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毒が結んだ二人
毒見室の燭台は、今日も規則正しく灯されていた。
炎は静かで、影は揺れない。ここでは、すべてが整えられている。皿の配置も、椅子の角度も、時計の針の進み方すら。
マリアは定位置に座り、手順どおりに最初の皿へと手を伸ばした。
執事長は壁際で懐中時計を開き、視線を秒針に落としている。
扉が開く。
「今日も無事かい」
ルーカスは、いつもの調子で入ってきた。
「ルーカス様。毒見中の」
「知っている」
執事長の制止を、彼は短く断った。
そのままマリアの側へ歩み寄る。今日は、言葉が少なかった。
マリアは不思議に思い、規定の量を口に運び、時間を置いてから言った。
「……安全です」
「分かっている」
ルーカスは椅子を引き、腰を下ろした。
「今日は、君の食事を見に来た」
「……私の、ですか」
「テーブルマナーは気になる点があるが、所作は綺麗だ」
マリアの指先が、ほんのわずかに止まる。
「見られながら食べるのは、集中できません」
「いつも見られているじゃないか」
ルーカスは軽く肩をすくめた。
「僕だから緊張するのかな」
冗談のつもりだった。だがその言葉に、マリアの頬が淡く色づく。
それを見て、ルーカスの頬も、遅れて赤くなる。
マリアは視線を落とし、パンを切ろうとして――手が止まる。
「手を止めるな」
執事長の声が鋭く落ちた。
「……申し訳ございません」
マリアは、再び手を動かした。
ナイフの刃が、わずかに震えていた。
ルーカスは、それを黙って見ていた。
何かを言いかけて、言葉を飲み込む。燭台の炎が、彼の瞳の奥で小さく揺れた。
やがて、毒見を終える。
マリアは水を口に含み、決まった時間が経つのを待った。
静寂が落ちる。秒針の音だけが、室内を満たした。
「異常―」
その言葉は、最後まで続かなかった。
マリアの指先からグラスが離れた。
次の瞬間、椅子が傾き、彼女の身体が崩れ落ちた。
皿が落ち、グラスが割れる甲高い音が、毒見室の静寂を粉々にした。
「マリア!」
ルーカスが立ち上がり、床に膝をつく。彼女を抱き起こすと、呼吸が浅く、早く、乱れていた。額には冷たい汗が浮かんでいる。
執事長は、歩幅を変えずに近づいた。
「毒が当たりました。その様子では効きが早い猛毒です。すぐに“それ”からお離れください」
“それ”
ルーカスの腕の中にあるものを、彼は人として呼ばなかった。
「医者を呼べ!」
ルーカスは叫んだ。
「庶民に医者は呼べません」
冷たい言葉だった。
「厨房に毒見役がいるはずだ!父上は必ず置いている!最初の毒見は済んでいるのだろう!なぜだ?!」
執事長の瞳が、わずかに細まる。
「完成した後に盛られました。そのための“それ”です。お離れください」
ルーカスは、腕の力を強めた。
彼の胸元に、マリアの呼吸が断続的に当たる。熱は、もう薄い。
ルーカスは執事長を睨みつけた。
その視線には、理解が含まれていた。
だが、声にはならない。
「……ルーカス、様」
かすれた声が、腕の中から零れる。
「喋るな。すぐ――」
「嬉しかった、です」
マリアは、息を継ぎながら言った。
「名前で、呼んで、くださって」
彼女の指が持ち上がり、震えながらルーカスの頬に触れる。
その指は、驚くほど軽かった。
「庭園で……お話、したことも……」
言葉がほどけていく。
「……もういい。休め」
ルーカスの声は崩れていた。
マリアは、小さく首を振る。
「もし……また、会えた、なら……」
彼女の瞳が、ゆっくりと彼を見上げる。
「あなたと……」
その続きは、言葉にならなかった。
指先が、頬から滑り落ちる。
呼吸が、止まる。
燭台の炎が、わずかに揺れた。
ルーカスは、動かなかった。
ただ、腕の中の温度が失われていくのを、確かめるように抱き続けた。
ーー
マリアの遺体は、毒に侵されているとして燃やされた。
灰は川に流され、記録だけが簡潔に残された。
――毒見役一名、毒死。
毒を盛ったとされたのは、厨房の若い召使いとされた。
尋問の記録は残らず、処罰の結果だけが公示された。断首。動機、不明。
ルーカスは、その日を境に酒を手放さなくなった。
庭園には近づかず、毒見室の前も通らなくなった。
彼は二十二で死んだ。
医師の記録には、臓腑の衰弱とだけ記されている。
ーー
執事長は、書庫で帳簿を閉じる。
マリアに関する記録は、すべて黒塗りされた。
毒見を行った者。評価。出自。給与。
彼女は、存在しなかったことになる。
執事長は、窓の外の川を見た。
水面は穏やかで、何も流れていないように見える。
「……最大の毒は、あの少女だった」
誰に聞かせるでもなく、彼は呟いた。
秩序を揺るがし、身分を曖昧にし、
次男に、恋という毒を与えた。
記録が閉じられる。
紙も記憶も伝える者も残らない。
ただ、毒だけが、世界に静かに残り続けた。
炎は静かで、影は揺れない。ここでは、すべてが整えられている。皿の配置も、椅子の角度も、時計の針の進み方すら。
マリアは定位置に座り、手順どおりに最初の皿へと手を伸ばした。
執事長は壁際で懐中時計を開き、視線を秒針に落としている。
扉が開く。
「今日も無事かい」
ルーカスは、いつもの調子で入ってきた。
「ルーカス様。毒見中の」
「知っている」
執事長の制止を、彼は短く断った。
そのままマリアの側へ歩み寄る。今日は、言葉が少なかった。
マリアは不思議に思い、規定の量を口に運び、時間を置いてから言った。
「……安全です」
「分かっている」
ルーカスは椅子を引き、腰を下ろした。
「今日は、君の食事を見に来た」
「……私の、ですか」
「テーブルマナーは気になる点があるが、所作は綺麗だ」
マリアの指先が、ほんのわずかに止まる。
「見られながら食べるのは、集中できません」
「いつも見られているじゃないか」
ルーカスは軽く肩をすくめた。
「僕だから緊張するのかな」
冗談のつもりだった。だがその言葉に、マリアの頬が淡く色づく。
それを見て、ルーカスの頬も、遅れて赤くなる。
マリアは視線を落とし、パンを切ろうとして――手が止まる。
「手を止めるな」
執事長の声が鋭く落ちた。
「……申し訳ございません」
マリアは、再び手を動かした。
ナイフの刃が、わずかに震えていた。
ルーカスは、それを黙って見ていた。
何かを言いかけて、言葉を飲み込む。燭台の炎が、彼の瞳の奥で小さく揺れた。
やがて、毒見を終える。
マリアは水を口に含み、決まった時間が経つのを待った。
静寂が落ちる。秒針の音だけが、室内を満たした。
「異常―」
その言葉は、最後まで続かなかった。
マリアの指先からグラスが離れた。
次の瞬間、椅子が傾き、彼女の身体が崩れ落ちた。
皿が落ち、グラスが割れる甲高い音が、毒見室の静寂を粉々にした。
「マリア!」
ルーカスが立ち上がり、床に膝をつく。彼女を抱き起こすと、呼吸が浅く、早く、乱れていた。額には冷たい汗が浮かんでいる。
執事長は、歩幅を変えずに近づいた。
「毒が当たりました。その様子では効きが早い猛毒です。すぐに“それ”からお離れください」
“それ”
ルーカスの腕の中にあるものを、彼は人として呼ばなかった。
「医者を呼べ!」
ルーカスは叫んだ。
「庶民に医者は呼べません」
冷たい言葉だった。
「厨房に毒見役がいるはずだ!父上は必ず置いている!最初の毒見は済んでいるのだろう!なぜだ?!」
執事長の瞳が、わずかに細まる。
「完成した後に盛られました。そのための“それ”です。お離れください」
ルーカスは、腕の力を強めた。
彼の胸元に、マリアの呼吸が断続的に当たる。熱は、もう薄い。
ルーカスは執事長を睨みつけた。
その視線には、理解が含まれていた。
だが、声にはならない。
「……ルーカス、様」
かすれた声が、腕の中から零れる。
「喋るな。すぐ――」
「嬉しかった、です」
マリアは、息を継ぎながら言った。
「名前で、呼んで、くださって」
彼女の指が持ち上がり、震えながらルーカスの頬に触れる。
その指は、驚くほど軽かった。
「庭園で……お話、したことも……」
言葉がほどけていく。
「……もういい。休め」
ルーカスの声は崩れていた。
マリアは、小さく首を振る。
「もし……また、会えた、なら……」
彼女の瞳が、ゆっくりと彼を見上げる。
「あなたと……」
その続きは、言葉にならなかった。
指先が、頬から滑り落ちる。
呼吸が、止まる。
燭台の炎が、わずかに揺れた。
ルーカスは、動かなかった。
ただ、腕の中の温度が失われていくのを、確かめるように抱き続けた。
ーー
マリアの遺体は、毒に侵されているとして燃やされた。
灰は川に流され、記録だけが簡潔に残された。
――毒見役一名、毒死。
毒を盛ったとされたのは、厨房の若い召使いとされた。
尋問の記録は残らず、処罰の結果だけが公示された。断首。動機、不明。
ルーカスは、その日を境に酒を手放さなくなった。
庭園には近づかず、毒見室の前も通らなくなった。
彼は二十二で死んだ。
医師の記録には、臓腑の衰弱とだけ記されている。
ーー
執事長は、書庫で帳簿を閉じる。
マリアに関する記録は、すべて黒塗りされた。
毒見を行った者。評価。出自。給与。
彼女は、存在しなかったことになる。
執事長は、窓の外の川を見た。
水面は穏やかで、何も流れていないように見える。
「……最大の毒は、あの少女だった」
誰に聞かせるでもなく、彼は呟いた。
秩序を揺るがし、身分を曖昧にし、
次男に、恋という毒を与えた。
記録が閉じられる。
紙も記憶も伝える者も残らない。
ただ、毒だけが、世界に静かに残り続けた。
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