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第一章 月下に結ぶ縁(えにし)

13.彼は後に(アイザック視点)

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「はぁ……はぁ……」

 手元を照らす程の明かりだけが灯る室内に響くのは、とてもか弱い呼吸音。
 アイザックは、普段自分が寝ているベッドの上に横たわる小さな存在を見つめ、無意識に眉をひそめた。


 深夜の鍛錬を終えた後、やけに目が冴えた彼を待っていたのは、言い様の無い胸騒ぎだった。
 普段ならとっくに就寝しているはずの時間になっても、窓のそばを離れられず、一向に眠気はやってこない。

 頭の中に浮かぶのは、今しがた出会った、名も知らぬ女性の事ばかりだ。
 名前など知らない、二、三言葉を交わしただけの女に対する反応として、普通では無いという意識はあった。
 同時に、どうして自分はこんなにも彼女のことを考えるのかと、アイザックは疑問を抱く。
 頭を悩ませること数分、彼は答えを見つけるよりも先に、気づけば再度城を飛び出していた。

 これまで感じたことの無い焦燥に突き動かされるまま、森の中を駆け抜ける。
 そして彼は見つけた。数十分前、不思議な出会いをした場所の近くに倒れている者を。
 記憶の中にある姿より、はるかに小さな存在と化した彼女が、額に脂汗を滲ませ、もがき苦しんでいる。

 そんな彼女の姿を目の当たりにしたアイザックは、すぐさま近くに落ちていた鞄のベルトを己の肩へかけ、手のひらに収まる程になった小さな身体をそっと抱きかかえる。
 なるべく振動を与えぬように、尚且つ出来る限り迅速な移動を心掛け、彼はあっという間に来た道を駆け戻っていった。





 うなされているのか、時折うめき声をあげる彼女の様子を、アイザックは終始観察するように見守った。
 観察を始め数分が経った頃、自分用にあつらえた枕ではサイズが合わず、シーツの上に寝かせた彼女のことが気になりだした。
 どうしたものかと思案した後、彼はベッドのそばから立ち上がると、ハンカチやタオル類をしまっている棚へ近づく。
 そして、普段使っている藍色のハンカチを一枚取り出したかと思えば、それを躊躇なく半分に引き裂き、片方を小さく折り畳み、簡易的な彼女専用の枕と掛け布団を作った。


「あの……巨人さん、これは……どういうこと、ですか?」

「私に聞かれてもよくわからない。それと、私は巨人などではない。普通の人間だ」

 己をセラフィーナと名乗る女が目覚めたのは、彼女を自室へ運び、ベッドに寝かせてから一時間程経った頃。
 寝起きで混乱した彼女が、無謀にもベッドの上を走り回り、足を踏み外した瞬間、アイザックはその身体を受け止めようと必死に手を伸ばしていた。

 そして、少しでも理解の手助けが出来ればと、空いている方の手にランプを持ち、セラフィーナを連れ、窓際へ移動する。
 まだ夜も明けきらぬ外を映していたそこに灯りを近づければ、己の姿と、驚愕の表情を浮かべたまま、手のひらに鎮座する小さな存在が映し出された。

 その光景を目にした途端、彼女はしきりにこちらを見上げ、「巨人さん」と口を開く。
 最初は何のことを言っているのかわからなかったが、それが自分を示す言葉だと理解した途端、吹き出しそうになった。
 確かに今の二人を見比べれば、あまりに違う体格差に、彼女が巨人と表現した気持ちがわかる。

 今のセラフィーナにとって自分は巨人。それでは、自分にとっての彼女は、と頭の中に小さな疑問がうまれた。





 余程疲れが溜まっていたのか、詳しく話し合う前に眠りにつくセラフィーナ。
 小さいままの彼女の身体を再びベッドの上へ横たえた後、アイザックは室内にある数少ない家具の一つである椅子に腰かけ、軽く視界を閉ざし、しばしの時間夢の世界へ旅立った。


 数時間後、窓からさし込む朝日に気づいたアイザックは、瞼を震わせながら押し上げ、眠りから覚めた。
 普段より明らかに睡眠不足なことは否めないが、今はそんな事に気を回している場合ではない。

 視線を動かしベッドの上を見れば、そこに不釣り合いな存在が気持ちよさそうに寝息を立てている。
 不思議と安堵の息を零しながら、彼はその場に立ち上がること無く、かれこれ数時間以内に起こった出来事を整理し始めた。

 自らを見習い天使だと主張する不審者まがいの女の名は、セラフィーナと言うらしい。
 彼女は、見習いを卒業するための試験を受けにこの地へやってきたそうだ。
 そんな最中、滅多にその姿を目視出来るはずの無い人間、つまりアイザックに存在を知られたことが、そもそもの問題らしい。
 加えて、森で遭遇した際に何らかのアクシデントが発生したせいで、彼女は自分のもとを離れられなくなった。
 もし離れてしまえば、また昨夜のように彼女が苦しむことになると言う。

 荒唐無稽こうとうむけいな話ではあるが、実際目の前に居る彼女は、今もこうして生きている。
 小さなその身体は、決して人形などでは無い。
 かすかな心音、そして体温を、指越しとは言え確かに感じたのだ。


「アイザック様、おはようございます。こちら、本日の朝食と、洗体用のお湯でございます」

「あぁ、いつもすまない」

 寝起きで不鮮明だった意識が覚醒しきるのを、しばし椅子の上で待っていた時、廊下へ通じるドアから遠慮がちなノック音が聞こえた。
 アイザックはすぐに立ち上がり、そちらへ近づく。
 ゆっくりとドアを開けば、燕尾服を着用し、落ち着きのある灰色の髪を後ろへ撫でつけるように整えた男の姿がまず目に入った。
 そして彼の後ろには、城から支給されている使用人服を着用した女性が二人。
 それぞれ、一人分の朝食を乗せたトレーと、湯が張られた容器、そして洗体用の布を手にしている姿が見える。

 アイザックはすぐにドアの横へ移動し、道を作った。
 侍女たちは各々一礼し部屋の中へ入ると、すぐそばにある棚の上へ、トレー、そして容器を置く。
 そのまま彼女達はアイザックへ一回、使用人の男性へ一回、と続けて頭を下げた後、その場から静々と去っていった。

「チャド、何か変わった事は?」

「いいえ、特に何もございません。アイザック様、本日はどのように?」

「今日は、休養日にする。部屋で読書をしようと思うのだ。急用の場合は仕方ないが、それ以外はなるべくそっとしておいてほしい」

 アイザックは改めて男へ向き直る。
 男の名前はチャド。この城で、使用人筆頭として働く彼は、数多の使用人達をまとめ上げてきたベテランである。
 チャドとその名を口にし、今日これからの予定を話せば、不思議と男の口角があがった気がした。

「左様でございますか。アイザック様の勤勉さは素晴らしいものですが、やはり休息も必要でございます。何かご入用の物がございましたら、近くの者にお申しつけください」

「あぁ、わかった」

 そう言うと、彼はどこか締まりのない顔のまま一礼し、新たな仕事をするためその場を立ち去った。
 普段から、暇な時間さえ見つければすぐ仕事の話ばかりしているせいか、休息なんて言葉を口にしただけで、チャドは顔を綻ばせていた気がしてならない。
 久しぶりに見た使用人の表情が示す意味がわからず、アイザックは一人首を傾げるしかなかった。





 廊下に人の気配が無くなったことを確認し、室内へ戻れば、いつの間にかセラフィーナが目覚め、その身体をベッドの上に起こしていた。
 話をすれば、昨夜より落ち着いた様子で話すものの、しきりに申し訳ないと彼女は口にする。
 昨夜の発作などすっかり忘れ、今の彼女には不釣り合いすぎる大きな鞄を引きずり、城を出て行こうとする始末だ。
 どうしたものかと考え抜いた挙句、アイザックは、いまだ混乱の残るセラフィーナの心を、本当の意味で落ち着かせるため、朝食を共にしようと提案するのだった。

 それから、用意されていた一人分の朝食を、量が多いからと偽り、彼女の身体に見合う少しばかりの食事を分け与える。
 カトラリーの大きさに苦戦したものの、小皿に取り分けられていたジャムをすくうためのスプーンが活躍し、無事食事を終えることが出来た。


 その後は、翼を羽ばたかせ宙を飛ぶセラフィーナの姿に驚いたり、機嫌を悪くした彼女のために困惑したりと、忙しない時間を過ごす。
 これまで自室に籠り仕事に没頭していた時とは、真逆な時間が室内に流れていった。
 侍女に用意してもらったクッキーと紅茶を口にする間、アイザックは、言葉を交わすよう意識する。
 すると、元々セラフィーナがお喋りだったのか、不思議とこちらも無理なく言葉を紡ぐことが出来、二人の会話は思ったよりも弾む。
 話をしながら、こんなにもお喋りだったかと、自身に対する疑問を抱く程、彼の口はよく回った。


 たくさんお喋りをしたおかげか、二人の間には、気づけばすっかり余所余所しい空気が消えていた。
 時間はかかってしまったが、一歩ずつ、だが着実に、今後の事について話し合いを始める。

「私と君には今、特別な結びつきが出来ているのだろう? それを利用して、私の体力を、君のエネルギーとして分け与えることは出来ないか?」

 セラフィーナから提供された情報をもとに、脳内で様々な理論を組み立てていく。
 その途中、不意に頭を過ったのが体力の譲渡だった。
 結果が確約されたものではなかった。しかし、手詰まり状態な現状を打破するためには、何もかも挑戦だと、己に言い聞かせ、意気込むように大きく頷いた。





 期待二割、不安八割。そんな状態での破天荒すぎる荒療治はセラフィーナに奇跡を起こした。
 流石に目を開けたままでの口づけはどうかと、目を瞑っていれば、不意に唇へ己ではない小さな熱が触れる。

(な、なんだ……これはっ!)

 するとどうだろう。これまで、何十回と彼女と触れ合っていた時に感じられなかった感覚が、全身を駆け巡る。
 唇同士が触れ合った瞬間、身体がカッと熱くなり、アイザックにとって未知のものが身体の中を流れていく感覚に気付かされる。
 そしてそれは、己の口元へ徐々に集結し、体内から流れ出ていくではないか。

(もしかして……)

 ドクンドクンと、やけに煩い心音を胸元で感じながら、彼は内心一際大きな興奮をおぼえた。

 ――もしも、口元へ集まっているの物が己の体力と言うのなら。
 ――絶え間なく流出する物がエネルギーとなり、セラフィーナの体内へ注がれているのであれば。

 最初は拳よりも小さかった期待が、時間が経つにつれ徐々に形を変え、大きくなっていく。
 そして、アイザックの心の中だけにあったはずのそれは、気づけば身体の外へ飛び出し、彼の腕の中に、確かなぬくもりとなって姿をあらわしたのだ。





 セラフィーナ・ケトラ。
 一人前の天使を目指し試験に勤しむ、天界という世界に住まう成人したての女性。
 女性というには、天真爛漫さと幼さが残る彼女は、どちらかと言えば少女という言葉がお似合いかもしれない。

 そんな彼女がある日、引きこもってばかりのネガティブ王子の前へ姿をあらわした。
 偶然出会うこととなった二人の人生は、その日を境に大きく動き出す。
 のちに言えること。それは、この出会いが必然だったかも、という不明瞭だが確かな言葉。

(あたたかい。あたたかいぞ……セラフィーナ)

 普通の人間と遜色ない大きさとなった華奢な身体を抱きしめ、そのぬくもりをより一層感じようと、アイザックは無意識に腕の力を強めた。


 のちに彼は言う。その種族名が示す通り、彼女は自分のもとへ舞い降りた天使なのだと。

(あぁ、私は――)

 そして彼は思う。彼女と触れ合ったその瞬間から、自分の心に恋という感情が芽生えていたのだろうと。
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