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紅葉色
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目をさました時、世界は透き通るような夕焼け色に包まれていた。
まだ少し冷たく感じる春の風が、夕日に染まった大きな桜の木を揺らしていく。紅葉みたいな色をした花弁が散った。
頭の中がもやがかかったように揺らめいている。何故、僕はこの小高い丘の上で眠っていたのか。どうやってここへきたのか。思い出すことはできなかった。
目に映る見慣れた景色は、おそらく僕の町のそれだった。この丘にある大きな桜の木も、知っている。思い出のつまった、大切なあの木に間違いなかった。
それなのに、夕日に照らされた町並みがやけに綺麗で、本当にここはいつもの町なのか怪しくなる。まるで現実と少しずれた世界に紛れ込んでしまったような気さえした。
僕はそのままその場で、長い間その夕焼けに染まる町を見つめていたように思う。時計を持ち合わせていなかったから正確な時間はわからないけれど。
体感で一時間ほど、そんな時間を過ごした。
この後、どこへ行くべきかは不思議と把握していた。この丘に居た理由も、来た道筋もわからないのに。そう思うと奇妙な話だ、不可解だ。
けれど僕の脳裏には、愛しい彼女の笑顔が浮かぶ。すると自然に僕の足は、僕も知らない目的地を目指して、坂を下っていくのだ。
丘からそのアパートまで、さほど離れていなかった。少しだけ急に感じる坂を下ると、気が付かないうちにそれは目の前に在った。
アパートに着くと、階段を使って僕の部屋のある五階へ向かった。
未だ覚醒しない頭のまま、五階まで階段を登り終えた頃には、少し息が荒くなっていた。
五○一、五○二という識別番号を割り振られた部屋を素通りし、奥から二番目にあたる部屋へ進む。
五○三の部屋番号の下。とってつけたような名札がある。そこに書かれた「笹木」という僕の苗字は中学生の丁寧なノートのように味気ない字体で印刷されたものだ。けれどその表札の縁には、パステルピンクを基調とした可愛らしいデコレーションが施されている。手作り感満載だった。
一見バランスの悪い表札だが、その二つのミスマッチ加減が、縁を飾った誰かを思い起こさせるようでとても愛おしく感じるのだ。
ぼんやり表札を見ていると、奥の部屋のドアが開いた。
「あ、天使くんだ」
聞き慣れた声を聞いて、ようやく頭が澄んだ気がする。
「その呼び方はやめてって、いつも言ってるだろ?」
声の方に振り向きながら、毎度のように言い聞かせる。
振り向いた先には声の主。五〇五号室に住む、絵依里がいた。長い黒髪を後頭部で縛って、活発な女の子の象徴みたいな服装に身を包んでいる。
彼女は僕を「天使くん」と呼んだが、そのあだ名は好きではなかった。僕に天使と呼ばれるような要素がない事を差し置いても、彼女にそう呼ばれること自体が嫌だった。何故だろう。
「えへへ、ごめーんねっ」
楽しそうに笑う絵依里には、反省している様子は見られない。
「ちゃんと反省してよ」
笑う彼女にこう言うことまでがいつもの流れだった。お約束というやつだ。
一連の流れを終えると、絵依里の表情が変わって彼女の落ち着いた声が僕の名を紡いだ。
「さてと、おかえり。咲夜」
ふざけあう時の笑顔とは違う、優しさに儚さが包容された一瞬の表情。
笑うというより微笑む彼女。少しだけ悲しそうだ。
僕の心を掻き乱して、締め付けて離さない。そんな魅惑的な瞬間。僕はそんな絵依里を見ると何故か、泣き出してしまいそうにもなった。
「咲夜? どうかしたの?」
「あ、何でもないよ。
んん、こんな廊下で話していても仕方ないだろ。というか、何か用事があって出てきたんじゃなかったの?」
「そろそろ君が帰ってくるかと思って。
そしたらやっばり咲夜がいたから、びったりだったね!」
私すごいかもー、とはしゃぐ絵依里はもう、純粋に楽しそうな笑顔だった。
その切り替えはあっという間だった。あのどこか寂しそうな綺麗な笑顔は、見間違いだったんだろうかという思いさえうまれる。そんなわけないのだろうけれど。
「あー、じゃあ、あがっていく?」
「うん! お邪魔しまーす!」
僕は自宅のドアを開け、絵依里を招き入れた。
「相変わらず片付いた部屋だね」
僕より先に室内へ入った絵依里は、部屋の中央に置いてあるローテーブルの前にそっと腰をおろした。テーブルは窓から差し込む夕日に染まっていた。
「絵依里の部屋だって十分片付いていると思うけどな」
「確かに散らかってはないと思ってるけど……。あれはものが少ないだけだからなぁ」
「まぁ確かにね」
絵依里の部屋に物が少ないのは確かだ。もちろん生活に必要な物まで一切ないとは言わないが、それでも、僕の部屋にある量の半分あるかないかというところだろう。…………別に、僕の持ち物がすごく多いというわけではない。絵依里の所有物が少なめだという話だ。
なんでこの部屋は物が少ないの? と、彼女の部屋を訪れた時、聞いたことがある。
その方が夕日が綺麗に部屋を照らしてくれるのだと、答えが返ってきて、唖然とした。彼女は一体どこまで夕日に心酔しているんだと。
絵依里は、昔から夕焼け空が好きだった。具体的にいつぐらいからかは知らないけれど、少なくとも僕が初めて彼女に出会った頃には、彼女はその赤い風景が気に入っていた。そしてそれはエスカレートし、中学三年に上がったときには、今のように惚れ込んでいた。
これは、あくまで僕から見た印象だから、実際どの時期からどのくらいハマっていたのかはわからない。だからもしかすると最初から、今僕が思うのと変わらない愛があったのかもしれない。
僕と絵依里は、夕日に色付けされた一室で、ずいぶん長い間話し込んだ。
昨日見た夢の話とか。近々どこか遊びに行こうか、行き先は何処にしようだとか。明日は雨が降るらしいとか。そうかと思えば、仮に不思議な力が使えたとしたら何がしたいかとか。自分が世界をつくるとしたら、どんな世界をつくりたいか、とか。
その内容はいつものようにまとまりがなく、大半が大きな意味を持たない。けれど、話の始めが何だったのかわからなくなるほど、思い出すのが少し楽しくなるほどまで話が膨らんだ。
絵依里がこの間テレビで見たという、マラソンランナーのドキュメンタリーについての話が途切れたところで、僕らは話を止めた。
「お腹減った」
絵依里が言うので時計を見ると、もうすぐ午後6時になろうかという時間だった。
「どうする? ご飯食べていく?」
「ううん、今日は帰ろうかな。家でお母さんたち待ってるし」
今日はお昼からカレーつくってくれてたから楽しみにしてるんだ。と、顎を引いて嬉しそうな笑顔を見せた絵依里を見送るため、立ち上がる
絵依里をゆっくりと追いかけるように照らす夕日を見ながら、僕も玄関へ向かった。
ドアノブに手をかけた絵依里が、ふわっと振り返って、またあの顔で笑う。
「じゃあ、また明日ね!」
「うん。また明日」
僕からのまた明日を確認した絵依里は満足そうにドアをくぐった。
————影が落ちていくのを見ていた。
止めなくちゃ、助けなくちゃ。
嫌だ。認めたくない。僕らは、いや、僕は良い。あの子は、このままなんて、——
まだ少し冷たく感じる春の風が、夕日に染まった大きな桜の木を揺らしていく。紅葉みたいな色をした花弁が散った。
頭の中がもやがかかったように揺らめいている。何故、僕はこの小高い丘の上で眠っていたのか。どうやってここへきたのか。思い出すことはできなかった。
目に映る見慣れた景色は、おそらく僕の町のそれだった。この丘にある大きな桜の木も、知っている。思い出のつまった、大切なあの木に間違いなかった。
それなのに、夕日に照らされた町並みがやけに綺麗で、本当にここはいつもの町なのか怪しくなる。まるで現実と少しずれた世界に紛れ込んでしまったような気さえした。
僕はそのままその場で、長い間その夕焼けに染まる町を見つめていたように思う。時計を持ち合わせていなかったから正確な時間はわからないけれど。
体感で一時間ほど、そんな時間を過ごした。
この後、どこへ行くべきかは不思議と把握していた。この丘に居た理由も、来た道筋もわからないのに。そう思うと奇妙な話だ、不可解だ。
けれど僕の脳裏には、愛しい彼女の笑顔が浮かぶ。すると自然に僕の足は、僕も知らない目的地を目指して、坂を下っていくのだ。
丘からそのアパートまで、さほど離れていなかった。少しだけ急に感じる坂を下ると、気が付かないうちにそれは目の前に在った。
アパートに着くと、階段を使って僕の部屋のある五階へ向かった。
未だ覚醒しない頭のまま、五階まで階段を登り終えた頃には、少し息が荒くなっていた。
五○一、五○二という識別番号を割り振られた部屋を素通りし、奥から二番目にあたる部屋へ進む。
五○三の部屋番号の下。とってつけたような名札がある。そこに書かれた「笹木」という僕の苗字は中学生の丁寧なノートのように味気ない字体で印刷されたものだ。けれどその表札の縁には、パステルピンクを基調とした可愛らしいデコレーションが施されている。手作り感満載だった。
一見バランスの悪い表札だが、その二つのミスマッチ加減が、縁を飾った誰かを思い起こさせるようでとても愛おしく感じるのだ。
ぼんやり表札を見ていると、奥の部屋のドアが開いた。
「あ、天使くんだ」
聞き慣れた声を聞いて、ようやく頭が澄んだ気がする。
「その呼び方はやめてって、いつも言ってるだろ?」
声の方に振り向きながら、毎度のように言い聞かせる。
振り向いた先には声の主。五〇五号室に住む、絵依里がいた。長い黒髪を後頭部で縛って、活発な女の子の象徴みたいな服装に身を包んでいる。
彼女は僕を「天使くん」と呼んだが、そのあだ名は好きではなかった。僕に天使と呼ばれるような要素がない事を差し置いても、彼女にそう呼ばれること自体が嫌だった。何故だろう。
「えへへ、ごめーんねっ」
楽しそうに笑う絵依里には、反省している様子は見られない。
「ちゃんと反省してよ」
笑う彼女にこう言うことまでがいつもの流れだった。お約束というやつだ。
一連の流れを終えると、絵依里の表情が変わって彼女の落ち着いた声が僕の名を紡いだ。
「さてと、おかえり。咲夜」
ふざけあう時の笑顔とは違う、優しさに儚さが包容された一瞬の表情。
笑うというより微笑む彼女。少しだけ悲しそうだ。
僕の心を掻き乱して、締め付けて離さない。そんな魅惑的な瞬間。僕はそんな絵依里を見ると何故か、泣き出してしまいそうにもなった。
「咲夜? どうかしたの?」
「あ、何でもないよ。
んん、こんな廊下で話していても仕方ないだろ。というか、何か用事があって出てきたんじゃなかったの?」
「そろそろ君が帰ってくるかと思って。
そしたらやっばり咲夜がいたから、びったりだったね!」
私すごいかもー、とはしゃぐ絵依里はもう、純粋に楽しそうな笑顔だった。
その切り替えはあっという間だった。あのどこか寂しそうな綺麗な笑顔は、見間違いだったんだろうかという思いさえうまれる。そんなわけないのだろうけれど。
「あー、じゃあ、あがっていく?」
「うん! お邪魔しまーす!」
僕は自宅のドアを開け、絵依里を招き入れた。
「相変わらず片付いた部屋だね」
僕より先に室内へ入った絵依里は、部屋の中央に置いてあるローテーブルの前にそっと腰をおろした。テーブルは窓から差し込む夕日に染まっていた。
「絵依里の部屋だって十分片付いていると思うけどな」
「確かに散らかってはないと思ってるけど……。あれはものが少ないだけだからなぁ」
「まぁ確かにね」
絵依里の部屋に物が少ないのは確かだ。もちろん生活に必要な物まで一切ないとは言わないが、それでも、僕の部屋にある量の半分あるかないかというところだろう。…………別に、僕の持ち物がすごく多いというわけではない。絵依里の所有物が少なめだという話だ。
なんでこの部屋は物が少ないの? と、彼女の部屋を訪れた時、聞いたことがある。
その方が夕日が綺麗に部屋を照らしてくれるのだと、答えが返ってきて、唖然とした。彼女は一体どこまで夕日に心酔しているんだと。
絵依里は、昔から夕焼け空が好きだった。具体的にいつぐらいからかは知らないけれど、少なくとも僕が初めて彼女に出会った頃には、彼女はその赤い風景が気に入っていた。そしてそれはエスカレートし、中学三年に上がったときには、今のように惚れ込んでいた。
これは、あくまで僕から見た印象だから、実際どの時期からどのくらいハマっていたのかはわからない。だからもしかすると最初から、今僕が思うのと変わらない愛があったのかもしれない。
僕と絵依里は、夕日に色付けされた一室で、ずいぶん長い間話し込んだ。
昨日見た夢の話とか。近々どこか遊びに行こうか、行き先は何処にしようだとか。明日は雨が降るらしいとか。そうかと思えば、仮に不思議な力が使えたとしたら何がしたいかとか。自分が世界をつくるとしたら、どんな世界をつくりたいか、とか。
その内容はいつものようにまとまりがなく、大半が大きな意味を持たない。けれど、話の始めが何だったのかわからなくなるほど、思い出すのが少し楽しくなるほどまで話が膨らんだ。
絵依里がこの間テレビで見たという、マラソンランナーのドキュメンタリーについての話が途切れたところで、僕らは話を止めた。
「お腹減った」
絵依里が言うので時計を見ると、もうすぐ午後6時になろうかという時間だった。
「どうする? ご飯食べていく?」
「ううん、今日は帰ろうかな。家でお母さんたち待ってるし」
今日はお昼からカレーつくってくれてたから楽しみにしてるんだ。と、顎を引いて嬉しそうな笑顔を見せた絵依里を見送るため、立ち上がる
絵依里をゆっくりと追いかけるように照らす夕日を見ながら、僕も玄関へ向かった。
ドアノブに手をかけた絵依里が、ふわっと振り返って、またあの顔で笑う。
「じゃあ、また明日ね!」
「うん。また明日」
僕からのまた明日を確認した絵依里は満足そうにドアをくぐった。
————影が落ちていくのを見ていた。
止めなくちゃ、助けなくちゃ。
嫌だ。認めたくない。僕らは、いや、僕は良い。あの子は、このままなんて、——
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