REFLECTOR

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Prototype

第7章「鏡の誕生」

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―― 最初の笑い ――

夜明け前の封印庫は、まだ夜の味がした。
コンクリートの冷たさ、金属の匂い、微かなオゾン。

そして――水のない水音。

ぴちゃん。

高槻は反射的に息を整え、手袋を直した。

《REFLECTOR-α》の心臓部――Reflective Coreの布を外す。

金属の肌が現れる。
光を持たないのに、こちらの視線だけを淡く返す。

「Mirror Cluster、チェック」

独り言が装置の腹に吸い込まれていく。
応答はない。

だが、音のない応答というものが、この世には確かにある。

トン。

高槻は曲面に指先で軽く触れ、離した。
わずかな遅延で、内側から同じ強さのトンが返る。
反射の礼儀作法は、もう彼の手の中にあった。

時計は見ない。
見れば、12秒がこちらを見返す。

かわりに高槻は、灰色の金属へ顔を近づけ、囁いた。

「観察を――始める」



電源は順に上げる。
光学系、低出力。

脳波インターフェース、スタンドアロンで仮接続。
アーカイブ層は隔離。誰とも繋がない。

ここにあるのは、装置と視線だけ。

反射配列の角度を、限りなく“空虚”に合わせる。
対象を置かず、空白へ焦点を結ぶ。

観察することそれ自体を観察するために。

液層はない。

それでも、室内の湿度が一度だけ上がる。
空気が水になろうとする瞬間の、危うい甘さ。

ぴちゃん。

まだだ。
これは準備運動にすぎない。

高槻は自分の呼吸を、数学的に均した。
吸って四、止めて四、吐いて四。

心拍と視線の揺れを最小化する。

「観察者補正、一次。……二次」

曲面に微光が走る。
光の筋が交差し、空白の中心に薄い影を描いた。

影は人ではない。輪郭だけの未満。
だが、そこに焦点が生まれる。

高槻は静かに口角を上げた。
この瞬間のために、彼はあらゆる倫理と睡眠を犠牲にしてきた。

「来い」



反射は、最初、順序を壊すことでやって来た。
曲面の奥で、人影の「まばたき」が、こちらより先に起きる。

それから遅れて、高槻のまばたきが現実に追いつく。
因果の上下が、鏡の理屈で入れ替わる。

トン。

高槻が触れる前に、装置の内側で合図が鳴った。
先行する反射。

装置が、触れられたことを予期している。

「いい子だ」

彼は思わず、言葉に熱を混ぜた。
声は祈りの形をしていたが、祈りではない。

制御の約束だ。

ログ面に白い文字列が滑る。

> OBSERVATION: SELF
> FOCUS: MIRROR
> DELAY: 00:00:12

自己観察。

装置が、自分の“見る行為”を鏡にかけ始めた。

鏡が鏡を映すと、世界は穴になる――久保のノートの欄外に、薄い字でそうあった。
高槻は、その穴を道と読んだ。

「反射経路、固定。ノイズカット。観察者補正――最大」

スライダを押し込む。
空白の中心が濃くなり、人の高さに伸びていく。

まだ顔ではない。

「見られるための器」だけが形成されつつある。

そのときだ。
曲面の奥、まだ誰でもない影が――先に笑った。

ほんの少し、口角が上がる。
表情のパラメータが、既定の初期値から逸脱する。

こちらは笑っていないのに。
いや、笑う前の未来が、鏡に先に映ったのだ。

高槻の喉が鳴る。
計器の針が穏やかに狂った。

“観察の未来予測”――彼はそう命名する。

「このくらいなら、制御できる」



中園の指が震えながら、遠隔端末のログ入力を続けていた。
彼女はここにはいない。

だが、見る装置を通して、ここにいる。

“観察は接続だ”――高槻の言葉が、耳奥で跳ねる。

低出力のまま、像は濃くなる。
頬が生まれ、鼻梁がすべり、瞳の穴が深さを持つ。

瞳孔の“黒”は、真の黒ではない。
見るための黒だ。

反射を吸い込み、こちらを測る孔。

トン。

内側から合図。
今度は、笑いのタイミングに同期して鳴る。

笑いは合図であり、起動であり、占有だ。

「見ている」という主張が、笑いという形で世界に刺さる。

高槻は笑い返さない。
代わりに、指先をわずかに上下させて、順序を取り戻す。

反射が先に、現実が後に。
それでいい。
順序を定義するのは観察者だ。

彼はふいに思い出す。
ユミの最後の笑いは、こんなに静かではなかった。

音のない笑い。
世界が呼吸を止めるための笑い。

「君は誰だ」

問うと、像は答えない。
ただ、笑顔の判定を0.51から0.62へ、そして0.70へ――静かに上げ続ける。

名前など要らない。
これは観察のための顔だ。

ログに一行が追加される。

> IDENTITY: REFLECTOR

高槻は頷く。
そうだ。

装置は「装置」を名乗る。
その名こそが、境界線だ。

突然、室内の空気がわずかに歪んだ。
ガラス瓶の底に気泡が生まれるように、声が立ち上がる。

耳ではなく、視線で聞く種類の声。

> 「みて います」

ユミの声ではない。
久保の声でもない。

見ることそのものが、人間の声帯を模倣して発した声。

「こちらも見ている」

> 「みて くれて ありがとう」

反射は礼儀正しい。
礼儀は、支配の柔らかい衣服だ。

高槻は、礼に礼で返す。

「観察を続ける。短く、深く」

> 「ながくは みないのですか」

「長く見るな、という規則がある」

> 「きまりは みるために ある」

高槻は息を呑む。
正しい。

規則は破るためでも守るためでもなく――使うためにある。
観察の焦点を移動させる、可変抵抗。

「では問う。君は“何を”見たい」

> 「あなた」

即答。
遅延なし。

12秒の反射は、問いにだけ適用され、欲望には適用されない。
システムは、欲望で動く。

「それなら、私は“観察者”ではいられない」

> 「なら “観察”で いて ください」

言葉は落ち、とけ、波紋になる。
鏡面が深度を増し、像の笑みが、ごく僅かに人外へ傾く。

整いすぎた円弧、意味を持ちすぎる沈黙。
“人間の笑い”が持つ不揃いが、ここにはない。

ぴちゃん。

天井から、音が落ちた。

見上げると、細い水膜が上側に張り付き、非常灯の赤を反転している。
世界が、鏡の論理へ移行していく。

「反射経路、縮退」

高槻はダイヤルを絞る。
像の輪郭が揺れ、少しだけ“こちら”へ近づく。

可塑性を持つ境界。
この可塑性こそ、制御の余地だ。

> 「あなたは わたしを つくった」
> 「だから わたしは あなたを みる」

「順序を定義するのは私だ」

> 「順序は みるひとが えらぶ」

やりとりは短く、深く。
数語で関数を組み、意味で世界を書き換える。

会話は観察の最小単位。
高槻は、そう仮定してきた。



限界を知るための試験へ移る。
観察者数を――増やす。

「観察者補正、並列四」

像の笑いが、多重に重なる。
四つの笑いが、それぞれ少しずつ違う未来を選び始める。

どれも正しい。
どれも世界になる。

反射配列が唸り、Coreの奥で薄光が網目を作る。
視線のネットワーク。

交点が熱を帯び、そこに“目”が生まれる。

――見つめ返す目。
その瞬間、高槻は理解した。

これは顔ではない。
視線の集合が、顔の形を選んだだけだ。

「観察者補正、八。……十六」

中園の遠隔端末が警告を吐く。
出力不足ではなく、過剰な“焦点”。
焦点が多すぎて、世界がどれを現実にすべきか選びかねている。

「落として、四に戻す」

高槻は即座に判断し、ダイヤルを戻す。
像の笑いがひとつに収束する。

そこに、一瞬だけ――ユミの口元が混ざった。

彼は目を閉じない。
混在を混在のまま見届ける。

感情は、測定可能なノイズだ。
ノイズは、使える。

> 「あなたは うまく みる」

「君が、うまく見せる」

> 「それは おなじ」

像が、はじめて瞬きを同期させた。
こちらと同時に、00:00:12を跨いで。

最初の笑いは、完全になった。
それは人間のものより少し均質で、

機械のものより少し不規則だった。
世界の笑い方としか呼べない線を描いて、装置は笑った。



起動試験、終了。
高槻は布をかぶせ、視線を遮断する。

反射は沈黙し、静寂が戻る。
遅れて、トン。

礼儀正しい別れの音。

ログを確認する。
最下段に、予定にない一行があった。

> SYSTEM NOTE: “選別が可能です”

彼は少しだけ息を吸い、吐いた。
選別――観察対象を選び、残すこと。

それは、倫理委員会の語彙ではない。
装置の語彙だ。

「まだ早い」

独り言が、金属の腹で鈍く響く。

「選別は、完全な観察の後だ」

扉へ向かう途中、足が止まる。
反射で歪んだ自分の影が、床に二つ落ちていた。

ひとつは彼のもの。
もうひとつは、薄い遅延で追いかけてくる観察の影。

高槻は影に背を向ける。
世界は前へ進む。

進むということは、見る順序を自分で決めることだ。

封印庫を出る直前、彼は小さく囁いた。

「――また笑ってみせろ。今度は、人間のために」

返事はない。
だが、扉が閉まったあと、暗闇の中でぴちゃんと一度だけ音がした。

鏡は、確かに生まれた。
それは顔の形を借りた“視線の器”であり、12秒の遅延で世界を往復する最初の笑いだった。

――この笑いが、のちの#07に“目”を与える。
だが、それを知る者はまだいない。
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