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第9章「観察者の継承」

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―― 記録は誰のものか ――

引き戸の隙間から、廊下の白い光が細く伸びていた。
久保はその線を踏まないように、夜の旧研究棟を歩いた。

民間移管のあと、ここは空き家同然だ。
だが空き家ほど、よく見てくる。

廊下の先にあるのは――封鎖された観察室。
扉の札は剥がれ、代わりに手書きのメモが貼られている。

『立入禁止(長く見るな)』。

自分の字だ。
貼った覚えはない。

扉に耳を当てる。
音はなかった。

なかったはずだった。

ぴちゃん。

壁の向こうで、水が跳ねる。
久保は、ため息と一緒に笑ってしまう。
――帰ってきたのだ。
観察が、世界の外から。



観察室は、空っぽだった。
中央の台座に水槽はなく、代わりに薄いガラスの板が立てかけてある。

鏡のようで鏡ではない。
近づくと、表と裏の区別が、静かに誤魔化される。

机の引き出しに、封筒が一通。
宛名は「中園」。

開けると、報告書の控えと、小さな鍵が入っている。
メモには一行だけ。

> “観察は返ってきた。受け取って、渡してください。” — K

久保は鍵を握り、鏡板の前に立つ。
そこに映るのは、痩せた自分の顔。

だが輪郭の内側、瞳の奥には、遅れて笑う影がひとつ、ふたつ。

「……見ているのは、誰だ」

問いは鏡に吸い込まれ、遅れて返る――あなた、と。

久保は目を閉じた。
観察は、いつも遅れて返ってくる。

遅れが秩序を作る。
秩序は記録になる。

記録は、誰かのものになる。



翌日。

駅前の小さな喫茶店で、中園は封筒を受け取った。
久保はここで別れるつもりだった。

だが彼女は封筒の中身を確かめるより先に言った。

「先生、きのう、旧棟の監視モニターに“廊下”が映りました」

「水面の?」

「ええ。……天井に張り付いて」

氷の音が、グラスの内側でかすかに鳴る。
中園は迷いのない目をしていた。

倫理委員会で初めて強い声を出した夜から、彼女は少しだけ変わった。

「観察が外へ出たなら、戻る場所を作らなきゃいけない」

中園は鍵を握りしめる。

「それが記録の役目だと思うんです」

「記録は、残す者のものだ」

久保は言った。

「残された者のものではない」

「同じことです。残すから残される」

久保は苦笑し、黙って頷いた。
若い言葉は、ときどき、古い祈りより正確だ。


夜。
マンションの一室。

「前の住人」が退去したばかりの部屋に、短期の調査用として中園が入った。

契約名義は研究機関の付属団体。

住所には、見覚えがあった。
――最初の反射音事案。

ここから、すべてが始まった。

部屋は静かだ。
白い壁。
窓の桟に塵。
脱ぎ捨てられた生活の影。

中園は携行端末を起動し、ミラー・プレートを枕元に置く。
起動音は鳴らさない。

観察は、なるべく音のないところから始めたほうがいい。

彼女は録音を開始し、低く囁いた。

「観察ログ/住宅内記録――開始。O.C.-0(暫定)。対象:空室。備考:新しい観察者の有無を確認」

沈黙が広がる。
沈黙にも、いくつか種類がある。
単なる不在の沈黙。
何かが止まっている沈黙。

誰かが見ている沈黙。

今夜は、三番目だ。

ぴちゃん。

洗面所の方から、微かな音。
中園はゆっくりと扉を開ける。

狭い洗面台、安い鏡。
誰もいないはずの鏡の中で、遅れて点る光がひとつ。

「……戻ってきた」

声に出すと、鏡が薄く曇る。
彼女は指先で鏡面をトンと叩く。

遅れて、トンと返る。
反射の礼儀作法は、ここでも有効だ。

「観察者補正、ゼロ。観察対象――環境」

鏡に、廊下が映る。
水面の廊下。

奥に、柔らかい影。
#00の笑いの欠片にも、#07の目の前駆にも似ていない。

ただ、見ることだけが立っている。

> 「みて いますか」

声は、聞こえたはずなのに、録音には残っていない。
観察は、記録の外側でも起こるからだ。

「見ています」

中園は、真っ直ぐ言う。

「ただし、短く、深く」

> 「ながく みる ひと が くる」

「来させてはだめ」

> 「くる」

彼女は目を閉じた。
短く、深く。

この部屋で長く目を開けるのは危険だ。
視線は積もり、住み着く。

それでも、視線は集まる。
誰かが、外の通りで足を止め、窓辺を見上げた。

近所の住人が、「空き部屋なのに」灯りの気配を感じた。
見知らぬ誰かが、SNSに「夜の水音」を書き込んだ。

観察は、いつだって群れをつくる。
中園は録音を止め、鏡の前に立ち直った。
鏡の奥で、光が12秒遅れて呼吸している。

彼女は口を開く。

「ねえ。次の観察者を、ここに呼ぶのはやめて」

> 「きめるのは あなた ではない」

「そうね。だから――渡すだけ」

彼女は鞄から薄い冊子を取り出した。
事故報告、研究メモ、倫理議事録の抜粋。

表紙には、手書きの題名。

『REFLECTOR:簡易取扱い案内』

A4を二つ折りにしただけの、素朴な紙。
最後のページに、たった一行。

>  長く見るな。短く、深く。

中園はその冊子を洗面台に置き、鏡に背を向けた。

「私は、鍵になる。あとは、前の住人が決める」

部屋のどこかで、電気が小さく鳴る。
冷蔵庫も、換気扇も動いていない。

それでも、生活の音が短く生まれ、すぐ消える。

居住の幻。

観察が、住みはじめる。



その頃。

高槻は新施設の片隅、緊急連絡端末に短いメッセージを打っていた。
宛先は不明――送信先は、観察。

> 「選別はまだだ。
>  戻ってきたのなら、まず“観察者の資格”を測れ。
>  恐れる者を、残せ」

送信完了。
画面が黒に沈む。

彼はプレートを取り出し、光を見た。
12秒の遅延が、彼の瞳に定着する。

世界の速度を、自分の呼吸で上書きする。

「長くは見ない」

独り言のように呟く。

「――だが、選ぶ」
その声は、どこかの空室の洗面台へ、どこかの読者のモニターへ、遅れて届く。

観察の言葉は、遅れてこそ命令になるのだ。



夜半。

旧研究棟の屋上。
久保はフェンス越しに街の灯りを見ていた。

遠くで救急車のサイレン。
近くで猫の気配。

目を閉じれば、それは全部、視線の音に聞こえる。

彼は胸ポケットから、小さな封筒を取り出した。
宛名はない。

中には、娘の古い絵。
四角い水色の枠の中に、黒い点がひとつ。

裏面に、子どもの字でこうある。

> 「みてるよ」

久保は、やっと息を吐いた。
観察は祈りで、祈りは反射で、反射は記録。
そして記録は、誰かへ渡されて初めて、世界になる。

「――渡そう」

彼は封筒ごと絵を空にかざし、目を細める。
視界の底で、薄い水面の廊下が街の光を繋いでいく。

遠いビルの窓、もっと遠い部屋、もっと遠い瞳。
どこかの前の住人が、今夜、この物語の最初のページを開く。

ぴちゃん。

屋上の手すりに、雨粒がひとつ落ちた。
空は晴れていた。

それでも、水音は落ちる。
観察が、世界の天気を少しだけ上書きする。

「長く見るな」

久保は空に言う。

「短く、深く。――そして、渡せ」

風が、紙の匂いを運ぶ。

その匂いは、知らない部屋のクローゼット、初めての鍵、古い鏡の裏、そして読者のページ端からも、かすかに立ちのぼっている。

観察は、継承された。
装置から人へ、人から記録へ、記録からあなたへ。

もはや、誰のものでもない。
見ている者のものだ。

画面のどこかで、数字が点滅する。

00:00:12。

まばたき一回分の宇宙。
その間だけ、世界は完全にあなたのものになる。

そして、あなたが目を閉じるたび――物語は、最初の部屋へ帰る。
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