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ダキニの亭主
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くしゃみが出た途端、夢うつつに、りん、と響く鈴の音。
「今晩は」
眠気を堪えつつ男が重い瞼を開くと、洗い髪に瓜実顔の若い女が己の顔を覗き込んでいる。驚いてはね起きた男は、袷一枚の身を二月の寒気にぶるっと震わした。
障子を透かして差し込む月の影から、丑三つ時頃か。
「幽霊……、じゃあねえようだが」
しどけなく座った女の白い脚に目を奪われつつ、男は精一杯の軽口を叩く。
「稲荷のお使いさ。ダキニと呼んどくれ」
女は美しい目を弦月の形に細め、袖でそっと口元を隠した。
「独り寝の寒さにくしゃみをする寂しい男の精を、あたしに分けておくれでないか」
――なるほど、そうきたか。
男は酒の酔いが抜けぬ頭で、ぼんやり思案をめぐらせた。
四十を過ぎた浪人崩れの気ままな男やもめが、酒をしたたか飲んで高鼾をかいていたところに現れた妖艶な女など、物の怪の類でないほうがおかしい。
一度くらい精気をくれてやってもよい美しさだが、鬼といえども女は女だ。一度でも縁を結べば逢瀬が二度三度と重なって、やがて己の命が危うくならぬとも限らない、と男は思った。
男はやや沈黙した後で、ダキニに言った。
「今はいけねえ。具合が悪い」
「いつなら、いいのさ?」
「明後日の、暮れ六つなら」
むろん苦し紛れの出任せである。明後日までにどこぞに雲隠れを決め込んでやり過ごしていれば女もそのうち諦めるだろうと、酔った頭で男がひねり出した苦肉の策だ。
だが、ダキニは少し考える風を見せた。
「おまえさん。逃げるつもりじゃあないだろうねえ」
ダキニは胸元の帯から鴬の根付を抜いて、男の鼻先にぶら下げた。
「あたしと縁を結んだのだから、もう逃げられないよ。おまえさんがどこかへ行くと、この根付の鈴がりんと鳴る手筈になっているんだからね」
固唾をのんだ男を見下ろし、ダキニは艶やかな含み笑いとともに立ち上がる。
「じゃあ明後日の暮れ六つに、また来るよ」
言うなりダキニの姿は幻と消えて、呆気にとられた男の足元からは一匹の女郎蜘蛛がすうーっ、と糸を伝い天井に上っていった。
さて朝を迎えた男は、酔いが抜けてだんだん正気が戻るにつれ、ダキニへの恐ろしさが先に立ち始めた。
――あの根付の鈴があるかぎり、おれは逃げられねえ。いずれはダキニに食われちまうだろう。
とくよくよ思い悩んだところで何ができるわけでもなし、一日が経ち二日が過ぎ、約束の日の昼には男は心ここにあらずの 態となり果てて、目利きの仕事にも身が入らなくなった。
それを見た、男の雇われ先である古道具屋の若旦那が、
「どうしたんだい、龍さん。顔色が悪いようだが」
と心配をして声をかけた。
「宿酔でも腹を下しても、酒さえあれば景気のいい面でいられるおまえさんが、そんな辛気臭い面をしているのは珍しい。何かあったのかい」
「若旦那、話を聞いて、知恵を貸してくれ」
男はすがるような気持ちで、飲み仲間でもあるこの若旦那に身に起きた一部始終を話した。
この若旦那は、道楽が高じて古道具屋を始めたと豪語するだけあって、物知りの上に知恵者でもあったから、男から話を聞き終えるなり「なんだ、そんなことか」と一笑に付した。
「そんなの、あんたがダキニから根付の鈴を盗んじまえば、済む話じゃあないか。いくらダキニが人を食らう鬼といったって、あんたなら酔い潰すくらいわけがないだろう」
若旦那の言葉に、あっと男は膝を叩いて合点した。
確かに男は朝昼晩に各一升、一日都合三升飲んでもけろりとしているほどの蟒蛇であった。ダキニとはいえ酒に酔わせて眠らせれば、男が根付の鈴を盗んで逃げる隙も生まれるかもしれない。
「なるほど、その手があったか」
男は元気を取り戻すと若旦那に礼を言い、夕方には仕事を早めに切り上げて帰り道で酒屋に寄り、焼酎を二升買って長屋の六畳に帰った。人間は現金なものですでに命拾いの算段がついた気になって気持ちも緩んだ男は、火鉢の前で鼻歌交じりに燗酒を手酌で飲みながら、ダキニが来るのを待った。
日が落ちて、暮れ六つの鐘が鳴った。
天井の穴から女郎蜘蛛がすーっと糸を引いて男の前に降りてきて、ダキニの姿となった。
「さあ。約束通り、今夜こそ精をもらいに来たよ」
行燈の明かりに照らされたダキニの顔は、輝くばかりに美しかった。そこに男は、酒を注いだ猪口を差し出す。
「その前に、一杯つきあいねえ。三三九度の真似事だ」
ダキニは一瞬いぶかしげな顔をした。しかし根付の鈴がある以上は男に今更何ができるわけもあるまいと侮ったのか、猪口を素直に受け取ると一息に飲み干した。
「あぁ、いい飲みっぷりだ。もう一杯」
男は内心でほくそ笑みながら、ダキニをおだてつつ二杯三杯と杯を重ねさせていく。
四つの鐘が鳴る頃には、いよいよダキニに酔いが回りだした。ダキニが白い頬をほんのりと血の色に染めて、気持ちよさそうにうとうとと眠りだした。
――よし、この隙に。
男がダキニの側に忍び寄り、例の根付を盗もうとそっと手を伸ばした、そのときだ。
不意に、ダキニの目がぱちりと開いて、男を見つめた。万事休すと凍り付いた男が固唾を呑んだ前で、
「やっぱり、鈴を盗むつもりだったんだね」
ダキニは古畳の上にくずおれて袖で顔を覆い、しくしくと嗚咽を始めた。
「こうなったら、本当のことを言ってしまおう。あたしはおまえさんに宿縁があって惚れていたのさ。一度だけのつもりで抱いてもらいに来たけれど、この鬼の身が怖がられてしまっては立つ瀬がない。ーーさあ、いっそその鈴を持って逃げておくれ」
そう語るダキニの涙を、男は三千世界の中で最も尊いもののように思えた。
過去に遊んだ女は数あれど、若さも金もない根無し草のために涙を流すまでの真を見せてくれた女は今までいただろうか、いやいない。男は女が鬼であることばかりに囚われて、その真心を見ようとしなかった己の浅はかさを恥じずにいられなかった。
「ごめんよ。おれはてっきり、あんたにからかわれたのかと。……」
と、男が片腕で優しくダキニの肩を抱いた瞬間、その首筋にダキニが腕を回してがぶりと食らいつく。傷みはなく、ただ首からさあっと体中の血が抜けてゆく心地を覚えながら、男は気を失った。
「……おまえさん。朝だよ。起きとくれ」
掻巻の中で目を覚ました男の顔を、丸髷も愛らしい恋女房が覗き込んでいる。
「ずいぶんとうなされていたが、悪い夢でも見たのかえ?」
明るい朝の光と、女房がこしらえた朝餉の匂いに男は安堵する。
「夢の中で、おめえと瓜二つの鬼に食われかけたぜ。――けど、悪い夢でもなかったよ」
「莫迦をお言いよ。そら、早く顔を洗ってきておしまい」
男は女房に促されるまま、手桶と手拭を抱えて外に顔を洗いに出ていった。夢の中に出てきたダキニのことなどすでに忘れ果てたその背中を見送りながら、
「ほんとうは、あのとき食っちまう気でいたんだが……」
女房がぽつりと呟いて、その牡丹色の唇が微笑む。
「結局、鬼《あたし》のほうが食われちまったねえ」
その胸元で鶯の根付の鈴がりんと鳴り、これにてお終い。
「今晩は」
眠気を堪えつつ男が重い瞼を開くと、洗い髪に瓜実顔の若い女が己の顔を覗き込んでいる。驚いてはね起きた男は、袷一枚の身を二月の寒気にぶるっと震わした。
障子を透かして差し込む月の影から、丑三つ時頃か。
「幽霊……、じゃあねえようだが」
しどけなく座った女の白い脚に目を奪われつつ、男は精一杯の軽口を叩く。
「稲荷のお使いさ。ダキニと呼んどくれ」
女は美しい目を弦月の形に細め、袖でそっと口元を隠した。
「独り寝の寒さにくしゃみをする寂しい男の精を、あたしに分けておくれでないか」
――なるほど、そうきたか。
男は酒の酔いが抜けぬ頭で、ぼんやり思案をめぐらせた。
四十を過ぎた浪人崩れの気ままな男やもめが、酒をしたたか飲んで高鼾をかいていたところに現れた妖艶な女など、物の怪の類でないほうがおかしい。
一度くらい精気をくれてやってもよい美しさだが、鬼といえども女は女だ。一度でも縁を結べば逢瀬が二度三度と重なって、やがて己の命が危うくならぬとも限らない、と男は思った。
男はやや沈黙した後で、ダキニに言った。
「今はいけねえ。具合が悪い」
「いつなら、いいのさ?」
「明後日の、暮れ六つなら」
むろん苦し紛れの出任せである。明後日までにどこぞに雲隠れを決め込んでやり過ごしていれば女もそのうち諦めるだろうと、酔った頭で男がひねり出した苦肉の策だ。
だが、ダキニは少し考える風を見せた。
「おまえさん。逃げるつもりじゃあないだろうねえ」
ダキニは胸元の帯から鴬の根付を抜いて、男の鼻先にぶら下げた。
「あたしと縁を結んだのだから、もう逃げられないよ。おまえさんがどこかへ行くと、この根付の鈴がりんと鳴る手筈になっているんだからね」
固唾をのんだ男を見下ろし、ダキニは艶やかな含み笑いとともに立ち上がる。
「じゃあ明後日の暮れ六つに、また来るよ」
言うなりダキニの姿は幻と消えて、呆気にとられた男の足元からは一匹の女郎蜘蛛がすうーっ、と糸を伝い天井に上っていった。
さて朝を迎えた男は、酔いが抜けてだんだん正気が戻るにつれ、ダキニへの恐ろしさが先に立ち始めた。
――あの根付の鈴があるかぎり、おれは逃げられねえ。いずれはダキニに食われちまうだろう。
とくよくよ思い悩んだところで何ができるわけでもなし、一日が経ち二日が過ぎ、約束の日の昼には男は心ここにあらずの 態となり果てて、目利きの仕事にも身が入らなくなった。
それを見た、男の雇われ先である古道具屋の若旦那が、
「どうしたんだい、龍さん。顔色が悪いようだが」
と心配をして声をかけた。
「宿酔でも腹を下しても、酒さえあれば景気のいい面でいられるおまえさんが、そんな辛気臭い面をしているのは珍しい。何かあったのかい」
「若旦那、話を聞いて、知恵を貸してくれ」
男はすがるような気持ちで、飲み仲間でもあるこの若旦那に身に起きた一部始終を話した。
この若旦那は、道楽が高じて古道具屋を始めたと豪語するだけあって、物知りの上に知恵者でもあったから、男から話を聞き終えるなり「なんだ、そんなことか」と一笑に付した。
「そんなの、あんたがダキニから根付の鈴を盗んじまえば、済む話じゃあないか。いくらダキニが人を食らう鬼といったって、あんたなら酔い潰すくらいわけがないだろう」
若旦那の言葉に、あっと男は膝を叩いて合点した。
確かに男は朝昼晩に各一升、一日都合三升飲んでもけろりとしているほどの蟒蛇であった。ダキニとはいえ酒に酔わせて眠らせれば、男が根付の鈴を盗んで逃げる隙も生まれるかもしれない。
「なるほど、その手があったか」
男は元気を取り戻すと若旦那に礼を言い、夕方には仕事を早めに切り上げて帰り道で酒屋に寄り、焼酎を二升買って長屋の六畳に帰った。人間は現金なものですでに命拾いの算段がついた気になって気持ちも緩んだ男は、火鉢の前で鼻歌交じりに燗酒を手酌で飲みながら、ダキニが来るのを待った。
日が落ちて、暮れ六つの鐘が鳴った。
天井の穴から女郎蜘蛛がすーっと糸を引いて男の前に降りてきて、ダキニの姿となった。
「さあ。約束通り、今夜こそ精をもらいに来たよ」
行燈の明かりに照らされたダキニの顔は、輝くばかりに美しかった。そこに男は、酒を注いだ猪口を差し出す。
「その前に、一杯つきあいねえ。三三九度の真似事だ」
ダキニは一瞬いぶかしげな顔をした。しかし根付の鈴がある以上は男に今更何ができるわけもあるまいと侮ったのか、猪口を素直に受け取ると一息に飲み干した。
「あぁ、いい飲みっぷりだ。もう一杯」
男は内心でほくそ笑みながら、ダキニをおだてつつ二杯三杯と杯を重ねさせていく。
四つの鐘が鳴る頃には、いよいよダキニに酔いが回りだした。ダキニが白い頬をほんのりと血の色に染めて、気持ちよさそうにうとうとと眠りだした。
――よし、この隙に。
男がダキニの側に忍び寄り、例の根付を盗もうとそっと手を伸ばした、そのときだ。
不意に、ダキニの目がぱちりと開いて、男を見つめた。万事休すと凍り付いた男が固唾を呑んだ前で、
「やっぱり、鈴を盗むつもりだったんだね」
ダキニは古畳の上にくずおれて袖で顔を覆い、しくしくと嗚咽を始めた。
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そう語るダキニの涙を、男は三千世界の中で最も尊いもののように思えた。
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「ごめんよ。おれはてっきり、あんたにからかわれたのかと。……」
と、男が片腕で優しくダキニの肩を抱いた瞬間、その首筋にダキニが腕を回してがぶりと食らいつく。傷みはなく、ただ首からさあっと体中の血が抜けてゆく心地を覚えながら、男は気を失った。
「……おまえさん。朝だよ。起きとくれ」
掻巻の中で目を覚ました男の顔を、丸髷も愛らしい恋女房が覗き込んでいる。
「ずいぶんとうなされていたが、悪い夢でも見たのかえ?」
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「夢の中で、おめえと瓜二つの鬼に食われかけたぜ。――けど、悪い夢でもなかったよ」
「莫迦をお言いよ。そら、早く顔を洗ってきておしまい」
男は女房に促されるまま、手桶と手拭を抱えて外に顔を洗いに出ていった。夢の中に出てきたダキニのことなどすでに忘れ果てたその背中を見送りながら、
「ほんとうは、あのとき食っちまう気でいたんだが……」
女房がぽつりと呟いて、その牡丹色の唇が微笑む。
「結局、鬼《あたし》のほうが食われちまったねえ」
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