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本編

第8話

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(……運命の番認定証)

 美奈穂は、志郎から渡されたばかりの認定証を手に、しばらくベッドの上で固まる。
 今日一日、彼女にとっては、朝から晩まで衝撃の嵐だった。
 初めて訪れた場所で、初めて耳にした言葉に驚き、周りにいる優しい先輩たちから衝撃的な事実を聞かされる。
 それだけでも、やけに濃い時間を過ごしたなと思っていた。
 なのに、極めつけがこの認定証。

 ほんの少し横を向くと、番と認定されたばかりの彼、藤沢光志が自分を見つめている。

「あ、の……何か?」

「いいや、何も?」

 何か話したいのかと思って首を傾げてみる。
 すると光志は、美奈穂が首を傾けた方とは逆向きに小首を傾げ微笑んで見せた。
 それはもうニコニコと。とても嬉しそうに彼は笑う。


 別館へ彼を呼びに行った時、ドア越しに聞いた第一声はため息交じりだった。
 今思えば、迎えに来られたことを面倒に感じていたのかもしれない。
 初めて見た彼は、ダークブラウンの無造作ヘアーと、ちょっと怖いつり目が印象的だった。
 その鋭い目つきが、彼から滲みだす不機嫌なオーラを倍増させていた気さえする。
 正直、普段の美奈穂なら、決して関わらないタイプ。そんな第一印象だった。

 だけど今、隣に座る彼から受ける印象は、出会ったときとは真逆なものばかり。

 医務室で目を覚ましてから間もなく、前置き無しに突然抱きしめられた時は驚いた。
 でも、起き上がる直前に見た、眠る自分の手を握りしめてくれる光志の真剣な表情。
 抱きしめられた際に感じた、背中にまわった太い腕の震え。
 耳元で小さく聞こえた「よかった……目覚めてくれて、ありがとう」という小さな独り言。
 そのすべては、美奈穂の心臓を甘く疼かせ、頬を熱くさせた。

 千草の診察を受けている時もそう。
 光志はどういう訳か、兼治が医務室に残ることをとても嫌がっていた。
 その理由がわからなくて、こっそりそばに居た美智子にどうしてと耳打ちする。
 すると彼女は「嫉妬よ、嫉妬」とクスクス笑い出したのだ。

『きっと彼、自分が見ていない場所で、美奈穂ちゃんが男の人と一緒に居ることが嫌なのよ』
 
 すぐそばにいた亜沙美も、笑いながら美智子の言葉に頷く。

 出会ってからまだ半日も経っていないのに、光志が美奈穂とその周囲に色んな感情を抱いている。
 しかも、周りのみんなにはバレバレな程、その感情は駄々洩れ。
 一見自分の感情を隠すのが上手そうな彼が、なんて美奈穂はまた新たな驚きを見つける。

 だけど、そんな驚きを覆い隠す程、彼女は嬉しいと思ってしまった。


 学生時代は勉強、社会に出てからは仕事漬けの毎日。
 加えて元々奥手気味な性格のせいで、これまで彼氏なんて出来た試しは無かった。
 もちろん、誰かを好きになったことも。

 そんな自分が“運命の番”なんて存在と出会ったことは、運がいいなんてレベルの話じゃ済まされないのかもしれない。
 最初は少し怖いと思っていたはずなのに、今ならきっと、睨まれたところで怖いとは思わないだろう。
 それどころか、笑いながら「どうしましたか?」と、受け入れられる。素直にそう思えた。

(これが……一目ぼれ、って言うの、かな?)

 驚きのなかで、光志が自分へ向ける色んな言葉、態度、感情、そのすべてを最終的に嬉しく思ってしまう。
 なんて不思議な感覚は、美奈穂にとって未知のもの。
 自分を納得させてくれる名前が欲しくて、恋愛絡みの言葉で知っているわずかなものを頭の中でピックアップしていく。
 そして、悩みぬいた末に仮付けした名称。
 それは一見正解なようで、不意に首を傾げたくなる呼び名に思えた。
 同じようで、微妙に違うパズルのピースたちは、恋愛初心者の美奈穂の心でまだ組み立てられ始めたばかりに違いない。


「それじゃあ……遅くなったけど、これから皆で夕食でも食べますか。二人に色々話さなきゃいけないこともあるし。ここに居ないスタッフ達も、美奈穂さんのことを心配してるだろうから」

 美奈穂は戸惑いながら顔を赤らめて、光志はそんな彼女の様子を前にニコニコと。互いを見つめあっていれば、その場を取り仕切るように志郎が声をあげた。
 彼の言葉を聞いた瞬間、美奈穂は驚いた様子で目を見開き、ぐるっと室内を見回す。そして最後に、恐る恐る壁にかけられた時計を見上げた。
 そう言えば、志郎以外の役人男性と、哲夫の姿が見当たらない。いつの間に居なくなったのか、今まで全然気づかなかった。
 そして、壁掛け時計が示す現在時刻は、午後八時半過ぎ。
 自分が光志を呼びに行ってから、もう一時間以上が経っていることを、美奈穂はこの時初めて気づいた。あまりの衝撃に、彼女は思わず息を呑む。

「あ、あの! 私、勝手に倒れて、しかも寝こけてて……すみません! 皆さんまだお仕事がいっぱいあるのに、邪魔しちゃって! あの、ええっと……っ!」

 こんな所で、悠長にしている場合じゃない。自分はここに何をしに来たのか、そして何をしなければいけないのかを思い出した瞬間、どこか夢心地の様にほわほわしていた頭の中が一気に氷点下まで冷え込んだ。
 つられるように、みるみる顔から血の気が引いていく。

 夕食提供が終わっても、後片付けや明日の仕込み。その他参加者への対応と、裏方スタッフは夜も忙しいと聞いている。
 それに、役人としてこの場にいる志郎も、色々と仕事が残っているに違いない。
 彼らの貴重な時間を奪ってしまったことに気づいた美奈穂は、ベッドの上でアタフタと狼狽えだす。

「美奈穂ちゃん、落ち着いて! そんなに慌てなくても心配いらないよ。ここに居ないスタッフで今仕事回してるし、美奈穂ちゃんが起きたことは、うちの旦那が伝えに行ったから」

「そうよ、美奈穂ちゃん。貴女が眠ってる間に、みんな入れ替わりで様子を見に来たけど、私たち以外の人はちゃんと仕事に戻ったから。まあ……全員かなり渋ってたけど」

「で、でも……私、今日ほとんど何も出来なくて。下ごしらえと、ご飯よそうくらいしか、出来てなかったのに……」

 慌てふためく美奈穂を落ち着かせようと、美智子と亜沙美が必死に声を掛けてくれた。
 心配しなくても大丈夫だと笑みを浮かべ、二人は交互に美奈穂が安心できるよう、ポンポンと頭を撫でてくれる。
 彼女たちのやさしさが嬉しいと思う反面、美奈穂の心は申し訳なさでいっぱいになった。
 本来は、一番下っ端の自分が誰よりも働かなければいけないのに、今もこうして迷惑をかけていることが悔しくてたまらない。

「慣れないことばかりで疲れたでしょう? だから、今日はゆっくり休んでください。明日からまた、一緒に頑張りましょうね」

「……はいっ!」

 突然、これまであまり自分の存在を主張しなかった良晴の声が聞こえた。
 声がする方を向けば、あの柔らかい微笑みが目に付く。
 その隣では、二人の様子を気にするように、光志が忙しなく目線を行き来させている。
 美奈子の隣に立ち、良晴との間に居る光志の顔には、不満の色こそ浮かんでいるけれど、兼治を相手に吠えていた時のような刺々しい雰囲気は感じられなかった。

 その時、こっちの視線に気づいた様子の彼が、良晴へ向けていた視線を前触れなく美奈穂へ向けた。
 じろじろ見すぎていたかもと後悔した彼女は、慌てて謝罪の言葉を口にするため軽く息を吸う。
 だけど、ごめんなさいと言葉を紡ぐよりも先に、彼女の声は自分を真っ直ぐ見つめる男によって遮られた。

「他の奴らばっかりズルい。俺も、あんたのよそった飯が食べたい。いや……あんたの作った飯が食いたい」

「ふえ!? あ、えっと……その、ぅ……」

 恥ずかしがる様子を一切見せず、彼は自分の想いを直球にして美奈穂へぶつけてきた。
 あまりの不意打ち具合に、ようやく引いたと思った身体の熱がぶり返しそうになって、美奈穂の心は優しい仲間たちに対する感謝と喜びから一転、番に対する羞恥一色に染まっていく。

「……かわいい」

 顔を熱くしながら満足に受け答えも出来ず慌てふためく美奈穂。
 そんな彼女を見つめる光志の瞳は、どこまでも優しく、薄っすらと熱を孕む。

 彼の口から零れ落ちた言葉を聞いたのは、きっとそばにいたスタッフ三人だけ。
 見ている方が胸やけしそうになる程、甘い雰囲気を醸し出す初々しいカップル二人が、自分達の後輩が誕生したことを三人は純粋に喜んだ。
 同時に、激甘砲弾の被害者となった先輩たちが出来ることと言えば、その誕生をただ苦笑いと共に見つめるだけ。
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