【恐怖短編】“そこ” までの空白

織田 聖一(おだ しょういち)

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“そこ” までの空白

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「この夏は、山にいくなよ」

 部下の田島に、そう伝えた。

「え? 部長、急に何ですか?」田島は、眼を丸くして返す。
「最近、山岳遭難とか多いだろ、だから──」
「今年は家族で行くんです。息子も来年は小学生だし、大自然を感じさせたいんすよ」
「いや、熱中症とかもあるからさ」
「へー? その辺の対策は万全ですし、何年、山入ってると思ってるんですか。僕、素人じゃないですよ!」

 同僚数名らと、夏季休暇の予定を団子になって話し合っていた田島は、その場のムードを悪くさせぬよう、俺の忠告を冗談であるかのような空気にしようとおちゃらけた口調で返してきた。しかし、彼がこちらに向ける視線だけが、俺を痛烈に非難していた。

「まぁ、そうだよな。いや、体調管理に気を付けてほしかっただけだよ。田島は、営業部の稼ぎ頭だから」
「大丈夫すよ。山で気力を養って、もっと売り上げ、ぶち上げますから!」

 いつも自意識過剰な態度でありながら、成績も優秀な田島の宣言に「課長、言われちゃいましたね!」と、団子の中の社員からツッコミが入り、周囲がどっと笑いに包まれる。

「それを言われちゃ、弱っちゃうな」と、俺は負けを認めて頭を掻いて降参を表明する。

「じゃ、外回り行ってきます!」と、田島はその場を颯爽と後にした。

 有言実行、成績優秀、そのうえ容姿端麗と、何もかも備わっている田島を、団子の連中は視線で見送った。その視線のなかには、羨望もあれば嫉妬もあるだろう。

「あいつは、すげぇよ。なんでもできて、気遣いができるうえに嫌味ったらしくもないんだから。まったく敵わんよなー」

 誰かがそう呟いて、団子は各々のデスクへと散らばっていく。

 田島はおそらく、この夏、山で死ぬ。
 女が、彼を崖から突き落とす。

 そんなこと、田島本人に言えるはずがない。

 それが何月何日の、どこなのかも分からない。しかし、確信めいた予感、そのざわめきだけがある。空調が効いた少し肌寒いオフィスで、額にじっとりとかいた脂汗を、ハンカチで拭った。


────


 暗闇のなか、アスファルトの歩道を一歩、また一歩と進んでいく。

 周囲を見渡すと、そこが橋の上であることが分かる。中央分離帯を挟んで、上りも下りも二車線あるが、車が通る気配はない。

 歩道の端には、高さが胸の辺りまである手すりが伺える。身を寄せて下を覗く。眼下には真っ暗な空間だけが広がっている。耳を澄ますと、さざ波が聴こえるものの水面は伺えない。

 ここが何処で、いまが何時なのかすら分からないが、自分がここに何をしに来たかは、はっきりとわかる。

 俺は、ここから飛び降りる。

 もうそれしか自分の行き先を考えられない。しかし、絶望しているわけではない。

 その期間はもうずっと前に過ぎ去ったように感じる。強い意志をもってこの決断に踏み切ったという感じもしない。必要に迫られ、こうすることが最善なのだという感覚のみが、自分のなかに残っている。

 まばたきをした瞬間、身体が浮き上がったような感覚になり、頭上から強風が吹き下ろしてきた。思わず首を上へ向けると、風が吹いているのではなく、自分がくうを真っ逆さまに落ちていくことが分かる。視界は眼を開けても閉じても真っ暗で、風が身体を切る轟音だけが耳をつんざく。次第に寒さを覚え、それは恐怖へと変わっていく。

 この恐怖は、高所から落ちるという現象によってもたらされるものなのか、その先に待つ “死” そのものへの不安からなのか、はたまたその両方か。とにかく、この恐怖が早く過ぎ去ってほしい。その一心で眼を閉じたまま、落ち続ける。この恐怖の終わりは死によって解決することを思うと、安堵する自分も現れる。

 これで良かったのかどうか、束の間の自問自答。俺はここまでどうやって来たのだろう。何が原因でこの結末を迎えるのか、まったく分からない。しかし、それでも納得はしている。こうするしかなかった。こうするのが最善なのだ。

 恐怖と安堵を繰り返し、永遠に思えるような時間を落ちていく。

 早く終われ、早く終われ、早く終われ、早く──


────


 重い何かが胸に落ちてくる衝撃で、目が覚めた。娘のかえでだ。

「パパ、いつまで寝とるん!? て、お母さんが言ってますー!」けらけらと笑いながら、大声で起床を促される。

「はい、起きます。起きますよー」

 起き上がって、楓と寝室を後にして、リビングへと向かう。

「今日、なんか夢を見てたの?」朝食を準備し終え、キッチンで洗い物をする妻が、深刻な顔をする。

「え? あー、大したことない夢だよ」詳細は話したくない。
「そう、なら良いんだけど。何度声をかけても起きないし、うなされてたから、また嫌な夢を見てるんだと思ったんだけど──」

 二人の間に、しばしの沈黙が訪れる。

 その沈黙に構うことなく、楓は「ジュース飲みたい!」と声を張り上げる。妻は、冷蔵庫からオレンジジュースを出し、コップに注いで「溢さないでね」と言いながら楓へ渡した。

 妻が近づき「この子の夢?」と小声で問いかけてくる。

「いや、違う違う! ホラー映画みたいな夢だったよ。ゾンビが出てきたんだ。非現実的だったから」咄嗟に、嘘と笑顔を作る。

「ゾンビ? 何それ!?」妻も顔がほころんで笑い合ったが、すぐさま「でも、それって──」と、顔をしかめて呟く。

「何言ってんだよ! ゾンビだぞ、ゾンビ! 前はドラゴンだって夢に出たんだ。あるわけないだろ!」

「そっか、そうよね!」妻に笑顔が戻り、会話の内容を分かっていない楓と三人で笑い合った。

 ソファの背もたれに喪服が掛かっている。今日は、田島の葬式だ。

 田島は、四日前の土曜。家族連れでキャンプを兼ねた登山へと出かけ、崖から足を滑らせ、転落死した。突然の不慮の事故に、営業部の面々は騒然とし、悲しみに包まれた。

 家を出たころは快晴だった空が、葬儀場へ近づくにつれ、太陽を雲が覆い隠し、到着するころには、傘が必要なほど雨が降り注いでいた。

 参列者は、家族、親戚、同僚はもちろんのこと、会社の役員や取引先の面々まで、百人に及びそうな数だ。田島の営業マンとしての力は、参列者の多さという形でこの場も表れていた。喪服を着た真っ黒い集団を、葬儀場の玄関口が、ずるずると飲み込んでゆく。

「若手社員の中で、いまどき珍しい積極的な営業スタイルで、まさに勇猛果敢という言葉に恥じない、優秀な社員で──」

 社長の代表者挨拶のなか時折、鼻を啜る音や、悲しみに漏れる声を我慢する音がする中で「田島さん、部長の言う通りに、山に行かなきゃ良かったのに──」と、囁くのが聴こえた。生前の田島と団子になって語らっていた誰かだろう。

 いつの間にか社長の挨拶が終わり、スタンドマイクの前に、神妙な面持ちで、すらりと背の高い女が立った。深々と長いお辞儀をしたのち、彼女は口を開く。

「皆様、この度はお忙しい中、夫である拓海たくみの葬儀へ、参列いただきまして、誠にありがとうございます――」

 お決まりの文句から始まり、誰もが予想できるようなお決まりの言葉が、参列者がひしめいている空間へ充満する。

 彼女は、涙一つ流さない。

 それは突然の夫の死へ、いまだに実感がないからこその空虚なのか。凛とした態度で、押し寄せる悲しみに逆らおうとする必死の抵抗なのか。はたまた、田島を突き落とした本人であるからこその、冷淡な振る舞いなのか。真意は何一つ分からない。

 俺は、たしかに田島が女に落とされる光景を夢で見た。その女が、いま斎場でマイクの前に立っている彼女なのか、別の女なのか。そんなことはどうでもいい。

 俺は子供のころから、未来に起こる災難を、夢という形で見ることがあった。

 はじめは災害や事故の光景を見て、怖い夢だと思っていた。しかし、後日テレビのニュースや新聞で、夢に見た景色が現実化したのを知るのだ。そのとき、自分は正夢を悪夢として見る人間なのだと確信し、恐怖した。楽しい夢や幸せな夢も見て良いはずなのに、必ず見るのは災難の夢だけだ。

 若いころは、その夢で起こる出来事を阻止しようと躍起になったが、どこで、何が起こるかも全く不明で、夢の中で会う人々や景色は、海外であることも多く、どうしようもなかった。

 親にそれを伝えても、はじめは冗談扱いだった。詳細に話して具体性が帯びると気味悪がられ、両親から疎まれる視線に耐えられず、その話はしなくなった。自分を普通の人間だと偽るようにしたのだ。

 事故、災害、テロ、戦争、殺人、様々な誰かの不幸を夢で見て、あとから現実が追いかけるように実現してしまう。その繰り返しに絶望したが、次第にそれも回数を重ね、まるで映画のワンシーンのように慣れてしまった。

 それに世界のどこかで起きる不幸を、夢で体験したとして、それが本当に世界のどこかで起きることと同一の出来事なのか? 自分がそういう関連付けをしてしまうせいで、自ら夢と現実の意味づけを強化していっただけのことではないか?

 そうして、見た夢と現実に起きることを、自己暗示することで、次第に夢を見るストレスは軽減していった。あとは心療内科で処方される抗うつ剤と睡眠薬のおかげで、不吉な夢と距離をおいてきたのだ。

 やっと手に入れたまともな生活と心の静寂。そしてこんな俺にも作ることができた家族、そのはずだったのに──。

 俺は、ついに同僚が殺される夢を見た。しかし、俺は彼の死を避けようと積極的になれなかった。

 実際、どうやって彼にその事象を伝えればいい。伝えたところで信じられないだろうし、俺の願いが水泡に帰すことは明らかだ。

 仮に夢の内容を伝えたとして、田島が助かったとしても俺は変人扱いされたまま会社での人間関係を続けなきゃならないだろう。最悪なのは、夢の内容を伝えた挙句に、田島が殺された場合だ。俺はいくら警察に「夢で見たことを警告しただけだ」なんて証言しても警察から見れば。犯行の計画を知っていた重要参考人じゃないか。

 俺はどちらにせよ、田島の死を止められなかった。妻だけが、俺の夢のことを知っているが──どうやったって──無理だろ、そんなの。

 それに田島が死んだのは確かだが、夢の通りに女が突き落としたのかは分からない。実際のその光景を見たわけでもないんだし……。いま俺が目で見えているのは、夫の葬式で涙を流さない未亡人の女、それだけだ。なんの証明にもならない。

 そんなことよりも問題は今朝見た、俺が飛び降りる夢だ。俺は自分の判断で決心し、自分の行動が正しいと確信して、身を投げていた。感触は確かだった。

 この葬儀が終わって、俺があの橋へたどり着くまでの空白期間、いったい何が起き、どんな心情の変化で、死を願いながら飛び降りるのだろうか。それまで、時間の猶予はどれほどあるのだろうか。何もかも分からない。

 これは、何かの罰なのか──。

 感情のない田島の妻の声が、真っ黒い集合体を包み込んで、俺の耳へと空虚に届く。どこからともなく自分へと近づきつつある死の存在を、俺は意識していた。

 額にじっとりとかいた脂汗を、ハンカチで拭った。
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