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第八章・蝦夷の国
1
西暦七〇一年十月九日。飽田砦。
『由里へと急がせた戦士達が無事に由里砦へ入城した』と、叡草が知らせを受けたのが昨日。遅れて向かわせた輜重隊も、今頃は由里へと到着している頃だろう。
ほんの三日前、狼煙による召集の連絡に応じた渟代勢が飽田砦に合流していた。彼らは五百の戦士と共に、その倍以上の千五百頭もの軍馬を引き連れていた。
渟代と津軽は叡草より任を受け、大量の馬を飼育していた。有事に飽田砦等の拠点へと送り、戦騎とする馬だ。これによって東北の蝦夷戦士達は一兵残らず馬を充てがわれ、全て騎兵として運用出来るようになっていた。
これにて由里に千五百、飽田にも辛うじて五百の兵馬が補充された事になる。
津軽、渡島から来るであろう援軍もいずれ駆け付けてくる。想定では二千前後だ。
それら全ての兵力を合わせれば、四千。
対する三千の阿倍水軍の兵数を上回るはずだ。
戸賀から輜重を積載した船についても、三隻は飽田へと無事着港している。ただ何故か細麻呂の船だけ、戸賀から発ってすぐ行方不明となっていた。
貴重な輜重を積載した一隻を失った事は痛手ではあったが、まずは戦における一手目を無事打ち終えたと、叡草達が安堵していた矢先だった。
早天、戸賀から来た伝騎が、緊急事態の報せを持って飽田砦へと駆け込んできた。
『突厥が大軍を率い、戸賀湾に上陸して集落を襲った』
この報せに叡草は目を剥いた。
「――突厥……!?」
人生でこれ以上に聳動した事などなかった。
寝ている所を叩き起こされて集まった叡草の部下達もまた、余りの事態に耳目を疑った。
「戸賀はどうなった……!」
伝騎の胸ぐらを掴まんばかりに、叡草は玉座からのめり出した。戸賀には叡草の妻や子供、孫達を残していた。集落の人々を差し置いてその心配を思う訳にはいかない。
「戸賀は……敵の突然の来襲を受け、我ら留守居が応戦しましたが、余りに多勢に無勢でした……恐らくはもう……。集落の殆どの人間は叡草様の館にいて、我らが応戦している間に館から避難させました。今も渟代か飽田へと向かっているはずです。叡草様のご家族も……きっと……」
伝騎は時折咽び、それを堪えながら話した。冷たい空気を吸い過ぎたのだろう。森を全速で騎走し、疲れた馬と共に自身も駆けた。汗に塗れながらも顔面が蒼白なのは、極度の疲労のせいだけではあるまい。
「……突厥と言ったが、何故突厥と言い切れる」
「天国殿がそう言っておりました。あの軍装は突厥の軍勢に間違いないと。かつて、大陸で突厥軍と相見えた事があると……」
「……で、天国殿は?」
「天国殿は今も避難民を誘導しているはずです。天国殿が突厥軍の来襲に気付き、いち早く状況を伝えてくれなければ、もしかしたら我らは全滅だったかもしれません……」
「そうか……」
叡草は額に手を当て奥歯を噛んだ。
「……そして天国殿は、叡草様にこう伝えるよう申しておりました――――」
伝騎は語った。
『天国や浜の物見が、沖から近付いてくる謎の船団に気付いたと同時、数百を超える騎馬隊が戸賀湾の両端の岬の陰から侵入した。騎馬隊は火矢を放ちながら、海岸沿いの家屋を次々と襲っていった。突然の奇襲に誰も抵抗する事が出来ず、戸賀の集落は瞬く間に蹂躙された。
天国達は付近の家々に声を掛けながら、叡草の館へと走るのが精一杯だった。
そしてその途上、船団が戸賀湾に続々と侵入し、乗り付けんとしていたのを、天国は見た。
船の数から推計する敵戦力は三千から五千か。
敵は、戸賀の物見が確認出来ぬほどに遠い沖で船団を揃えて待機させていたのだろう。
そしてまず、騎馬隊を乗せた船が戸賀湾両端の岬の死角まで迂回して騎馬隊を上陸させ、騎馬隊は夕暮れを待って集落に奇襲を仕掛けた。そして騎馬隊が暴れ回り場を撹乱させた頃合いで、後続の船団が戸賀湾まで進軍した。
この作戦は、戸賀の情報を事前に知らなければ実現出来ない。
恐らく、戸賀に突厥の密偵が潜んでいる。密偵はこの地の者ではない。長い間、戸賀の周辺をずっと調査していたようだ』
「五……五千……」
密偵の存在もさる事ながら、敵戦力が五千と聞いて、叡草の部下達はどよめいた。
伝騎は続けた。
「天国殿が言うには……突厥がここに来た目的は恐らく――」
『金』
叡草は伝騎の言葉に重ねた。
「……倭と戦をしている場合ではない。今直ぐ休戦協定でも降伏宣言でも出せ。突厥は戸賀を橋頭堡とするつもりだ。突厥はこの島の人間に容赦しない。とも言っていました……」
叡草は蹌踉めくように、玉座の背もたれに寄り掛かった。
「……ちくしょう……何だって、よりによってこんな時に……細麻呂殿の船がいつまでも来ねェから、どうしてくれようかと思ってたが、それどころじゃねェ」
叡草は焦燥を顕にして毒づいた。
「天国殿の見立てが正しいとすりゃ……事はもっと深刻かもしれねェからな……」
「し、深刻というと……?」
「……密偵とやらがどこまでここの情報を調べ上げているかは分からねェが、何にせよここは連中にとっては勝手を知らねェ辺境の地だ。橋頭堡を築かねェ内に、いきなり全軍で押し掛けるとは思えねェ。
つまり、今回の船団にはまだ後軍が控えていて、前軍が戸賀を制圧した頃にそいつら後軍がやってくるって腹かも知れねェ。そうなりゃ前後合わせて一万以上の戦力だって有り得るかもな……」
「そ……そんな」
部下達は顔色を失った。
叡草は頭を掻き毟りながら、忌々しげに独言した。
「……戸賀に密偵だと……? 振からの船に紛れ込んでいたか? いつからだ……どこまで知られている……クソォッ!」
叡草は激昂し玉座の肘掛けに拳を叩き付けた。部下達は叡草の様子に狼狽した。こうまで不安定に癇癪を起こす叡草の姿など、蝦夷達は見た事が無い。
「……俺達の金鉱の在り処も知られているか……? ある程度目星が付いているから、大軍でやって来るんだろうからな……」
叡草は「待てよ……」と上擦った声を漏らした。
「大軍……何故大軍なんだ……長期滞在を見越して、金鉱をテメェらで掘るつもりで軍をよこしてるって事は考えられる……」
叡草は両足を落ち着きなく揺さぶりながら、両手を顔で覆った。
「……もしそうなら……俺達をどうするつもりだ――――」
叡草は蒼白になって呻いた。
「――皆殺しか……」
「……皆殺し……そんな……」
叡草の漏らした言葉に、部下達は騒然とした。叡草の様子がいつもの冗談や軽口ではないのは明らかだった。
叡草が部下達に訥々と言った。
「……大軍を送ってきたのは、東北蝦夷の勢力を把握しきれていないか、或いは戸賀を足掛かりに広域を制圧する為だと思ったが……金が目的で軍をよこすんだ、属国化や間接統治ではなく、直接統治に乗り出したって事かもしれねェ……つまり、植民地化の為の侵略だ。
なら、食料確保をどうする。持ち込む兵站には限りがある。海を挟んだこの土地で物資を定期的に送れる訳もねェ。つまり現地調達せざるを得ねェ……。
普通なら原住民は虜として残す。原住民を殺せば労働の担い手がいなくなっちまうからな……だが……この地が農耕に適さず、狩猟採集に依存した土地であると突厥達が知っていたなら、虜を取らず全て屠るという選択肢も有り得る。食い扶持が有限なら、原住民は生かすだけ損失だ。
一帯の蝦夷達を皆殺しにして、新たな住人としてすげ変わるつもりなのかもな……」
蒼白の叡草の形相が、みるみる部下達に伝播した。
「……もしそうなら戸賀は……いや、男鹿半島は今頃……」
「叡草様……我々はどうすれば!」
叡草は皆の前で手を翳し、言葉を遮った。
「今考えてる」
突厥が攻めてきたとは言うが、突厥に水軍はいない。
――恐らく、属国とした振や、黒水ら靺鞨諸族を傘下とする連合軍といった所か。大量の軍馬を船に載せられるとは思えねェ。多分、騎馬は戸賀の奇襲作戦に動員されたもので精一杯なはずだ。つまり主力は歩兵戦力である可能性が高い――
天国の情報には無かったが、叡草はこの来襲者の軍容が幾つかの異なる民族集団で構成された混成軍である事を察した。海戦どころか海さえ知らない突厥では海を越えられない。
叡草が秘匿している金鉱は幾つかあるが、そのどれも戸賀ではなく、渟代に近い。それにも拘わらず突厥軍が戸賀に着けたのは、金鉱の位置を把握し切れていないか、或いは戸賀を拠点とする意図があるのかもしれない。港湾としては、この辺りでは戸賀が最も荒天時に強い。本営として活用出来そうな外郭付きの屋敷もある。最初に攻め、橋頭堡とするのにこれほど適した土地は無い。
戸賀に兵糧の蓄えがある事も、敵は把握していたのかもしれない。叡草は倭国との交戦に備え、飽田と戸賀に分散して備蓄を集約していた。現地調達の手段として備蓄食料の略取を考えていなければおかしい。
そして何より、索国の可汗を名乗る叡草が本来はそこにいるはずだった。
もし、支配が目的ならその統治者であろう可汗を名乗る叡草を最後まで残すだろう。体制を維持したまま支配権を移譲させれば一番安く済むからだ。然し、もし殲滅が目的であれば、寧ろ集団の司令塔である叡草を屠った方が良いと判断するかもしれない。蝦夷の統率が拙い事を知るなら、余計にそうする。
だとすれば、突厥軍にとって今回の戸賀攻めは大きな誤算が生じた事だろう。策国の可汗は不在、兵糧も、戦うべき蝦夷の戦士達も、ほぼ全て飽田へと移送した後なのだ。さぞ肩透かしを食らったに違いない。
「戸賀を制圧した後、次に敵は何をするか、だな……」
抵抗勢力を駆逐すべくこの飽田砦へと進軍するか。否、少なくとも、今直ぐではあるまい。密偵がこの地の情報をどれだけ把握出来ているかに関わらず、いきなり飽田砦まで攻め上がるとは思わない。後軍が合流するまで待つなり、何れにせよ橋頭堡の整備に追われるはずだ。
その後はどうする。
渟代へと向かうだろうか。秘匿した金鉱は渟代の大河(現在の能代川)を遡り、山谷を超えた先にある。それをもし把握しているなら、渟代の制圧へと向かうはずだ。
今、渟代の戦士達の殆どが飽田砦へと合流している。戸賀と同じく蛻の殻だ。だが、津軽や渡島勢が飽田を目指し南下している。間に合うか。そもそも味方の数は足りるのか。
叡草は額に手を当て、項垂れた。
「……すまねェ……全て俺の失態だ。連中はどうやら、俺が思った以上に余裕が無ェらしい。奴らに金をチラつかせちまった、俺が招き寄せた禍だ」
叡草は地面に吸い付くような声音で、心の内の罪悪感を打ち明けた。叡草という男は、感情――殊に負の感情を隠す事を、より恥じる。
「皆で決めた事じゃないですか。責任は我々にもあります。叡草様も言っているでしょう。これは皆の夢だと。叡草様の一存だけで蝦夷も粛慎も動いている訳ではございません」
侍る蝦夷の一人が言った。
叡草は「すまねぇ」ともう一言小さく詫びた。そして頭を上げた。
叡草の瞳には、もう闘志が宿っていた。
「まず突厥軍に使者を出す。逃げ遅れている者達の救助部隊も同時に送る。逃げている連中を飽田砦へ誘導しねェとな……渟代へ逃げるのは不味い。伝令を出し、渟代と由里にこの事を一刻も早く伝えろ。今頃こっちへ進軍中であろう、津軽や渡島勢にもだ。
……で、それにつけても何よりもだ。比羅夫のオッサンに使者を出さなけりゃあな……」
「倭国には何と……?」
「決まってらァ――」
叡草の思いもよらぬ言葉に、一同は絶句した。
突厥来襲の報せを受け、飽田砦中の者達が浮足立っていた。
駿河はそれを知らされなかったが、閉ざされた倉の闇の中、張り詰めた空気だけは肌で感じていた。
駿河は叡草を襲って以来、それまでと同じ倉へと戻されていた。警備はより厳重になった。厳重になったと言っても、ツノトの他に見張りが二人以上付く事になった程度ではあったが、駿河がどうにかする手立ては無かった。
駿河の身の回りの世話をするのは、相変わらずツノトだった。ツノトは、駿河が彼女にした事も、叡草を殺そうとした事も、それらについて一言も発する事は無かった。全く以前と態度を変えず、駿河の世話を淡々とこなしていた。
駿河は叡草に完膚無きまでに敗北し、自棄になっていた。元々、叡草暗殺の企てに失敗し、もしまだ生かされるようならば自決を試みるつもりだった。然し手元に得物も無く、箸で喉を突いて死ねるかも分からぬ。そこで、餓死しようと水も飯も食わないようにしていた。
たとえ手を付けなくとも、ツノトは食事を持ってくる。
この日の夕方も、いつも通りツノトはやってきた。
「駿河様。食事をお持ちしました」
駿河は坐禅の姿勢で目を閉じ、扉の向こうからするツノトの言葉に反応を示そうとしない。
ツノトはそれを意に介さず、倉の扉を開け中に入った。
「……駿河様。昨晩、戸賀が突厥なる者達から襲撃を受けたそうです。数千の大軍だそうで……」
ツノトが膳を並べながら、抑揚の無い声色で言った。些かな深刻さが孕んでいた。
「な………なんだと!」
駿河は坐禅の姿勢から一転して跳ね起きた。余りの事に頭の中が真っ白になっていた。驚天動地とはまさしくこの事だった。
「戸賀の人々の多くは叡草様の屋敷にいた為に難を逃れ、飽田か渟代へと逃げたと。叡草様は突厥の真意を確かめるべく使者を戸賀へ送るそうです。そして使者と同時に、戸賀から逃げている避難民を救うべく救助部隊も送るそうです。今、砦では戸賀に向かう戦士達を募っている最中です。すぐ今夜にも発つと……」
駿河はツノトの言葉を何とか咀嚼して、言った。
「……天国は無事か! 避難民はここに何人来ているんだ」
駿河の脳裏に、シイナとアシレイの姿が真っ先に浮かんだ。ぐっとそれを呑んだ。
「天国様も戸賀の避難民と共にいて、誘導しているとか…………ですが避難民は未だ一人もここに来ておりません……」
昨晩に避難を開始したとすれば、そろそろ足の早い者が辿り着いても良い頃だ。北にあるという渟代や、恩荷の館へと向かっている可能性もある。老人や女子供の集団では足が遅く、まだ戸賀の樹海の中を抜けられていない可能性もある。それとも――。
「難を逃れた、と言っても、追手だってあるかもしれない。一人もここに来ないという事は……もしかしたら……もしかしたら、もう……」
シイナとアシレイ、子供達が海外の賊徒に殺される様を想像し、駿河は全身を粟立たせた。どれだけ残虐な責め苦の果てに殺されてもおかしくないのだ。駿河は父や祖父から、再三に亘って白村江の戦いの凄惨さを聞かされている。
「分かりませんが、最善を尽くすしかないでしょう」
ツノトの無機質な声音に僅かながら険が混じった。駿河の不謹慎への怒りか、悍ましい想像への拒絶か。駿河の怯懦を戒めたようにも見えた。
「すまない……」
「……阿倍引田駿河様。貴方はどうしたいですか?」
唐突なツノトの質問に、駿河は窮した。
ツノトは射るような鋭い眼差しを駿河に向けている。駿河には覚えがあった。
宿奈麻呂や比羅夫と同じ、武人の目。見る者の器を見抜き、何か覚悟を覚えさせるような、毅い眼差し。その眼差しを何故、この女がするのだろう。
「貴方は、叡草様にも、蝦夷にも、倭にも、何一つ報いる事が出来ぬまま、この倉の中で我が身を憐れみながら飢えて死に、命を終えるおつもりですか?」
「……言ってくれる」
「貴方はそれでも武人の血を引く男ですか」
駿河は力無く笑った。女の真意は読めないが、どこまでも己の弱さを直視させてくれる女だ。餓死を試みていた自分を、さぞ滑稽で卑賤な男だと見下していたに違いない。
少し昔の自分なら、激昂して抗弁でもしていただろうに。
ここ暫くの間に、自分の器が如何に小さいか嫌と言うほど分かった。
今こそ、このか細い女の手によって、卑小な自尊心に止めを刺された気分だ。
然し、知らず知らず自分に課した期待や気負いの一切が消え去り、いっそ清々しい思いもした。
今、それでも我が胸に残ったものこそ、誠の自分なのだ。
やらねばならない事はある。交戦中かもしれない阿倍水軍の元へ向かい、突厥来襲の報告をするのだ。蝦夷と戦っている場合ではないと。
だが、それよりも尚、去来する想いがあった。
「……アシレイ……シイナ」
駿河は呟いた。人生で初めて「守りたい」と思った者達だった。
「アシレイ……戸賀の娘の名ですね。確か」
駿河は気付かなかったが、ツノトは小さく微笑んでいた。
俯いたまま、駿河は肩を怒らせ、拳を握り締めた。
「まだ逃げているというなら、何としても助け出さなくては……!」
避難民を誘導しているという天国も気掛かりだった。聡い奴だから易易と死ぬ訳は無いだろうが、人を斬れぬ状態では、敵と遭遇したとて満足に戦えまい。
「戸賀に……戸賀に行き、皆を、子供達を助けたい。助けなければならん」
一刻も早くアシレイとシイナを救い、そしてその後で、阿倍水軍に合流する。
駿河の脳裏に一瞬、叡草の事が浮かんだ。「全ては突厥の王統を自称する叡草の陰謀であり、突厥と結託して蝦夷達を虐殺し、蝦夷に成り代わり突厥の国を作る気なのでは?」と疑念が去来した。然し直ぐに思い直した。どう愚かしく想像しても、それを成立させる合理的な理屈を組み立てようがない。
「俺は戸賀に行かねばならん……。だがこんな」
「分かりました」
駿河の言葉を遮って、ツノトが答えた。
「分かりました、とは……」
「砦から戸賀までの道はご存知ですか?」
「あ、ああ。連行される時に通った道を覚えている……はずだ。それに星や太陽も見れる」
「宜しい。まずは食事をお召し上がり下さい。何事をするにもまずは食事からです。もう二度と、食事を断とうなどと考えるのはおやめ下さいね。さあ、食べながら聞いて下さい」
ツノトの有無を言わせぬ語気に圧され、駿河は箸を取って飯をがっついた。餓死するつもりで何も食わずにいただけに、文字通り死ぬほど腹が減っていた。
「食事を終えましたら、私と一緒にここを出て下さい。見張りはおりません。私一人でここに参りました」
「な、なんだと!」
「いいから食事を。口に物が入っている時は喋ってはいけません。下品です。既に砦の外に馬を付けています。それと、どれも夫のものですが、刀と弓矢、ほんの少しですが道中の食事も馬に括っておきました。夜を走る為の松明も」
ツノトが言葉を重ねる度に、駿河は飯を吹き出しそうになった。
「辺りは戸賀へ行く準備で騒然としています。その隙に砦を出るのです。砦の門扉は閉まっておりますが、塀を乗り越えられるよう梯子を掛けておきました。そこまで案内致します」
言って、ツノトはにっこりと微笑んだ。
「……美味しいですか? ツノト自慢の鹿肉の煮付け、残さずお食べ下さいね」
駿河が食事を終えるや、直ぐに二人は倉を出た。人の姿は無い。
「――何故こうまでしてくれるんだ。叡草の計らい……という訳も無いだろう」
駿河はツノトの後を小走りに付いて行きながら尋ねた。
「……私は夫を愛していました。夫との間に生まれた息子も、堪らなく愛していました」
ツノトは辺りを警戒しながら、物陰を選んで進んでいく。
「……夫は心優しい人でした。戦が嫌いで、詩や学問が好きな人でした。早くに死んでしまったのは、きっとここでの慣れない生活のせいでしょう。子供が好きで、いつもあの人の周りには里中の子供達がついてきていました。息子が生まれた時、夫の喜んだ顔は忘れられません。
夫を亡くした後、私は赤ん坊を連れ、遠く夫の生家を頼りました。もし何かあったら自分の故郷の家を訪ねよと。夫の遺言でした」
「ひょっとして、夫というのは倭人か」
ツノトは頷いた。
「あの時私は……逃げたのです。子供への愛のみを頼りに、遠く離れた地で暮らす事に耐えられなかったのです。
心の中で言い訳を重ね、これが息子の幸せだと、私は赤子を置いて一人、ここに帰ってきたのです。私は……夫との間に出来た何より愛しいはずの子供を……捨てたのです」
ツノトは激情を押さえ付けるように、喉の奥で絞り出すように語った。
「度々都へと行く叡草様から二度、その子の様子を聞かされました。
一度目は、無事に育っていると。二度目の時は、立派な青年になっていると。
私にも……夫にも似ていると……そう……言われました……。とても……嬉しかった……こんな私に、そう思う資格などありはしないのに……」
背中越しに、ツノトは涙を拭った。
「駿河様、笑って下さいませ。私は、その子の側にいて、その子の人生を守る責任を、夫の生き様や思い出をその子に話す義務を放棄した己を悔いています。毎日のように。寂しく思うのです。その子の側にいてやれぬ事を。
愛を知らぬ子になってはいないかと、今でも心配しているのです……なんて浅ましい、愚かな母がいたものでしょうか。こんな女は母ではありません」
駿河は口を噤んで何も言わなかった。
「さあ、あそこです。あそこに梯子を立て掛けておきました。あそこから外に出て、北へと向かって下さい。木に馬が括られているのが分かるはずです」
ツノトが塀の一画を指さした。昏がりの影、壁に掛かった梯子の輪郭を確認出来た。梯子といい、馬といい、全てツノトが一人で事前に用意したのだろうか。
「結局、こうまでしてくれる理由は言っていない」
駿河が言うと、ツノトは「ふふ」と小さく笑った。
駿河は梯子を登っていった。
「……もしかしたら避難民は、追手を逃れて森の中に隠れているのかもしれません。森には雨風を凌ぐ為の洞窟や小屋がそこら中にあるから、ひょっとしたらそういった所に……樹木に刀子で刻んだ目印があるはずです。ご存知ですか?」
「ああ。何度かの山狩りの時、何種類かの目印の事を聞いた」
駿河が梯子を登り切り、土塀の瓦屋根に足を掛けた。
その時だった。
「そこで何をしてやがる!」
荒い声が駿河達の耳を劈く。三人の男達がこちらに近付いてくる。しまった、と駿河は舌打ちした。
「おいおい、まさかこの非常時に逢引って事はねえよな?」
「ありゃ例の倭人じゃねえか? ほら、確か駿河ってぇ都のおえらいさんを倉に囚えてるって話の……!」
ツノトの事を知らぬ様子を見ると、どうやら渟代からやってきた者達らしい。
俄に男達は気色ばんだ。
「駿河様! 早く行きなさい! 私は大丈夫!」
塀の上でもどろく駿河に、ツノトは鋭い声を上げた。
ツノトは腰元の刀子を抜き放ち男達に向けた。
「この期に及んで、貴方はまだグズグズする気ですか! 行きなさい! 武人が一度決めた事でしょう! 夫の刀……貴方に託しましたからね!」
「!」
ツノトの言葉一閃、駿河は弾けるように塀の上から外へと飛び出した。その気配を肩越しに見送って、ツノトは安堵した。
いよいよ只事では無い事に気付いた男達は刀を抜き、梯子の前に立ちはだかるツノトへ突き付けた。
「どけ!」
男達の怒声にツノトは全く怯まない。
「もう一歩でも近付いてみろ! このツノト、そこらの蝦夷の男には引けをとらんぞ!」
男達はツノトの鬼気迫る様子にたじろいだ。疲れた中年女の細腕に、屈強な蝦夷の男三人を相手取る力が備わっているようには到底見えない。然し、たじろいだ。
野性を知る戦士であればこそ、如何なる外見に怯える事はない、身の内に宿る胆の凄みにこそ怯える。それを宿す者が、死物狂いで抗う事が分かるからだ。
ツノトは叫んだ。
「私は弱い女だった! 不幸を何者かのせいだと嘆き、泣いて自分を呪う事で己を慰撫する、浅ましい人間だった! だが、我が子の為にこの短い命を投げ出す程度には、私にも親の誇りというものが残っている! いざ!」
人は必ず、己の魂がどれだけ学び成長し、生まれ持つ己の領分を超える事が出来たか、その答えに挑まなくてはならぬ瞬間が訪れる。ツノトの場合は、きっと今だった。
駿河がツノトの眼差しに感じた武人の瞳。それが、親が子へ己の命と魂を託す『承継の眼差し』である事に、その時の駿河はまだ気付く事が出来なかった。
『由里へと急がせた戦士達が無事に由里砦へ入城した』と、叡草が知らせを受けたのが昨日。遅れて向かわせた輜重隊も、今頃は由里へと到着している頃だろう。
ほんの三日前、狼煙による召集の連絡に応じた渟代勢が飽田砦に合流していた。彼らは五百の戦士と共に、その倍以上の千五百頭もの軍馬を引き連れていた。
渟代と津軽は叡草より任を受け、大量の馬を飼育していた。有事に飽田砦等の拠点へと送り、戦騎とする馬だ。これによって東北の蝦夷戦士達は一兵残らず馬を充てがわれ、全て騎兵として運用出来るようになっていた。
これにて由里に千五百、飽田にも辛うじて五百の兵馬が補充された事になる。
津軽、渡島から来るであろう援軍もいずれ駆け付けてくる。想定では二千前後だ。
それら全ての兵力を合わせれば、四千。
対する三千の阿倍水軍の兵数を上回るはずだ。
戸賀から輜重を積載した船についても、三隻は飽田へと無事着港している。ただ何故か細麻呂の船だけ、戸賀から発ってすぐ行方不明となっていた。
貴重な輜重を積載した一隻を失った事は痛手ではあったが、まずは戦における一手目を無事打ち終えたと、叡草達が安堵していた矢先だった。
早天、戸賀から来た伝騎が、緊急事態の報せを持って飽田砦へと駆け込んできた。
『突厥が大軍を率い、戸賀湾に上陸して集落を襲った』
この報せに叡草は目を剥いた。
「――突厥……!?」
人生でこれ以上に聳動した事などなかった。
寝ている所を叩き起こされて集まった叡草の部下達もまた、余りの事態に耳目を疑った。
「戸賀はどうなった……!」
伝騎の胸ぐらを掴まんばかりに、叡草は玉座からのめり出した。戸賀には叡草の妻や子供、孫達を残していた。集落の人々を差し置いてその心配を思う訳にはいかない。
「戸賀は……敵の突然の来襲を受け、我ら留守居が応戦しましたが、余りに多勢に無勢でした……恐らくはもう……。集落の殆どの人間は叡草様の館にいて、我らが応戦している間に館から避難させました。今も渟代か飽田へと向かっているはずです。叡草様のご家族も……きっと……」
伝騎は時折咽び、それを堪えながら話した。冷たい空気を吸い過ぎたのだろう。森を全速で騎走し、疲れた馬と共に自身も駆けた。汗に塗れながらも顔面が蒼白なのは、極度の疲労のせいだけではあるまい。
「……突厥と言ったが、何故突厥と言い切れる」
「天国殿がそう言っておりました。あの軍装は突厥の軍勢に間違いないと。かつて、大陸で突厥軍と相見えた事があると……」
「……で、天国殿は?」
「天国殿は今も避難民を誘導しているはずです。天国殿が突厥軍の来襲に気付き、いち早く状況を伝えてくれなければ、もしかしたら我らは全滅だったかもしれません……」
「そうか……」
叡草は額に手を当て奥歯を噛んだ。
「……そして天国殿は、叡草様にこう伝えるよう申しておりました――――」
伝騎は語った。
『天国や浜の物見が、沖から近付いてくる謎の船団に気付いたと同時、数百を超える騎馬隊が戸賀湾の両端の岬の陰から侵入した。騎馬隊は火矢を放ちながら、海岸沿いの家屋を次々と襲っていった。突然の奇襲に誰も抵抗する事が出来ず、戸賀の集落は瞬く間に蹂躙された。
天国達は付近の家々に声を掛けながら、叡草の館へと走るのが精一杯だった。
そしてその途上、船団が戸賀湾に続々と侵入し、乗り付けんとしていたのを、天国は見た。
船の数から推計する敵戦力は三千から五千か。
敵は、戸賀の物見が確認出来ぬほどに遠い沖で船団を揃えて待機させていたのだろう。
そしてまず、騎馬隊を乗せた船が戸賀湾両端の岬の死角まで迂回して騎馬隊を上陸させ、騎馬隊は夕暮れを待って集落に奇襲を仕掛けた。そして騎馬隊が暴れ回り場を撹乱させた頃合いで、後続の船団が戸賀湾まで進軍した。
この作戦は、戸賀の情報を事前に知らなければ実現出来ない。
恐らく、戸賀に突厥の密偵が潜んでいる。密偵はこの地の者ではない。長い間、戸賀の周辺をずっと調査していたようだ』
「五……五千……」
密偵の存在もさる事ながら、敵戦力が五千と聞いて、叡草の部下達はどよめいた。
伝騎は続けた。
「天国殿が言うには……突厥がここに来た目的は恐らく――」
『金』
叡草は伝騎の言葉に重ねた。
「……倭と戦をしている場合ではない。今直ぐ休戦協定でも降伏宣言でも出せ。突厥は戸賀を橋頭堡とするつもりだ。突厥はこの島の人間に容赦しない。とも言っていました……」
叡草は蹌踉めくように、玉座の背もたれに寄り掛かった。
「……ちくしょう……何だって、よりによってこんな時に……細麻呂殿の船がいつまでも来ねェから、どうしてくれようかと思ってたが、それどころじゃねェ」
叡草は焦燥を顕にして毒づいた。
「天国殿の見立てが正しいとすりゃ……事はもっと深刻かもしれねェからな……」
「し、深刻というと……?」
「……密偵とやらがどこまでここの情報を調べ上げているかは分からねェが、何にせよここは連中にとっては勝手を知らねェ辺境の地だ。橋頭堡を築かねェ内に、いきなり全軍で押し掛けるとは思えねェ。
つまり、今回の船団にはまだ後軍が控えていて、前軍が戸賀を制圧した頃にそいつら後軍がやってくるって腹かも知れねェ。そうなりゃ前後合わせて一万以上の戦力だって有り得るかもな……」
「そ……そんな」
部下達は顔色を失った。
叡草は頭を掻き毟りながら、忌々しげに独言した。
「……戸賀に密偵だと……? 振からの船に紛れ込んでいたか? いつからだ……どこまで知られている……クソォッ!」
叡草は激昂し玉座の肘掛けに拳を叩き付けた。部下達は叡草の様子に狼狽した。こうまで不安定に癇癪を起こす叡草の姿など、蝦夷達は見た事が無い。
「……俺達の金鉱の在り処も知られているか……? ある程度目星が付いているから、大軍でやって来るんだろうからな……」
叡草は「待てよ……」と上擦った声を漏らした。
「大軍……何故大軍なんだ……長期滞在を見越して、金鉱をテメェらで掘るつもりで軍をよこしてるって事は考えられる……」
叡草は両足を落ち着きなく揺さぶりながら、両手を顔で覆った。
「……もしそうなら……俺達をどうするつもりだ――――」
叡草は蒼白になって呻いた。
「――皆殺しか……」
「……皆殺し……そんな……」
叡草の漏らした言葉に、部下達は騒然とした。叡草の様子がいつもの冗談や軽口ではないのは明らかだった。
叡草が部下達に訥々と言った。
「……大軍を送ってきたのは、東北蝦夷の勢力を把握しきれていないか、或いは戸賀を足掛かりに広域を制圧する為だと思ったが……金が目的で軍をよこすんだ、属国化や間接統治ではなく、直接統治に乗り出したって事かもしれねェ……つまり、植民地化の為の侵略だ。
なら、食料確保をどうする。持ち込む兵站には限りがある。海を挟んだこの土地で物資を定期的に送れる訳もねェ。つまり現地調達せざるを得ねェ……。
普通なら原住民は虜として残す。原住民を殺せば労働の担い手がいなくなっちまうからな……だが……この地が農耕に適さず、狩猟採集に依存した土地であると突厥達が知っていたなら、虜を取らず全て屠るという選択肢も有り得る。食い扶持が有限なら、原住民は生かすだけ損失だ。
一帯の蝦夷達を皆殺しにして、新たな住人としてすげ変わるつもりなのかもな……」
蒼白の叡草の形相が、みるみる部下達に伝播した。
「……もしそうなら戸賀は……いや、男鹿半島は今頃……」
「叡草様……我々はどうすれば!」
叡草は皆の前で手を翳し、言葉を遮った。
「今考えてる」
突厥が攻めてきたとは言うが、突厥に水軍はいない。
――恐らく、属国とした振や、黒水ら靺鞨諸族を傘下とする連合軍といった所か。大量の軍馬を船に載せられるとは思えねェ。多分、騎馬は戸賀の奇襲作戦に動員されたもので精一杯なはずだ。つまり主力は歩兵戦力である可能性が高い――
天国の情報には無かったが、叡草はこの来襲者の軍容が幾つかの異なる民族集団で構成された混成軍である事を察した。海戦どころか海さえ知らない突厥では海を越えられない。
叡草が秘匿している金鉱は幾つかあるが、そのどれも戸賀ではなく、渟代に近い。それにも拘わらず突厥軍が戸賀に着けたのは、金鉱の位置を把握し切れていないか、或いは戸賀を拠点とする意図があるのかもしれない。港湾としては、この辺りでは戸賀が最も荒天時に強い。本営として活用出来そうな外郭付きの屋敷もある。最初に攻め、橋頭堡とするのにこれほど適した土地は無い。
戸賀に兵糧の蓄えがある事も、敵は把握していたのかもしれない。叡草は倭国との交戦に備え、飽田と戸賀に分散して備蓄を集約していた。現地調達の手段として備蓄食料の略取を考えていなければおかしい。
そして何より、索国の可汗を名乗る叡草が本来はそこにいるはずだった。
もし、支配が目的ならその統治者であろう可汗を名乗る叡草を最後まで残すだろう。体制を維持したまま支配権を移譲させれば一番安く済むからだ。然し、もし殲滅が目的であれば、寧ろ集団の司令塔である叡草を屠った方が良いと判断するかもしれない。蝦夷の統率が拙い事を知るなら、余計にそうする。
だとすれば、突厥軍にとって今回の戸賀攻めは大きな誤算が生じた事だろう。策国の可汗は不在、兵糧も、戦うべき蝦夷の戦士達も、ほぼ全て飽田へと移送した後なのだ。さぞ肩透かしを食らったに違いない。
「戸賀を制圧した後、次に敵は何をするか、だな……」
抵抗勢力を駆逐すべくこの飽田砦へと進軍するか。否、少なくとも、今直ぐではあるまい。密偵がこの地の情報をどれだけ把握出来ているかに関わらず、いきなり飽田砦まで攻め上がるとは思わない。後軍が合流するまで待つなり、何れにせよ橋頭堡の整備に追われるはずだ。
その後はどうする。
渟代へと向かうだろうか。秘匿した金鉱は渟代の大河(現在の能代川)を遡り、山谷を超えた先にある。それをもし把握しているなら、渟代の制圧へと向かうはずだ。
今、渟代の戦士達の殆どが飽田砦へと合流している。戸賀と同じく蛻の殻だ。だが、津軽や渡島勢が飽田を目指し南下している。間に合うか。そもそも味方の数は足りるのか。
叡草は額に手を当て、項垂れた。
「……すまねェ……全て俺の失態だ。連中はどうやら、俺が思った以上に余裕が無ェらしい。奴らに金をチラつかせちまった、俺が招き寄せた禍だ」
叡草は地面に吸い付くような声音で、心の内の罪悪感を打ち明けた。叡草という男は、感情――殊に負の感情を隠す事を、より恥じる。
「皆で決めた事じゃないですか。責任は我々にもあります。叡草様も言っているでしょう。これは皆の夢だと。叡草様の一存だけで蝦夷も粛慎も動いている訳ではございません」
侍る蝦夷の一人が言った。
叡草は「すまねぇ」ともう一言小さく詫びた。そして頭を上げた。
叡草の瞳には、もう闘志が宿っていた。
「まず突厥軍に使者を出す。逃げ遅れている者達の救助部隊も同時に送る。逃げている連中を飽田砦へ誘導しねェとな……渟代へ逃げるのは不味い。伝令を出し、渟代と由里にこの事を一刻も早く伝えろ。今頃こっちへ進軍中であろう、津軽や渡島勢にもだ。
……で、それにつけても何よりもだ。比羅夫のオッサンに使者を出さなけりゃあな……」
「倭国には何と……?」
「決まってらァ――」
叡草の思いもよらぬ言葉に、一同は絶句した。
突厥来襲の報せを受け、飽田砦中の者達が浮足立っていた。
駿河はそれを知らされなかったが、閉ざされた倉の闇の中、張り詰めた空気だけは肌で感じていた。
駿河は叡草を襲って以来、それまでと同じ倉へと戻されていた。警備はより厳重になった。厳重になったと言っても、ツノトの他に見張りが二人以上付く事になった程度ではあったが、駿河がどうにかする手立ては無かった。
駿河の身の回りの世話をするのは、相変わらずツノトだった。ツノトは、駿河が彼女にした事も、叡草を殺そうとした事も、それらについて一言も発する事は無かった。全く以前と態度を変えず、駿河の世話を淡々とこなしていた。
駿河は叡草に完膚無きまでに敗北し、自棄になっていた。元々、叡草暗殺の企てに失敗し、もしまだ生かされるようならば自決を試みるつもりだった。然し手元に得物も無く、箸で喉を突いて死ねるかも分からぬ。そこで、餓死しようと水も飯も食わないようにしていた。
たとえ手を付けなくとも、ツノトは食事を持ってくる。
この日の夕方も、いつも通りツノトはやってきた。
「駿河様。食事をお持ちしました」
駿河は坐禅の姿勢で目を閉じ、扉の向こうからするツノトの言葉に反応を示そうとしない。
ツノトはそれを意に介さず、倉の扉を開け中に入った。
「……駿河様。昨晩、戸賀が突厥なる者達から襲撃を受けたそうです。数千の大軍だそうで……」
ツノトが膳を並べながら、抑揚の無い声色で言った。些かな深刻さが孕んでいた。
「な………なんだと!」
駿河は坐禅の姿勢から一転して跳ね起きた。余りの事に頭の中が真っ白になっていた。驚天動地とはまさしくこの事だった。
「戸賀の人々の多くは叡草様の屋敷にいた為に難を逃れ、飽田か渟代へと逃げたと。叡草様は突厥の真意を確かめるべく使者を戸賀へ送るそうです。そして使者と同時に、戸賀から逃げている避難民を救うべく救助部隊も送るそうです。今、砦では戸賀に向かう戦士達を募っている最中です。すぐ今夜にも発つと……」
駿河はツノトの言葉を何とか咀嚼して、言った。
「……天国は無事か! 避難民はここに何人来ているんだ」
駿河の脳裏に、シイナとアシレイの姿が真っ先に浮かんだ。ぐっとそれを呑んだ。
「天国様も戸賀の避難民と共にいて、誘導しているとか…………ですが避難民は未だ一人もここに来ておりません……」
昨晩に避難を開始したとすれば、そろそろ足の早い者が辿り着いても良い頃だ。北にあるという渟代や、恩荷の館へと向かっている可能性もある。老人や女子供の集団では足が遅く、まだ戸賀の樹海の中を抜けられていない可能性もある。それとも――。
「難を逃れた、と言っても、追手だってあるかもしれない。一人もここに来ないという事は……もしかしたら……もしかしたら、もう……」
シイナとアシレイ、子供達が海外の賊徒に殺される様を想像し、駿河は全身を粟立たせた。どれだけ残虐な責め苦の果てに殺されてもおかしくないのだ。駿河は父や祖父から、再三に亘って白村江の戦いの凄惨さを聞かされている。
「分かりませんが、最善を尽くすしかないでしょう」
ツノトの無機質な声音に僅かながら険が混じった。駿河の不謹慎への怒りか、悍ましい想像への拒絶か。駿河の怯懦を戒めたようにも見えた。
「すまない……」
「……阿倍引田駿河様。貴方はどうしたいですか?」
唐突なツノトの質問に、駿河は窮した。
ツノトは射るような鋭い眼差しを駿河に向けている。駿河には覚えがあった。
宿奈麻呂や比羅夫と同じ、武人の目。見る者の器を見抜き、何か覚悟を覚えさせるような、毅い眼差し。その眼差しを何故、この女がするのだろう。
「貴方は、叡草様にも、蝦夷にも、倭にも、何一つ報いる事が出来ぬまま、この倉の中で我が身を憐れみながら飢えて死に、命を終えるおつもりですか?」
「……言ってくれる」
「貴方はそれでも武人の血を引く男ですか」
駿河は力無く笑った。女の真意は読めないが、どこまでも己の弱さを直視させてくれる女だ。餓死を試みていた自分を、さぞ滑稽で卑賤な男だと見下していたに違いない。
少し昔の自分なら、激昂して抗弁でもしていただろうに。
ここ暫くの間に、自分の器が如何に小さいか嫌と言うほど分かった。
今こそ、このか細い女の手によって、卑小な自尊心に止めを刺された気分だ。
然し、知らず知らず自分に課した期待や気負いの一切が消え去り、いっそ清々しい思いもした。
今、それでも我が胸に残ったものこそ、誠の自分なのだ。
やらねばならない事はある。交戦中かもしれない阿倍水軍の元へ向かい、突厥来襲の報告をするのだ。蝦夷と戦っている場合ではないと。
だが、それよりも尚、去来する想いがあった。
「……アシレイ……シイナ」
駿河は呟いた。人生で初めて「守りたい」と思った者達だった。
「アシレイ……戸賀の娘の名ですね。確か」
駿河は気付かなかったが、ツノトは小さく微笑んでいた。
俯いたまま、駿河は肩を怒らせ、拳を握り締めた。
「まだ逃げているというなら、何としても助け出さなくては……!」
避難民を誘導しているという天国も気掛かりだった。聡い奴だから易易と死ぬ訳は無いだろうが、人を斬れぬ状態では、敵と遭遇したとて満足に戦えまい。
「戸賀に……戸賀に行き、皆を、子供達を助けたい。助けなければならん」
一刻も早くアシレイとシイナを救い、そしてその後で、阿倍水軍に合流する。
駿河の脳裏に一瞬、叡草の事が浮かんだ。「全ては突厥の王統を自称する叡草の陰謀であり、突厥と結託して蝦夷達を虐殺し、蝦夷に成り代わり突厥の国を作る気なのでは?」と疑念が去来した。然し直ぐに思い直した。どう愚かしく想像しても、それを成立させる合理的な理屈を組み立てようがない。
「俺は戸賀に行かねばならん……。だがこんな」
「分かりました」
駿河の言葉を遮って、ツノトが答えた。
「分かりました、とは……」
「砦から戸賀までの道はご存知ですか?」
「あ、ああ。連行される時に通った道を覚えている……はずだ。それに星や太陽も見れる」
「宜しい。まずは食事をお召し上がり下さい。何事をするにもまずは食事からです。もう二度と、食事を断とうなどと考えるのはおやめ下さいね。さあ、食べながら聞いて下さい」
ツノトの有無を言わせぬ語気に圧され、駿河は箸を取って飯をがっついた。餓死するつもりで何も食わずにいただけに、文字通り死ぬほど腹が減っていた。
「食事を終えましたら、私と一緒にここを出て下さい。見張りはおりません。私一人でここに参りました」
「な、なんだと!」
「いいから食事を。口に物が入っている時は喋ってはいけません。下品です。既に砦の外に馬を付けています。それと、どれも夫のものですが、刀と弓矢、ほんの少しですが道中の食事も馬に括っておきました。夜を走る為の松明も」
ツノトが言葉を重ねる度に、駿河は飯を吹き出しそうになった。
「辺りは戸賀へ行く準備で騒然としています。その隙に砦を出るのです。砦の門扉は閉まっておりますが、塀を乗り越えられるよう梯子を掛けておきました。そこまで案内致します」
言って、ツノトはにっこりと微笑んだ。
「……美味しいですか? ツノト自慢の鹿肉の煮付け、残さずお食べ下さいね」
駿河が食事を終えるや、直ぐに二人は倉を出た。人の姿は無い。
「――何故こうまでしてくれるんだ。叡草の計らい……という訳も無いだろう」
駿河はツノトの後を小走りに付いて行きながら尋ねた。
「……私は夫を愛していました。夫との間に生まれた息子も、堪らなく愛していました」
ツノトは辺りを警戒しながら、物陰を選んで進んでいく。
「……夫は心優しい人でした。戦が嫌いで、詩や学問が好きな人でした。早くに死んでしまったのは、きっとここでの慣れない生活のせいでしょう。子供が好きで、いつもあの人の周りには里中の子供達がついてきていました。息子が生まれた時、夫の喜んだ顔は忘れられません。
夫を亡くした後、私は赤ん坊を連れ、遠く夫の生家を頼りました。もし何かあったら自分の故郷の家を訪ねよと。夫の遺言でした」
「ひょっとして、夫というのは倭人か」
ツノトは頷いた。
「あの時私は……逃げたのです。子供への愛のみを頼りに、遠く離れた地で暮らす事に耐えられなかったのです。
心の中で言い訳を重ね、これが息子の幸せだと、私は赤子を置いて一人、ここに帰ってきたのです。私は……夫との間に出来た何より愛しいはずの子供を……捨てたのです」
ツノトは激情を押さえ付けるように、喉の奥で絞り出すように語った。
「度々都へと行く叡草様から二度、その子の様子を聞かされました。
一度目は、無事に育っていると。二度目の時は、立派な青年になっていると。
私にも……夫にも似ていると……そう……言われました……。とても……嬉しかった……こんな私に、そう思う資格などありはしないのに……」
背中越しに、ツノトは涙を拭った。
「駿河様、笑って下さいませ。私は、その子の側にいて、その子の人生を守る責任を、夫の生き様や思い出をその子に話す義務を放棄した己を悔いています。毎日のように。寂しく思うのです。その子の側にいてやれぬ事を。
愛を知らぬ子になってはいないかと、今でも心配しているのです……なんて浅ましい、愚かな母がいたものでしょうか。こんな女は母ではありません」
駿河は口を噤んで何も言わなかった。
「さあ、あそこです。あそこに梯子を立て掛けておきました。あそこから外に出て、北へと向かって下さい。木に馬が括られているのが分かるはずです」
ツノトが塀の一画を指さした。昏がりの影、壁に掛かった梯子の輪郭を確認出来た。梯子といい、馬といい、全てツノトが一人で事前に用意したのだろうか。
「結局、こうまでしてくれる理由は言っていない」
駿河が言うと、ツノトは「ふふ」と小さく笑った。
駿河は梯子を登っていった。
「……もしかしたら避難民は、追手を逃れて森の中に隠れているのかもしれません。森には雨風を凌ぐ為の洞窟や小屋がそこら中にあるから、ひょっとしたらそういった所に……樹木に刀子で刻んだ目印があるはずです。ご存知ですか?」
「ああ。何度かの山狩りの時、何種類かの目印の事を聞いた」
駿河が梯子を登り切り、土塀の瓦屋根に足を掛けた。
その時だった。
「そこで何をしてやがる!」
荒い声が駿河達の耳を劈く。三人の男達がこちらに近付いてくる。しまった、と駿河は舌打ちした。
「おいおい、まさかこの非常時に逢引って事はねえよな?」
「ありゃ例の倭人じゃねえか? ほら、確か駿河ってぇ都のおえらいさんを倉に囚えてるって話の……!」
ツノトの事を知らぬ様子を見ると、どうやら渟代からやってきた者達らしい。
俄に男達は気色ばんだ。
「駿河様! 早く行きなさい! 私は大丈夫!」
塀の上でもどろく駿河に、ツノトは鋭い声を上げた。
ツノトは腰元の刀子を抜き放ち男達に向けた。
「この期に及んで、貴方はまだグズグズする気ですか! 行きなさい! 武人が一度決めた事でしょう! 夫の刀……貴方に託しましたからね!」
「!」
ツノトの言葉一閃、駿河は弾けるように塀の上から外へと飛び出した。その気配を肩越しに見送って、ツノトは安堵した。
いよいよ只事では無い事に気付いた男達は刀を抜き、梯子の前に立ちはだかるツノトへ突き付けた。
「どけ!」
男達の怒声にツノトは全く怯まない。
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人は必ず、己の魂がどれだけ学び成長し、生まれ持つ己の領分を超える事が出来たか、その答えに挑まなくてはならぬ瞬間が訪れる。ツノトの場合は、きっと今だった。
駿河がツノトの眼差しに感じた武人の瞳。それが、親が子へ己の命と魂を託す『承継の眼差し』である事に、その時の駿河はまだ気付く事が出来なかった。
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