毒見役の少女が愛を知った日

ふくろうまる

文字の大きさ
8 / 8

毒が結んだ二人

 毒見室の燭台は、今日も規則正しく灯されていた。
 炎は静かで、影は揺れない。ここでは、すべてが整えられている。皿の配置も、椅子の角度も、時計の針の進み方すら。

 マリアは定位置に座り、手順どおりに最初の皿へと手を伸ばした。
 執事長は壁際で懐中時計を開き、視線を秒針に落としている。

 扉が開く。

「今日も無事かい」

 ルーカスは、いつもの調子で入ってきた。

「ルーカス様。毒見中の」

「知っている」

 執事長の制止を、彼は短く断った。
 そのままマリアの側へ歩み寄る。今日は、言葉が少なかった。
 マリアは不思議に思い、規定の量を口に運び、時間を置いてから言った。

「……安全です」

「分かっている」

 ルーカスは椅子を引き、腰を下ろした。

「今日は、君の食事を見に来た」

「……私の、ですか」

「テーブルマナーは気になる点があるが、所作は綺麗だ」

 マリアの指先が、ほんのわずかに止まる。

「見られながら食べるのは、集中できません」

「いつも見られているじゃないか」

 ルーカスは軽く肩をすくめた。

「僕だから緊張するのかな」

 冗談のつもりだった。だがその言葉に、マリアの頬が淡く色づく。
 それを見て、ルーカスの頬も、遅れて赤くなる。
 マリアは視線を落とし、パンを切ろうとして――手が止まる。

「手を止めるな」

 執事長の声が鋭く落ちた。

「……申し訳ございません」

 マリアは、再び手を動かした。
 ナイフの刃が、わずかに震えていた。

 ルーカスは、それを黙って見ていた。
 何かを言いかけて、言葉を飲み込む。燭台の炎が、彼の瞳の奥で小さく揺れた。

 やがて、毒見を終える。

 マリアは水を口に含み、決まった時間が経つのを待った。
 静寂が落ちる。秒針の音だけが、室内を満たした。

「異常―」

 その言葉は、最後まで続かなかった。

 マリアの指先からグラスが離れた。
 次の瞬間、椅子が傾き、彼女の身体が崩れ落ちた。
 皿が落ち、グラスが割れる甲高い音が、毒見室の静寂を粉々にした。

「マリア!」

 ルーカスが立ち上がり、床に膝をつく。彼女を抱き起こすと、呼吸が浅く、早く、乱れていた。額には冷たい汗が浮かんでいる。

 執事長は、歩幅を変えずに近づいた。

「毒が当たりました。その様子では効きが早い猛毒です。すぐに“それ”からお離れください」

 “それ”
 ルーカスの腕の中にあるものを、彼は人として呼ばなかった。

「医者を呼べ!」

 ルーカスは叫んだ。

「庶民に医者は呼べません」

 冷たい言葉だった。

「厨房に毒見役がいるはずだ!父上は必ず置いている!最初の毒見は済んでいるのだろう!なぜだ?!」

 執事長の瞳が、わずかに細まる。

「完成した後に盛られました。そのための“それ”です。お離れください」

 ルーカスは、腕の力を強めた。
 彼の胸元に、マリアの呼吸が断続的に当たる。熱は、もう薄い。

 ルーカスは執事長を睨みつけた。
 その視線には、理解が含まれていた。

 だが、声にはならない。

「……ルーカス、様」

 かすれた声が、腕の中から零れる。

「喋るな。すぐ――」

「嬉しかった、です」

 マリアは、息を継ぎながら言った。

「名前で、呼んで、くださって」

 彼女の指が持ち上がり、震えながらルーカスの頬に触れる。
 その指は、驚くほど軽かった。

「庭園で……お話、したことも……」

 言葉がほどけていく。

「……もういい。休め」

 ルーカスの声は崩れていた。
 マリアは、小さく首を振る。

「もし……また、会えた、なら……」

 彼女の瞳が、ゆっくりと彼を見上げる。

「あなたと……」

 その続きは、言葉にならなかった。

 指先が、頬から滑り落ちる。
 呼吸が、止まる。

 燭台の炎が、わずかに揺れた。

 ルーカスは、動かなかった。
 ただ、腕の中の温度が失われていくのを、確かめるように抱き続けた。

ーー

 マリアの遺体は、毒に侵されているとして燃やされた。
 灰は川に流され、記録だけが簡潔に残された。

 ――毒見役一名、毒死。

 毒を盛ったとされたのは、厨房の若い召使いとされた。
 尋問の記録は残らず、処罰の結果だけが公示された。断首。動機、不明。

 ルーカスは、その日を境に酒を手放さなくなった。
 庭園には近づかず、毒見室の前も通らなくなった。
 彼は二十二で死んだ。
 医師の記録には、臓腑の衰弱とだけ記されている。

ーー

 執事長は、書庫で帳簿を閉じる。
 マリアに関する記録は、すべて黒塗りされた。

 毒見を行った者。評価。出自。給与。
 彼女は、存在しなかったことになる。

 執事長は、窓の外の川を見た。
 水面は穏やかで、何も流れていないように見える。

「……最大の毒は、あの少女だった」

 誰に聞かせるでもなく、彼は呟いた。

 秩序を揺るがし、身分を曖昧にし、
 次男に、恋という毒を与えた。

 記録が閉じられる。
 紙も記憶も伝える者も残らない。

 ただ、毒だけが、世界に静かに残り続けた。
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

「やはり鍛えることは、大切だな」

イチイ アキラ
恋愛
「こんなブスと結婚なんていやだ!」  その日、一つのお見合いがあった。  ヤロール伯爵家の三男、ライアンと。  クラレンス辺境伯家の跡取り娘、リューゼットの。  そして互いに挨拶を交わすその場にて。  ライアンが開幕早々、ぶちかましたのであった。  けれども……――。 「そうか。私も貴様のような生っ白くてか弱そうな、女みたいな顔の屑はごめんだ。気が合うな」

あっ、追放されちゃった…。

satomi
恋愛
ガイダール侯爵家の長女であるパールは精霊の話を聞くことができる。がそのことは誰にも話してはいない。亡き母との約束。 母が亡くなって喪も明けないうちに義母を父は連れてきた。義妹付きで。義妹はパールのものをなんでも欲しがった。事前に精霊の話を聞いていたパールは対処なりをできていたけれど、これは…。 ついにウラルはパールの婚約者である王太子を横取りした。 そのことについては王太子は特に魅力のある人ではないし、なんにも感じなかったのですが、王宮内でも噂になり、家の恥だと、家まで追い出されてしまったのです。 精霊さんのアドバイスによりブルハング帝国へと行ったパールですが…。

触れられないはずの私が、ただ一人の彼にだけ心も体も許してしまいました

由香
恋愛
男性に触れられると体調を崩す令嬢リリア。 そんな彼女にとって唯一“触れられる”存在は――幼なじみの公爵令息レオンだけだった。 手を取られ、抱き寄せられ、当たり前のように触れられる日々。 それがどれほど特別なことなのか、彼女はまだ知らない。 やがて政略結婚の話が持ち上がり、“触れられない相手との結婚”か、“彼に触れられる人生”かを選ぶことに。 「お前に触れていいのは俺だけだ」 逃げ場のない独占と、甘すぎる溺愛。 これは、触れられないはずの少女が、ただ一人にだけすべてを許していく物語。

有名俳優の妻

うちこ
恋愛
誰もが羨む結婚と遺伝子が欲しかった そこに愛はいらない

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

恋の勝者

ハートリオ
恋愛
大国の王女イーリスは婿探しの旅をしている。 男なんて誰でも同じとクールなイーリス。 だが8番目の訪問国リモン王国で出会ったのはこれまでと違う男。 騎士団長ディー。 最後に恋の勝者となったのは―― 中世ヨーロッパ風異世界の話です。 誤字脱字申し訳ございません。 *すみません、『公爵令息』とすべきところを『伯爵令息』になってしまっているところが! 投稿後気づいたところは直してますが気づかないところもあるかもです。 すみませんです!! 読んでいただけたら嬉しいです。 よろしくお願いいたします。

彼の過ちと彼女の選択

浅海 景
恋愛
伯爵令嬢として育てられていたアンナだが、両親の死によって伯爵家を継いだ伯父家族に虐げられる日々を送っていた。義兄となったクロードはかつて優しい従兄だったが、アンナに対して冷淡な態度を取るようになる。 そんな中16歳の誕生日を迎えたアンナには縁談の話が持ち上がると、クロードは突然アンナとの婚約を宣言する。何を考えているか分からないクロードの言動に不安を募らせるアンナは、クロードのある一言をきっかけにパニックに陥りベランダから転落。 一方、トラックに衝突したはずの杏奈が目を覚ますと見知らぬ男性が傍にいた。同じ名前の少女と中身が入れ替わってしまったと悟る。正直に話せば追い出されるか病院行きだと考えた杏奈は記憶喪失の振りをするが……。

将来の嫁ぎ先は確保済みです……が?!

翠月 瑠々奈
恋愛
ある日階段から落ちて、とある物語を思い出した。 侯爵令息と男爵令嬢の秘密の恋…みたいな。 そしてここが、その話を基にした世界に酷似していることに気づく。 私は主人公の婚約者。話の流れからすれば破棄されることになる。 この歳で婚約破棄なんてされたら、名に傷が付く。 それでは次の結婚は望めない。 その前に、同じ前世の記憶がある男性との婚姻話を水面下で進めましょうか。