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第一章 月下に結ぶ縁(えにし)

11.魔法がとける瞬間

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 その後、ただでさえ迷惑をかけているのに、と渋るセラフィーナを前に、「物は試しだ。何もしないより全然良い」と、温和な印象のアイザックにしては珍しい積極的な発言が続く。
 結局こちらが折れる形となり、エネルギー譲渡に対する二人の試みは始まった。

 それから、アイザックの手のひらにセラフィーナが寝そべってみたり、彼の指や頬に抱きついてみたり、終いには優しく両手で全身を挟みこまれたりと、思いつく限りの事は試した。
 しかし、これと言って効果は出ない。

「んー……素肌同士の接触では難しいか。もっと直接的な方が良いのだろうか」

 彼の周囲であちこち動き回ったためか、額にジワリと汗が滲む。
 服の裾でそれを軽く拭いながら、尚も良案を求める男を見上げた。
 口元に手を当て、時折動く指が彼の唇を撫でる。その様子を目にしたセラフィーナの脳裏には、ふと昨夜の光景が蘇った。

「……っ!」

 月光のもと、確かに触れ合った唇越しのわずかな熱を思い出すと、瞬く間に彼女の顔へ熱が広がっていく。
 あれは偶然だ、事故だと必死に自分へ言い聞かすものの、一度意識してしまえば、無意識に彼の赤い口元へ目線が向いてしまう。

(こ、こんな状況で、あたしってば一体何を考えてるの!)

 場違いすぎる思考に、セラフィーナは慌てふためき、邪念をふり払おうと必死に首を左右へ振った。

「どうした、何か思いついたのか?」

 そんな彼女の様子は、残念なことにばっちりアイザックの視界に入っていたらしい。
 彼の声が嫌でも耳に入り、己の中へ閉じこもっていた思考が、無理矢理表へ引っ張り出される。

「な、何でもないの! キスしたことなんて、思い出してな……あっ」

 ブンブンと、先程より激しく首を振りながら、セラフィーナは反射的に口を開いた。
 そして数秒後、彼女は、口をついて出た言葉により、己が墓穴を掘った事に気づく。
 これまで以上に熱を持つ顔、そして全身へ広がるそれに我慢出来ず、見習い天使は背中を丸めその場にうずくまってしまう。

(あたしのバカ、バカ、バカー! あぁ、もう最悪ー!!)

 触り心地抜群のシーツに小さな額を擦りつけながら、セラフィーナは何度も己の言動を後悔する。
 天界にいた頃も、サウルや教師達から、慌てた時の言動を注意され、もっと落ち着いて行動しろと怒られた過去を思い出す。
 まさかこんな時にまでと、自分の間抜けさが憎らしくなり、次第に彼女の視界は、揺れ動く透明な膜に覆われていった。

「……その手があったか。セラフィーナ、今度はそれを試してみるぞ」

「……?」

 やけに力強い声が聞こえた気がして、徐に顔をあげる。
 歪んだ視界では何も見えず、彼女は反射的に目を閉じた。
 そして次に視界が開けた瞬間、目の前がクリアになると共に、セラフィーナの頬を目尻から流れ落ちる雫が濡らしていく。

「素肌同士の接触では難しかったが、口づけで互いの粘膜を合わせれば、何か別の効果があらわれるかもしれない」

 そのまま小首を傾げ男を見上げるセラフィーナに対し、アイザックは当事者以上の意気込みを見せ、力強く頷いて見せた。
 そんな彼の口から飛び出した提案に、沸騰寸前と錯覚する程の熱を顔面から放出した彼女の反応は、きっと間違っていない。





「ほ、本当に、いいの?」

「あぁ、可能性は一つ一つ検証した方が良い。何が糸口になるかわからぬ今なら、尚更だ」

 アイザックによるキス療法提案から既に数十分。セラフィーナはいまだ熱が残る両頬を手で押さえながら、フワフワと男の目の前を浮遊する。
 あれから、何か他に方法があるかもと、頑なにキスを拒んできたものの、新たな作戦を思いつくことなく現在に至った。
 アイザックは、もしこの方法がダメなら、また新たに考えれば良いと主張し、己の意見を変える様子は無い。

「アイザックは、嫌じゃないの? あ、あたしとキス、とか……」

「私の気持ちより、今は其方の体の方が大切だろう。口づけを一度や二度したところで、何かを失うわけでもあるまい」

「…………」

 いつもより早い鼓動を胸の奥で感じながら、チラリと男の顔を盗み見る。
 高鳴る心音が示す意味がわからぬまま、自分を見つめ口を開くアイザックの言葉に、ズキンと胸の奥が痛んだ。
 自分の事を気遣ってくれた言葉だと、納得し、言い聞かす。しかしセラフィーナの目線は自然と塞ぎがちになり、気づけば口を閉ざしていた。
 まるで、彼の言葉にショックを受けているような感覚に陥る自分が、この上なく可笑しくて、微かに吐き出す吐息がいつの間にか小さな笑いへ変わった。

「セラフィーナは良いのか? このまま、ずっと小さな姿で生活することになっても」

「それは嫌っ!」

 どこかスッキリせず、しばし心の中に広がるモヤに気を取られる。
 だが次の瞬間、問いかけられた言葉に、セラフィーナは食らいつくように声を発し、勢いよく顔をあげる。
 つくづく、アイザックは何げなくこちらが反応する言葉を発しているように思え、心の中に妙な悔しさが滲む。

「それなら、試してみないか?」

 一瞬にして移り変わった視界に映し出されたのは、茶色い髪の奥に隠れた同じ色の瞳。
 心の奥がむず痒くなる感覚を味わいながら、セラフィーナはコクリと彼の言葉に頷いていた。


「そ、それじゃあ……いい?」

「あぁ、いつでも」

 いまだ拭いきれぬ困惑を抱えたまま、セラフィーナは男の顔面近くに漂う。
 双方の大きさから考えて、アイザックの唇へ、セラフィーナから触れる方が良いと結論付けたためか、男はベッドの上に座ったまま、軽く目を閉じその場を動こうとしない。
 完全に受け身体勢の彼を前にし、セラフィーナの鼓動は再び加速する一方だ。

 完全な不意打ちとは言え、昨夜の口づけは、彼女にとって初めての経験だった。
 淡い恋心を抱いた経験すらないため、たった今目の前に課せられているハードルは、想像以上に高い。
 しかし、ずっとこのままなわけにもいかず、己の中で渦巻く葛藤を無理矢理打ち消す。

「……っ、ふぅ」

 覚悟を決めたセラフィーナは、勢いに任せアイザックの口元へ飛び込んだ。
 鼻先に突撃した時と同じように、それはキスと呼ぶような甘い雰囲気はゼロの代物。
 言うなれば、ただ唇同士がぶつかったと表現した方が正しい光景。

 一瞬触れるだけでは、きっと回復にならない。
 なのでしばらくの間、我慢して欲しいと、事前に相手への謝罪は済ませている。
 理由は不明だが、アイザックからも同じような謝罪を受けた。
 彼は言うなれば被害者だ。ならばどうしてと、脳裏に浮かぶ疑問が尽きることはない。

(……あたたかい)

 一度閉ざした視界を再び開くことが怖くなり、セラフィーナは目を瞑り続ける。
 それでも、唇に触れるぬくもりは、確かにそこにあった。
 そして、不思議な何かが体内へ流れ込んでくる感覚に気づいた時、彼女はこれまでにないものを感じ取った。

(まさ、か!?)

 散々アイザックに引っ付いても得られなかったものが、自分の中へ流れ込んでいるというのだろうか。

「……っ、は。ん、っ」

「ん、ぁ……はぁ、んんっ」

 どうせ今回も駄目だと、半ばあきらめていたセラフィーナにとって、それは思いもよらぬ現象だった。
 驚きと困惑のあまり、無意識に呼吸を忘れていた彼女の意識を引き戻したのは、数秒間の息苦しさと、唐突に離れていく唇の感触。
 口先に触れた空気がやけに冷たく感じた。
 もう、目を開けて良いか戸惑いながら、正真正銘初めての口づけを体験したことに対する羞恥心が、かたく閉じた瞼を震わせ、開くことを拒む。
 するとその瞬間、「まだだ!」と言わんばかりに、再びセラフィーナの唇はアイザックのそれにより塞がれてしまった。





 最初は、ただ唇を押し付け合うだけだった口づけは、次第に角度を変え、時折啄むようなものへ変化していく。
 その間ずっと、あたたかく優しいエネルギーが、セラフィーナの体内へ流れ込み、彼女の中を巡りだす。
 キスをする前は枯れ果てる寸前の川のようだった体内で、次第に水量を増していく。
 そのことに彼女が気づいたのは、不意に己の背中にまわった逞しい腕の感触を知った時だった。

「……ナ……ーナ、セラフィーナ」

 今の自分は一体どんな状態なのか。それを知るのが何故か怖くて、目を開けることが出来ない。
 その時、不意に耳へ届いたのは、己を呼ぶ優しい声だった。
 耳元で聞こえる低音に後押しされるように、セラフィーナは瞼を震わせながら、恐る恐るその視界に光と色を取り戻していく。

「…………」

 最初に目についたのは、自分の吐息に揺れる茶色い長髪。
 次いで気づくのは、その身をすっぽりと包み込むぬくもりの存在。
 数回瞬きをくり返した後、彼女はゆっくりと頬を押しつけていたモノから顔を離し、視線をあげる。
 すると次の瞬間、間近で自分を見つめ微笑むアイザックと目が合い、離れている時よりも近い距離と、いつもよりよく見える彼の右目に気づいた。

「やったぞセラフィーナ。成功だ」

 身体を包んでいたぬくもりが、スッと遠のいていくのと同時に、どこか弾んだ声が鼓膜を震わせる。
 もう一度瞬きをし、改めて自分と向き合う男を見れば、すっかり前髪に隠れてしまったものの、まるで自分の事のように、その目元を細めるのがわかった。
 その言葉に、セラフィーナは恐る恐る自身の胸元へ視線を落とす。
 そこにはもう、宙に浮く身体は無くなり、両脚の脛はしっかりとベッドの上に投げ出されていた。
 震える両手を視界に移動させると、そこには見慣れた大きさの両腕がしっかり存在している。
 両手を一度握りしめ、ゆっくり開けば、己の意思と連動し動かすことが出来た。
 身につけている服も、天界を出発する時に着ていたものと同じである。

(戻った、の?)

 いまだ半信半疑状態のセラフィーナは、もう一度顔をあげ、すぐそばにいるアイザックへ視線を送る。
 本当にと問いかけるような彼女の視線に、彼は再度目を細め、大きく頷いてくれた。

「……った……やったぁぁ!」

「うわっ!」

 その瞬間、心の中に残っていた疑念は消え、彼女の中から純粋な喜びが湧き上がる。
 そのせいか、目の前にいるアイザックへ抱きついたセラフィーナは、気づけば彼と一緒にベッドの上へ倒れこんでいた。
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