最後の風林火山

Xin Akira (新 彬)

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愛憎編

8、武田軍師山本菅助(二代目)誕生!

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 九月三日、山本菅助は武田勝頼に呼ばれた。
 おふうたちについてだった。
 菅助は質問する。

「殿、姫様をどうされるのですか?」

「処刑じゃ。仙丸ら二人も含め、徳川や奥平との境目にある鳳来ほうらい寺で行う。見せしめだ!」

「…………」

 予想通りの判決だった。
 だが、勝頼はおふうを未だ、貞昌の正妻だと思っている。

 おそらく、おふうも仙丸らも取調べで喋らなかったのであろう。

 怒りが抑えられない勝頼は、菅助に指示を出した。

「お主が鳳来寺に連れて、処刑しろ!」

「えっ、そ、そんな……」

「奥平だけは、絶対に許さんぞ!」

「しかし信玄公は、裏切りも許してきました」

「義兄上(義信)は許したか? それに我が祖父諏方頼重よりしげ公を許さず、腹を斬らせたのは父上ぞ! 奥平には見せしめが肝要じゃ。処刑ののち、長篠も作出も攻め滅ぼす!」

「し、しかし姫様は奥平貞昌に離縁されたも同然です。せめて姫様だけでもお許しを……」

「ならん。ワシはその貞昌に裏切られたのじゃ。舐められたのじゃぞ。父上は祖父の諏方家を滅ぼしたのち、道鬼を軍師に取り立てた。城取りもやらせた。そなたは父の業績を継ぎたくないのか?」

「つ、継ぎたいです」

「そうであろう。そうしたければ、あの三名を処刑せい。それが条件じゃ!」

 菅助は、おふうと城取り・軍師、どちらが大事かを、秤にかけられた気持ちになる。

 武田家中でも特別扱いされた、父の立場は欲しい。
 特別の二文字は、下っ端家臣にとってとても心地がいいのだ。

 しかしあの美しい姫を、自分の手で殺すのは、恐怖と絶望の暗闇に突き落とされる感じで苦しくなる。

――お、お、おふうーーーっ!



 彼にとっておふうは、夢だった。

 いや、夢だったのは、姫という飾られた立場だったからにすぎない。

 おふうの真相は、姫ではない。
 一家臣の娘。
 身分は菅助と変わらない。
 菅助はやっと気付いた。
 おふうに抱く感情は、愛だ。
 素直に惚れているのだ!

 軍師・城取りという役目は欲しい。
 おふうの側にもいたい。

 もはやどちらが欠けても、菅助は菅助でいられなくなってしまった。



「おい、どっちなのじゃ。はっきりせい!」

 勝頼は怒鳴った。

 菅助は我に帰る。
 妄想の世界に引きずられていたことに気付かされた。

 菅助は妄想を払いながら、

「は、は、は、はい。やります」

 と、声が裏返りながら、勝頼のその場の雰囲気に押され、引き受けてしまう。

 勝頼が離れる。
 菅助は緊張が解け、後悔の念が湧き、肩の力が抜け、骨が抜けかのように床に倒れこんだ。



 十日、おふう達三名は縄で縛られ、犯罪者用の竹籠に乗せられる。

 山本菅助は手下数十名を従えて、甲府を出立した。

 十二日、諏方郡の高島城で一泊する。
 城は粗末だが、美しい諏方湖を一望できる平山城である。
 菅助は、月明かりに照らされる湖を眺め、呆けていた。



 十三日の未明、菅助はいきなり従者にたたき起こされる。

 おふうが逃走したというのだ。

 菅助は仰天し、生きた心地がしないほど蒼ざめた。

 菅助は考える間もなく高島城を飛び出し、城下の一軒一軒の戸を叩いて、おふうの消息を調べ廻る。
 城下町にいないとなると、湖畔の集落まで場を広げた。

 しかし消息は、一昼夜探しても見つからないどころか、手がかりさえつかめなかった。

 それでも休まず探し、汗一杯になった菅助がふと気がつくと、諏方湖の畔にひとり、ぽつんと立っていた。

 もう日が沈もうとしていた。

 体力的にも精神的にも疲れたが、ぼんやり見渡すと、小坂集落の湖面に接する小高い丘の上に、小さな観音堂が見えた。

 菅助はこれに何か直感的に何かを感じ、最後の力を振り絞って、観音堂を目指した。

 たどり着くと、もう星空。
 その崖先に、秋風に髪を乱しながら湖を眺めるおふうをみつけた。

「ぶ、無事か?」

 菅助はおふうに近寄ると、姫はもの静かに振りむく。

 その寂しげながらも大きい潤う瞳と、秋風になびくつやつやした黒髪。

 綺麗すぎる。

 背景の山は真っ黒になるも、満点の星空と月明かりに湖が照らされ、おふうの美貌を更に輝かせている。
 菅助は心臓が止まるほど驚き、鳥肌が立った。

 身分は嘘でも、美しさは本物だ。
 千年に一人の女神いっても過言ではない。

 菅助は、この世のものとは思えない人と自然の美の調和を見ている。

 父親似の菅助が、この場にいてはいけないとさえ感じるほどだった。

「山本さまですか……」

 おふうは焦るどころか、落ち着いている。
 逃げた見つかったなど、問題ではないようだった。

「姫……いや、おふう殿。戻りましょう」

「何故? 私は逃げたのですよ。見つけたその場で手打ちにしないのですか?」

「そ、それは……」

「出来ないのならば、私は今からここを飛び降りて、命を絶つしかありません」

「な、何をご冗談を!」

「ここはとても美しい所ですね。もっと早く知っておけば、武田の地も馴染めましたのに」

「ワシは勝頼様から、鳳来寺で処刑せよと命じられた。だからそこでしかそなたを殺せない。だから手打ちにはしない。とはいえしかし何故、そなたはこのようなことをしたのだ?」

「訊問のとき、長坂さまから取引を受けました。貞昌様と縁を切って長坂家の養女に入り、勝頼様に嫁いで男子を産め。そうすれば罪は一切問わない。と……」

「嫁ぐ? 男子?」

「はい。正直、耳を疑いました」

「敵将に嫁ぐとは、もしや釣閑斎様はおふう殿に、勝頼様の母上と同じ道を歩めと?」

「さあ、その方の生き様など私には分かりませんが、仮に承知しても、三河武士の娘の名折れになります。それでも強引に嫁げというなら、勝頼様の首を頂戴するのみ。が、私にその気はあっても度胸がありません。ならば、勝頼様の母の故郷だというこの湖を、私の偽りに満ちた血で染めてあげましょう」

「な、なにを言われるか!」

「……気にしないでください。この景色を眺めたら、そんな怒りも不思議と鎮まります」

「なら、構わんが……」

「でもここを離れたら、再び怨むでしょう」

「お、おふう殿っ!」

「……ああ、寒い……」

 夜風が冷たくなり、おふうは細い肩を縮こませて震えた。

 菅助は何か羽織るものはないかと目で探すが、ない。

――ならばおふう殿を抱くべきか? いや、駄目だ。でも、抱いて暖めたいな……。

 菅助の頭のなかでは、青い旗印の理性と赤い幟の欲望が、川中島ばりの大合戦を繰り広げている。

 菅助は赤面しながら、いかんと首をふり、ドキドキする。

 純白なおふうを、自分が抱いてもいいのか?

 自分がそうすることで、おふうが穢れないのか?

――いや大丈夫じゃ。おふうは奥平の姫ではないのだから、やってもいいのだ!

 赤い欲望が勝鬨をあげた。

 菅助は、おふうはきっと自分に暖めてもらいたいのだ、だからああいう態度をとるのだと信じ込み、開き直った。

 菅助の鼻から、血が細い線になって流れる。

 菅助は慌てて手で拭いながら、猪のような顔をガチガチにしておふうの目の前まで近づいた。

 右手と右足を一緒に前に出すほどにぎこちなく。

 おふうは「?」と首をかしげる。

 菅助はおふうをやさしく包むようにおふうを抱いたつもりだが、両腕をばっと広げ、ガシッと覆いかぶさるように力いっぱい抱いた。

 おふうはびっくりして、カッとなって振り払うと、菅助の頬を思いっきり引っ叩いた。

 それは湖畔の夜空に、高く響いた。

 そしておふうは、菅助に怒鳴る。

「触るなケダモノ! 勝頼は私を、国衆の妻として死なせてくれるのだぞ。わきまえろ!」

 菅助はキョトンとし、鼻血が再び流れ、左の頬には紅葉のように真っ赤な掌の跡が湧く。

 おふうは小走りでこの場を出ようとする。

「おふう殿、ど、どちらへ?」

 菅助は、へっぴり腰気味に後を追う。

「高島城に帰る。案内しろ。ケダモノ!」

 おふうの返事は尖っていた。

「そ、そんなぁ……」

 菅助は、理由はどうあれ無事に済んだと安堵した。
 ヒリヒリする頬と、ケダモノと罵られたことが、奇妙に快感だった。



 山本勘助の一団が奥三河の鳳来寺に到着したのは、九月十九日である。

 この地を支配する武田譜代家臣あま信康のぶやすが処刑の準備を一切済ませ、あとは菅助が実行するだけになってる。

 二十一日の夕刻、鳳来寺山門の前の広場に野次馬が集まる。

 処刑が始まる。

 三人は既に用意された三本の磔に縛られ、信康の手下に鋭い槍先を向けられていた。

 仙丸は武田に対しても奥平に対しても、
「騙された!」と狂って叫ぶ。

 もうひとりの男は、失禁してる。

 男どもはあまりにもだらしが無い態度で、槍に突かれて死んだ。

 しかしそれでも、おふうだけは動じなかった。
 菅助は処刑命令をためらう。

――嫌じゃ。やっぱり出来ない!

 未練がましかった。

 菅助がじれったいので、野次馬たちが「早く殺せ」など、文句を吐き出す。

 菅助は恐怖して、冷や汗が止まらない。

 こうなるのなら到着前に、おふうを殺したこと皆に嘘をついて、名前も素性も別人にして開放し、ほとぼりが冷めたところで、自分の妻に取るべきだったと。

 今更妙案が出ても、遅すぎる。

 おふうは、故郷が近いこの風景を眺める。

 懐かしかったが、未練は無い。

 おふうは呼吸を整えてから、最後の言葉を凛と放った。

「もし来世があるのなら、私は畜生に生まれたい。畜生は己に嘘偽りなく正直に生きていけるから。しかし人は、互いに騙し合わなければ歩んでいけない。人は何時から、畜生よりも浅ましき生き物になったのでしょう?」

 おふうの表情が清々しくなった。

 菅助は涙目になって、これまで毎度も自分を振り回してきたおふうの、清楚な姿を生まれて初めて目の当たりにした。

 余計に悲しくなった。

――ああ、殺さなきゃいけないんだ……。

 と下を向いて、泣く泣く命じた。



 そしておふうは、天女となった。



――はあっ……。そういえば、おふう殿の素性を聞いてなかったなあ…………。

 まるで魂が抜けたかのように呆け、帰り道の全ての記憶がない。



 甲府に戻った山本菅助は、武田勝頼に報告した。

 勝頼は満足して、

「よし、約束を叶えさせてやる」

 と、菅助を軍師とした。

 勝頼は安心したのか、本音がポロッと出てしまう。

「あれだけの美女じゃ。別の者に任せたらきっと奪って、報告も誤魔化しただろう。だが貴様は正直で良い。任せて正解じゃった!」

 勝頼は高笑いした。
 菅助は愕然とした。

 それは遠まわしに、おふうを奪っても構わないと聞こえたからである。
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