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1-2.

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美男子イケメンがそんなに偉いのかよ……」

 寝床から起き出したクダンは、ただでさえ不出来な顔を苦々しげに歪めて吐き捨てた。
 だが、空の木桶に魔術で水を溜めて顔を洗おうとしたところで、その顔はますます歪んでしまう。
 桶に溜まった水に映った自分と、真正面から目が合ってしまったからだった。

「……ッ」

 水面の自分と目が合ったのは一瞬のことだ。それ以上長くは、自分の顔を見ていたくなかった。けれど、一度でも見てしまえば、目の奥に焼き付いた残像が嫌でも顔を見せつけてくる。
 ほら、これがおまえの顔だぞ。姫様を自殺に追い込むほど不出来で不細工な、おまえの顔だぞ――。

「――くそっ!」

 桶の水を両手でばしゃばしゃと乱暴に掬い上げ、自分の顔に浴びせかけた。
 空気中の水分を集めて生成された水は、熱くも冷たくもない。それでも、その水で叩くようにして顔を洗っているうちに、嫌な気持ちは脳裏にこびり付いていた眠気の残滓と共に霧散していってくれた。
 濡れた顔を、空気から水分を抽出したのと同じ要領の魔術で乾かしていると、水嵩の減った桶の水面に、またしても自分の顔を見る。でも、顔を洗ってすっきりしたおかげか、今度はそれほど気持ちを乱さずに済んだ。
 ――とはいえ、乱さなかっただけで、悔しさとも苦しさともつかないが胸に痞えるのは致し方ないことだ。

『とにかくその顔、無理! 死んでも無理! その顔と口付けしなくてはならないのなら、わたくしは焼けた炭と口付けをして死にます!』

 思い出してしまったエグランティーヌの罵声が、クダンの胸を軋ませる。三年も前に言われた言葉は、さながら杭のようにクダンの胸に突き刺さったままなのだった。
 うら若き美姫エグランティーヌは、クダンの不細工な顔がとにかく堪えられなかった。この顔の男を伴侶とするくらいなら、死んだほうがましだった。だから本当に毒を飲み、あと一歩で手遅れになるところまでいったのだった。

「しかも、死んでやる、と宣言してから毒を飲むんじゃなく、無言で死のうとしやがったんだっけ……」

 エグランティーヌがクダンに向かって罵声を喚き散らしたのは、自殺に失敗した後のことだ。その順番は、彼女が本気で死のうとしていたことを、これでもかというほどはっきりと物語っていた。
 クダンの心を打ちのめしたのは、美姫の口から美しい声で浴びせられた罵詈雑言ではなく、そのだった。
 己の不細工さがだという事実を突きつけられて、人前に立つことができなくなってしまったのだ。それが、彼が死闘の果てに得た【賢者】としての輝かしい未来を捨てて、魔物の巣窟として恐れられる【混沌の森】に隠遁するに至った理由なのだった。
 なお、クダンという名前も、彼の本当の名前ではない。世の中から消えて隠棲しようと決めたとき、それまでの自分を名前と一緒に捨てていた。自分で少し気障だと思ったけれど、踏ん切りを付けるためには、そういうが必要だった。
 ――けれどまあ色々とあって、自分を指し示すものがないと不便なことになったため、便宜上の名前として“クダン”を名乗っているのだった。

「クダン」

 その必要に駆られて付けた便宜上の名を呼ぶ者が、小屋の戸を開けて呼びかけてきた。この三年ですっかり聞き馴染んだ声だ。

「朝からどうした、スース」

 クダンが戸口に顔を向けながら聞き返すと、スースと呼ばれたその相手は呆れたように、でぴたんと土間を叩いた。
 スースは人間ではない。子馬ほどの大きさをした、二間尻尾の黒い狼――人語を喋る狼だった。

「おい、クダン。朝ではないぞ。もうじき昼だ」
「なんだ、寝坊したのか……って畑! スース、おまえ朝の水やりとかやってて……くれてるわけがないよな」
「やったぞ」
「マジか!」
「嘘だ」
「はぁ!?」
「おまえが、どうせこいつはやってくれていないのだろうな、という顔をするから、からかってやったのだ」
「からかう意味が分からねぇな!」
「諧謔とは無意味を有意味のように粉飾することだと、おまえが我が輩に曰ったのだ」
「あ? なんだ、そりゃ。いつの話だよ」
「あれは二年と三ヶ月前、まだゴブリンどもが流れてくる前のことだ。ちょうど、今日のように肌寒い冬の日だった」
「憶えてるのかよ……」
「いや、嘘だ」
「……は?」
「おまえがいつ何を言ったかなど、なぜ我が輩がいちいち詳しく憶えるか。そも、それ以前に、諧謔が云々というのも我が輩がいま適当に言っただけのこと。おまえの言った言葉ではないわ」
「……もう知らん。おれはまだ朝飯も食ってねぇんだ。おまえと下らん言い合いなんぞ、していられっか」

 クダンは土間の脇にある、玄関とは別の扉を開けて、小屋に併設して建てた貯蔵庫へ行こうとする。

「朝飯ではないぞ、もう昼飯の時間だ。作るのなら、我が輩の分も――あ」

 ここでようやく、スースは自分がどうしてクダンのところに戻ってきたのかを思い出した。

「おい、クダン」
「まだ何かあんのか?」

 クダンは扉に手を掛けたところで、億劫そうに振り返る。

「じつはな、我が輩、獲物を拾ってきたのだ」
「なんだ、捌いてほしいのか? おまえだって自力でやれるだろ」
「待て。最後まで聞け。その獲物はな、魔物ではないのだ――人間なのだ」
「おまっ、村を襲ったのか!?」
「違う――ああ、さすがに説明の時間が惜しくなってきた。そろそろ治療しないと本当に死にかねない。そいつを助けないと決めたのなら、詳しく話してやる」
「阿呆か。そいつを助けるから、話は後だ!」

 クダンはすぐさま踵を返し、スースの脇を擦り抜けて家の外に出た。
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