ミステイク・オブ・ゴッド～オネェ男子が迫ってきます～

馴れ初め編/最終章 その瞳に映るモノ、その唇で紡ぐモノ

70.一歩踏み出す勇気を

　心の片隅に、ポッカリ穴が開いた感覚を抱きながら仕事に打ち込むこと数日。
　週末をむかえた千優は、篠原との約束を果たすため、待ち合わせ場所へ向かった。

　篠原と電話をしている最中、己の中に存在する國枝の幻影が気にならないわけじゃない。
　自分の気持ちに気づいた今、そう易々と頷いていいものかと、正直悩みもした。
　しかし、結果を言ってしまえば、彼の誘いを受け入れた己がいる。
　互いに謝罪したとは言え、旅行中の一件で咄嗟に篠原を突き飛ばしてしまったこともあり、彼に対する負い目がそうさせたのかもしれない。





　待ち合わせ場所から歩いて数分の映画館へ入った千優は、飲み物とお菓子を買う篠原の後へ続き席に着く。
　篠原からいくつもの映画プレゼンを聞き、最終的に千優が選んだ作品は、一番最初に提案された連続テレビドラマの劇場版だ。
　心惹かれたという理由が一番だが、篠原もドラマを見ていたことも選択理由の一つだ。
　真っ新な状態で新作映画を見ると、一からストーリーや登場人物を脳内で整理しなければいけない。
　しかし、ドラマから入った千優達は、その作業を大幅にカット出来る。普通の映画を見るより気楽そうだという理由も大きかった。

　二人が席について間もなく上映が開始され、そのまま映画を見ること二時間弱。
　千優は、休憩がてら映画終わりに立ち寄ったファミリーレストランで、引きつりそうな顔の筋肉を必死に抑え込んでいた。

（どうしよう、半分も覚えてねぇ）

　どこかまだぎこちなさの残る篠原との映画鑑賞に、不安が無かったと言えば嘘になる。
　友人と一緒に来た感覚のまま、上映が始まればすぐ映画に集中出来るだろうと、千優は高を括っていた。
　しかし実際は、隣で映画を見る篠原の存在と、この場にはいない國枝のことを考えてしまう始末。

　テレビで放送されていた頃、好んで見ていた作品ということもあり期待もあった。
　だが、フワフワと不安定に漂う意識のせいで、映画に集中する以前の問題が発生し、散々な結果だけが現在自分の心に突き刺さっている。

「柳、今日はありがとな」

　現実はそう甘くないと、千優は思い知らされる。
　必死に映画のストーリーを思い出していれば、テーブルを挟み向かい側に座る男の声が聞こえてきた。

「え？　あ、あぁ……うん。こっちこそ、ありがとう」

　テーブルに置かれたコーヒーカップへ落としていた視線をあげると、ニコニコと人懐っこい笑みを浮かべる篠原と目が合う。
　いつも以上に楽しげな様子を見せる彼に首を傾げつつ、千優はカップを手に取り口をつける。
　篠原もそれに倣うように、自分の目の前にある飲み物を手にした。


「ようやく諦めつきそうだから、ちゃんと二人のこと、応援するよ」

「……は？」

　店内に流れるＢＧＭと、他の客や店員の声。それらを聞きながら、二人の間にしばし沈黙が流れる。
　それを破ったのは、話の脈絡が掴めない程唐突で、明々としたバカ犬の声だった。





　週末明けの月曜日。一日の仕事を終えた千優は、ある場所を目指し足早に歩みを進める。
　隠そうとしても隠しきれない緊張を顔に滲ませる彼女は、朝からずっと落ち着きがない。


『実はさ……旅行の時、俺……國枝さんに殴られそうになったんだ』

『えっ？』

　その脳内では、映画終わりに篠原から聞いた話が、もう何度目かわからぬ程くり返されている。
　彼が語ってくれたのは、温泉旅行での一幕。
　篠原から告白され、千優が逃げ出した後の出来事についてだ。

『ほら、俺がバカやらかした時。柳が慌てて部屋から出て行っただろう？　その後すぐに、入口の所にいた國枝さんが、もう凄い剣幕で近づいてきて……』

　彼は時折飲み物を口にしながら、苦笑交じりに千優が知らぬ内容を話し始めた。

『せっかく柳が着付けてくれたのに、掴みかかられるわ、殴られそうになるわで。もう大変でさぁ。心配して来てくれた後藤さんが、國枝さんを後ろから抑えてくれなきゃ、マジでヤバかった気がする』

　まるで思い出話を面白おかしく話すように、彼は肩を竦めた後、おちゃらけながらブルっと己を抱きしめ身震いする。
　次々と語られるそれらはすべて、千優にとって衝撃的な内容でしかない。途中で口を挟むことも出来ず、彼女はただ静かに耳を傾けた。

『あの目は、ただの後輩に向けるものじゃない。流石の俺でもわかったよ……國枝さんの気持ち。それに今日……映画館でお前の様子をチラチラ見てて、ちゃんと心の整理がついた』

　どうやら彼は、すべてを悟ったらしい。
　そう言って笑う篠原の姿を目にした途端、言葉では言い表せない複雑に絡む想いがこみ上げてくる。
　なんと言葉を紡げば良いのかわからぬまま、しばし口を閉ざす千優。
　その後、ファミリーレストランを出た別れ際、ただ一言謝罪の言葉を口にするのが精いっぱいだった。

　昨日の帰り際、どこか泣いているようにも見える笑みを浮かべる男に「さっさとお前の気持ちぶつけてこい」と勢いよく背中を叩かれた。
　あれから一晩が経ち、痛みはすっかり引いているにも関わらず、やけに背中が熱い。
　痛みと共に、大きな勇気を注入してもらった気がし、今は心優しい同期に対し感謝の言葉しか思い浮かばない。
　だが、それを正直に伝えるのは少々気恥しく、今度何か別の形で伝えられればと、つい考えてしまう。


　終業時間を過ぎ、次々と帰宅していく社員とすれ違う中、様々な想いを抱き、千優は商品開発部のフロアを目指す。

「……っ」

　しかし、その歩みはだんだんと速度を落とし、ついには両足がピタリと動きを止めた。

　ただでさえ商品開発部に所属する社員達は多忙だ。きっと今日も残業中の人達が多くいるのだろう。
　それは國枝とて例外ではない。事前連絡も無しに会おうなど無計画なだけだ。
　もしかしなくても、この想いを伝えるタイミングは、今じゃないのかもしれない。

　これまで意気込みと強い意志しか無かった頭の中に、ふと黒いモヤが紛れ込む。
　それは、もう何度も経験した、負のスパイラルにハマる一歩手前の状態を示していた。
　このまま進むべきか、それとも日を改めるべきかと、千優の心は大きく揺らぎだす。

「じゃあな、國枝。明日もよろしく」

「えぇ、それじゃあ明日ね」

　そんな時、唐突に聞こえたのは紛れもない國枝の声だった。通路の向こう側から聞こえるそれは、他の社員と挨拶を交わすもの。
　いつの間にか俯きかけた顔を上げ、ドクドクと煩い心音を感じながら、鞄を握る手に力を入れる。
　それから間もなく、千優は視界の端に待ち望んだ男の姿をとらえた。
　その途端、周囲の音がかき消されたと錯覚しそうになる程の胸の高鳴りを感じる。

　注意深く視線の先にある人影を観察すれば、これから帰宅するのか、すっかり帰り支度を済ませたコート姿の彼が、ゆっくりこちらへ近づいてくるのが見える。

「……っ」

　何と声をかければいいかと、必死に頭を悩ませる。しかし、こんな時に限って上手い言葉が思いつかない。
　その間にも、二人の距離は更に縮まっていき、國枝がふわりと微笑む顔がすぐ近くに迫ってくる。
　しかし、以前とは違う彼は何も言わず、千優のすぐ傍を通り過ぎていく。速度も変わらず、その様子はどこか淡々としていた。

「……ぁ」

　己の視界から大好きな人が消えた事に慌て、千優はすぐさま体の向きを変え背後をふり返る。
　そんな彼女の瞳が映し出すのは、スーツの上に上着を羽織った男の後ろ姿だけ。

　早く、早くと心の中にいるたくさんの小さな分身たちが己を急かす。
　しかし、そんな彼女の両足は震えてばかり。
　まるでフロアの奥底から生えた蔦に絡まれたかと思うほど、己の体を自らの意思で動かせずにいる。

（どうしよう、どうしよう……）

　遠のいていく國枝の姿を見つめながら、得体の知れない何かに飲み込まれそうになる感覚と恐怖を感じた。

『走りなさい、千優』

『柳ー、がんばれ！』

『行ってこい、柳』

　そんな時、不意に聞こえてきたのは、慣れ親しんだ友人達の声。
　突然の事に、また後ろをふり向こうとする千優。
　しかし、彼女がふり向くよりも早く、この場にいない複数のぬくもりが、千優の背中を一斉に押し出した。





「や、なぎ……ちゃん？」

「……はぁ……はぁ」

　気づいた時、視界に映っていたのは、彼の上着を力いっぱい掴む自分の手だった。
　長距離を走ったわけでもないのに、うるさく脈打つ心臓を静め、乱れた呼吸を整えようと息を吐く。
　頭上から降り注ぐ、戸惑いまみれの声を聞きながら、千優は俯いたままの顔をゆっくり引き上げる。
　すると、次第に色濃い困惑の表情を浮かべる國枝の顔が見え、パチリと瞬きをした直後、こちらを見下ろす彼と目が合った。

（――もう逃げない）

　今、この瞬間を逃してはいけない。
　覚悟を決めた千優は、これまでさ迷うばかりだった瞳に、真っ直ぐ國枝の姿を映し、心に喝を入れながら大きく深呼吸をした。