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迎えのバス
迎えのバス
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人口百人に満たず、地図にも載らない小さな村。
この村には昔から、死にゆく人を迎えに来るバスがある。
『迎えのバス』
村人はみな、そのバスのことをそう呼んでいた。
死者はこのバスに乗ることで成仏し、幸せな世界に辿り着くと言われている。
バスはマイクロバス程度の大きさで、黒に限りなく近い、深い緑色に身を包む。
家や病院など、寿命の近づいた人のいる建物の前に音もなく出現し、天寿を全うしたタイミングで運転手はバスから降り、その人の前へと歩み寄る。
そして、運転手が死者に手を触れると、死者は運転手とともに一瞬にしてバスの中へと移動し、また音もなくバスはどこかへと消えていく。
村人全員がこのバスの存在を知っているが、誰一人として、バスの運転手の顔を知らない。
いつも帽子を深く被り、口元をマスクで覆っている。
運転手の姿を見たという村人の話によると、運転手は背のあまり高くない、若い少年のようだという。
一説では運転手はこの村出身の者だという噂話も聞いたことがあるが、村人はバスをこの村の守り神、そして運転手を『神の使い』だと崇め、それ以上知ろうとすることもなかった。
ガタガタガタガタ――……
稲垣俊介は母親の運転する中古の軽自動車に乗り、新居へと向かっている。
先月病気で父親が他界し、そのタイミングで母の故郷に戻ることとなっていた。
俊介は産まれたばかりの頃に一度だけこの村に来たことがあるらしいが、その時の記憶などあるはずもなく、実質、今日が初めてとなる。
「痛って……ちょ、母さん! もう少し丁寧に運転してよ」
この村の車道は舗装工事なども行き届いておらず、木の根や山道ならではの傾斜などがそのままとなっており、進むたびに車体は右へ左へ、上に下に大きく揺れた。
「無理言ってるんじゃないよ。この運転に慣れることに専念しなさい」
どうやら母の敏子はあまり運転が得意ではないようで、身体をハンドルに近づけながら一点集中し、力強くハンドルを握っていた。
「そういえば、寝坊したから学校まで送ってってお願いした時も、頑なに拒まれたっけ……」
俊介は少し昔を思い返すと、諦めたようにアシストグリップを強く握りしめた。
「あと何分くらいで着くの?」
俊介は前を見たまま問いかける。
しかし、幾ら待っても敏子からの返事はない。
「ねぇ! あとどれくらいで到着なのって」
「あーもう、うるさいわね! 車が止まるまで話し掛けないで」
「その車を止めるのは母さんだろ」と思いながらも、俊介はこれ以上機嫌を損ねないようにと言葉を飲み込み、藁にも縋る思いで進行方向を見つめた。
車は十分程、俊介の体感では三十分程進んだところで、次第に速度を落としていく。
「ふー……。やれば出来るのよね、やれば。ほら俊介、着いたわよ」
どこかスッキリした表情の敏子は、運転席の扉を勢い良く開けた。
「良かった……、生きてる……」
自分が運転したわけでもないのに、俊介は息を切らしながら静かに外の世界へと足を踏み出す。
山道の木々が入らぬよう窓を閉めていたので気が付かなかったが、外はこの季節にしてはひんやりとしていた。
「ここが新しいお家よ……、って言ってもおばあちゃんの家なんだけどね。そうそう、この後色々と挨拶周りに行くから早く荷物片付けちゃってね」
もう少し生きている実感に酔いしれたかったが、そうはさせてくれない雰囲気を醸し出す敏子の笑顔に、俊介は渋々準備を始めた。
「敏子かい?」
横開きの玄関が音を立てて開き、中から一人の女性が現れた。
「おかぁ! 久しぶり」
「何が久しぶりだよ。ここ出て行ってから全然帰って来ないどころか、ろくに連絡もよこさんで。ほいで何? 前回も今回も、急に連絡が来たかと思ったら『今から帰る』って。いつまで自分勝手でいるつもりさね」
敏子の母である登和子は髪色こそ真っ白に染まっていたが、八十二歳とは思えない程若々しく背筋も伸び、ハキハキとした声をしていた。
「おや、もしかして俊ちゃんかい? 産まれた時以来かね? 随分と大きくなって……」
「今年でもう十七になるのよ? 大きくなって当然じゃない」
「あんたがちっとも帰って来ないからわからなかったんでしょうが」
俊介は母の男勝りな話し方は母親譲りなのだろうと、今ハッキリとわかった。
「えっと……、これからお世話になります」
登和子の圧力に少し身構えながら、俊介は頭を下げた。
「なんて礼儀正しいのかしら。きっと母親は見ないで成長したんだろうねぇ」
登和子の言葉に俊介はどんな反応をしたら良いのかわからず、今出来る限りの笑みを作った。
「そんなことより、おかぁ。おとうの様子はどう?」
「いんや、なんも変わらん。今は週四回、在宅介護の方に来てもらっているんよ。いつ最後が来ても何ら可笑しくない。そういう意味では、このタイミングで帰って来たのは親孝行なのかもわからんねぇ」
祖父である貞雄が一年前から寝たきりの状態だということを、俊介は敏子から聞いていた。
登和子の言う通り、娘である敏子の帰りを待っていたのかもしれない。
「俊介、先におじいちゃんのところ行こう」
「そうだね」
二人は荷物をそのままに、貞雄のいる寝室へと向かった。
「おとう。ただいま、敏子だよ」
反応のない貞雄の手を握って話し掛ける。
貞雄は静かに呼吸を繰り返す。
俊介の目に映る貞雄は、何かを悟っているかのような、優しい表情に見えた。
「倒れたあの日からずっと同じと思ってたけど、なんか今日はいつになく穏やかそうな顔をしているねぇ」
登和子が扉から顔を出して言った。
貞雄が病院に運ばれた時、医者からは余命数ヶ月と言われたそうだが、今日までこうして、残りの命を懸命に生きている。
「そろそろ『迎えのバス』が来るかもしれない」
「『迎えのバス』って?」
俊介は登和子の言った意味がわからず、思わず聞き返した。
「そうか、俊ちゃんは『迎えのバス』を知らないもんね」
そう言って、登和子は『迎えのバス』について話し始めた。
にわかには信じがたい話であったが、隣で敏子が黙って聞いていたことからも、この話は信憑性の高い話なのだと俊介は感じていた。
物心がついてから初めて見る貞雄を前に複雑な感情が入り混じり、俊介は言葉を失った。
結局、この後の荷解きが手に付くことはなく、作業もそこそこに挨拶周りに行くこととなった。
「良かった、徒歩で行ける範囲か」
「え? 何か言った?」
「ううん、何でもない」
挨拶周りと聞いて何処となく緊張していたが、あの恐怖がないだけで幾分か心が落ち着いた。
敏子と俊介はこの村の村長や自治体、これから通う学校などに顔を出し、簡単な挨拶を済ませていく。
挨拶と言っても、基本的には敏子が昔を懐かしむように世間話をするだけで、俊介はただただ立ち尽くしたまま時間は過ぎていき、気が付けば辺りも暗くなり始めていた。
「日が落ちて来たわね。今日のところはあと、恵美のところぐらいにしておきましょうか」
「恵美さんって確か……」
「あら、覚えてる? 一回会っているんだけど」
「んー、何となくだけど覚えてるよ」
恵美とは敏子の幼馴染で、本名は坂木恵美。
俊介が小学校六年生の時に一度、恵美が都心に来たタイミングで会っていて、その時、恵美の娘で八歳年上の香織に遊んでもらっていた記憶がある。
当時のことをハッキリとは覚えていないものの、大きく透き通った瞳が無くなる程にくしゃっとした笑顔をする香織の姿だけは、今も脳裏に焼き付いたままだった。
香織は今もこの村にいるのだろうか。
「あ、あそこよ」
村の中心から少し離れたところに、恵美の家はあった。
この辺りはあまり街灯もなく、この時間帯だと少し薄暗い。
家のインターフォンを押すと、玄関の扉はすぐに音を立てて開いた。
「敏子! いらっしゃい!」
待ち構えていたと言わんばかりに、零れ落ちそうな笑顔を向けた恵美が出迎える。
当然、俊介の記憶よりも大分年齢を重ねてはいたものの、年齢を感じさせない容姿をしていた。
この村の女性は皆、若さを保つ秘訣を持っているのかもしれない。
「俊介くんも、久しぶりね。おばさんのこと覚えているかしら?」
「はい。これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ。良かったわ、敏子に似ずしっかりした子で」
「あんたまでそんなこと言わないでよね。失礼しちゃうわ」
敏子と恵美は声を出して笑っていた。
「まさか敏子まで私と同じ境遇になるとは。何かあったら、いや何もなくてもいつでも連絡ちょうだいね」
「うん、ありがとう」
恵美も若くして夫を亡くしており、以前あった時はその直後でもあった。
「俊介くんもいつでもいらっしゃい。うちにも……、あ、ちょうど帰って来た。香織!」
恵美の視線の方向を見ると、見覚えのある女性が手を挙げていた。
「おばさん! 俊介くん! こんばんは」
長い髪を風に靡かせながら、小走りに近づいてくる。
「香織ちゃん! まぁまぁ、すっかり大人の女性になって」
「全然。そんなことないですよ」
「今はこの村で働いているの?」
「はい、あれから父の仕事を継ぐ形で」
「そうなの……偉いわねぇ」
香織は「いえいえ」と軽く手を振り、謙遜しながらも品の良い笑顔で返す。
俊介は丁寧な化粧を施した香織が、大人の余裕のような雰囲気まで纏っているように思えた。
「俊介くん、私のこと覚えてる?」
首を傾げながらあの頃と同じ笑顔を見せる香織に、俊介は胸を掴まれたような感覚に陥りながらも、真っすぐ目を見て答えた。
「も、もちろんです。えっと、その、よろしくお願いします」
「この子ったら、何、緊張しているのよ」
「そんなんじゃないって」
恥ずかしさをかき消すように敏子に強く当たったが、その様子を笑って見守る香織を見て、俊介は余計に恥ずかしくなった。
「一丁前に年頃になったのね……あら、電話かしら」
敏子のスマートフォンが鳴り響く。
敏子は電話に出ると、みるみるうちに顔が青ざめていった。
「母さん、どうしたの?」
電話を切った敏子に、俊介はすぐさま話し掛ける。
「俊介、家に帰るよ。おじいちゃんが危ない……!」
俊介に向けられた瞳は、父親が亡くなったと知らされた時に向けられたものとよく似ていた。
俊介は来た道を必死に戻っていた。
相変わらず足場の悪い道ではあったが、幸いにも恵美の家から敏子の家までは然程離れておらず、体力的にも何とかなりそうだった。
枝をかき分け、木の根を飛び越え、家までの道を駆け抜けていく。
家の前には一台の救急車が、赤色のライトを照らしたまま止まっていた。
「おかぁ! おとうは?」
敏子が勢いよく寝室の扉を開けると、救急隊が大声で何かを言いながら、心臓マッサージをしている光景が目に飛び込んできた。
登和子は祈るように両手を握りしめ、その様子をじっと見つめている。
敏子と俊介は、静かに登和子の元に歩み寄った。
「大丈夫、きっと大丈夫だから」
登和子の背中を擦りながら、敏子は優しく話し掛ける。
その後も幾度となく心臓マッサージを試みるも、貞雄の心拍が戻ることはない。
登和子は握りしめた手を解くと、救急隊に向かって言った。
「もう、結構です……止めて下さい」
その声に、救急隊はゆっくりと手を止める。
重たくも静かな時間が流れていく。
「残念ながら……」
その空気を壊すように、救急隊は現在の時刻を読み上げる。
すると、俊介は背後から何かの気配を感じた。
コツコツ、コツコツと聞こえる革靴の音が身体の自由を奪っていく。
俊介は自分の真後ろにその音が来ても、振返ることが出来なかった。
一筋の汗が、背中を流れていくのがわかる。
近づいた足音は再び離れ、ゆっくりと俊介の視界に、足音の正体が映し出されていく。
登和子に聞いた通り、その人物はツバの長い戦闘帽のような帽子を深く被り、大きなマスクをした人物だった。
背格好はあまり大きくはなく、短髪の少年のようにも見えた。
その人物は、貞雄の枕元に屈むと、右手を貞雄の額へと伸ばす。
そしてその手が額に触れる直前に一瞬手を止め、視線だけを俊介、敏子、登和子の順に動かした。
ツバの隙間から覗く瞳が、俊介の脳内に刻み込まれていく。
不思議と恐怖を感じることはなく、むしろ、何処か懐かしさを与える大きな瞳をしていた。
運転手は視線を貞雄へと戻すと、停止した時を動かすかのように、額の上に手を置いた。
俊介が一つの瞬きをする。
目を開けた時には、そこに運転手と貞雄の姿はなかった。
「本当に消えた……」
救急隊はこの光景を見慣れているのか、貞雄のいた場所に向かって手を合わせ、頭を下げた。
「行っちまったねぇ……」
登和子の声で、俊介はふと我に返る。
「やっぱり敏子と孫の顔をもう一度見るまで、必死に頑張ったん……だろうよ。あんたは充分に良く頑張った」
登和子は貞雄に話し掛けるように、溢れ出る涙を溢さないように、天井を見つめながら言った。
その言葉に敏子は何度も何度も頷き、登和子の背中を擦っていた。
俊介はその光景を見てから、何かに導かれるように窓の外へと視線を動かす。
窓の外には、空に向かって不自然な強い光が伸びていた。
迎えのバスは、今日も静かに走っていく――。
この村には昔から、死にゆく人を迎えに来るバスがある。
『迎えのバス』
村人はみな、そのバスのことをそう呼んでいた。
死者はこのバスに乗ることで成仏し、幸せな世界に辿り着くと言われている。
バスはマイクロバス程度の大きさで、黒に限りなく近い、深い緑色に身を包む。
家や病院など、寿命の近づいた人のいる建物の前に音もなく出現し、天寿を全うしたタイミングで運転手はバスから降り、その人の前へと歩み寄る。
そして、運転手が死者に手を触れると、死者は運転手とともに一瞬にしてバスの中へと移動し、また音もなくバスはどこかへと消えていく。
村人全員がこのバスの存在を知っているが、誰一人として、バスの運転手の顔を知らない。
いつも帽子を深く被り、口元をマスクで覆っている。
運転手の姿を見たという村人の話によると、運転手は背のあまり高くない、若い少年のようだという。
一説では運転手はこの村出身の者だという噂話も聞いたことがあるが、村人はバスをこの村の守り神、そして運転手を『神の使い』だと崇め、それ以上知ろうとすることもなかった。
ガタガタガタガタ――……
稲垣俊介は母親の運転する中古の軽自動車に乗り、新居へと向かっている。
先月病気で父親が他界し、そのタイミングで母の故郷に戻ることとなっていた。
俊介は産まれたばかりの頃に一度だけこの村に来たことがあるらしいが、その時の記憶などあるはずもなく、実質、今日が初めてとなる。
「痛って……ちょ、母さん! もう少し丁寧に運転してよ」
この村の車道は舗装工事なども行き届いておらず、木の根や山道ならではの傾斜などがそのままとなっており、進むたびに車体は右へ左へ、上に下に大きく揺れた。
「無理言ってるんじゃないよ。この運転に慣れることに専念しなさい」
どうやら母の敏子はあまり運転が得意ではないようで、身体をハンドルに近づけながら一点集中し、力強くハンドルを握っていた。
「そういえば、寝坊したから学校まで送ってってお願いした時も、頑なに拒まれたっけ……」
俊介は少し昔を思い返すと、諦めたようにアシストグリップを強く握りしめた。
「あと何分くらいで着くの?」
俊介は前を見たまま問いかける。
しかし、幾ら待っても敏子からの返事はない。
「ねぇ! あとどれくらいで到着なのって」
「あーもう、うるさいわね! 車が止まるまで話し掛けないで」
「その車を止めるのは母さんだろ」と思いながらも、俊介はこれ以上機嫌を損ねないようにと言葉を飲み込み、藁にも縋る思いで進行方向を見つめた。
車は十分程、俊介の体感では三十分程進んだところで、次第に速度を落としていく。
「ふー……。やれば出来るのよね、やれば。ほら俊介、着いたわよ」
どこかスッキリした表情の敏子は、運転席の扉を勢い良く開けた。
「良かった……、生きてる……」
自分が運転したわけでもないのに、俊介は息を切らしながら静かに外の世界へと足を踏み出す。
山道の木々が入らぬよう窓を閉めていたので気が付かなかったが、外はこの季節にしてはひんやりとしていた。
「ここが新しいお家よ……、って言ってもおばあちゃんの家なんだけどね。そうそう、この後色々と挨拶周りに行くから早く荷物片付けちゃってね」
もう少し生きている実感に酔いしれたかったが、そうはさせてくれない雰囲気を醸し出す敏子の笑顔に、俊介は渋々準備を始めた。
「敏子かい?」
横開きの玄関が音を立てて開き、中から一人の女性が現れた。
「おかぁ! 久しぶり」
「何が久しぶりだよ。ここ出て行ってから全然帰って来ないどころか、ろくに連絡もよこさんで。ほいで何? 前回も今回も、急に連絡が来たかと思ったら『今から帰る』って。いつまで自分勝手でいるつもりさね」
敏子の母である登和子は髪色こそ真っ白に染まっていたが、八十二歳とは思えない程若々しく背筋も伸び、ハキハキとした声をしていた。
「おや、もしかして俊ちゃんかい? 産まれた時以来かね? 随分と大きくなって……」
「今年でもう十七になるのよ? 大きくなって当然じゃない」
「あんたがちっとも帰って来ないからわからなかったんでしょうが」
俊介は母の男勝りな話し方は母親譲りなのだろうと、今ハッキリとわかった。
「えっと……、これからお世話になります」
登和子の圧力に少し身構えながら、俊介は頭を下げた。
「なんて礼儀正しいのかしら。きっと母親は見ないで成長したんだろうねぇ」
登和子の言葉に俊介はどんな反応をしたら良いのかわからず、今出来る限りの笑みを作った。
「そんなことより、おかぁ。おとうの様子はどう?」
「いんや、なんも変わらん。今は週四回、在宅介護の方に来てもらっているんよ。いつ最後が来ても何ら可笑しくない。そういう意味では、このタイミングで帰って来たのは親孝行なのかもわからんねぇ」
祖父である貞雄が一年前から寝たきりの状態だということを、俊介は敏子から聞いていた。
登和子の言う通り、娘である敏子の帰りを待っていたのかもしれない。
「俊介、先におじいちゃんのところ行こう」
「そうだね」
二人は荷物をそのままに、貞雄のいる寝室へと向かった。
「おとう。ただいま、敏子だよ」
反応のない貞雄の手を握って話し掛ける。
貞雄は静かに呼吸を繰り返す。
俊介の目に映る貞雄は、何かを悟っているかのような、優しい表情に見えた。
「倒れたあの日からずっと同じと思ってたけど、なんか今日はいつになく穏やかそうな顔をしているねぇ」
登和子が扉から顔を出して言った。
貞雄が病院に運ばれた時、医者からは余命数ヶ月と言われたそうだが、今日までこうして、残りの命を懸命に生きている。
「そろそろ『迎えのバス』が来るかもしれない」
「『迎えのバス』って?」
俊介は登和子の言った意味がわからず、思わず聞き返した。
「そうか、俊ちゃんは『迎えのバス』を知らないもんね」
そう言って、登和子は『迎えのバス』について話し始めた。
にわかには信じがたい話であったが、隣で敏子が黙って聞いていたことからも、この話は信憑性の高い話なのだと俊介は感じていた。
物心がついてから初めて見る貞雄を前に複雑な感情が入り混じり、俊介は言葉を失った。
結局、この後の荷解きが手に付くことはなく、作業もそこそこに挨拶周りに行くこととなった。
「良かった、徒歩で行ける範囲か」
「え? 何か言った?」
「ううん、何でもない」
挨拶周りと聞いて何処となく緊張していたが、あの恐怖がないだけで幾分か心が落ち着いた。
敏子と俊介はこの村の村長や自治体、これから通う学校などに顔を出し、簡単な挨拶を済ませていく。
挨拶と言っても、基本的には敏子が昔を懐かしむように世間話をするだけで、俊介はただただ立ち尽くしたまま時間は過ぎていき、気が付けば辺りも暗くなり始めていた。
「日が落ちて来たわね。今日のところはあと、恵美のところぐらいにしておきましょうか」
「恵美さんって確か……」
「あら、覚えてる? 一回会っているんだけど」
「んー、何となくだけど覚えてるよ」
恵美とは敏子の幼馴染で、本名は坂木恵美。
俊介が小学校六年生の時に一度、恵美が都心に来たタイミングで会っていて、その時、恵美の娘で八歳年上の香織に遊んでもらっていた記憶がある。
当時のことをハッキリとは覚えていないものの、大きく透き通った瞳が無くなる程にくしゃっとした笑顔をする香織の姿だけは、今も脳裏に焼き付いたままだった。
香織は今もこの村にいるのだろうか。
「あ、あそこよ」
村の中心から少し離れたところに、恵美の家はあった。
この辺りはあまり街灯もなく、この時間帯だと少し薄暗い。
家のインターフォンを押すと、玄関の扉はすぐに音を立てて開いた。
「敏子! いらっしゃい!」
待ち構えていたと言わんばかりに、零れ落ちそうな笑顔を向けた恵美が出迎える。
当然、俊介の記憶よりも大分年齢を重ねてはいたものの、年齢を感じさせない容姿をしていた。
この村の女性は皆、若さを保つ秘訣を持っているのかもしれない。
「俊介くんも、久しぶりね。おばさんのこと覚えているかしら?」
「はい。これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ。良かったわ、敏子に似ずしっかりした子で」
「あんたまでそんなこと言わないでよね。失礼しちゃうわ」
敏子と恵美は声を出して笑っていた。
「まさか敏子まで私と同じ境遇になるとは。何かあったら、いや何もなくてもいつでも連絡ちょうだいね」
「うん、ありがとう」
恵美も若くして夫を亡くしており、以前あった時はその直後でもあった。
「俊介くんもいつでもいらっしゃい。うちにも……、あ、ちょうど帰って来た。香織!」
恵美の視線の方向を見ると、見覚えのある女性が手を挙げていた。
「おばさん! 俊介くん! こんばんは」
長い髪を風に靡かせながら、小走りに近づいてくる。
「香織ちゃん! まぁまぁ、すっかり大人の女性になって」
「全然。そんなことないですよ」
「今はこの村で働いているの?」
「はい、あれから父の仕事を継ぐ形で」
「そうなの……偉いわねぇ」
香織は「いえいえ」と軽く手を振り、謙遜しながらも品の良い笑顔で返す。
俊介は丁寧な化粧を施した香織が、大人の余裕のような雰囲気まで纏っているように思えた。
「俊介くん、私のこと覚えてる?」
首を傾げながらあの頃と同じ笑顔を見せる香織に、俊介は胸を掴まれたような感覚に陥りながらも、真っすぐ目を見て答えた。
「も、もちろんです。えっと、その、よろしくお願いします」
「この子ったら、何、緊張しているのよ」
「そんなんじゃないって」
恥ずかしさをかき消すように敏子に強く当たったが、その様子を笑って見守る香織を見て、俊介は余計に恥ずかしくなった。
「一丁前に年頃になったのね……あら、電話かしら」
敏子のスマートフォンが鳴り響く。
敏子は電話に出ると、みるみるうちに顔が青ざめていった。
「母さん、どうしたの?」
電話を切った敏子に、俊介はすぐさま話し掛ける。
「俊介、家に帰るよ。おじいちゃんが危ない……!」
俊介に向けられた瞳は、父親が亡くなったと知らされた時に向けられたものとよく似ていた。
俊介は来た道を必死に戻っていた。
相変わらず足場の悪い道ではあったが、幸いにも恵美の家から敏子の家までは然程離れておらず、体力的にも何とかなりそうだった。
枝をかき分け、木の根を飛び越え、家までの道を駆け抜けていく。
家の前には一台の救急車が、赤色のライトを照らしたまま止まっていた。
「おかぁ! おとうは?」
敏子が勢いよく寝室の扉を開けると、救急隊が大声で何かを言いながら、心臓マッサージをしている光景が目に飛び込んできた。
登和子は祈るように両手を握りしめ、その様子をじっと見つめている。
敏子と俊介は、静かに登和子の元に歩み寄った。
「大丈夫、きっと大丈夫だから」
登和子の背中を擦りながら、敏子は優しく話し掛ける。
その後も幾度となく心臓マッサージを試みるも、貞雄の心拍が戻ることはない。
登和子は握りしめた手を解くと、救急隊に向かって言った。
「もう、結構です……止めて下さい」
その声に、救急隊はゆっくりと手を止める。
重たくも静かな時間が流れていく。
「残念ながら……」
その空気を壊すように、救急隊は現在の時刻を読み上げる。
すると、俊介は背後から何かの気配を感じた。
コツコツ、コツコツと聞こえる革靴の音が身体の自由を奪っていく。
俊介は自分の真後ろにその音が来ても、振返ることが出来なかった。
一筋の汗が、背中を流れていくのがわかる。
近づいた足音は再び離れ、ゆっくりと俊介の視界に、足音の正体が映し出されていく。
登和子に聞いた通り、その人物はツバの長い戦闘帽のような帽子を深く被り、大きなマスクをした人物だった。
背格好はあまり大きくはなく、短髪の少年のようにも見えた。
その人物は、貞雄の枕元に屈むと、右手を貞雄の額へと伸ばす。
そしてその手が額に触れる直前に一瞬手を止め、視線だけを俊介、敏子、登和子の順に動かした。
ツバの隙間から覗く瞳が、俊介の脳内に刻み込まれていく。
不思議と恐怖を感じることはなく、むしろ、何処か懐かしさを与える大きな瞳をしていた。
運転手は視線を貞雄へと戻すと、停止した時を動かすかのように、額の上に手を置いた。
俊介が一つの瞬きをする。
目を開けた時には、そこに運転手と貞雄の姿はなかった。
「本当に消えた……」
救急隊はこの光景を見慣れているのか、貞雄のいた場所に向かって手を合わせ、頭を下げた。
「行っちまったねぇ……」
登和子の声で、俊介はふと我に返る。
「やっぱり敏子と孫の顔をもう一度見るまで、必死に頑張ったん……だろうよ。あんたは充分に良く頑張った」
登和子は貞雄に話し掛けるように、溢れ出る涙を溢さないように、天井を見つめながら言った。
その言葉に敏子は何度も何度も頷き、登和子の背中を擦っていた。
俊介はその光景を見てから、何かに導かれるように窓の外へと視線を動かす。
窓の外には、空に向かって不自然な強い光が伸びていた。
迎えのバスは、今日も静かに走っていく――。
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