双国ノ巫女 〜九尾の雪姫は戦場で無双するが、護衛の愛が重すぎる〜

Su

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百日紅の花


 ……枕元に、百日紅の花が置いてある。

 誰かがここに置いたのだと、すぐに分かる。

 ――その時。

 もきゅ。

 柔らかな感触が、頬に触れた。

 小さな舌が、ぺろりと頬を舐める。

 レイン
「……」

 わずかに、指先が動く。

 ポル
「もきゅ?」

 もう一度、顔を覗き込み――

 レインのまぶたが、かすかに揺れた。

 それを見逃さなかった。

 シュン
「……!」

 身を乗り出す。

「目、覚めた?
 待って……うん、熱はないね。どう? 意識は?」

 顔を覗き込みながら、脈や呼吸を確かめるように手際よく様子を見るシュン。
高山病の症状はすでに引き、彼自身は普段の軽い調子に戻っている。

 レイン
「………………」

 意識が浮上する。

 ――夢だったのか……?

 視界がまだ少し揺れている。
 身体に残る感覚だけが、現実の重さを主張していた。

 シュン
「……意識は?」

 レイン
「……! 悪い、考え事をしていた。
 お前が助けてくれたのか?」

 上体を起こした、その膝の上に――

 いつの間にか、小さな影が乗っていた。

 ポル
「もきゅ」

 レイン
「……?」

 不思議そうに目を落とし、そっと頭を撫でる。

 柔らかな毛並みが、指先に心地よく絡んだ。

 ポル
「もきゅ……♪」

 気持ちよさそうに目を細める。

  シュン
「いや、俺は簡単な手当てをしただけだよ」

 一歩引いた位置で、ふっと肩の力を抜く。

「俺はシュン。礼なら、あのモンスターたちに言ってあげて?」

 ちらりと視線を落とし、

「……あと、そいつはチンチラのポル。俺の相棒」

 ポル
「もきゅ」

 シュン
「今、あいつら呼んでくるからさ」

 ――モンスター?

 (なんだ、それは……)

 レイン
「シュン……」

 (リアが言っていた子か)

 小さく、視線を巡らせる。

 レイン
「ここは……何合目だ?」

 シュン
「四合目だよ。
 俺、高山病になっちゃってさ、上から降りてきたんだ」

「……あ、えっと、一応言っておくね。
 体を手当てする時、服を脱がしちゃったから……ごめん……」

 少しだけ視線を逸らし、気まずそうに言う。
 耳の奥まで、ほんのり赤い。

 レイン
「?」

 一拍、間。

 レイン
「何を謝る必要がある?
 手当をしてくれて、感謝している」

 迷いのない、まっすぐな声。

 ――羞恥心、皆無。

 シュン
「…………うん……」

 言葉に詰まりながら、小さく頷く。

「だ、誰にも言ってないから……安心して」

 視線は泳ぎ、耳はさらに赤くなる。

 レイン
「?……ありがとう」

 わずかに首を傾げる。

(……何を、安心する必要があるんだ……?)

 理解はしていない。
 だが、とりあえず礼は言う。

 シュン
「傷に良くないから、鉄の胸当ても外してるし。
 皆呼ぶから……隠しておいてよね」

 ぼそりと付け足す。
 その横顔は、明らかに気まずそうだった。



 天幕が、ばさりと音を立てて開かれる。

 先頭に飛び込んできたのは――リア。

 その背後には、一行の姿。

 リア
「レイン!!!!」

 叫ぶような声。

 次の瞬間には、迷いなく駆け寄り――

 そのまま、勢いよく抱きついた。

 リア
「よかった……!!
 本当に心配したんだよぉぉおおお!!」

 感情をそのまま叩きつけるような抱擁。

 ――ガシッ。

 シュン
「あっ、リア!!
 怪我してるんだよ!?」

 止める声は、間に合わない。

 そのまま――

 …………………………

 ぱいーーーーーーーん

 ぴたり、と。

 時間が止まった。

 リアの顔が、レインの胸元に埋まったまま、固まる。

 柔らかい感触。

 頬に押し返される、確かな弾力。

 一瞬の、完全な沈黙。

 リア
「……………………?」

 一行
「???」

 リア
「……ぱいーーーーーん?」

 レイン
「…………?」

 一行
「???」

 ゆっくりと。

 本当にゆっくりと、リアが顔を上げる。

 レインの顔を見る。

 そして――

 視線が、自然と下へ落ちる。

 目の前にある、“それ”。

 もう一度、確認するように。

 リア
「……ぱいーーーーん??」

 シュン
「………あーあ………」

 こめかみに手を当て、わずかに顔を引きつらせる。

(……だから言ったのに……)

 リア
「えええええええーーーーー!!!!!??」

 天幕の中に、悲鳴にも似た叫びが響いた。

 困惑と衝撃が、一気に広がる。


――――――――――
  天幕の外へ……
――――――――――

  リア
「ご、ごめんなさい……っ……!
 私ったら……てっきり男性だと思ってて……」

 (……イケメンだと思ってたのに)

 耳の先まで赤く染め、視線は泳ぎ続ける。
 羞恥と――ほんのわずかな落胆が、滲んでいた。

 ナイル
「たしかにねぇ……」

 くすり、と喉で笑う。

「これほど美しい人だ。男装でもしていない限り――
 放っておけば、地の果てまで厄介なのが群がりそうだ♡」

 視線が、ゆっくりとレインをなぞる。
 品定めするような、隠しきれない色を帯びていた。

「どうだい? ボクたちと一緒に来るのは。
 うん、それがいい……!」

 妙に距離が近い。
 言葉の端々に、分かりやすい“意図”が滲んでいる。

 ロイロ
「勝手に決めんな、ナンパ野郎」

 ――ゲシッ。

 遠慮のない蹴りが横腹に入る。

「下心ダダ漏れなんだよ」

 ナイル
「痛っ……ひどいなぁ」

 軽く肩をすくめるが、まったく懲りた様子はない。

 シュシャ
「言われてみれば……!」

 ぐっと身を乗り出す。

「あの剣技……剣というより舞に近い。
 しなやかで、無駄がなく――あれは男の動きではない」

 目を輝かせながら続ける。

「実に流麗であった!!」

 シアン
「……知ってた」

 ぽつり、と落とす。

「運んだとき、分かった」

「でも、みんなが知らなかったのは、知らなかった」

 それだけ言って、口を閉じる。

 レオ
「男とか女とか関係ないよ」

 にこにこと笑いながら、

「綺麗なことには変わりないから♡」

 声音に、下心はない。
 ただ純粋に、そう思っているだけだった。

 シュン
「……隠しておいてって言ったのに……」

 小さく呟き、額を押さえる。
 耳の赤みはまだ引かないまま。

 ――一斉に言葉が飛び交う。

 重なる声。
 絶え間ない会話。

 レイン
「………………っ」

 わずかに眉が寄る。

(……よく喋るな)

 耳の奥が、じん、と痺れる。
 一度に流れ込む情報量が多すぎる。

 だが――

 その中で。

 リアだけが、まっすぐにレインを見ていた。

 リア
「いっぱい喋って、ごめんなさい」

 今度は、少し落ち着いた声で。

「本当に……助けてくれて、ありがとう」

 一拍。

「……無事に戻ってきてくれて、嬉しい」

 その言葉だけは、静かに届く。

 レイン
「……いや」

 わずかに間を置き、

「まず、こちらから礼を言わせてくれ」

「……崖から助けてくれたようだな。ありがとう」

 リア
「いいのよ。あなたが助けてくれたから」

 少し身を乗り出して、

「ねぇレイン!あなたのこと、色々教えて?」

 ――ほんの一瞬。

 間が落ちる。

 レイン
「あまり喋るのは得意ではないが……
 それでもよければ、答えよう」

「……そして、私も少し聞きたいことがある」

 リア
「なにかしら?」

 その瞬間――

 ナイル
「いやぁ、それにしても本当に美しいねぇ♡」

 すっと割り込む。

「“氷霧の剣士”なんて二つ名を付けた奴は、なかなか――」

 ――ゲシッ

 ロイロ
「話を脱線させんな」

 ナイル
「痛いってば……」

 ロイロ
「で、あんた何モンだ?」

 空気が、引き締まる。

「あの“バケモン”相手に生き残ってくるわ、
 あの剣術……並大抵じゃねぇ」

 レイン
「……私は、双国の生まれだ」

 淡々と。

「双国は山国。標高が高く、空気も薄い」

「その環境で鍛錬すれば、自然と効率よく鍛えられる」

 ロイロ
「……そんなもんなのか?」

 眉をひそめる。

 シュシャ
「なるほど!!」

 ぱっと顔を上げる。

「鍛えるなら、ここへ来ればよいのだな!!」

 レイン
「……」

 否定も肯定もしない。

 リア
「……では、なぜ私を助けてくれたの?」

 静かに、問う。

 レイン
「……私は双国の生まれだ」

 一度、言葉を探すように間を置く。

「国王が崩御し、凱帝国の属国に成り果てたとしても……
 国への想いまでは、捨てきれない」

「凱帝国にお前達の力までもが渡り、
 煌龍国までも制圧されるなど……不本意だ」

 リア
「……私たちが煌龍国の人間だと、知っていたの?」

 その瞬間。

 空気が、わずかに張り詰める。

 レイン
「……………………」

 沈黙。

 ロイロ
「何者だ……」

 低く落とす。

 手が、無意識に武器へとかかる。

 リア
「待って、ロイロ」

 すぐに制する。

 リア
「……レイン」

 一歩、近づく。

「話せないことなの?」

 レイン
「……いや」

 わずかに視線を伏せ、

「すまなかった」

  レイン
「……聞かれたことには、全て答える」

 一拍。

「……だが、その前に一つだけ聞かせてほしい」

 リア
「なにかしら?」

 レイン
「……そなたは、王族か?」

 ――その一言で。

 一行の空気が、凍りついた。

 一斉に、視線がレインへと向けられる。

 リア
「……なぜ、そう思うの?」

 静かに問う。
 だが、その奥には確かな警戒があった。

 レイン
「藤の色の瞳……」

 わずかに目を細める。

「そして……龍の加護を感じる」

 ――息を呑む音。

 誰も、言葉を発さない。

 リア
「……あなた、何者なの?」

 レイン
「…………………………」

 ゆっくりと、目を伏せる。

 ほんの一瞬、迷うような間。

 そして――

「双国の……巫女だ」

 静かに、告げる。

「人の魂……潜在能力などが視える」

 顔を上げる。

 その瞳は、まっすぐに彼らを捉えていた。

「そなた達は……」

 一行を見渡し、

「とても美しい魂をしているな……」

 レオ
「…………?」

 ふと、首を傾げる。

「お姉ちゃん、俺とどっかで会ったことある?」

 ぽつり、と。

 まるで思い出が引っかかったように。

「……なんか、見たことある気がしてさ」

 レイン
「………………」

 わずかに間を置き、

「……いや。会ったことはないな」

 レオ
(……気のせいか……それとも……)

 ほんの一瞬、遠くを見るような目。

 脳裏に、白い影がよぎる。

 ――九つの尾。

 冷たい気配。

 視線が、目の前のレインに戻る。

(……似てる……けど……違う……もっと……)

 言葉にならない違和感だけが残る。

(……未来視か……?)

 空気が、張り詰める。

 誰もが、どこか言葉を失っていた。

 その沈黙を――

 レオが、ぱっと破る。

「あー! ごめんごめん!勘違い!」

 けらりと笑う。

「あまりにも綺麗だったから、つい口説きそうになっちゃった♡」

 一行
「なんだ……」

 ほっと、力が抜ける。

(こいつもかよ……)

 そんな空気が、うっすらと漂う。



 リア
「ねぇねぇ?」

 ぱっと空気を変えるように、

「恋人はいるの?」

 レイン
「………………恋人……」

 言葉を繰り返す。

 沈黙。

 さらに、沈黙。

 そして――

「……………………いない」

 シュン
「……その“間”、ちょっと怖いよ」

 リア
「じゃあ、好きな人はいたの?」

 レイン
「…………そう考えたことがないから……分からない」

 リア
「でも、頭に浮かんでる人はいるのね?」

 くすり、と笑う。

「どんな人だったの?」

 レイン
「………………よく分からない」

 一拍。

「ただ……」

「私の幸せを一番に考えてくれる、ということくらいだ」

 少しだけ、視線が遠くなる。

「あとは……いつも笑顔で、よく喋る」

 リア
「きゃーーー!!
 でも意外ね! 喋る人なんて!」

 レイン
「……ものすごく困った」

 ナイル
「レインちゃん?」

 ずい、と距離を詰める。

「ボク……今フリーだよ?♡」

 ――ドゴッ!!

 シュシャに横から吹き飛ばされる。

 シュン
(……凝りねぇな、このナンパ野郎……)

 呆れたように、小さく息をつく。

 シュシャ
「レイン殿!!」

 ぐいっと前に出る。

「潜在能力が見えると言ったな?!
 どんなふうに見えるのだ?!」

 目が、きらきらと輝いている。

 レイン
「……そなたたちは、分かりやすい」

 淡々とした口調。

「シュシャと言ったな」

「お前は――赤」

「燃え上がる炎のように真っ直ぐで、抑えが利かない」

 一瞬、視線を細める。

「……見ようとせずとも分かるがな」

 わずかに、口角が上がる。

 シュシャ
「なっ……!!」

 ぐっと言葉に詰まり、反論しかけて――止まる。
 図星すぎて、言い返せない。

 ロイロ
「ほらな」

 肩をすくめ、呆れたように息をつく。

「分かりやすすぎるんだよ、お前は」

 シュシャ
「う、うるさい!!」

 顔を赤くして食ってかかるが、勢いだけで中身が伴っていない。

 ロイロ
「ほらな、そういうとこだ」

 軽く鼻で笑う。

 レイン
「……ロイロ」

 ロイロ
「んぁ?」

 レイン
「洗練された色だな」

「黄金――」

「人の枠で言えば、これ以上はないほど磨き抜かれている」

「左右均衡の取れた肉体。無駄がない」

「積み重ねた鍛錬と、それを裏切らぬ資質」

 ロイロ
「俺ってすげーーー!!」

 豪快に笑う。

 シュシャ
「……何故だ、悔しいぞ……!」

 ナイル
「占い? それなら……ボクも得意なんだよ、レインちゃん。
 よかったら手を――」 

 ずい、と身を乗り出す。

 ――その前に。

 すっと、シアンが割り込んだ。

 シュン
(……はいはい)

 シアン
「……目も、いいの?」

 静かに、覗き込む。

「俺と……同じくらい、見える?」

 レイン
「……単純な視力なら、そなたの方が上だろうな」

 一拍。

「だが――“視えるもの”の質が違う」

 シアン
「……そっか」

 わずかに目を伏せる。

「……大変そう」

 レイン
「見えすぎるというのも……良いものではない」

 かすかに、苦笑が混じる。

 ふと――
 崖から落ちた瞬間の記憶が、よぎる。

 水音。
 腕の感触。
 そして――匂い。

 レイン
「……そなたが、私を抱えてきてくれたのか?」

 シアン
「……うん」

 小さく頷く。

 レイン
「助かった。礼を言う」

 シアン
「……そうだ」

 少しだけ、間を置く。

「……花」

 レイン
「?」

 シアン
「……枕元にあったやつ」

 ――百日紅。

 記憶が、静かに繋がる。

 レイン
「……あの花は、そなたたちが?」

 シアン
「違う」

 首を横に振る。

「俺と……ナイルで崖に降りた時には、もう……」

 一瞬、言葉を選ぶ。

「……レインが打ち上げられてて。
 その胸元に、花が添えられてた」

 レイン
「………」

 リア
「誰かが助けてくれて……添えてくれたのかしら……」

 そっと、思い出すように目を細める。

「あの花、百日紅よね。綺麗だった」

 ロイロ
「別名は、”サルスベリ”だな」

 どこか、含みを持たせた言い方。

 ――その瞬間。

 レインの瞳が、はっきりと見開かれた。

 思考が、一気に結びつく。

 あの仮面。
 あの男。
 そして――あの花。

 レイン
「……!!」

 リア
「もう、ロイロ!」

 ぴしっと睨む。

「そういう言い方しないの!」

 レイン
「…………………………」

 わずかに視線を落とし、

「……いや……まさか……」

 小さく、呟く。



 リア
「レイン……? どうしたの?」

 レイン
「……シアン」

 顔を上げる。

「エール将軍と……会ったか?」

 シアン
「会ってない……」

 一拍。

「でも……レインと一緒に、崖に落ちていった」

 レイン
「……!!」

 息が、詰まる。

「……………っ…………」

「……なんてことだ」

 低く、押し殺す。

「今まで……気づかなかったなんて……」

 一行
「……?」

 レイン
(……いや、大丈夫だ)

 静かに、思考を整える。

(あの程度の流れで、あいつが――)

ふと、嫌な予感がよぎる。

 ――どれくらい、経った?

 レインの瞳が、わずかに揺れた。

「……私は、どれほど意識を失っていた?」

 シュン
「一日くらいだよ。少し熱も出てたし」

 レイン
「一日……」

 一瞬、考える。

「あれから、追っ手は。
 あの“バケモノ”はどうなった」

 ロイロ
「あいつなら――処刑されるらしいぞ」

 レイン
「……っ」

 一瞬、息が詰まる。

 わずかに目を見開いたまま、言葉が出ない。

 ロイロ
「こいつが聞いた話だ」

 ナイル
「夜明けとともに、だってさ」

 軽く肩をすくめる。

「さっき兵士たちが話してたの、拾っちゃってね」

 ナイル
「ボクたちを逃した罰、ってとこじゃない?」

 わずかに目を細める。

「……凱帝国、ほんと容赦ないよね」

レイン
「――!!」

 血の気が、すっと引く。

 次の瞬間、身体が先に動いていた。

 レイン
「……世話になった」

 短く告げる。

「本来なら案内すべきだが……すまない」

 一歩、引く。

 シュン
「……え?」

 状況が飲み込めず、目を瞬かせる。

「ちょ、ちょっと待ってよ……!」

 一歩踏み出し、声を強める。

「まだ治りきってないんだよ!?
 動いたら――」

 レインは、わずかに視線だけを向ける。

 だが、足は止まらない。

「南南東へ進め。関門はない。
 兵がいても少数だ」

 淡々と、言い残す。

 レイン
「……無事に辿り着けることを祈る」

 リア
「え……?」

 一歩、踏み出す。

「待って! いきなり――」

 レイン
「……今度」

 その一言だけ、わずかに柔らぐ。

「煌龍国へ……会いに行こう」

 そして――

「無事でいてくれ、リア」

 そっと、髪に触れる。

 一瞬だけ、指先に残る感触。

 ――それすら、名残惜しむ余裕もなく。

 踵を返す。

 足元に、彼女の鉄の胸当てが置かれたまま――

 気づくこともなく。

 振り返ることなく、

 ――駆け出した。
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