あのパンの香りが届かないように

八月森

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24話 正しい選択なんだ

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 一連の事件の首謀者。悪魔を崇拝する司祭であるリーゼ・ヴィーゼさん。彼女の紫色の瞳が不可思議な輝きを放ち、私たち三人を視界に捉える。その途端――

「く、ぅ……!?」

 頭の中に、言葉が……

 ――『この街を滅ぼしましょう』

 言葉が、思考が……

 ――『象徴たる鐘を破壊し、心の拠り所をなくし――』

 思考が、意識が……

 ――『少しずつ魔物を送り込み、私たちの恐怖を思い知らせたうえで――』

 私のものじゃない意識が流れ込んでくる……呑み込まれていく……!

 ――『人々を殺し、この街の呪いから解放してあげましょう。それこそが、唯一の救いに――』

(――なりませんよ、そんなもの――!!)

 私はそこで強く抵抗した。マリナさんを殺された時の激しい怒りを思い出し、私を呑み込もうと迫る私じゃない意識を、一気にね退ける。

 サァァァっと、意識からもやのようなものが取り払われた気がした。思考が晴れ渡る感覚。視界が明るくなった気さえする。

(今のは……)

「はぁっ……! はぁっ……!」

 気づけば私は肩で息をしていた。急激な疲労を抑え込んで目の前の相手を睨みつければ、彼女は少し意外そうな表情でこちらを見る。

「……悪魔、エラトマ・セリスから私がたまわったのは、言葉だけではありません。『視界内の者へ悪しき思考を送り込む』瞳。それが、私が授かった加護です」

 加護……悪魔の、加護……!? 悪しき思考……彼女の悪意を、強制的に送り込まれていたってこと……!?

「本能だけで動く自我の薄い魔物、意志の弱い人間などであれば、容易に意識を支配できるのですが……驚きました。騎士の二人はともかく、お嬢さんまで抵抗に成功するとは。思った以上に意志が強いのですね」

 その言葉で、隣からも同様に荒い呼吸音が聞こえていたことに気づく。アルテアさんとディルクさんも、私と同じように悪意を送り込まれて、それを撥ね退けたのだろうか。もし、そのまま呑み込まれていたら……私はかぶりを振ってリーゼさんを睨み据える。今のがこの人の思考だというなら……

「……何が、『救いたいだけ』、ですか。貴女は、人々に不必要な恐怖を与えてから殺そうとしている。悪意を持って街を混乱させているじゃないですか……! こんなこと……!」

「必要なことですよ。、私が――私たちだけが怯えて暮らさなければいけないなんて……そんなの、不公平でしょう? 最期くらいは、街の皆にも思い知ってもらわなくては」

「ただの私怨じゃないですか!」

「ええ、そうですよ。その私怨に呑み込まれて滅びる様が見たいのです。それこそが、悪思の悪魔による救いとなるのですから」

「っ……!」

 ダメだ。やっぱり他の悪魔崇拝者と同じで、話が通じるようで通じていない。言葉で説得できる気がしない。

 ただ、ここまでの会話で分かったこともある。この場で待機する魔物たちも、そしておそらくは、今も同士討ちを続ける騎士たちも、リーゼさんの持つ加護によって悪意を送り込まれ、意識を乗っ取られている。そしてそれは、強い意思によってね退けることができる――

「もういい、ミレイ。言葉を尽くしても、今のリーゼには届かない。――リーゼ。君の意識を失わせれば、操られている騎士たちは元に戻るのか?」

「さて、どうでしょう。殺さなければ戻らないかもしれませんよ? 試してみますか?」

 リーゼさんはそう言って、穏やかな笑みを崩さない。

 この状況で最も致命的なのは、周囲で待機する百を超える魔物たちを一斉にけしかけられることだ。こちらには、まともに戦える人が二人しかいなく、私という足手まといまでついている。数で押し潰すのは簡単なことだろう。が、リーゼさんからは、そうする気配がまるで見えない。――それが、気味が悪い。

「……ならば、そうさせてもらおう。これだけのことをしでかしたのだ。情けをかけるのは難しい。街を護るのにそれしか手がないのなら、君を斬ることも躊躇いはしない――!」

 言葉と共に、アルテアさんが駆け出す。私が感じた不気味さを、彼女は感じなかったのか、あるいは感じていながら振り切ったのか。周囲の魔物に邪魔されないうちに、元凶であるリーゼさんを討ち取りたかったのかもしれないが、そのせいでわずかに焦っているようにも見える。それが、さらに不安をかき立てて――

「そう、一つ言い忘れていましたが、私の瞳に宿る加護は対象を選ぶこともできるんです。先ほどは視界内の全員が対象でしたが、それを一人だけに絞ると……どうなると思いますか? ねぇ? アルテア――」

 迫るアルテアさんに視線を集中させながら、リーゼさんはわずかに楽しそうな声音で語りかける。その瞳が再び輝きを帯びる。彼女の言葉の意味を理解するより早く、嫌な予感のほうが限界に達して――

「アルテアさん、待っ……!」

 反射的に声を上げかけるが、もう遅い。アルテアさんはすでにリーゼさんの目の前に辿り着いていた。そして、ああは言ったものの、すぐに斬り捨てる決断はできなかったのか。彼女は斬撃ではなく、剣の柄頭でリーゼさんの腹部を殴打しようとして――……その動きが、ピタリと止まる。

「……」

 当たった、のだろうか。不安は杞憂に終わったのだろうか。私の位置からはアルテアさんの身体が陰になって、リーゼさんの姿がよく見えない。しかし少なくとも、すぐに倒れるような様子もない……

 そう思っていると――

 やがてアルテアさんはリーゼさんを放って背後へ振り返り、顔を俯き気味に下げながら、ゆっくりと歩いて戻ってくる。そして、半ばまで達したところで――

 彼女は突然地面を強く蹴り、剣を構えながら私に向かって走り寄ってくる!

「――!?」

 あっという間に私の下へ迫った彼女は、一切の迷いなく掲げた剣を振り下ろし――

 ギィン――!

 しかし私を護るべく傍に控えていたディルクさんの剣が、アルテアさんの凶刃を寸前で弾き返していた。

「何やってるんですか、隊長! どうしてミレイさんを……!」

「どけ、ディルク! 私は街を護らねばならない! 、ミレイをここで斬らなくてはいけないんだ!」

「……!」

 アルテアさんはそう言いながら、あくまで私を斬ろうと剣を振るい、ディルクさんが必死でそれを阻止する。彼女の言動は支離滅裂で、表情は険しく、敵意が剥き出しだった。

 私は驚きと恐怖に身体を震わせながらも、そこで一つの可能性に思い至り、反射的にリーゼさんの側へ視線を向ける。彼女は傷一つない姿で、変わらず微笑みを浮かべて私を見ていた。妖しく輝く紫の瞳で……

(まさか……)

 彼女が所持する加護の能力。そして、先刻の言葉。つまり……

「……貴女の仕業ですね、リーゼさん……! 加護の力を、に集約させて……!」

「ええ、その通りです。ただ一人と視線を合わせ、分散していた力を一点に集約させることで、彼女のような強い意志を持つ者をも屈服させる力。ですが、それだけではありませんよ。力を集中させたこの瞳に魅入られた者は、『善悪の区別を失う』のです」

「善悪の……区別……?」

「はい。どんなに善思に溢れた聖人でも我を忘れ、悪しき思考が目を覚ます。その結果、正しい選択をせずに最悪の意図を選んでしまう……『誤った選択しかできなくなる』のです」

 善悪の区別……最悪の意図……誤った選択……それらの言葉を耳にすると共に、頭の中で符合するものがある。

「もしかして……これまでに出会った悪魔崇拝者たちも、貴女の瞳に魅入られて……!?」

 だから、不可解な言動を――選択を誤った行動を取っていた……!?

「あら? 他の信徒たちと出会ったことがあるのですか? なのにこうして生きている……もしや報告にあった、計画の現場で目撃されていた少女というのは……ふふ、なるほど。本当に、素敵な偶然もあったものですね。いえ、むしろ必然でしょうか。貴女は望んで私たちを追っていたのでしょうから。ですが、残念ながらそれもここまでです。――アルテア」

 その呼びかけと共にアルテアさんの剣がディルクさんのそれを大きく弾き、生じた隙に腹部への蹴りが突き刺さる。

「ぐぶっ……!?」

 ディルクさんは強く蹴り飛ばされ、大きく後方に転がっていく。そしてそちらを気にかける間もなく、再び剣を頭上に掲げたアルテアさんが、私の目の前に立ち塞がり――

「あ……」

 一音だけ、言葉にならない声が口から漏れ……次の瞬間には彼女の刃が、私の身体を袈裟懸けに切り裂いていた。

「――……」

 傷口からおびただしい量の血液が噴き出し、地面に降り注ぐ。身に着けていた白のパーカーが赤く染まっていく。それを目にしながら、私はゆっくりと後ろに倒れていった。

 弱々しく手を動かし、傷口に触れる。べったりと手を濡らす生暖かい液体。鉄錆びの匂い。灼熱感。激しい苦痛。致命傷だ。私はもう助からない――

「がっ!?」

「ぐ、あ……!?」

「くそ、くそぉぉぉ!」

 周囲から守備隊の騎士たちの悲鳴や苦悶の声が届いてくる。仲間だった同僚から刃を向けられ続け、彼らももう限界だったのだろう。一人、また一人と倒れていく……

 そして、ざっ、ざっ、と、こちらに向かって歩いてくる足音が一つ。アルテアさんだ。彼女はこちらまでたどり着くと、刃を下にして両手で剣を持ち上げ、私の心臓に狙いをつける。とどめを刺すつもりなのだろう。その前に、彼女が口を開いた。

「すまない、ミレイ……だが、これがなんだ。悪く思わないでくれ」

 悪魔の加護によって善悪を歪められ、誤った選択を正しいと思い込まされている。あんなにやさしくて正義感の強い彼女を……それにまた怒りを覚え、私は元凶であるリーゼさんに精一杯の視線を飛ばす。彼女はそれを見ても笑みを崩さない。悔しさに歯噛みしながらさらに睨みつけたところで――

 どす――

 心臓に剣を突き立てられ、私は何度目かになる死を迎えた。

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