ああ、恋しい人よ、避けたかないのです

大原銀杏

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俺、授業、避けたかないのです。

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 朝のHRが始まり、先生が今日一日の連絡事項をつらつらと喋りはじめた。俺は先生の話すことそっちのけで羽月の後ろ姿を見つめる。後ろの席だとこういうことができるから良い。相対したときに彼女を見ることはほぼできないので、不足しがちなビタミンHD(羽月)をここらで摂取しておく。ビタミンHDの効能は絶大で、精神安定と活力増進をもたらすのだ。

 一通り話を終えた先生は親に渡すようにとプリントを配り始めた。羽月は前席の生徒が差し出すプリントに手が届かない様子であたふたとしている。そんな様子が大変にいじらしい。

 俺もプリントを受け取り、後ろの席の子へ渡す。もちろん羽月をチラチラと見ながら。それが後ろの席の特権ってもんでしょう。

 そんなことをしていると、プリントを渡すために振り返った羽月とばっちり目が合ってしまった。完全に意表をつかれた形となった俺はお得意の誤魔化しもできず、不自然に窓外へ目を移すことしかできなかった。かなり不審だ。
窓ガラスの反射を利用して羽月の姿を確認する。もう前を向いている確信を得た俺は再度羽月の後ろ姿を見つめ始めた。
 あからさまに目を逸らす方がおかしいのは十分理解している。だけど、無意識が言うことを聞いてくれないのだ。目を逸らす不自然さよりも、ずっと見ていたと思われてしまう恥ずかしさが脊髄を通り抜けてしまう。もういっそ好きを前面に出してみようか。好きバレが意外と良い方向に向かうこともあるらしいし。むしろ、これまで俺がしてきた無愛想な態度の数々は、彼女のことを嫌っているのだと思われても仕方がないものだ。敵意でなく好意があることを知ってもらうためにも、次に目が合ったら逸らさないように意識しよう。

 とりあえず、いつこっちを向くか分からないから、なるべくずっと見ることにする。決してずっと見ていたいからとかではない。チャンスを逃さぬためだ。

 なんて身構えていたのに、結局朝のHRでは一度もこっちを見なかった。1時間目が始まって30分ほど経った今ですら一瞥もくれない。

 徐々に徐々に自信がなくなってくる。先生が黒板に擦り付けるチョークに連動して心も削れていく。

 羽月は俺のことを憎からず思ってくれているのではないかという漠然とした謎の自信があった。本当に漠然と、根拠はないが、なんとなくそう思える仕草が積み重なる度に、過信が妄想を分解し、腐葉土と化して心に栄養を与えていた。しかし最近、嬉しい仕草よりも避けているのではという仕草の方が多く目につくようになってきて、不安が土壌を汚染していく。冷静に思い返してみれば、脈ありだと思っていた仕草も、俺が過剰に反応しているだけで同級生に見せる普通の仕草だったのではないか。現に今も目が合わない、全くこっちを見ない。今まで目が合っていたのは本当にたまたまで、いやむしろ、見すぎているのを気づかれて「なんかキモいのがこっち見てるわ」みたいな、そういう視線だったとしたら目も当てられない。

 虚しさが強烈に肺を膨らませる。吐き出した靄のかかった息は冷めた木の床にずっしりと溜まっていく。チョークが触れる黒板が甲高い音で嘲笑っている。

 健気に待っていても悲しいだけだから、いっそのことふざけきってやろうか。一向にこっちを見ない羽月に若干腹が立ってきたところでもあるし、渾身の変顔10連発でもやってやろう。

 そうしておよそ好きな人に見せるものではないレベルの変顔を羽月の後ろ姿に向けてやり始めた。1回につき10秒くらいかけて。次第に趣旨が変わっていき、好きな人に向けて普段出来ない顔を見せる背徳感が妙に楽しくなってきていた。

 羽月がこっちを向く気配が全くないので俺の変顔もどんどん大胆になってきた。先生にも気を配らなければならないが、マルチタスクをこなしている感じがそれはそれでまた楽しい。

 しかし、油断はやはり悲劇を招く。手なんかも使い始めて渾身の変顔6回目を披露したその時だった。羽月が急に後ろを向いて友人に消しゴムを借りたのだ。不意の出来事に俺は手を口と鼻に突っ込んだまま身動きもとれず、甚だひどい、車に轢かれて潰れた死にたての蝉のような汚い顔面を好きな人にばっちり見られてしまった。

 羽月は俺の顔を見ると目を見開いて無表情のまま数秒停止した。その数秒が果てしなく長く感じた。あまりの居た堪れなさに力が抜けたことにより、硬直していた指が緩み始め、顔から指を話そうとした時、羽月が机に突っ伏しながら吹き出した。

「ちょっとやめてよ……何その顔……お、おかしい……」

 教室中の視線が羽月に向いた後、その全てが崩壊の限りを尽くした俺の顔面に移動した。授業中の突然の出来事にクラスメイトは理解が追い付いていないようで、風に揺れる木の葉の擦れる音のような静かな笑い声が聞こえるのみだった。先生はだいぶ険しい顔で俺を見ている。

「和田、授業中だけど」

「……はい」

「そんな顔になっちゃうほど俺の授業つまらない?」

「いえ……そんなことないです……」

「あとで職員室来い」

「ほんとすみません……」

 茹でた蟹と化した耳を隠すように教科書を被って机に伏せた。ここにきてようやく教室が大きな笑い声に包まれる。こんなのは俺の意図する笑いではない。本当の俺はもっとスマートに笑いを取れるんだ。ただただ単純にこの場で死にたい。

 先生の授業再開の合図とともに笑い声は次第に小さくなる。しかし、一人だけ、林檎が如く顔を紅潮させながら、変わらず突っ伏して笑い続けている。羽月だけ、変わらずツボに入ったまま腹を抱えている。体を震わせて、声を必死に殺して、楽しそうに笑っている。

 羽月は机に伏せたまま、俺のいる斜め後ろ方向を覗き込んで「ほんと馬鹿だね」と声を発さずに口を動かした。目には涙を溜めながら、満面の笑みで俺に言った。心の底から楽しそうだった。

 羽月が、想い人がこれだけ笑ってくれるなら、恥をかいた甲斐があったというものだろう。俺は口角が下がり切らない顔を必死に意思で押さえつけながら、黒板へと向き直った。
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