76 / 83
第九章・日の本の国
9
エズギルは柔然可汗国の最後の可汗、郁久閭菴羅辰の子孫として生を受けた。
柔然可汗国とは、突厥の前にモンゴル高原を広く支配した遊牧国家だ。
史書に拠れば西暦五五四年、郁久閭菴羅辰は北斉と戦って敗北し、何処かへと逃げたと謂う。かくして柔然は滅び、郁久閭菴羅辰がその後どうなったかは史書には残されていない。
その時、菴羅辰は自らの子供一人のみを帯同し、靺鞨(当時は勿吉と表記されていた)の地へと逃げていた。ほどなくその地で菴羅辰は死に、その子はやがて奴隷身分として靺鞨族の一派に仕えた。そして妻を娶り、子を為した。
以降、約百年間に渡り、その子孫は靺鞨の地の最も貧しい辺陬に集落を作り、暮らした。集落の人々は皆、その由来を知らぬままユキウルと自らの氏を名乗り、集落の名前ともなった。
ユキウルの人々はその靺鞨族に隷属する事を代々の生業とした。
靺鞨の領域は広大で、その支派の氏族を合わせれば数百を超える。幾つかの言葉が似ているというだけで同族と見做されているに過ぎず、風俗も神も違う集団が雑多に混在する地域でしかない。菴羅辰とその子が巡り合った靺鞨族のその氏族は、取り分け残忍で野卑で醜悪だった。その氏族をジュケマングと言った。
故に、ユキウルの人々は皆、劣悪な環境に置かれていた。
ジュケマングの酋長の下で雑務に従事する者、性搾取される者は良い方で、祭りで生贄として饗される他、殉葬にも用いられた。飢餓の時には、食肉にも用いられた。
他族との接触をすれば、或いは勝手に婚姻し子を為したら、即処刑された。
度々ジュケマングから使いが来ては、ユキウルの人々から適当に選び、問答無用で連れ去っていく。そして連れ去られた者達は集落に二度と帰る事は無かった。
靺鞨族の部族間の闘争の前後では、戦いに駆り出されるジュケマングの戦士達が、女を犯しに集落にやって来るのが慣例だった。成人した時も、暇を持て余した時も、事ある毎に男達が集落にやって来て女達を蹂躙していった。偶に男も求められた。
その時の行為によって生まれる子をユキウルの子として皆で育てる、それが集落の人口を増やす手段だった。生まれる子がジュケマングの血を半分宿していても、彼らが奴隷以外になる事は許されない。奴婢の血を引けば、それは奴婢なのだった。
集落には柵が設けられ、勝手にそこから出る事は許されなかった。生きる糧を得る為の狩猟地も指定され、ジュケマングの酋長から許可された者達だけがそこへ行く。
ユキウルの人々は、ただの人の形を模っているに過ぎぬ、家畜にすら劣る何かだった。
エズギルはその集落で産まれた。父はジュケマングの何者かとしか分からない。
集落において、エズギルの境遇は格別に幸運と言えた。虐待もなく五体満足で青年期までを過ごす事が出来たのはまず幸運だったし、。飢えと隣り合わせの極貧の集落にあって、彼は集落の誰より――当時の人類の誰より巨大な体躯にも恵まれた。何より、感情や理性の何かしらを欠損させずに生きてはいけなかった集落の人々と違い、彼は比較的、常人然とした精神を維持したまま生きる事が出来た。
その全ては彼の母のおかげだった。
エズギルの母は美しく、弁も立った。当時のジュケマングの酋長に気に入られ、彼が関係を深めたい縁故者や同族他派の客人への接待に重用された。その為に、他のユキウルの人々と比べて厚遇され、息子であるエズギルも不可侵だった。
この時の酋長は、ユキウル百年の弾圧と虐殺の歴史の中で、比較的穏健だった。この男がジュケマングの長である間、ユキウルの人々は最低限の略取だけで済んだ。
然し、エズギルの母が病死し、この酋長もまた死んだ時、エズギルを取り巻く環境の全ては変わった。
エズギルには二人の姉妹がいた。勿論、父は違うだろう。
彼の妹は、新しい酋長の慰みものとして連れ去られ、彼の姉は、死んだ酋長の殉葬に使われる事になり、生き埋めにされて殺された。
姉妹は母に似て美しく、エズギルと同様に心根が優しかった。
二人の愛する家族を失った時、エズギルは平気だった。
この世界とは元からそういうものだと、生まれた時から知っていたからだ。
やがて、エズギルに転機が訪れた。
集落ではその人口を減らさぬ為、一時的に夫婦となり子を為すことが許されている。
エズギルは二五歳の時、幼馴染と結婚し子を為した。僅かな間、エズギルは人と同様の幸福を味わった。
妻は程なくしてジュケマングの何者かの物となった。我が家に堂々と入り込んだ男達が、妻をエズギルの目の前で犯し、そして連行していった。
だが、エズギルはこの時も平気だった。
この世界とは元からそういうものだと、生まれた時から知っていたからだ。
それから暫くの事だった。
ある日、一人息子が何者かに矢を何本も射られ、殺されていた。エズギルが見つけた時、裸身でバラバラに切断され、鳥に食われていた。
三歳だった。
狩りの練習にでも使われたか、性倒錯の慰みものか、あるいはその両方か。集落から少し離れた野に打ち捨てられていた。
息子の亡骸の顔には涙の跡があった。涙の跡に泥がこびり付いて、すぐに分かった。
嬲られ、苦しみながら死んだのだろう。
集落の人々はその悲鳴を聞いただろうが、何をする事も無かったらしい。ジュケマングの意に反する真似をすれば自分が殺される。仕方ない事だ。
息子は男の子に生まれたというのに、花が好きな子だった。
この子に乞われ、エズギルが花を摘みに山へと入っている間、ジュケマングの男達が数名、集落にやってきていた。その内の何者かが、この子を殺したのだ。
掠り傷一つで大泣きする子が、どれだけ苦しんだ事だろう。
ジュケマングの間で、無意味に集落の者達を殺さぬように、という決め事があった為に、ここまで残忍な出来事は滅多に無かったが、だからといってどうという事は無かった。
誰が殺したか調べは無く、従って咎めも無かった。
ジュケマングの男達は、エズギルが抱えた幼子の亡骸をただ無感情に一瞥し、去った。
エズギルはこの世界とは元からそういうものだと、生まれた時から知っている。
だからこの時も、エズギルは涙を流しもしなかったし、何の表情さえ顔に浮かべる事は無かった。
男達が去った後、エズギルはまるで普段通りの態度で、血に塗れた亡骸を抱え自宅へと連れ帰った。
そして愛おしげに寝床に置いて、冷えぬようにと毛皮を掛けてやった。
その我が子をいつも通りに寝かしつけた後――集落を去るジュケマングの男達へと、エズギルは向かっていった。
男達が「何事か」とエズギルを恫喝する。エズギルが狩りでもない時に集落の柵を勝手に出た為だ。エズギルは何も答えはしなかった。というより、ただ呆然としていて、男達を認識していないようでもあった。
男達は道中で遭遇する獣を払う為、刀子や弓矢を持っている。男達は得物に手を伸ばす。掟を破れば、その躾として死を与えねばならない。
一方エズギルは全くの無手だ。
エズギルはおもむろに男達へと近づき、手近な者の腕を引き千切り、顎を引き千切った。
一瞬の事だった。
何が起こったのか十分に理解出来ぬまま、別の男が恐慌に駆られ刀子をエズギルに突き刺そうとする。エズギルはその手を無造作に握り潰して刀子を奪う。
一人の男が弓を番え、エズギルに矢を放った。放たれた矢を、エズギルは漫然とした仕草で掴んだ。衰えた秋の羽虫を手で握るが如くだった。
それは異常な出来事だった。人類が発揮し得る筋力、反応速度を遥かに超えている。
男達は眼前で起こった出来事に震撼した。如何にエズギルが体格に恵まれているとはいえ、こんな化け物じみた力を持つ者ではなかったはずだと。悪夢に違いないと男達は狂乱した。
男達は抵抗を試みたが、一切は無駄だった。エズギルは枯れ木の細枝を払うかの如く、男達をバラバラにしていった。
その最中、エズギルは歌を口ずさんだ。そういえば、息子を寝かし付ける為、いつも歌を歌っていたのに、今日に限って忘れていたからだ。
息子に子守唄を歌わねばならない。妻だったか、母だったか、よく思い出せないがどちらかが歌っていた、恐らく創作の歌。愛する子供への歌。それをエズギルも歌った。でも息子は寝付きが悪く、歌った所で少しも眠ってくれない。
エズギルは男達の腸を抉り出しながら微笑んだ。
息子が眠い目を必死に開けて自分を見ている。
なんていじらしく、可愛らしいのだろう。
――ああ、俺はこの子の為なら何だって出来る。どんな犠牲だって笑って払う。この子の為に俺はきっと生まれたんだ。
エズギルは、いつもこの子の寝顔を見る度にそう思う。普段笑わぬこの男が唯一笑う時が、その時なのだ。
腸を引き出し続けると、喉元の食道まで引っ張られたので、エズギルはそれを引き千切って捨てた。
この時エズギルは己の身に何が起こったのか、今何をしてしまっているのか、自身でも気付いていなかった。
白昼夢の如き、浮遊した現実感の中にエズギルはいた。
エズギルは自分の血塗れの手を見た。
いつの間にか指が数本曲がっている。自らの怪力に身体が保たなかったのだ。エズギルは指を握り、元に戻した。何故か痛みが一切生じない。
気付けば、話し声が聞こえる。数里離れたジュケマングの里からだ。何故か耳元で囁くかの如く、鮮明に聞こえる。
壮絶な精神的苦痛が、人間が本来出してはならぬ筋力、感覚の限界の軛を壊してしまったのだった。
その力は、狂人だけが持つ破壊の性だった。
エズギルはそのままジュケマングの里まで行き、そこで動く者全てを皆殺しにした。
そして再び自分の集落に戻ると、集落の人々もまた、皆殺しにした。
集落のある男の肋を掴み、めくり上げようとした時だった。その男は「お前の息子を殺して悪かった」と命乞いをした。エズギルはその男が何を言っているか理解出来ないまま、肋をこじ開け、肺を引きずり出して殺した。
「最初からこうすれば良かった」
目に映る全ての人間を殺して回った後、エズギルは一言だけ呟いた。
満ち足りた、穏やかな表情だった。
やがて、エズギルはジュケマングの里や集落の、主を失った全ての家畜を引き連れ、大陸東辺の地を彷徨い続けた。
その果てに、東突厥の領土の東端に達した。
そこで東突厥の有力者――タスベグに出会い、家畜を上納すると同時に臣下となった。
「――名前は何と言ったか」
「……ユキウル・エズギル」
「ユキウル? 柔然可汗の姓だ。お前はその眷属か? まさかな……。そういえば、最後の柔然可汗は死を恐れ、何処かの地へ遁走したと聞いたが……」
初めてエズギルと対面した時、タスベグはエズギルの姓の由来を尋ねた。
然し、集落で獣同然に生かされていただけのエズギルに、その答えは無い。他の集落の者達もまたそうだろう。それまでエズギルは、ユキウルとは奴隷や家畜を表す称だと思っていた。
答えられぬエズギルに、タスベグは「ふ」と笑い、
「エズギルよ。お前は今日からアシナ・エズギルを名乗れ。ユキウルの姓は伏せておけよ」
以来、エズギルはタスベグの下で唐の学問や突厥の技を習った。
タスベクは何故か――素性の知れぬ寡黙な、言葉も知恵も回らぬように見えるエズギルを贔屓した。その理由をタスベグが誰かに語る事は無かった。
エズギルがタスベグに劣らぬ大男である事も、突厥族の長を前に何らの気後れも無い胆にも興をさかした事だろう。突厥族にとって最も価値がある事とは、強い事だからだ。
或いは――ユキウル氏が築いた柔然可汗国は、かつて突厥族を奴隷として使役していた。後に柔然に反旗を翻した突厥族は、滅びた柔然に変わり砂漠と草原の新たな主となった。歴史の皮肉が齎した産物かもしれぬエズギルを、兄の勢威の下に甘んじ続ける自らに重ね合わせ、若干の教訓と戒めとして、腹に抱えて置きたかったのかもしれない。
その後、エズギルは武勲を上げ続け、タスベグの重臣となっていった。
残忍さと武を何より尊ぶ突厥内でも、エズギルは異常視され恐怖された。然し、貪欲な突厥の誰とも異なり、野心の影すら見せぬエズギルの恬淡さに、タスベグやその兄、突厥の大可汗ベクチュルさえも信頼を寄せていった。エズギルが正気を失っている程度の事は、彼らにとってはどうでも良い事だった。
エズギルは突厥最強の武人であり、狂人だった。
知らぬ間に自らの指が曲がる事など日常で、軽く身体を動かすだけで過伸展を引き起こす。その為に、エズギルは常に堅い革と鎧とで身体を縛り、固定した。
耳も鼻も目も異様に利く。夜目が利き過ぎ、逆に昼が眩し過ぎる。鼻が利き過ぎ、耳に雑音が入り過ぎ、全てが煩い。
日を遮り、鼻と耳を塞ぐ為に常に仮面を付け、兜を被った。
甲冑が光を反射して目に障らぬよう、動く度に甲冑が擦れて不快な音が出ぬよう、全身鎧には厚く黒漆が塗られた。
どれだけ走っても疲れを感じない。心臓の音だけが早くなるが、まるで他人事のように平気だった。然し、研ぎ澄まされた五感とは裏腹に、エズギルの精神は凍り付いたままだった。
この、まるで意思というものを見せぬ黒甲冑の装者は、タスベグの望みを叶える為にのみ働く、独りでに動く鎧の精のようでもあった。
味を感じない。痛みも感じない。夢を見ない。
否。夢は見た。毎夜同じ夢をエズギルは見た。
――いつの間にか、血溜まりの中にいる。
血肉の滴りも殺戮も、起きている時は何も感じぬか、喜びさえ覚えるはずが、夢の中ではいつも恐怖に竦み上がっている。
自分の手足に黒い血が蔦の如く絡み付いていく。そして、血溜まりの奥へと引きずり込もうとする。血溜まりは底無しの沼だったのだ。
腐臭が立ち込める臓腑の沼に、エズギルの四肢が沈んでいく。悍ましい屍肉と憎悪の坑に、生きたまま飲み込まれていく。
然し、エズギルはいつも、それを穏やかな気持ちで受け入れる。母に抱かれ眠るような心地になって目を閉じる。その感覚が自身のどういった情感によって齎されるのか、エズギルには判断しかねた。
この毎夜見る夢は、エズギルの中に僅かに残る正気を蝕み続けた。やがてどちらが現実か、そもそもそれが夢なのかも、エズギルには定かではなくなっていった。
「無数の氷の棘で臓物を抉り出され、凍てついた血が僅かにこびりつくのみの空虚な肉の胴。そこに何か、人の魂とは別のものが宿っている」
突厥の巫士はエズギルをそう評し、タスベグに「エズギルは災いの元だ」と注進した事がある。
「まるで呪物そのものの如く禍々しく、憐れ」
巫士は最後にそう告げ、その言葉が終わらぬ内に、タスベグに首を撥ねられた。
柔然可汗国とは、突厥の前にモンゴル高原を広く支配した遊牧国家だ。
史書に拠れば西暦五五四年、郁久閭菴羅辰は北斉と戦って敗北し、何処かへと逃げたと謂う。かくして柔然は滅び、郁久閭菴羅辰がその後どうなったかは史書には残されていない。
その時、菴羅辰は自らの子供一人のみを帯同し、靺鞨(当時は勿吉と表記されていた)の地へと逃げていた。ほどなくその地で菴羅辰は死に、その子はやがて奴隷身分として靺鞨族の一派に仕えた。そして妻を娶り、子を為した。
以降、約百年間に渡り、その子孫は靺鞨の地の最も貧しい辺陬に集落を作り、暮らした。集落の人々は皆、その由来を知らぬままユキウルと自らの氏を名乗り、集落の名前ともなった。
ユキウルの人々はその靺鞨族に隷属する事を代々の生業とした。
靺鞨の領域は広大で、その支派の氏族を合わせれば数百を超える。幾つかの言葉が似ているというだけで同族と見做されているに過ぎず、風俗も神も違う集団が雑多に混在する地域でしかない。菴羅辰とその子が巡り合った靺鞨族のその氏族は、取り分け残忍で野卑で醜悪だった。その氏族をジュケマングと言った。
故に、ユキウルの人々は皆、劣悪な環境に置かれていた。
ジュケマングの酋長の下で雑務に従事する者、性搾取される者は良い方で、祭りで生贄として饗される他、殉葬にも用いられた。飢餓の時には、食肉にも用いられた。
他族との接触をすれば、或いは勝手に婚姻し子を為したら、即処刑された。
度々ジュケマングから使いが来ては、ユキウルの人々から適当に選び、問答無用で連れ去っていく。そして連れ去られた者達は集落に二度と帰る事は無かった。
靺鞨族の部族間の闘争の前後では、戦いに駆り出されるジュケマングの戦士達が、女を犯しに集落にやって来るのが慣例だった。成人した時も、暇を持て余した時も、事ある毎に男達が集落にやって来て女達を蹂躙していった。偶に男も求められた。
その時の行為によって生まれる子をユキウルの子として皆で育てる、それが集落の人口を増やす手段だった。生まれる子がジュケマングの血を半分宿していても、彼らが奴隷以外になる事は許されない。奴婢の血を引けば、それは奴婢なのだった。
集落には柵が設けられ、勝手にそこから出る事は許されなかった。生きる糧を得る為の狩猟地も指定され、ジュケマングの酋長から許可された者達だけがそこへ行く。
ユキウルの人々は、ただの人の形を模っているに過ぎぬ、家畜にすら劣る何かだった。
エズギルはその集落で産まれた。父はジュケマングの何者かとしか分からない。
集落において、エズギルの境遇は格別に幸運と言えた。虐待もなく五体満足で青年期までを過ごす事が出来たのはまず幸運だったし、。飢えと隣り合わせの極貧の集落にあって、彼は集落の誰より――当時の人類の誰より巨大な体躯にも恵まれた。何より、感情や理性の何かしらを欠損させずに生きてはいけなかった集落の人々と違い、彼は比較的、常人然とした精神を維持したまま生きる事が出来た。
その全ては彼の母のおかげだった。
エズギルの母は美しく、弁も立った。当時のジュケマングの酋長に気に入られ、彼が関係を深めたい縁故者や同族他派の客人への接待に重用された。その為に、他のユキウルの人々と比べて厚遇され、息子であるエズギルも不可侵だった。
この時の酋長は、ユキウル百年の弾圧と虐殺の歴史の中で、比較的穏健だった。この男がジュケマングの長である間、ユキウルの人々は最低限の略取だけで済んだ。
然し、エズギルの母が病死し、この酋長もまた死んだ時、エズギルを取り巻く環境の全ては変わった。
エズギルには二人の姉妹がいた。勿論、父は違うだろう。
彼の妹は、新しい酋長の慰みものとして連れ去られ、彼の姉は、死んだ酋長の殉葬に使われる事になり、生き埋めにされて殺された。
姉妹は母に似て美しく、エズギルと同様に心根が優しかった。
二人の愛する家族を失った時、エズギルは平気だった。
この世界とは元からそういうものだと、生まれた時から知っていたからだ。
やがて、エズギルに転機が訪れた。
集落ではその人口を減らさぬ為、一時的に夫婦となり子を為すことが許されている。
エズギルは二五歳の時、幼馴染と結婚し子を為した。僅かな間、エズギルは人と同様の幸福を味わった。
妻は程なくしてジュケマングの何者かの物となった。我が家に堂々と入り込んだ男達が、妻をエズギルの目の前で犯し、そして連行していった。
だが、エズギルはこの時も平気だった。
この世界とは元からそういうものだと、生まれた時から知っていたからだ。
それから暫くの事だった。
ある日、一人息子が何者かに矢を何本も射られ、殺されていた。エズギルが見つけた時、裸身でバラバラに切断され、鳥に食われていた。
三歳だった。
狩りの練習にでも使われたか、性倒錯の慰みものか、あるいはその両方か。集落から少し離れた野に打ち捨てられていた。
息子の亡骸の顔には涙の跡があった。涙の跡に泥がこびり付いて、すぐに分かった。
嬲られ、苦しみながら死んだのだろう。
集落の人々はその悲鳴を聞いただろうが、何をする事も無かったらしい。ジュケマングの意に反する真似をすれば自分が殺される。仕方ない事だ。
息子は男の子に生まれたというのに、花が好きな子だった。
この子に乞われ、エズギルが花を摘みに山へと入っている間、ジュケマングの男達が数名、集落にやってきていた。その内の何者かが、この子を殺したのだ。
掠り傷一つで大泣きする子が、どれだけ苦しんだ事だろう。
ジュケマングの間で、無意味に集落の者達を殺さぬように、という決め事があった為に、ここまで残忍な出来事は滅多に無かったが、だからといってどうという事は無かった。
誰が殺したか調べは無く、従って咎めも無かった。
ジュケマングの男達は、エズギルが抱えた幼子の亡骸をただ無感情に一瞥し、去った。
エズギルはこの世界とは元からそういうものだと、生まれた時から知っている。
だからこの時も、エズギルは涙を流しもしなかったし、何の表情さえ顔に浮かべる事は無かった。
男達が去った後、エズギルはまるで普段通りの態度で、血に塗れた亡骸を抱え自宅へと連れ帰った。
そして愛おしげに寝床に置いて、冷えぬようにと毛皮を掛けてやった。
その我が子をいつも通りに寝かしつけた後――集落を去るジュケマングの男達へと、エズギルは向かっていった。
男達が「何事か」とエズギルを恫喝する。エズギルが狩りでもない時に集落の柵を勝手に出た為だ。エズギルは何も答えはしなかった。というより、ただ呆然としていて、男達を認識していないようでもあった。
男達は道中で遭遇する獣を払う為、刀子や弓矢を持っている。男達は得物に手を伸ばす。掟を破れば、その躾として死を与えねばならない。
一方エズギルは全くの無手だ。
エズギルはおもむろに男達へと近づき、手近な者の腕を引き千切り、顎を引き千切った。
一瞬の事だった。
何が起こったのか十分に理解出来ぬまま、別の男が恐慌に駆られ刀子をエズギルに突き刺そうとする。エズギルはその手を無造作に握り潰して刀子を奪う。
一人の男が弓を番え、エズギルに矢を放った。放たれた矢を、エズギルは漫然とした仕草で掴んだ。衰えた秋の羽虫を手で握るが如くだった。
それは異常な出来事だった。人類が発揮し得る筋力、反応速度を遥かに超えている。
男達は眼前で起こった出来事に震撼した。如何にエズギルが体格に恵まれているとはいえ、こんな化け物じみた力を持つ者ではなかったはずだと。悪夢に違いないと男達は狂乱した。
男達は抵抗を試みたが、一切は無駄だった。エズギルは枯れ木の細枝を払うかの如く、男達をバラバラにしていった。
その最中、エズギルは歌を口ずさんだ。そういえば、息子を寝かし付ける為、いつも歌を歌っていたのに、今日に限って忘れていたからだ。
息子に子守唄を歌わねばならない。妻だったか、母だったか、よく思い出せないがどちらかが歌っていた、恐らく創作の歌。愛する子供への歌。それをエズギルも歌った。でも息子は寝付きが悪く、歌った所で少しも眠ってくれない。
エズギルは男達の腸を抉り出しながら微笑んだ。
息子が眠い目を必死に開けて自分を見ている。
なんていじらしく、可愛らしいのだろう。
――ああ、俺はこの子の為なら何だって出来る。どんな犠牲だって笑って払う。この子の為に俺はきっと生まれたんだ。
エズギルは、いつもこの子の寝顔を見る度にそう思う。普段笑わぬこの男が唯一笑う時が、その時なのだ。
腸を引き出し続けると、喉元の食道まで引っ張られたので、エズギルはそれを引き千切って捨てた。
この時エズギルは己の身に何が起こったのか、今何をしてしまっているのか、自身でも気付いていなかった。
白昼夢の如き、浮遊した現実感の中にエズギルはいた。
エズギルは自分の血塗れの手を見た。
いつの間にか指が数本曲がっている。自らの怪力に身体が保たなかったのだ。エズギルは指を握り、元に戻した。何故か痛みが一切生じない。
気付けば、話し声が聞こえる。数里離れたジュケマングの里からだ。何故か耳元で囁くかの如く、鮮明に聞こえる。
壮絶な精神的苦痛が、人間が本来出してはならぬ筋力、感覚の限界の軛を壊してしまったのだった。
その力は、狂人だけが持つ破壊の性だった。
エズギルはそのままジュケマングの里まで行き、そこで動く者全てを皆殺しにした。
そして再び自分の集落に戻ると、集落の人々もまた、皆殺しにした。
集落のある男の肋を掴み、めくり上げようとした時だった。その男は「お前の息子を殺して悪かった」と命乞いをした。エズギルはその男が何を言っているか理解出来ないまま、肋をこじ開け、肺を引きずり出して殺した。
「最初からこうすれば良かった」
目に映る全ての人間を殺して回った後、エズギルは一言だけ呟いた。
満ち足りた、穏やかな表情だった。
やがて、エズギルはジュケマングの里や集落の、主を失った全ての家畜を引き連れ、大陸東辺の地を彷徨い続けた。
その果てに、東突厥の領土の東端に達した。
そこで東突厥の有力者――タスベグに出会い、家畜を上納すると同時に臣下となった。
「――名前は何と言ったか」
「……ユキウル・エズギル」
「ユキウル? 柔然可汗の姓だ。お前はその眷属か? まさかな……。そういえば、最後の柔然可汗は死を恐れ、何処かの地へ遁走したと聞いたが……」
初めてエズギルと対面した時、タスベグはエズギルの姓の由来を尋ねた。
然し、集落で獣同然に生かされていただけのエズギルに、その答えは無い。他の集落の者達もまたそうだろう。それまでエズギルは、ユキウルとは奴隷や家畜を表す称だと思っていた。
答えられぬエズギルに、タスベグは「ふ」と笑い、
「エズギルよ。お前は今日からアシナ・エズギルを名乗れ。ユキウルの姓は伏せておけよ」
以来、エズギルはタスベグの下で唐の学問や突厥の技を習った。
タスベクは何故か――素性の知れぬ寡黙な、言葉も知恵も回らぬように見えるエズギルを贔屓した。その理由をタスベグが誰かに語る事は無かった。
エズギルがタスベグに劣らぬ大男である事も、突厥族の長を前に何らの気後れも無い胆にも興をさかした事だろう。突厥族にとって最も価値がある事とは、強い事だからだ。
或いは――ユキウル氏が築いた柔然可汗国は、かつて突厥族を奴隷として使役していた。後に柔然に反旗を翻した突厥族は、滅びた柔然に変わり砂漠と草原の新たな主となった。歴史の皮肉が齎した産物かもしれぬエズギルを、兄の勢威の下に甘んじ続ける自らに重ね合わせ、若干の教訓と戒めとして、腹に抱えて置きたかったのかもしれない。
その後、エズギルは武勲を上げ続け、タスベグの重臣となっていった。
残忍さと武を何より尊ぶ突厥内でも、エズギルは異常視され恐怖された。然し、貪欲な突厥の誰とも異なり、野心の影すら見せぬエズギルの恬淡さに、タスベグやその兄、突厥の大可汗ベクチュルさえも信頼を寄せていった。エズギルが正気を失っている程度の事は、彼らにとってはどうでも良い事だった。
エズギルは突厥最強の武人であり、狂人だった。
知らぬ間に自らの指が曲がる事など日常で、軽く身体を動かすだけで過伸展を引き起こす。その為に、エズギルは常に堅い革と鎧とで身体を縛り、固定した。
耳も鼻も目も異様に利く。夜目が利き過ぎ、逆に昼が眩し過ぎる。鼻が利き過ぎ、耳に雑音が入り過ぎ、全てが煩い。
日を遮り、鼻と耳を塞ぐ為に常に仮面を付け、兜を被った。
甲冑が光を反射して目に障らぬよう、動く度に甲冑が擦れて不快な音が出ぬよう、全身鎧には厚く黒漆が塗られた。
どれだけ走っても疲れを感じない。心臓の音だけが早くなるが、まるで他人事のように平気だった。然し、研ぎ澄まされた五感とは裏腹に、エズギルの精神は凍り付いたままだった。
この、まるで意思というものを見せぬ黒甲冑の装者は、タスベグの望みを叶える為にのみ働く、独りでに動く鎧の精のようでもあった。
味を感じない。痛みも感じない。夢を見ない。
否。夢は見た。毎夜同じ夢をエズギルは見た。
――いつの間にか、血溜まりの中にいる。
血肉の滴りも殺戮も、起きている時は何も感じぬか、喜びさえ覚えるはずが、夢の中ではいつも恐怖に竦み上がっている。
自分の手足に黒い血が蔦の如く絡み付いていく。そして、血溜まりの奥へと引きずり込もうとする。血溜まりは底無しの沼だったのだ。
腐臭が立ち込める臓腑の沼に、エズギルの四肢が沈んでいく。悍ましい屍肉と憎悪の坑に、生きたまま飲み込まれていく。
然し、エズギルはいつも、それを穏やかな気持ちで受け入れる。母に抱かれ眠るような心地になって目を閉じる。その感覚が自身のどういった情感によって齎されるのか、エズギルには判断しかねた。
この毎夜見る夢は、エズギルの中に僅かに残る正気を蝕み続けた。やがてどちらが現実か、そもそもそれが夢なのかも、エズギルには定かではなくなっていった。
「無数の氷の棘で臓物を抉り出され、凍てついた血が僅かにこびりつくのみの空虚な肉の胴。そこに何か、人の魂とは別のものが宿っている」
突厥の巫士はエズギルをそう評し、タスベグに「エズギルは災いの元だ」と注進した事がある。
「まるで呪物そのものの如く禍々しく、憐れ」
巫士は最後にそう告げ、その言葉が終わらぬ内に、タスベグに首を撥ねられた。
あなたにおすすめの小説
【アラウコの叫び 】第2巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
不屈の葵
ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む!
これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。
幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。
本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。
家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。
今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。
家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。
笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。
戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。
愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目!
歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』
ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!
【アラウコの叫び 】第3巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎週月曜07:20投稿】
3巻からは戦争編になります。
戦物語に関心のある方は、ここから読み始めるのも良いかもしれません。
※1、2巻は序章的な物語、伝承、風土や生活等事を扱っています。
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
楽将伝
九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語
織田信長の親衛隊は
気楽な稼業と
きたもんだ(嘘)
戦国史上、最もブラックな職場
「織田信長の親衛隊」
そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた
金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか)
天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。