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本編

第31話★

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 アルバイト五日目。
 今日は仕事の合間に、兼治さんと千草さんから食育指導を受ける。

『え? やらなくていい? 駄目駄目、これは決定事項だから。それに、俺たちは一応医者として派遣されてるけど、この期間中滅多に具合悪くなる奴なんて居ねえから気にすんな。どうせ暇人だし』

 最初美奈穂は、二人の申し出に素直に頷けなかった。
 だけど今は知識を吸収したいと思っている。
 せっかく時間を割いてくれた二人のために、隣で励ましてくれる光志のために、そして何より自分のために。
 調理場へ向かう際、美奈穂はエプロンとタオルの他に、光志からもらった数枚のルーズリーフ用紙と持参したペンを持って部屋を出た。



 今日一日、仕事と指導の割合をどのくらいにするか。
 朝食中に兼治たちと相談した結果、午前中に勉強をして、午後と夜は仕事に集中した方が良いと言われた。
 予定がズレまくっている志郎の番説明の続きは、明日の夜に行うことが決定した。

「そんじゃ、まあ……始めますか」

 朝食後、他のスタッフたちがそれぞれ持ち場に向かい、食堂に残ったのは美奈穂と光志、そして中原夫妻の四人だけ。
 調理場から聞こえるリズミカルな調理音をBGMに、兼治が両腕を思いっきり天井へ突き上げる。

「よ、よろしくお願いします!」

「ふふっ。美奈穂ちゃん、そんなにかたくならないで? 参考程度に聞いてくれればいいだけだから」

 ルーズリーフ用紙にメモ用のペン、そして目の前には昨日せっせと手作りされた資料。
 なんだか学生時代に戻ったような感覚に、自然と気が引き締まる。
 そんな美奈穂の緊張を察したのか、千草がクスリと小さく微笑んだ。





 食材の効能、組み合わせ、栄養を逃がさない調理法など。
 授業内容はどれも実用的なことばかりだった。
 貧血予防や疲労回復、眠りを促進するにはと、結構幅広い。

(すごい! 二人共教え方が上手だ!)

 兼治も千草も、長ったらしい説明はせず、端的にまとめた要点を、優先順位をつけて教えてくれる。
 美奈穂たちが飽きないように、時々豆知識や覚えておくと良いワンポイントなんかを教えてくれるので、数年ぶりの勉強はまったく苦痛じゃなくなった。
 そして何より、勉強に飽きが来ないとっておきの理由がある。

「なあ……これ一応、美奈穂ちゃんのための勉強会なんだぞ? それなのに、どうして藤沢が必死にメモ取ってるんだよ」

「作詞や作曲で徹夜になる時とか、必要なモン食べときゃイケるかと思って」

「え? 何その眠気覚ましドリンク感覚な発言。第一、徹夜なんかするなよ。人間、三十過ぎたら一気に無理がきかなくなるんだぞ?」

 美奈穂の隣で授業を聞いていた光志も、時々持参した用紙や渡された資料に書き込みをしている。
 彼がペンをとるのは、主に疲労回復や目に良い食材について話した時。あとは二日酔いに効く料理についてもメモしていた。

「新曲づくりって、そんなに大変なの?」

「まあ……何もない状況から一曲分作りますから、それなりに。でも、メンバーと分担したり、話し合いもしますし、毎回徹夜にはなりません。……一度詰まると抜け出すのキツイっすけど」

(うわあ……)

 千草さんからの疑問に、光志は曲作りについて簡単な説明をしてくれた。
 自分の日常とかけ離れた世界の出来事に、つい好奇心が疼いた美奈穂は、ジッと横に居る恋人を見つめ話に聞き入る。
 そして、最後にフッと光志が天井を見上げ遠い目をした瞬間、華やかな世界で生きる裏側、その苦労を垣間見た気分になった。

「……? どうした、美奈穂」

「光志さんが頑張っているんだなって思ったら、つい」

 無意識にのびた手が、いつの間にか彼の頭に触れていた。子供を褒める母親みたいに、ヨシヨシと光志の頭をつい撫でてしまう。
 すると、恥ずかしがりやな美奈穂からの予想外なスキンシップに驚いたのか、光志は大きく目を見開いた。
 だけどすぐに目は細められ、嬉しそうに美奈穂を腕の中に閉じ込める。

「俺以外の男に、そういうことするなよ?」

「し、しませんよ、絶対に!」

 頭上から聞こえる甘い命令に、ジワリと顔が熱くなった。
 そのまま頬の熱を散らす勢いで、美奈穂は首を左右に振る。
 年上の男性を子ども扱いした自分を恥ずかしく思いつつ、恋人の機嫌を損ねなかったことに内心ホッとする。
 むしろどこか嬉しそうな顔さえしている気がして、上機嫌な彼の腕の中で強張っていた身体の力を抜いた。



 時々横道に逸れつつ授業は続く。
 その間、交代で休憩を取りに食堂へやってくる調理スタッフのみんなも、興味深そうに講義に耳を傾けていた。

「なあ、この資料……うちの店で出す新メニュー考える時の参考にしたいから、コピー取ってくれねえか?」

「別にいいですけど……どれもネットとかで調べればすぐに出てくる情報ばっかですよ?」

「俺はインターネットに疎くてな……コピーしてもらった方が早いんだ」

 和食料理のお店を経営している勝彦さんは、殊更興味深そうに資料を覗き込んでいた。
 昨日、兼治たち三人が一生懸命作っていた資料は思いのほか好評で、お昼休憩の間に雇われスタッフ以外にも役人男性からも欲しいと強請られる。
 午後、美奈穂たちがせっせと仕事に励む間に、事務室のコピー機を使い、裏方スタッフ全員分の食育資料がコピーされたらしい。





(……あれ……私、何してたんだっけ?)

 沈んでいた意識がゆっくり浮上していく感覚が、美奈穂の頭の中にかかった霧を晴らしていく。

(確か……明日の仕込みが終わって、皆と一緒に部屋へ戻って。それで、光志さんと交代でお風呂に……)

「ひゃあっ!?」

 まるでだだっ広い海を身体が漂っているかのように、頭の中が少しフワフワする。
 だけどその感覚はほんの数秒。
 胸元に感じた熱く鋭い刺激と快感が、美奈穂を強引に現実へ引き戻した。

 すぐ近くから聞こえた嬌声が自分のものと気づくのに、それほど時間は掛からなかった。
 パチパチと数回瞬きをした美奈穂の瞳が、ソファーの上に横たわった自分に圧し掛かる恋人の姿を捉える。
 その瞬間、ここが自分が恋人と寝泊まりしている部屋だとしっかり理解出来た。

 お風呂上りなのか、まだ乾いていない光志の毛先から雫が垂れるのが見える。
 そんな彼の顔、いや頭は曝け出された美奈穂の胸に埋まっていた。

「光志さ、何して……ひゃうっ!」

 光志が浴室から戻ってくるのを待つ間、髪を乾かし終わった所まではギリギリ思い出せる。
 その後を思い出そうとしているのに、胸元に張り付いた頭が邪魔をする。
 いたずらに色白な乳房を舐めたかと思えば、その中心でぷっくりと膨らみ始めた蕾に吸いつく。

 今目の前にいる彼から、昨夜散々教え込まれた快楽を身体は覚えていて、思うように逃げ出せない。
 バタつかせた腕はすぐに捕らえられ、お仕置きとばかりに乳首を吸われ、突起をカリッと甘く噛まれた痛みが無意識に喉を震わせる。

 しばらくすると、執拗に胸を責めていた唇が離れていく。
 彼の唾液にまみれ、存在を主張する赤い蕾が目に付くのが恥ずかしくて美奈穂は咄嗟に顔を上げた。
 そこにあるのは、自分に圧し掛かる彼の顔。思った以上に近いことに驚いて息を呑んだ瞬間、耳元で聞こえたのは、これまでで一番の熱さと欲を孕んだ愛しい声だった。

「今日も、気持ちいい思い出作ろうぜ? 昨日より、もっと……もーっと気持ちいいこと」
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