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2. カガチ

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 最悪の災厄、剣を振う獣、魔剣の精霊……。
 ストームブリンガーと呼ばれたには、多くの異称が与えられていた。そうなった理由は、ストームブリンガーの姿をはっきりと目にして生き延びた者がいなかったからだ。
 その姿を遠目に見た者の証言や、運良く原型を留めていた遺体の痕跡などから、は「巨大な獣」であり、「無数の刃を生やしたもの」であろうと推測された。しかし結局、その曖昧な証言と推測から派生した様々な名前は、異称としてたまに使われるだけあった。は、ただが引き起こす被害の甚大さという一点のみによって、災厄を引き連れるものストームブリンガーと呼ばれるようになった。
 そして、は当時まだ無名の魔術師だったクダン(その頃は違う名だった)と戦い、敗れ、【スース】という新たな名をもって封印されることになる。表向きは討ち取られたことになっているが、実際はいまもこうして元気に暮らしているのである。

    ●    ●    ●

「あ――おい、クダン。この娘、目を覚ますぞ。我が輩は外に出ているから、おまえ、ちゃんと事情聴取しろよ」
「はいよ、分かってるって。ほら、行った行った」

 クダンは面倒そうに手を振って、まだ言い足りなそうにしているスースを小屋の外に出て行かせた。
 スースは腐っても、災厄の獣。その姿を見た者には、それが人間だろうと魔物だろうと本能的な恐怖を与えてしまうのだ。瀕死の重体から回復したばかりの少女に会わせられるわけがなかった。
 スースが出ていく物音を背中で聞きながら、クダンも顔に包帯を巻いて、女性一人を殺しかけた容貌を覆い隠す。その準備が終わったところで、寝ていた少女がゆっくりと瞼を上げた。
 なお、少女が身につけているのは、クダンのシャツだ。大きすぎてぶかぶかだったが、おかげで尻まですっぽり隠せていた。

「起きたか」

 話しかけたクダンのほうを見やって、少女は小さく息を呑んだ。目を覚ましたら覆面の男が自分を覗き込んでいた――驚いて当然だろう。

「すまんな、こんな格好で。けど、事情があってのことだ。気にしないでくれ」
「……」

 少女は答えなかったが、仰向けに身を横たえたまま、こくりと首肯した。

「まずは……名前を聞かせて――ああいや、こういうときは先に名乗るものか。俺はクダン。おまえを助けた奴の……同居人だ。で、おまえは?」
「……」

 少女は今度も答えなかった。口を何度か開いたけれど、吐息を漏らすばかりで、言葉になるような声はひとつも発さなかった。

「……覆面の不審者に名乗る名などない、ってか」

 クダンが包帯から覗く口元に自嘲を浮かべると、少女は焦った様子で息遣いを荒くさせた。

「はっ……、……あ……っ……」

 明らかに不自然な息遣いと、焦った表情。それでクダンも察しがついた。

「おまえ、声が出せないのか?」
「……!」

 クダンの問いかけに、少女は表情をぱっと明るくさせて、こくこくと何度も首を頷かせた。

「声が出せない――というより、言葉が喋れない、か。喉を怪我しているふうでもないから、心の病ってやつか」

 少女が声を出せるのは、一昨日の日中、彼女に蔓鬼灯を取り憑かせたときの絶叫を聞いているから知っていた。とすれば、強すぎる恐怖や悲しみに晒されたことが心に障って、声を言葉にして発することができなくなってしまった――と考えるのだ妥当だろう。
 だがしかし、少女はクダンの呟きを聞くと、ふるふると震えるように頭を振った。

「え、違う? 心の病じゃないってことか。あ、生まれつき喋れない身体だったとか……いや、その場合は耳も聞こえないものだって話だったか――」

 半ば自問自答になっているクダンの言葉に、少女はなおも首を横に振る。

「それも違うのか……」

 クダンは少々、面倒臭くなってきていた。首に振り方だけで言いたいことを当てるお遊戯は、別の機会で楽しみたいものだ――。
 クダンがこっそり溜め息を吐くや、少女の顔から血の気が引いていく。それを見て、クダンは自分の失敗に気づいた。

「ああ、違う違う。べつに、喋れないからって、おまえを今すぐ追い出したりはしねぇよ。そこは拾った者の責任として、ってな」

 クダンは少女を安心させるべく笑ってみせたが、包帯を巻いて目と口だけが見えている顔で笑っても、かえって不気味なだけだった。
 しかし、どのみち少女はクダンの顔を見ていなかった。布団にしている毛皮に肘をついてぎこちなく上体を起こすと、何度も咳き込むようにして、切れ切れの呻き声を口にした。

「はっ……っ……しゃ、しゃべっ……しゃべれ……るっ、っ……」

 喋れる――少女は何度もつっかえつっかえしつつも、確かにそう言った。

「ああ、うん。喋れてるな。早口言葉は難しそうだが」
「……」

 クダンが苦笑すると、少女は一仕事終えたという感じで頬笑んだ。全く含むところのない微笑みを向けられては、クダンの苦笑からも苦みが抜けてしまう。

「まあちょっとくらいのも愛嬌があっていいやな。んで――そのは元からか? それとも治療の副作用か?」
「……あっ、も……も、元からっ……です」
「なるほど。んじゃ、ゆっくりで言いから、もう少しお喋りに付き合ってくれ」

 それからクダンは、喋るのが苦手な少女から少女自身の身上をゆっくりと聞き出していった。クダンとしては、少女がどこの誰かを知っておきたかった。森の近くの住人だったら、なんとかしてそこまで送り届けてやってもいいと思っていた。助けた以上はそれくらいしてやってもいいだろうと、そう思っていた。

 ところが、

「な……に、も……おっ、思い、だ……っせない……」

 ――クダンが何を訊いても、少女は切れ切れにそう言って首を横に振るばかりだった。

 少女は自分が双頭鷲に捕まったことも憶えていなかった。憶えているのは、蔓鬼灯を植え付けられてから後のことだけだった。あとはもう、自分の名前さえ憶えていなかった。
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