アルジュナクラ

Merle

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1章 永遠の別れと運命の始まり

1-9.

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 非現実的な光景。
 足下のランタンしか照らすもののない、影絵のような光景。
 妹の胸に短剣の刃が埋まっていく。手品のようだが、種も仕掛けもないことを示すのは、刃の刺さったところから広がった赤い染み。影絵のような光景のなかで、それだけがなぜか目に刺さるほど毒々しい赤。
 赤い染みはたちまち大きくなり、祭壇の上面にも流れ落ちて血溜まりを作っていく。

「うっ、うわあぁ――ッ!!」
 アルジュは弾かれたように立ち上がり、祭壇に駆け寄った。いまのいままでアルジュを床に縫い止めていた異様な圧力は、その役目を終えたとばかりに消え失せていた。

「リシュナ! リシュナ……ああ!」
 アルジュは妹の胸から短剣を引き抜こうとする。妹の胸にそんなものが突き刺さっている光景を、一秒だって長くは見ていたくなかった。
 だが、短剣は抜けなかった。刃と肉が癒着したかのようで、アルジュが力を込めて引き抜こうとしても、妹の身体も一緒に持ち上がってしまう。

「うっ、うぁ……」
 短剣ごと胸を引っ張られた妹は、背中を反らして苦しげに悶える。

「あっ……す、済まない。でも、抜かないと――」
「いいの、お兄様……」
 短剣を握るアルジュの手に、リシュナの小さな手が弱々しく重ねられた。

「いいわけがないだろう!」
 アルジュが見下ろした妹の顔は、明かりのせいではなしにに色を失っていた。もとから白い肌をしていたが、常には内側から溢れんばかりに満ちていた瑞々しさが、いまはどこにもない。それなのに、両目だけは爛々と輝いている。

「いいのよ、お兄様。これでいいの……わたしの、血と、命で……魔物は蘇るの……」
「蘇る……!? リシュナ、おまえは何を――」

 アルジュの掠れ声がまるで聞こえていないように、リシュナは唇から恍惚とした吐息と言葉を紡ぎ続ける。

「蘇った魔物は、わたしの……わたしたちの、血に、縛られるの……」
「もういい、喋らなくていい」
「ご先祖様は、血筋の者を、捧げることで……いつでも、魔物を使役することが、できた……だから、この地の人々は、ご先祖様に従わざるをえなかったの……」
「いいから喋るな!」
「あ、ああ……分かる、感じるわ……! わたしの中で、魔物が、蘇る……もうすぐ、ああ!」
「それがなんだっていうんだ! おまえはそんなことのために、自分から命を差し出したとでも言うのか!?」

 アルジュの声は絶叫になっていたが、それでもリシュナの心に届いた様子はない。

「あ、あ……わたし、ずっと、お兄様の力になりたかった……お兄様と、ずっと……ひとつになりたかった……」
「え……」

 アルジュは気圧されたように息を呑んだ。
 そのとき、ずっと遠くを見つめていたリシュナの瞳が、アルジュの顔を見て、

「生まれ変わって妹じゃなくなれば、わたしはお兄様とひとつになれる――ああ、なんて素敵なのかしら!」

 この上なく幸せそうな笑みを顔いっぱいに咲かせて――口から大量の血を吐いた。

「リシュナ――ッ!?」
 咄嗟に妹を抱き起こそうとしたアルジュだが、リシュナの腰がふいに跳ね上がって、アルジュの手をはね除けた。
 腰骨が折れてもおかしくないほど激しい仰け反りは、明らかにリシュナの意思で行われたものではない。アルジュにはそれが、妹の身体なかに潜り込んだ邪悪な何かが暴れまわっているように思えてならなかった。

「う、うおぉッ!! 出ていけ! リシュナの身体から出ていけ! これはリシュナのものだ、貴様のものじゃないッ!!」
 アルジュは喉も裂けよとばかりに絶叫すると、祭壇に飛び乗ってリシュナの身体に馬乗りになる。そして、片手でリシュナの肩口を押さえ込むと、もう一度、胸に突き立てられた短剣を抜こうとする。
 短剣は、今度はいとも容易く引き抜かれた。刃が勢いよく引き抜かれた後の傷口からは、いっそう多量の血が溢れてくる。アルジュは両手で傷口を押さえつけ、出血を止めようとした――それが、いまさら無駄な努力だと悟っていながら。
 リシュナの身体から流れ出た血は、すでに祭壇の下まで流れ落ちて、床に血溜まりを広げている。祭壇の上面は真っ赤なシーツを敷いたかのようだ。
 肌の内側から赤みが完全に失われたリシュナの身体はもはや、冷たく青白い死体そのものだった。だというのに、腰で飛び跳ねようとするような痙攣は収まるどころか、いよいよ激しさを増していく。
 リシュナの背中がふたつの折れんばかりに反り返って、馬乗りになって押さえつけていたアルジュの身体をとうとう撥ね飛ばした。

「……ッ!!」
 アルジュは祭壇から転げ落とされて背中を床の血溜まりに打ちつけるが、すぐに起き上がってリシュナに取り縋る。

「リシュナ、死ぬな。死なないでくれ……死ぬな!」
 その慟哭がもはや無意味だと、アルジュにも分かっている。抱きしめている妹の身体は氷のように冷たく、鼓動も感じられない。強く抱きしめるほど、この身体がすでに死体なのだと思い知らされた。尋常ではない痙攣も、これがすでにまともな肉体ではない、魔物に取り憑かれた屍肉なのだとすれば、むしろ起こるべくして起きているにしか思えなかった。

 リシュナの身体が再び、腰椎から上下真っ二つに折れるかというほど激しく跳ね上がった。アルジュはまたも撥ね飛ばされて、床に尻餅をつく。今度もすぐに起き上がろうとしたが、その動きは途中で凍りつかされた。

 リシュナが――リシュナの死体が痙攣を止めていた。
 急に訪れた静けさが耳を劈く。
 アルジュもまた、ぴくりとも動けない。

 そして、鮮血のシーツが敷かれた祭壇の上で、死体がゆっくりと身体を起こした。
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