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九
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「進路については、どう考えているんですか?」
いつも通り勉強会が終わった後の、電車の中。女性の視線をちくちくと感じながら、学は陸を見上げた。
陸は機嫌よく学と一緒に帰っていたはずなのに、突然不機嫌そうに口元を歪めた。
「うっせ」
一蹴されたが、根気よく陸を見上げていると、「言うな」と吐き捨てられ、学は大人しく流れていく街並みを眺めた。
機嫌が悪いと手が付けられないのがこの男である。最近では、学には気を許してきているのか、態度が軟化しているものの、扱いを間違えれば面倒なことになる。
そうっとしておこうと考えていたところ、予想に反して陸から話題を提供してきた。
「この前の小テスト、まじでばっちりだったんだよ」
しかも勉強の話である。地雷を踏まないように、言葉を選ぶ。
「期末テストまで一週間ですから、その調子で頑張って下さいね」
「イケメンで頭もよかったら最強だろ」
「そうですね。モデルと勉強の両立大変ですもんね」
「あ?」
陸は、大きく目を見開いた。
「何で知ってんだ?」
「たまたまです」
正直、モデルをしていることを知られていないと思われていたことに驚きだったが、そんなことはおくびにも出さずに学は答えた。
たまたま、書店で売っている雑誌を広げたことがあったのである。とはいっても、生徒たちが長岡陸はモデルをやっていると話していたのを聞いたことをきっかけに、普段は見ない雑誌コーナーに立ち寄ったのが本当のところである。
モデルという仕事のことはよく分からなかったが、少なくとも雑誌で見る彼は、生活態度は不真面目でも、そこではとても輝いて見えた。陸のモデル振りには、学も称賛に価すると思っていたのである。
「まじかよ……」
それなのに陸は、そう呟いて気まずそうに視線を逸らした。
「何かだめなことでもあったんですか?」
「別に」
苦虫を噛みつぶしたように憎々しげに言ったきり、陸はあっという間に不機嫌に逆戻りした。何が地雷か分からないものである。
「モデルなんて、素敵な仕事じゃないですか。少なくとも僕はそう思いました。選ばれた人しかできませんし」
「やりたくてやってるわけじゃねえの。スカウトされて、なんとなくだ。小遣い稼ぎくらいの、軽い気持ち」
「それであれだけできるなら、すごいんじゃないですか?」
「すごくねえ」
すごい、すごくないの押問答をしているうち、車掌が言った次の駅は、陸の降りる駅だった。陸はそれを聞くと、諦めたように「俺、もうちょっとでやめるし」と呟いた。
「モデルをですか?」
「ああ。軽い気持ちでやってたし。だからお前には見られたくなかったんだよ。黒歴史だよあんなもん」
「黒歴史、ですか」
むしろ学には輝ける経歴にも見えたが、本人がそこまで言うならば頷くだけにとどめておいた。誰にだって、複雑な心模様がある。
陸が降りる駅に着いて、学は軽く挨拶をしようとすると、陸は学の手を引っ張った。予想外の事態に、学の体は抵抗する間もなく電車から降ろされ、目の前で扉が閉まった。
「え」
走っていく電車の後姿が物寂しい。行かないで、待ってくれ、と手を伸ばしかけたが、その手はがっちりと陸に捕まれていた。
「暇だから、付き合え」
学は、返事をする間もなく改札の方へと連れて行かれた。
学も何度も降りたことのあるそこは、都会とは言えないがそれなりに人は多く、コンビニやファストフード店などが立ち並んでいる。少し歩けば若者が連れ立って訪れるのに最適なショッピングモールがあり、駅近辺では学たちと似たような、制服を着た学生たちがうろうろしている姿が見受けられた。
学は、駅から徒歩数分のファミレスへと連れて行かれた。
「いらっしゃいませー! 二名様ですか? こちらの席へどうぞー!」
愛想の良い店員に案内されるがまま、学は荷物を置いて行儀よく座った。何が目的なのか、学は陸に何を求められているのか、図りかねていたところ、陸はメニューを眺めた。
「何か食う? 俺ハンバーグにしようかな」
「ちょっと待って下さい」
まだ比較的早い時間帯のためか、客は少ない。店内で流れる曲は聞いたことがあったが、学は曲名を思い出すことなく陸の言葉を両断した。
「家でご飯は食べないんですか?」
「誰もいないしな。親、共働きなんだよ」
陸は、あっさりと言うと、店員を呼び出すインターホンを鳴らした。すぐに店員は来て、注文を取っていく。陸の後に視線を注がれた学は、「ドリンクバーを」と一言添えた。陸には悪いが、学は家で母がごはんを作って待っているのである。
陸は水を一口飲むと、その水面に自分の顔を写すようにした。
「お前の親は、何の仕事してんだ? 夜帰ってくんの早いの?」
「父は警察で働いています。母は、パートでちょっとだけ」
「あー分かる」
陸は、とても納得したように何度も頷いた。
「警察の子供って、みんなお前みたいな感じ?」
「関係ないと思います。でも一つ言うなら、特に父は、父の父――要は僕の祖父が、どうしようもない人間だったらしくて、それを反面教師にしていた部分があるので、余計に子供には厳しくしていた、という傾向はありますが」
比較的すぐに運ばれてきたハンバーグを、陸はがぶりと噛みつくようにして食べた。食べ方は豪快である。
学は、緑色の液体をかき混ぜ、しゅわしゅわ感を消すことに勤しんだ。炭酸はあまり好きではないのである。なのによりによってメロンソーダを選んだ理由は、自分でも分からなかった。
「早食いは身体によくないですよ」
「腹減ってんだからいいだろ。母親みてーなこと言うなよ」
味噌汁と共に白飯を喉へ流し込むと、陸は話を戻していたずらっぽい笑みを浮かべた。
「じゃあ、あんまり遅く帰ると怒られるんだ?」
「あんまり常識はずれな行動をすれば、もちろん。ですけど、最近は昔よりずっと優しくはなりました」
学は、厳しい父を、幼い頃は恐ろしく感じていた。しかし、ちゃんとすれば、父は褒めてくれることも多かった。テストで良い点を取った時。母の手伝いをした時。クラス委員に選ばれた時。様々な場面で、父は大いに褒めてくれた。その時の父は、恐ろしくなんてなかったのである。
「お前みたいな悪い奴はいらない!」
そう言って締め出された時、学は童話か何かで読んだ文面を鮮明に思い出した。悪い子は山に捨てられる。背筋がぞっとし、自分は捨てられるのだと思うと声が出なくなった。何も出来ない、役割もない自分は、存在価値のない人間だった。
心の奥に引っかかった文面を、幼い学は何度も何度も反復した。恐ろしく歪んで見えたその文字は、父の言葉を重なり混じり合い溶けながら、しだいに幼い学の心を侵食したのである。
結果的に、それが良かったのか悪かったのは、今の学には分からない。要は、学は気が小さかったというだけのことである。反発するだけの勇気がなく、否定されると心が折れる。
自分は、どうせ何も出来ない人間だ。その言葉が、ぐるぐると頭の中で回る。だから、努力をするしかない。
長岡陸のような、いつだって堂々としている人間には、なりたくてもなれない。
陸は、水を飲み干した。皿は、すでに空である。
「じゃ、ちょっとくらい遅くてもいいだろ。その辺の女ナンパしようぜ」
「嫌です。帰ります」
「つまんねえ奴」
陸は学の言葉が分かっていたように、言葉では学を貶しながらも表情はにこやかだった。無理に引き止める気はないらしく、「行くか」と席を立った。
外に出ると、むわっとした空気が体に張り付いた。夏というだけあって、夜になっても涼しくはならない。おまけに、まだ完全に日も落ちていない。
夏の凄まじさに当てられないように、学は背筋をぴんと伸ばした。
「先輩も、帰るんですよね? 道はどっちですか?」
「いや」
陸は当然のごとく学の言葉を否定した。
「帰ってもつまんねーし。その辺ぶらぶらしてくる」
「何時に帰るつもりですか?」
訊けば、陸は「さあ?」と首を捻る。
「さあ……って。ちょっと待って下さい。やることがないなら、帰って勉強するとか」
「つまんねえから嫌だ」
「つ、つまらないって」
学との勉強会はあんなに真剣に取り組んでいるというのに、ちぐはぐな答えである。
「じゃあ、何でわざわざ勉強してるんですか」
勉強したくないのなら、自ら好んでやるわけはない。陸の矛盾した行動の真意を問いたくて、学は一歩踏み出した。
陸の返答は、ずいぶんと遅れた。自分でも理由が分からないように、視線をさまよわせる。
「それは」
「陸?」
続きの言葉を遮ったのは、陸の名を呼ぶ女性の声だった。もしかしたら続きなんてなかったのかもしれないが、陸は驚いてその女性の方へ振り返った。
恐らく年齢は四十代前半。一見、三十代にも見えるが、落ち着いた雰囲気と、手や首筋周辺からその程度だろうと学は推測した。
化粧は派手ではあったが、派手すぎず、上品さを思わせる雰囲気をまとっていて、誰の目から見ても綺麗だと言えるほどに美しい女性である。キャリアウーマンといった出で立ちの彼女を見ていると、学はふと気づいた。
美しい一つ一つのパーツと、その配置が、妙に誰かと似ているのである。特に、アーモンド型のすっきりした瞳なんて、まるでそのものだ。学は、考える前に理解した。
「何でいんだよババア」
忌々しげな声色に、女性は嘆息した。
「今日は早いって言ったでしょ」
「知らねえよそんなの」
陸は言ったきり、ぷいとそっぽを向いてしまう。学は、おずおずと一歩前へ出た。
「お母様ですか? 僕は、陸さんの後輩の奥山学と言います」
頭を軽く下げると、陸の母親は鳩が豆鉄砲を食らったようになって、慌てて頭を下げた。
「どうも、御丁寧に」
陸は、母親を見ようともせず耳を塞いでいる。学は陸のブレザーの裾を引っ張った。
「お母様が帰って来られましたよ」
「関係ねえよ」
言って、背を向けようとする陸の腕を、学は掴んだ。
「どうして逃げるんですか? 先輩のお母さんでしょう?」
「子供を放ったらかしの親なんて親じゃねえ」
陸は、腕を振りほどいて人混みの中へ紛れていく。その横顔は、ひどく寂しそうだった。
一瞬、追いかけようと思ったが、この人混みだ。そもそも、クラスで一番足が速いと豪語していた陸に追いつけるはずもないと思い直し、学は緩やかに微笑んで陸の母親に向き直った。
彼女は、ひょいと肩を上げ、諦めたように首を振る。
「いいんですか?」
「言っても聞かないの」
駅まで数分の距離を、二人並んで歩く。すぐそこだけど送っていくと言ってもらったのである。それは奇妙な空間だったが、居心地が悪いわけではなく、ぽつぽつと絶え間なく会話を交わす。
「じゃあ、最近成績が上がってきたのはあなたのおかげなのね」
「いえ、もともと頭が良い人ですから、ご自身の努力の賜物だと思います」
優しげな視線を送られて、学もつられて微笑む。少し会話をしただけなのに、ずいぶんと気に入られてしまったようである。
「こんなこと、学くんに言うのもおかしいんだけど」
彼女は、そう前置きしてから話し出した。
「あの子、中学の時からやんちゃしだしてね。高校に入ってからも、成績は下がるばっかりで。ちゃんと勉強しないと大学行けないよって言うと、進学しないって言うでしょ。だから、心配してたんだけど」
すでに辺りは暗くなっていた。駅の改札口が見え始める。
「最近勉強してるみたいだから、やっとそういう気になったんだって安心してて。なのに、大学には行かないって言うのよ。よく分からなくってね。夜も遅いし、まだやんちゃしてるみたいだし……」
学が黙って聞いてゐると、彼女は力なく笑った。
「ごめんなさい。こんなこと言われても困るよね。うちの子も、学くんみたいにしっかりしてたらよかったんだけど」
「いえ」
駅に到着した。人がどんどん改札口に吸い込まれていくのを見て、学は陸の母親に問いかけた。
「大学に行ってほしいんですか?」
「まあね。他にしたいことがないならね」
これで会話はお終いと、彼女は頭を下げた。
「あんな子だけど、これからも仲良くしてやってね。もちろん、あんな奴とは関わりたくないって思うなら、無理にとは言わないから」
あっけらかんと笑う顔は、やっぱり陸と同じだと思って、学は「はい」と頷いた。
人混みに流されるままにホームへ流れ込み、鞄から単語帳を出したところで、さっきの言葉たちが頭の中でぐるぐると回り出す。
親に放置され、ひねくれる息子。そんな息子を心配する母。
微笑ましくて、羨ましくもある気がした。学は単語帳を鞄に入れると、どうしたものかと考え始めた。
いつも通り勉強会が終わった後の、電車の中。女性の視線をちくちくと感じながら、学は陸を見上げた。
陸は機嫌よく学と一緒に帰っていたはずなのに、突然不機嫌そうに口元を歪めた。
「うっせ」
一蹴されたが、根気よく陸を見上げていると、「言うな」と吐き捨てられ、学は大人しく流れていく街並みを眺めた。
機嫌が悪いと手が付けられないのがこの男である。最近では、学には気を許してきているのか、態度が軟化しているものの、扱いを間違えれば面倒なことになる。
そうっとしておこうと考えていたところ、予想に反して陸から話題を提供してきた。
「この前の小テスト、まじでばっちりだったんだよ」
しかも勉強の話である。地雷を踏まないように、言葉を選ぶ。
「期末テストまで一週間ですから、その調子で頑張って下さいね」
「イケメンで頭もよかったら最強だろ」
「そうですね。モデルと勉強の両立大変ですもんね」
「あ?」
陸は、大きく目を見開いた。
「何で知ってんだ?」
「たまたまです」
正直、モデルをしていることを知られていないと思われていたことに驚きだったが、そんなことはおくびにも出さずに学は答えた。
たまたま、書店で売っている雑誌を広げたことがあったのである。とはいっても、生徒たちが長岡陸はモデルをやっていると話していたのを聞いたことをきっかけに、普段は見ない雑誌コーナーに立ち寄ったのが本当のところである。
モデルという仕事のことはよく分からなかったが、少なくとも雑誌で見る彼は、生活態度は不真面目でも、そこではとても輝いて見えた。陸のモデル振りには、学も称賛に価すると思っていたのである。
「まじかよ……」
それなのに陸は、そう呟いて気まずそうに視線を逸らした。
「何かだめなことでもあったんですか?」
「別に」
苦虫を噛みつぶしたように憎々しげに言ったきり、陸はあっという間に不機嫌に逆戻りした。何が地雷か分からないものである。
「モデルなんて、素敵な仕事じゃないですか。少なくとも僕はそう思いました。選ばれた人しかできませんし」
「やりたくてやってるわけじゃねえの。スカウトされて、なんとなくだ。小遣い稼ぎくらいの、軽い気持ち」
「それであれだけできるなら、すごいんじゃないですか?」
「すごくねえ」
すごい、すごくないの押問答をしているうち、車掌が言った次の駅は、陸の降りる駅だった。陸はそれを聞くと、諦めたように「俺、もうちょっとでやめるし」と呟いた。
「モデルをですか?」
「ああ。軽い気持ちでやってたし。だからお前には見られたくなかったんだよ。黒歴史だよあんなもん」
「黒歴史、ですか」
むしろ学には輝ける経歴にも見えたが、本人がそこまで言うならば頷くだけにとどめておいた。誰にだって、複雑な心模様がある。
陸が降りる駅に着いて、学は軽く挨拶をしようとすると、陸は学の手を引っ張った。予想外の事態に、学の体は抵抗する間もなく電車から降ろされ、目の前で扉が閉まった。
「え」
走っていく電車の後姿が物寂しい。行かないで、待ってくれ、と手を伸ばしかけたが、その手はがっちりと陸に捕まれていた。
「暇だから、付き合え」
学は、返事をする間もなく改札の方へと連れて行かれた。
学も何度も降りたことのあるそこは、都会とは言えないがそれなりに人は多く、コンビニやファストフード店などが立ち並んでいる。少し歩けば若者が連れ立って訪れるのに最適なショッピングモールがあり、駅近辺では学たちと似たような、制服を着た学生たちがうろうろしている姿が見受けられた。
学は、駅から徒歩数分のファミレスへと連れて行かれた。
「いらっしゃいませー! 二名様ですか? こちらの席へどうぞー!」
愛想の良い店員に案内されるがまま、学は荷物を置いて行儀よく座った。何が目的なのか、学は陸に何を求められているのか、図りかねていたところ、陸はメニューを眺めた。
「何か食う? 俺ハンバーグにしようかな」
「ちょっと待って下さい」
まだ比較的早い時間帯のためか、客は少ない。店内で流れる曲は聞いたことがあったが、学は曲名を思い出すことなく陸の言葉を両断した。
「家でご飯は食べないんですか?」
「誰もいないしな。親、共働きなんだよ」
陸は、あっさりと言うと、店員を呼び出すインターホンを鳴らした。すぐに店員は来て、注文を取っていく。陸の後に視線を注がれた学は、「ドリンクバーを」と一言添えた。陸には悪いが、学は家で母がごはんを作って待っているのである。
陸は水を一口飲むと、その水面に自分の顔を写すようにした。
「お前の親は、何の仕事してんだ? 夜帰ってくんの早いの?」
「父は警察で働いています。母は、パートでちょっとだけ」
「あー分かる」
陸は、とても納得したように何度も頷いた。
「警察の子供って、みんなお前みたいな感じ?」
「関係ないと思います。でも一つ言うなら、特に父は、父の父――要は僕の祖父が、どうしようもない人間だったらしくて、それを反面教師にしていた部分があるので、余計に子供には厳しくしていた、という傾向はありますが」
比較的すぐに運ばれてきたハンバーグを、陸はがぶりと噛みつくようにして食べた。食べ方は豪快である。
学は、緑色の液体をかき混ぜ、しゅわしゅわ感を消すことに勤しんだ。炭酸はあまり好きではないのである。なのによりによってメロンソーダを選んだ理由は、自分でも分からなかった。
「早食いは身体によくないですよ」
「腹減ってんだからいいだろ。母親みてーなこと言うなよ」
味噌汁と共に白飯を喉へ流し込むと、陸は話を戻していたずらっぽい笑みを浮かべた。
「じゃあ、あんまり遅く帰ると怒られるんだ?」
「あんまり常識はずれな行動をすれば、もちろん。ですけど、最近は昔よりずっと優しくはなりました」
学は、厳しい父を、幼い頃は恐ろしく感じていた。しかし、ちゃんとすれば、父は褒めてくれることも多かった。テストで良い点を取った時。母の手伝いをした時。クラス委員に選ばれた時。様々な場面で、父は大いに褒めてくれた。その時の父は、恐ろしくなんてなかったのである。
「お前みたいな悪い奴はいらない!」
そう言って締め出された時、学は童話か何かで読んだ文面を鮮明に思い出した。悪い子は山に捨てられる。背筋がぞっとし、自分は捨てられるのだと思うと声が出なくなった。何も出来ない、役割もない自分は、存在価値のない人間だった。
心の奥に引っかかった文面を、幼い学は何度も何度も反復した。恐ろしく歪んで見えたその文字は、父の言葉を重なり混じり合い溶けながら、しだいに幼い学の心を侵食したのである。
結果的に、それが良かったのか悪かったのは、今の学には分からない。要は、学は気が小さかったというだけのことである。反発するだけの勇気がなく、否定されると心が折れる。
自分は、どうせ何も出来ない人間だ。その言葉が、ぐるぐると頭の中で回る。だから、努力をするしかない。
長岡陸のような、いつだって堂々としている人間には、なりたくてもなれない。
陸は、水を飲み干した。皿は、すでに空である。
「じゃ、ちょっとくらい遅くてもいいだろ。その辺の女ナンパしようぜ」
「嫌です。帰ります」
「つまんねえ奴」
陸は学の言葉が分かっていたように、言葉では学を貶しながらも表情はにこやかだった。無理に引き止める気はないらしく、「行くか」と席を立った。
外に出ると、むわっとした空気が体に張り付いた。夏というだけあって、夜になっても涼しくはならない。おまけに、まだ完全に日も落ちていない。
夏の凄まじさに当てられないように、学は背筋をぴんと伸ばした。
「先輩も、帰るんですよね? 道はどっちですか?」
「いや」
陸は当然のごとく学の言葉を否定した。
「帰ってもつまんねーし。その辺ぶらぶらしてくる」
「何時に帰るつもりですか?」
訊けば、陸は「さあ?」と首を捻る。
「さあ……って。ちょっと待って下さい。やることがないなら、帰って勉強するとか」
「つまんねえから嫌だ」
「つ、つまらないって」
学との勉強会はあんなに真剣に取り組んでいるというのに、ちぐはぐな答えである。
「じゃあ、何でわざわざ勉強してるんですか」
勉強したくないのなら、自ら好んでやるわけはない。陸の矛盾した行動の真意を問いたくて、学は一歩踏み出した。
陸の返答は、ずいぶんと遅れた。自分でも理由が分からないように、視線をさまよわせる。
「それは」
「陸?」
続きの言葉を遮ったのは、陸の名を呼ぶ女性の声だった。もしかしたら続きなんてなかったのかもしれないが、陸は驚いてその女性の方へ振り返った。
恐らく年齢は四十代前半。一見、三十代にも見えるが、落ち着いた雰囲気と、手や首筋周辺からその程度だろうと学は推測した。
化粧は派手ではあったが、派手すぎず、上品さを思わせる雰囲気をまとっていて、誰の目から見ても綺麗だと言えるほどに美しい女性である。キャリアウーマンといった出で立ちの彼女を見ていると、学はふと気づいた。
美しい一つ一つのパーツと、その配置が、妙に誰かと似ているのである。特に、アーモンド型のすっきりした瞳なんて、まるでそのものだ。学は、考える前に理解した。
「何でいんだよババア」
忌々しげな声色に、女性は嘆息した。
「今日は早いって言ったでしょ」
「知らねえよそんなの」
陸は言ったきり、ぷいとそっぽを向いてしまう。学は、おずおずと一歩前へ出た。
「お母様ですか? 僕は、陸さんの後輩の奥山学と言います」
頭を軽く下げると、陸の母親は鳩が豆鉄砲を食らったようになって、慌てて頭を下げた。
「どうも、御丁寧に」
陸は、母親を見ようともせず耳を塞いでいる。学は陸のブレザーの裾を引っ張った。
「お母様が帰って来られましたよ」
「関係ねえよ」
言って、背を向けようとする陸の腕を、学は掴んだ。
「どうして逃げるんですか? 先輩のお母さんでしょう?」
「子供を放ったらかしの親なんて親じゃねえ」
陸は、腕を振りほどいて人混みの中へ紛れていく。その横顔は、ひどく寂しそうだった。
一瞬、追いかけようと思ったが、この人混みだ。そもそも、クラスで一番足が速いと豪語していた陸に追いつけるはずもないと思い直し、学は緩やかに微笑んで陸の母親に向き直った。
彼女は、ひょいと肩を上げ、諦めたように首を振る。
「いいんですか?」
「言っても聞かないの」
駅まで数分の距離を、二人並んで歩く。すぐそこだけど送っていくと言ってもらったのである。それは奇妙な空間だったが、居心地が悪いわけではなく、ぽつぽつと絶え間なく会話を交わす。
「じゃあ、最近成績が上がってきたのはあなたのおかげなのね」
「いえ、もともと頭が良い人ですから、ご自身の努力の賜物だと思います」
優しげな視線を送られて、学もつられて微笑む。少し会話をしただけなのに、ずいぶんと気に入られてしまったようである。
「こんなこと、学くんに言うのもおかしいんだけど」
彼女は、そう前置きしてから話し出した。
「あの子、中学の時からやんちゃしだしてね。高校に入ってからも、成績は下がるばっかりで。ちゃんと勉強しないと大学行けないよって言うと、進学しないって言うでしょ。だから、心配してたんだけど」
すでに辺りは暗くなっていた。駅の改札口が見え始める。
「最近勉強してるみたいだから、やっとそういう気になったんだって安心してて。なのに、大学には行かないって言うのよ。よく分からなくってね。夜も遅いし、まだやんちゃしてるみたいだし……」
学が黙って聞いてゐると、彼女は力なく笑った。
「ごめんなさい。こんなこと言われても困るよね。うちの子も、学くんみたいにしっかりしてたらよかったんだけど」
「いえ」
駅に到着した。人がどんどん改札口に吸い込まれていくのを見て、学は陸の母親に問いかけた。
「大学に行ってほしいんですか?」
「まあね。他にしたいことがないならね」
これで会話はお終いと、彼女は頭を下げた。
「あんな子だけど、これからも仲良くしてやってね。もちろん、あんな奴とは関わりたくないって思うなら、無理にとは言わないから」
あっけらかんと笑う顔は、やっぱり陸と同じだと思って、学は「はい」と頷いた。
人混みに流されるままにホームへ流れ込み、鞄から単語帳を出したところで、さっきの言葉たちが頭の中でぐるぐると回り出す。
親に放置され、ひねくれる息子。そんな息子を心配する母。
微笑ましくて、羨ましくもある気がした。学は単語帳を鞄に入れると、どうしたものかと考え始めた。
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