水の兎

木佐優士

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制作

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 五日後、バイト先に水兎が来た。
「咲馬さん! 美倉さん!」
 カウンターにいる僕たちに向かって、兎のように跳ねてしまいそうな声色で言った。
「ミトちゃん、なんかうれしそうだね」
 そう言った美倉が察したように声をあげた。
「もしかして!」
「そう! 私ね、CDデビューすることになりそうなの!」
 やったね! と美倉まで跳ねる勢いで言う。
「スカウトマン、よくぞミトちゃんの才能を見抜いてくれた!」
「おめでとう」
 僕も一言伝える。心から伝えたつもりだ。
 だけど、「ミト」は遠い世界に行ってしまうのだろうか、なんてことが気になった。
 これからどんどん表の舞台に立っていくにつれて、この店に来ることはなくなってしまうのだろうか。
 夢物語じゃなくて、ミトならきっと叶えていく。
 頼りない僕の直感だけど、そう思う。僕はそれを望んでいるし、うれしいはずなのに、複雑に感じてしまうこの心の色はやっぱりわからない。
「いつごろ発売予定なの?」
 美倉の質問に「まだ先の話ですよ」と水兎は答えた。二人のやりとりは続く。
「誰が曲を作るのかという話から始まっていて」
「アイドル系の歌、じゃないよね?」
「わかりませんが、聴いていただく方々の心に届く曲を歌い続けたいと思っています。幅広い世代の方に親しんでもらえればいいなって。じつは、私自身が曲を手がけたいという気持ちがあって、そのことは伝えてあります」
「『夏風ステップ』とかミトちゃんの作る曲は可愛くていいよなぁ」
 僕も水兎の感性が詰まった曲を聴いてみたい。そして、讃美歌アイドルとしての気持ちは忘れてほしくない。アイドルとアーティストの垣根を越えた存在になってほしい。
音 楽に詳しくはないけれど、そんなことを期待している。
「私、このまえのライブから帰ったその日のうちに作った曲があるんです」
「もう作ってあるんだ!」
 へへっ、と水兎は笑った。
「『atmosphereアトモスフィア』ってタイトルです。空気や大気、雰囲気っていう意味ですね」
「どんな曲?」
「よかったら見てみますか?」
 そう言うと水兎はスマホの画面を見せてくれる。
 横書きに歌詞が記されていた。僕は美倉と画面を共有して文字を見つめる。

『atmosphere』 作詞:ミト

 あともう少しで 魔法はおわる?

 わたしこのまま とけちゃいそう
 ただよう ただよう からのそら

 みつめてほしいだけなのに
 ひとみの奥にわたしはいるの?
 恋というひとことじゃ たりないの

 もっとふれて ぎゅっとだきしめて
 いえたらいいのに こまらせるかしら

 さよなら あまりにとつぜんで
 わたしのきもち 追いつかない

 気づいてほしいだけなのに
 ひとつの想いも伝えられない
 恋というひかりも みえないの

 もっとふれて ぎゅっとだきしめて
 いえたらいいのに こまらせたくて

 わたしこのまま きえちゃいそう
 さまよう さまよう みずのなか

 わたしこのまま とけちゃいそう
 ただよう ただよう そらのした

 みあげた 未来 すみれ色
 心もようは 風になびく

 あした わたし きっと

「恋愛の曲って書いたことないなって気づいて、初めて書いてみたんです」
 水兎は照れている様子で視線を落とし、スマホを受け取った。
 画面のなかで#水面__みなも_#に輝く光が見えた気がした。「恋」という文字が少しだけ僕の胸を焦がした。女の子の気持ちってこんな感じなのか、どこかせつない歌詞なのに透明感がある。「ミト」の声にのせて響かせてほしい。
「男でも胸がぎゅっとなりそうだった。ミトちゃんが書いたからかな。音も聴いてみたい!」
「頭のなかでは奏でているんですけど、まだ形にしていなくて。近々、音もつけてみますね!」
「楽しみだ!」
 美倉はまたはしゃぐように言った。ねえ、と陽気な調子で美倉は水兎に伝える。
「これから弁当を買ってくるけど、のり弁食べる?」
「本当ですか! 食べたい!」
「咲馬、ここをよろしく!」
 風のように美倉は休憩室に消えていった。そして身じたくを済ませて突風のように店を出ていく。
「美倉さんって太陽みたい」
「ん? そう?」
「全然センスない例えだよね」
 水兎は舌を出しておどける。美倉が太陽なんて考えたこともなかった。
「なんていうかね、明けない夜はないって思わせるみたいな。ますます変な例えだけど」
「そんな偉大なやつだったんだ」
「そうだよ。そんな人と仲よしなんてうらやましい」
 うらやましい?
 ――そんな偉大なやつだったんだ。心のなかでもう一度言う。
「彼は純粋に水兎ちゃんをいつも応援しているよ。ああいう性格だから真面目なんだかおちゃらけているのかわかりづらいけど」
 美倉の評価を下げるつもりはないから、これくらいのコメントにとどめておいた。長く一緒にいるけど、まあ、根はいいやつなんだと思う。それに水兎と出会ったのも美倉がきっかけとなったことは事実だ。
 美倉はひとのことになると妙に鋭いけれど、自分に関することはどうなのだろう。水兎がこういう印象を持っていることにちゃんと気づいているだろうか。僕は美倉がうらやましいのかもしれない。こんなことを美倉に対して思うなんて自分でも意外だけれど。
「アラバヒカのときからずっと応援してくれているもんね。さっき見せた歌詞はね、アラバヒカへの思いを恋愛に例えて書いたの。でも、いつまでも思い出に浸って、引きずられていたらいけないなって、未来のほうを向きたい気持ちもあって」
 みずみずしい歌詞の裏には水兎なりの意思表示が込められていたんだ。これまでちょっとずつ増えてきたミトのファンも、心のどこかでこのメッセージを受け取るはずだ。きっとデビュー曲としてふさわしい。
 「ミト」の原点はアラバヒカでの地下アイドル、だけどこれからは地上にも出ていって新たにアーティストとして芽吹いていく。原点があったからこそ、今の「ミト」がある。
 始まりの地のことを、水兎は忘れようとしたって忘れないだろう。
 店長が事務所から出てきた。水兎に気づいた様子だ。口もとに小さな笑みを浮かべている。
「こんにちは」
 メダルゲームの音に消えてしまいそうな音量で店長はあいさつをした。水兎も笑顔で「おじゃましています」と答える。
「このまえよかったよ」
「ありがとうございます。店長さんに楽しんでいただけてなによりです」
「ライブっていいものなんだね」
「私もお客さんの表情が直接見えるのでライブが好きです」
「多くの人に聴いてもらえたらいいね」
 ライブがよほど楽しかったのか、店長はいつもよりもよくしゃべる。こんなところにもミトの歌声の影響が及んでいるのかと思うと気分がいい。
「いろんな人に聴いてもらえたら幸せです。そのためにCDの制作を進めることになりました」
 水兎は先ほど僕たちに話していたことをざっと店長に話した。
「楽曲作り……」
 店長はなにか考えごとをしている。そして「そういうことなら」と言った。
「うちの子が音楽プロデューサーをしているみたいだから紹介できるね」
「え?」
 僕と水兎は同時に発した。水兎は「お子さんですか?」ときいた。
 店長は首を振る。
「いいや、僕には子どもがいないからね。でも、うちに住んでいる子だよ」
 店長は水兎にシェアハウスの話をする。
 水兎はとても関心がありそうに聞いている。この大人しい店長の家にじつの子どもじゃない子たちが住んでいるなんて想像もしていなかっただろう。しきりに「へえ!」とうなずいている。
「神田くんは会ったことあるよね、つかさちゃん」
「はい。おじゃましたときにお会いしました」
 ボイスパーカッションを披露してくれたのだと水兎に伝える。水兎はまた目を輝かせた。思い返すと、たしかに曲作りをしていると奥さんが説明してくれた気がする。
「つかさちゃんは動画サイトに投稿されるような楽曲のプロデュースをしていたら、そのなかの一曲が話題になったみたいでね。それがきっかけでアルバムも出しているよ」
 わが家にも一枚置いてある、とうれしそうに店長は話す。
「なんていう曲ですか?」
 店長は曲名を告げた。
 僕でも知っている曲だ。一時期、動画サイトでカバーしている人が大勢いた。今でもいるのかもしれない。カラオケでも歌えると聞いたことがある。
 水兎も驚いた表情をしていた。
「私も自分の歌を投稿しようと思っていたころがあって、動画はまめに見ていたので知っています。というより一般にも広く知られていますよね」
「そうなのかな。ぼくは音楽に詳しくないしテレビも見ないからよくわからないんだけどね」
「今度、ぜひご紹介してください。私も龍崎さんに話しておきます」
「いつでも来るといいよ。神田くんに連れてきてもらってね」
「はい!」
「妻には話しておくよ」
 店長はふたたびかすかな笑みを水兎に向けると休憩室へと歩いていった。スタッフと重ならない時間帯に昼食をとっている。
「店長、これからその奥さん手作りの弁当を食べるんだよ」
 僕は店長の背中を見送りながら水兎に伝える。
「愛妻弁当っていうやつだね」
 水兎は奥さんに早く会いたいな、と言った。
「二人で若い人たちを面倒見ているなんてすてき。店長さんの奥さんみたいな人がお母さんだったらきっと幸せだね」
 水兎には母親がいない。記憶にもほとんどないのだろう。母親という存在へのあこがれはきっとあるはずだ。
「買ってきたよ!」
 美倉が帰ってきていた。手には末広亭のビニール袋をぶら下げている。水兎の分ののり弁も入っているのだろう。
「今、店長が休憩に入ってるよ」
 了解、と美倉はうなずく。
「ミトちゃん、店長と一緒に裏で食べる? 冷めないうちに」
「うん、食べます!」
 水兎に店長の奥さんを早く会わせたい。つかささん以上に奥さんを。
 僕は明日休みだ。水兎を連れて店長の家にうかがおうと決めた。
「二人ともちょっとだけここにいて」
 僕は休憩室のドアを開けた。

       *

「いらっしゃい、待ってたよ」
 奥さんが出迎えてくれた。
 水兎はまとめた長めの髪を垂らしながらあいさつをする。
「はじめまして、和泉水兎です」
「話には聞いていたけど、女のあたしも惚れそう。あんた、手離すんじゃないよ」
 奥さんの視線が僕に向けられた。
 なんとなく誤解していそうだ。僕は「はあ」とあいまいにうなずく。
 ――やっぱりすてきな人だね。
 水兎は僕の耳もとで言った。
 この一瞬でよくわかるなと思いながら、そうだね、と返事をする。たしかに奥さんの開放的な性格はこのひとときでわかるかもしれないな、とも思った。水兎に会わせることができてよかったと安心もする。
「よく来たね。上がって上がって」
「おじゃまします」
 僕たちは靴を脱いで店長の家に入る。店長は勤務のはずだからいないだろう。
 昨日、水兎は帰り際にいつも通りゲームをしている岩本さんに声をかけて、家に行くことを伝えていた。
 今日はいるだろうか。靴はいくつか並んでいる。
 奥さんに案内されて席に着いた。
「暑かったでしょ」と奥さんは言い、「炭酸飲める?」と僕たちにきいた。
 水兎の目を見る。小さくうなずいた。僕も飲める。
「はい、二人とも飲めます」
 氷の入ったソーダのグラスを持ってきてくれた。氷の隙間を縫うように、気泡が立ちのぼってはじけていく。
 家の外からはセミの声が聞こえる。
 でもそろそろ聞こえなくなってくるころじゃないだろうか。夏はこの気泡のようにとつぜんはじけて終わってしまうのかもしれない。
 夏の終わりは妙にさみしい。
「水兎ちゃんはストロー必要だったかな?」
「いいえ、大丈夫です。ありがとうございます」
 そう伝えると水兎はグラスに口をつけた。喉を鳴らして飲んでいる。
「美味しそうに飲む子ね」
 奥さんが言った。僕も同じことを考えていた。さらにこんなことも思う。
「水兎ちゃんは清涼飲料水のCMが合いそう。まえに聴いた曲のイメージもあるのかもしれないけど」
「え、そう?」
 意外だという顔をしている。僕は、そうだね、とうなずいた。
「そのイメージってどの曲のこと?」
「なんだっけ。昨日、美倉が言ってたような……」
「夏風ステップ、かな?」
「ああ、それだね」
 僕は一口飲んで答えた。
「どんな曲なの、それ」
 奥さんも席に着いて、興味ありげにきいていた。店長からミトの歌がよかったと聞いて関心を持ったと言う。
「私が自分で作った曲なんです。夏をイメージして爽やかな感じにしました」
「そのうち本当にテレビで流れるんじゃないの」
 奥さんは楽しそうに笑っている。少しして「あ、いけない」と奥さんは言った。
「つかさを呼んでこないとね。そのために来たんだったね」
 ちょっと待ってて、と言うと二階へ上がっていった。
「店長さんと全然違うタイプだね」
 小声で水兎は言った。だよね、と僕も同意する。
「でも、だからバランスがいいのかも。お似合いだと思う」
「一緒にいるところを見てみたいなあ」
「そういえば、僕も並んでいるとこを見たことないな。会うの、今日で二回目だし」
 そんなことを話していると、階段から下りてくる音がした。
「お待たせ。まさに曲作りしている最中だったみたい」
 奥さんの後ろにはつかささんが立っている。水兎とつかささんは目を合わせた。
「この子がつかさに会いにきた水兎ちゃん」
「あ、和泉水兎です。はじめまして」
 水兎は立ち上がって頭を下げた。
「こんにちは。つかさです」
「音楽プロデューサーとうかがっていたので、こんな若い方だと想像していませんでした」
「プロデューサーなんて周りが勝手に言っているだけですよ」
 つかささんはさらっと言ったが、本当はかなりの実力なのだと思う。実際、僕も知っている曲を手がけているほどなのだから。
「それに、わたしはもうじき三十です」
「え、見えない……」
「よく言われます」
 僕もてっきり年下だと思っていた。三十間近と言われてもまるでピンとこない。
 見すぎないようにその顔をあらためて見てみる。やっぱり若すぎる。
「立ち話もなんだから座ったら?」
 奥さんの一声で僕たちは席に着く。水兎とつかささんが向かい合う形で座った。
「あの、これは家で録音したものなんですが……」
 水兎はカバンからCDを取り出し、つかささんに渡した。透明のプラスチックケースに入っている。CDにはサインが書かれていた。
「私が作った曲を何曲か、あとは洋楽のカバーもいくつか入れています」
「せっかくだからちょっと聴いてみたいです」
 そう言うとつかささんは、リビングに置かれているコンポにCDを挿入した。
 まもなく曲が流れ始める。若干粗いがミトの声の質は十分に把握できる。
「ピアノもご自身で?」
「はい、いちおうつたないながら自分で演奏しています」
 ――逸材。
 つかささんはボソッとつぶやいた。
 たしかにそう言った。思わず僕は水兎と顔を見合わせてしまった。
「なんて心地いいんだろうねえ」
 奥さんも目を細めて浸っている。
「わたしふだんはひとの音楽にあまり関心がないんですけど――」
 つかささんの言葉に水兎は少し姿勢を正す。
「面白い。やらせてください。ミトさんの曲、作ってみたい」
「よろしくお願いします!」
 水兎よりもまえに僕が言った。自然と口から出ていたのだ。テーブルに頭をぶつける勢いで頭を下げていた。
 遅れて水兎も言う。
「つかささんと関われることが光栄です。これからよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
 初めてつかささんの笑顔を見た。

 バイトの昼休憩中、スマートフォンを見ると着信履歴が入っていた。龍崎さんからだ。折り返しかける。
「もしもし神田です」
「龍崎です。おいそがしいところ失礼いたします」
「いえ、大丈夫です。なにかご用件がありましたか?」
「はい、先日水兎にご紹介いただいたつかささんですが、私も会わせていただきました。その際、すでに一曲、水兎の曲をアレンジしてくださったのです」
 この数日で?
 つかささんの本気を知った気がする。早くも動き出してくれていたんだ。
「いい方向に進んだようでなによりです」
「ありがとうございます。それで、さっそく先日のレコード会社の二長様と連絡を取ろうと思っています」
「それはいいですね。期待しています」
「神田さん、よかったら一緒にいらっしゃいませんか」
 耳に当てたスマートフォンから聞こえる龍崎さんの言葉に耳を疑った。
 わざわざ連絡をくれるなんて丁寧だなと思っていたけれど、まさかそんなことを言われるなんて思ってもみない。
「僕、ですか?」
「はい。それと美倉さんにもいらっしゃっていただけたらと思っています」
「ええと、ちょっと待ってください。うまく整理ができなくて」
「唐突にすみません。しかし、神田さんの水兎を導く力、美倉さんから垣間見えるマネージメント能力は、水兎にとって必要だと思っています」
 さらに驚くべき発言を聞かされている。僕たちはただの応援者であり、ずぶの素人だ。アーティストを本格的に支えるには、あたいしない。
「私は、お二人はファンの領域を超えていると思っています。それに、ここまで内情を理解したうえで支えてくださる方もほかにはいません。私は本来ならば表の顔には向かない立場にいるため、お二人しかいないと考えたのです。駿河も私と同様、適任ではありませんので」
 龍崎さんの立場……。一般の人とはうまくつき合ってきているのだろうけど、本当の「顔」は裏にある。アーティストにそのような人がついているというのは、水兎にとってけっしてプラスには働かないことは僕にもわかる。
だけど――。
「僕たちは水兎さんに近い存在としていられることはうれしく思います。けれど、当然ながらなんでもない素人です。力になれるとは到底思えないのですが……」
「私は神田さんに初めてお会いしたときから、これまでの経験則から、間違いなく潜在的な才能を持っている方だと感じました。ダイが一目置くというのは、きわめて珍しいことです。単なる理屈ではない惹きつける要素がにじみ出ているのでしょう。また、美倉さんにしてもするどい観察眼を持っていると気づきました。時折、彼と話していると心のうちが見透かされているのではないかと思ってしまうほどです。なにより、二人の関係性には目を見張るものがあります。水兎が心を許すのもうなずけるお二人です」
 龍崎さんがこんなに語るのが信じられない。それも僕たちのことについて。
 どちらにしても、僕一人で決められることじゃない。頭のなかをぐるぐるしている龍崎さんの言葉をなんとか落ち着かせながら声に出す。
「このあと、美倉にも話してみます」
「お待ちしています」
 からの弁当箱の横にスマートフォンを置いた。真っ暗になった画面をしばらく見つめる。考える情報がありすぎて頭が回らない。画面の奥に吸い込まれてしまいそうになった。
 「ミト」の歌声を思い出すことにした。自分でも理由はわからないけど、とにかくそう思ったのだ。
 目を閉じる。画面のように視界は暗くなった。
 声がよみがえる。
CDに聴き入るつかささんや奥さんの顔、ライブを楽しむ店長や小川さんの顔、いつでも水兎を応援している美倉の顔……。
 心が静まっていくのを感じる。
静と動を合わせ持つミトの歌声は僕の一部となっているのだと気づく。
僕はこの声をこれからも聴いていたい。
僕はミトを見ていたい。
 僕は――
「水兎をまもりたい」

 仕事が終わって、店を出るところで美倉には事情を話した。なんとなく店長や小川さんのいるなかで言わないでおこうと思ったのだ。
 ざっと龍崎さんから言われたことを伝えると、美倉は「ほお」と言った。
「やるか」
 あまりにもあっさりと決断するので、僕は拍子抜けしてしまった。
「いやいや、もっと考えなくていいの?」
「考えているうちに追いかけていた兎は逃げるだろ」
「ハンターじゃないんだから」
脱兎だっとのごとく時はすぎ去る。またとない機会だろ。それに」
「それに?」
「咲馬は引き受けるって決めてるんだろう?」
「なんでそんなこと……」
 どうしてわかったのだろう。とくに表情には出していないはずだ。そんなニュアンスで伝えた覚えもない。
「何年おまえを見てると思ってんだよ。顔に書いてあるって」
 美倉はニヤッと笑った。
「書いてないよ!」
「種明かしをするとだな、咲馬は一度これだと覚悟を決めたときに話し始めるときには、眼鏡を人差し指で押さえる癖がある。こういう風に」
 美倉は眼鏡の中央、鼻にかかっている部分を押さえる素振りをした。
「ただ眼鏡をかけ直すだけなら、耳の部分のフレームを指でつまんで直すんだよ、咲馬は」
「よく見てるね……」
「そんな癖なくてもわかるけどな。ミトちゃんに関することなら引き受けそうだから」
 間違っているとは言えないので返す言葉がなかった。
 ここまで足を踏み入れているのは、かつての僕なら考えられないことだ。
 だけど今は、どうなるかわからないとおびえるよりも、進むことを選んでいる。
 それは水兎の存在があるからだけじゃない。きっと、この目の前のお調子者がいるからなんだろう。素直に認めたくはないけれど。
「言ったろ? 俺ら地下アイドルのファンはプロデューサーなんだって。もともと素質があるんだよ」
 適当なことを言っているようで、どこか説得力がある。
 時間が経って美倉の発言を思い返すと、その適当さに気づくのかもしれないけれど、今はなぜか納得できたからそれでいい。
「もぐらはそろそろ地上に出るときかな」
「たまにはいいこと言うじゃん」
「いつも、だよ」
 夕空の下、僕らは笑い合った。
 どうやら僕は、美倉の調子に影響されてしまったみたいだ。
 けれど、悪い気はしない。
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