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第二章 苦い秘密と手ごわい試験

17.初めての願い

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※サブキャラによる、胸糞悪い発言があります。ご注意ください。







 細いながら男らしさの残る指先が、尚も額を触り、頬を突き、安堵する隙を与えぬよう、こちらの感情を弄んでいる。そんな気がした。
 まるでそれは、セラフィーナの中から余計な思考を追い出そうとし、深い思考に陥ることを阻止するような動き。
 男の指に翻弄されたまま、時折彼女は彼の顔を盗み見る。
 視線を向ける度、しっかり閉じている瞼が目に入る。視界を遮断している、はずなのに、彼の指は意思を持って動き回り、自分を翻弄する。
 タイミングの問題かと、ランダムに視線を動かすセラフィーナ。しかしその後も、彼女が彼の瞳を見ることはなく、まるで己の行為を咎めるように、無骨な指先がグイっと頬を強く突いた。


 正直、アイザックが無事自室へ戻れたことに、そしてたった指数本を動かすだけとは言え、自分を翻弄する気力が残っている事に、セラフィーナは僅かながら安堵している。
 自分の中で燻る怒りの炎が消える様子は無い。それならこの人は、と目に見えない彼の心の内が、心配で仕方ないのだ。

 セラフィーナの脳内に、氷の妃が発した言葉が次々と蘇る。

『城内をうろつくな、汚らわしい』

『申し訳ありません、ははう……』

『私はお前の“はは”ではない』

『申し訳ございません、アマンダさ』

『えぇい! 穢れた声でわらわの名を呼ぶな。バケモノに名など呼ばれては、耳が腐り落ちるではないか!』

『……申し訳、ございません』

 噛みつくような金切り声が廊下に響いた。すると次第に、一度は生気を取り戻したはずのアイザックの声が弱々しくなる。
 落ち着いた印象だったチャドでさえ、二人の間で忙しなく視線を動かし狼狽えていたのを覚えている。
 
 アマンダが、いやあの女が発したものすべては、鋭い凶器へ姿を変え、容赦なくアイザックの身体へ、心へ突き刺さった。
 その様子を目にし、セラフィーナは心の中で大きく頷き、認識した。目の前にいる女は、彼にとって悪しき者だと。





「アイザック様、チャドでございます」

 次第にアイザックの攻撃をかわすことに慣れ始め、アマンダへの憤りを発散せんとばかりに、フンフン一人鼻息を荒くしていれば、不意に扉を叩く音と共に、聞き覚えのある声が聞こえた。
 それは、先程まであの修羅場にいた一人。
 彼の声は、どうやらアイザックにも聞こえたようで、不意にこれまで忙しなく動いていた指が止まる。

「…………」

 シン、と静まり返った室内で、セラフィーナはすぐそばにいる彼の様子が気になり、こてりと首を傾げた。
 いつものアイザックならば、すぐにでも一言訪ねてきた者へ声をかけているはずだ。しかし、今はそれが無い。

 自分にはわからない心労があり、やはり体調が思わしくないのだろうか。
 それとも、対応のためにベッドから起き上がろうとしているもかもしれない。

 思い浮かんだ可能性に気づけば、彼の邪魔をせぬよう、一旦ベッドから離れるためセラフィーナは翼を羽ばたかせる。
 どちらにしろ、自分は少し彼から離れ大人しくしていた方が良さそうだ。
 とりあえずこのまま、一旦テーブルの方へ避難を、なんて思っていた時、不意にこれまで触れ合っていたアイザックの無骨な手がヌッと宙へ浮き上がった。
 そしてその手は、その場でセラフィーナを手招きするように数回上下運動をくり返す。

(な、何?)

 今アイザックの身体は、フカフカの羽根布団によってその大部分を隠されている状態だ。
 そんな中からスッと彼の指が出てきた時も驚いたが、今回手首が丸ごとあらわれる場面を直に目撃してしまい、正直かなり怖かった。
 悲鳴をあげなかった自分を心底褒めたいと思いながら、セラフィーナは動きを止めた男の手を見つめる。
 すると今度は、トントンと、シーツを指で叩き始めた。彼の指が示す場所は、先程まで自分が居た場所。
 まるでここに居ろと言いたげな行動に、彼女はおずおずと元居た場所へ戻り、彼の指に触れる。

「ザック?」

「……少しだけ、我慢してくれ」

 彼は一体、何がしたいのだろう?
 セラフィーナが、自身の脳裏に浮かんだ疑問を問いかけるよりも先に、男はスッと彼女が触れていた指を自分の口元へ引き寄せ、まるで子供のような合図を送った。
 そのまま、口元へ寄せていた腕をシーツの上に下ろす。そしてそれは、小さな天使見習いの周囲を取り囲むように、少々歪な円が完成した。
 スッと頭上に影が差す気配を感じて見上げると、こちらへ自身の身体を傾けるアイザックの姿が目につく。

 部屋へ通じる唯一の扉が静かに開く音が聞こえたのは、全身を覆い隠された直後のことだった。





「ザック、もう起きても平気なの? 具合が悪いなら、あたしの事なんか気にしないで、寝てていいよ?」

「……クスッ。大分気分が落ち着いたから、もう大丈夫だ。先程は……身内の者が失礼したな。気分を悪くしただろう」

 この部屋の主であるアイザックの許可無しに部屋へ入室した者が立ち去ってから、かれこれ十分が経過していた。
 ゆっくりとベッドの上で身体を起こし、こちらを見つめるアイザックの目の前をセラフィーナは不安げな顔で浮遊する。

「う、ううん。あたしの事は、本当にいいの。それより……そ、そうだ! ホットミルク、せっかくチャドさんが持ってきてくれたんだから、温かいうちに飲んで!」

 申し訳なさそうな顔で眉を下げる彼の言葉に、つい勢いに任せ首を左右に振る。
 セラフィーナはそのまま、話題を変えたい一心で、ベッド脇にある背の低い棚の上に置かれた、ホットミルク入りのカップへ視線を向ける。
 ほんのりと湯気が立つそれは、先程チャドが持ってきてくれたものだ。
 彼は勝手に部屋へ入ったことを謝罪した上、今日はもう仕事をせずゆっくりした方が良いと、アイザックの体調をとても心配していた。

 ベッドとアイザックの隙間に身を隠しつつ聞き耳をたてていれば、今彼に残された仕事はほとんど無いと伝える声も聞こえてきた。

 元々頭の良いアイザックは、仕事をし始めた時こそ手間取っていたものの、一日の大半をこの部屋で過ごしていることも相まって、通常の人がこなす倍以上の仕事を一日で仕上げるようになったそうだ。
 今では、彼の処理能力に日々の案件が追いついていない様で、数週間休んでも余裕がある状況らしい。

 王妃であるアマンダが、自身が関りの無い政務のこと、そして城内に関することを理解しているわけがなく、あのような無茶を言い出したと、彼はベッドに横たわった男に教えてくれた。

『アマンダ様には、後でしっかりと五日分のお仕事を手渡したとご報告しておきますので。アイザック様は、しばらくの間、政務のことは気にせずお休みください。久しぶりに、ホットミルクをお持ちいたしましたので……こちらを飲み、今はしばしお休みを』

 そう言って彼は、トレーに乗せ運んできたカップをベッド脇に棚へ乗せた後「それではまた、お夕食の頃、おうかがいいたします」と言い残し、部屋を出て行った。


 アイザックは、チャドの一連の言動を一切咎めたりせず、多少の驚きを見せながらも、彼の話を聞いていたようだ。
 二人きりとなった室内で、立ち上る湯気をぼんやりと見下ろす男を見上げながら、セラフィーナは心に生じた迷いに眉をひそめる。
 すっかり脳裏にこびりついてしまった、アマンダによる暴言の数々。彼女が、何故息子であるはずのアイザックをあんなにも毛嫌いしているのか、気になって仕方ない。
 しかし、動揺しどこか怯えた表情を見せたアイザックの反応を無視することは出来なかった。

 自分は、この城に集う人間達の中に紛れ込んだ異物。
 そんな状況で、王族の問題に首を突っ込むようなことは出来ないと、正論から導き出した結論にフッと息が漏れ出る。

(でも、これだけは)

 もうこのまま、先程の件をうやむやにし、最初からなかったことにする。それが、今自分に出来る最善の選択だと、セラフィーナは結論付けた。
 しかし、たった一点だけ、消し去るわけにはいかない事柄に気づいた彼女は、体内にエネルギーを巡らせ、人間と同等の大きさへと戻る。

「……セラ?」

 訝しげな彼の視線をひしひしと感じながら、セラフィーナはベッド脇に膝をつき顔を上げた。

「わがままを言って、ごめんなさい」

 カップを持ったままの彼の腕にそっと触れながら、すぐに視線を落とし紡ぐのは謝罪の言葉。

「あたしが、お城の中を見たいなんて言わなきゃ……っ、ザックが、嫌な思いなんて……グスッ、すること、な……た、のにっ」

 この部屋を出る前の暢気な自分を、今この場で無理やりにでも止める事が出来たら。
 そんな、訪れるはずのない未来を思い描いてしまい、鼻の奥にツンとした痛みを感じた。次第に視界が揺らぎだせば、ポタリ、ポタリと何かが手の甲へ落ちてくる。

 今この場に、いつも自分を助けてくれた皆は居ない。己の言動すべてが自己責任であることの重大さを、セラフィーナは改めて悟った。
 間違いをおかし、その結果が自分へ返ってくるのなら、我慢出来るし、いつか納得出来るだろう。
 しかしその矛先が、他人へ向いてはならないのだ。

 これまで、頑なに部屋を出ようとしなかったアイザック。その理由について、最初は使用人達による陰口のせいだと思い込んでいた。しかし先程の件で、新たな可能性が確信に変わる。

「ごめんなさい……っ、ごめんなさい……」

 謝ったところで、過去を変えることは出来ないと理解しながら、セラフィーナは何度も言葉をくり返し頭を下げた。
 今の自分に出来ることは、これだけだからと、アイザックの腕に縋り、謝罪を続ける。

「セラ……セラ……セラフィーナ、頼む。顔を上げてくれ」

 己の口から零れ落ちる言葉の合間に、優しい声が聞こえた気がした。
 きっと幻聴だ、なんて思いつつ、俯き暗かった視界が次第に明るくなる。
 涙ですっかり膜が張られた視界に映るのは、少々歪になったアイザックの顔だった。

「セラは何も悪くない。だから、泣き止んでくれないか」

「嘘だよ! だって……だって、あたしがザックを部屋の外に連れ出さなきゃ……あの人と、会うことなんてなか……」

「セラっ!」

 これまで終始優しく穏やかだった声が、鋭く強張ったものへ変化し耳に届いた。
 今まで声を荒げたことなど無い彼の初めて聞く声に驚くあまり、気づけば数秒呼吸することを忘れていた。
 息苦しさに、慌てて新鮮な空気を取り込もうと呼吸を再開したセラフィーナは、恐る恐る目の前の男を見上げる。

 いつの間にか、彼の手元にあったはずのカップは棚の上へ戻っていた。
 空になったその両手が、触れる先にあるもの。それが己の手だと気づくまで時間がかかってしまう。
 色濃い困惑のせいで、普段よりあきらかに思考力が落ちていることに、彼女はまだ気づかない。


「少しだけ……私に君の時間をくれないか? セラに、話したいことがある」

 こちらが反応を返すよりも先に、包みこまれた手を握る力が強まる。
 彼の口から紡がれた初めての要望に、不安と戸惑いに揺れ動く視線を外すことなど出来なかった。
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