一時間半)
 かなりの時間を待たされると知り、ケンゴはげんなりと顔をしかめる。
 そんな彼の様子を見て、受付の女性が気遣うように言葉をかけた。
「お薬が出来上がるまで、外出も可能ですが、こちらでお待ちになりますか? 外出の際はお戻りになられたら受付に声を掛けていただければ、お薬がご用意できていればすぐにお渡しできますので」
「あー……、じゃあ、外に出てきます……」
 薬局で待つより、外で時間を潰したほうがまだマシだと思い、ケンゴは受付の女性にそう告げて薬局の外に出る。

「暑い……」
 そしてすぐに選択に失敗したと後悔する。
 七月上旬、そろそろ16時になるとは言え、まだまだ太陽は眩しく照りつけ、湿気も伴い先ほど薬局から出たばかりだというのに、もう背中がじんわりと汗で染みていく。
 しかし、直ぐに薬局に舞い戻るのも可笑しく思われそうでケンゴは仕方なく歩き出す。

(そういえば……)
 ケンゴは気になっていた場所を思い出す。病院に向かうまでの電車の中から見えた、ホテルのような外観の高級そうなマンションとその通り沿いの遊歩道や公園。
 この商店街がある地区とは駅を挟んで反対側にある場所だが、時間を潰すにはいいだろうとケンゴはその場所まで散策と言う名の散歩がてら行ってみることに決めた。


 商店街を駅に向かって歩き、ロータリーを抜けて駅の西口のエスカレーターを登り、改札前をそのまま進み、東口の階段を降りる。
 駅を挟んで、その街の雰囲気の違いに改めて驚く。
 西口は商店街や賑やかな飲食店が多く、なんとなく下町特有の親しみを抱くのに対して、東側は洒落たカフェやパン屋、花屋などが並び、近代的な造りの図書館があったりと都会的な雰囲気がある。
 ケンゴは自分の着古したTシャツに、スウェットを見下ろすと、なんとなく場違いな気がして少し気恥ずかしくなった。
 オープンテラスのあるパン屋の前を足早に通り過ぎ、脇道を抜けて公園沿いの遊歩道にやってきた。
 プラタナスが並ぶ遊歩道は咲き残りの薔薇や、向日葵やケンゴの知らない季節の花が植えられていて、歩いて時間を潰すには見ていてそれなりに楽しいと思える。
(花なんて、最近あまり気にして見てなかったな……)
 向日葵、小学生のときに育てさせられたっけ、なんて思い出しながら歩く。

 遊歩道を南のほうに進んで行くと、目当てのマンションが見えてきた。ケンゴがまるで高級ホテルみたいな外観だと気になったマンションだ。
 白くて、細長い三角形型のマンションで、大きな窓が沢山ある印象的な建物だ。
(外から廊下が見えないタイプの、絶対高いやつ)

 改めて近くでマンションを見るとその豪華さにケンゴは圧倒される。
 そして、なんとなく気後れする。
(こういう所に住んでる人はやっぱり成功者でおれみたいなことで悩んだりしてないんだろうな)

 幼い頃見た、叶わぬ夢。
(金持ちになって、こういうマンションとかデカい家に住んで、誰かと恋に落ちて、家族を持って、幸せに暮らしました……とさ)
 そう、心で呟いて、その言葉で虚しくなる。

 現在の自分との差に笑いたくもないのに、皮肉めいた笑みが漏れる。
 夢は叶わず、仕事は長続きしない、上からは怒鳴られ、仲間には馬鹿にされ、
 そして、
(自分が【障害者】なんだと、嫌でも自覚させられてしまった)

 ずっと、周りにいる【普通の人間】のように上手く生きられないのは嫌でも自分でも感じていた。
 でも、それが【障害】のせいなのだと知ったのはつい最近だ。
 『悲観することはありません』と、あのうさぎの被り物をした可笑しな精神科医には言われたけれど、

(ダメだな、)
 やはり、此処に来るのは間違っていた。
 ケンゴは一人、頭を振ると来た道を戻ろうと踵を返した時、
「こら、キーたん、行っちゃダメっ」
「う、わっ」
 何かが脚に纏まりつき、驚いて声を上げる。
 転ばないようにバランスを取りながら、足元を見ると、茶色と白の毛並みをした長毛の犬がケンゴの膝に足を掛けながら、無邪気そうな瞳で見上げていた。
(犬?)
「すみません、リードが外れちゃって……」
 そこへ、そう申し訳なさそうにやってきたのは、ケンゴとそう歳の変わらない……少しだけ歳上だろうか、薄茶に染められた髪をした女性だった。
「ごめんなさい、お洋服汚れてませんか?」
「あ、……え、あ、大丈夫、です」
 足元を見ると、若干スウェットの膝が土で汚れていたが、素直にそう言えるはずもないのでケンゴは女性と視線を合わせずそう答える。
 見たところ、同年代の女性だ。
 きっとこの近くの、もしかしたら、あのマンションの住人かも知れない。そう思うと余計に強張ってしまう。
 答える間も犬はケンゴの脚にまとわりつき、愛想を振りまいている。
「す、すみません……。こら、キーたん! もう、お兄さんが困るからやめてー! 本当にごめんなさい、うちの子、犬嫌いの人間好きで。好みの人間見ると寄っていっちゃうんです」
 女性は犬の首輪にリードを付けながら愛想の良い笑顔で話し掛けてくる。
「はぁ……」
 犬のくせに、犬嫌いなのか。てか、犬に好みの人間とかあるのか? と思ったケンゴだったが、こういうときに何て答えていいか分からずケンゴはただ曖昧な返事をしてしまう。
 そして自己嫌悪する。
(なんでおれ、こういう時、上手いこと人に合わせられないんだろう、)
『へー、犬なのに犬が嫌いなんですか!? でも、人間は好きなんですねー! なんて犬種ですか? カワイイっすね!』
 そんな風に気軽く愛想よく雑談出来たらいいのに。でも、そんな術は自分は持っていない、ましてや同年代の女性と楽しく雑談するなど。

「ワンっ」
 また思考が暗くなりそうだったその時、犬が構ってくれないケンゴに痺れを切らして突然吠えかかる。
「う、わっ」
 突然のことに驚き今度はバランスを崩してそのままケンゴは尻餅をつく。
「ああっ! ご、ごめんなさいっ、本当にごめんなさい!!」
 女性は慌ててリードを引き寄せながら、ケンゴに頭を下げ続ける。
「い、いや、だ、大丈夫っ、す……」
「あ、バッグの中身が、本当にごめんなさいっ」
 そう言われて、ケンゴは倒れた拍子にバッグから中の物が飛び出していたことに気付き、慌てて拾おうと手を伸ばす。
 そして気づく。
 先ほど受診したばかりの初田ハートクリニックの診察券も散らばっているもののなかにあることに。
(っ……ーー!)
 女性に気づかれないうちに拾わなければ。
 手を伸ばしたが、同時に女性の手が伸びてきて、それに驚きケンゴは伸ばした手を引っ込めてしまう。
「初田ハートクリニック……、」
 診察券を拾い上げた女性が病院名を読み上げる。
 見られた!
 ケンゴはその瞬間に暑さによるものではない汗で全身を濡らす。
(見られた、見られた、見られた!)
 精神科に通っていることが、この見知らぬ人間にバレてしまった。

 何か言われる前に立ち去らなければ、
「……っすみません!」
 ケンゴは女性から診察券を強引に奪い取る。
「あ、」
 驚いたような女性の声がする。
 はやく、早く、早く、立ち去らなければ。
 ケンゴは無言で他に散らばっている物を拾い上げ雑にバッグに入れていく。


「ウタたーん!」
「あ、ブラバ!」
 そこへまた違う人物がやってくる。
 早く立ち去りたいのに、ケンゴの行き先を遮るようにその人物が女性の前に立つ。
 焦りと嫌悪でチラリとその人物を見やって、ケンゴは驚く。
 さらりと風に靡く金の髪、色白で滑らかそうな肌、大きな瞳はオレンジかがった金茶で、ふっくらとした頬に尖った顎をした小顔の美少女……いや、美少年がそこに居た。
 ケンゴは生きてきた今までここまで中性的で、美しい少年を見たことがなかったので、先ほど彼に向けた嫌悪も忘れてぽかんと見つめてしまった。
「ウタたん、キーたんの散歩バトンタッチ! そろそろ通院の時間でしょ? 診察券とか自立支援手帳入ってるバッグ持ってきたよー」
「あ、ありがとう、助かるー。一度家に戻ろうと思ってたの」
「初田センセーとネルさんにヨロシクね」
「うん、伝えとくね」
「じゃ、キーたん、ボクと公園までさんぽ行こうかー」
 そんなやり取りのあと、少年は犬を連れて去っていった。

(通院、自立支援手帳? 初田先生、ネルさん……、え?)
 少年の言っていた言葉をそのまま繰り返してケンゴは女性を見やる。
 女性はその視線に気づくと悪戯っぽいような、どこか仲間に向けるような微笑みをケンゴに向けて。
「私もうさぎさんのいる病院に通っている仲間です」
「うさぎ……、初田、ハートクリニック?」
 女性は再度、「はい」とにこりと微笑む。


 そして、それからケンゴは薬局まで、その女性こと、聖 詩と色々な話をしながら共に向かうのだった。
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