私は不要とされた~一番近くにいたのは、誰だったのか~

ゆめ@マンドラゴラ

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私は不要とされた~一番近くにいたのは、誰だったのか~

 彼の幼馴染は、いつも一歩だけ前にいた。

「ねえ、覚えてる? 子どもの頃、あなたが泣いてた時、そばにいたのは私だったでしょ」

 懐かしい話をするみたいに彼女は笑う。
 その視線の先にいるのは私ではない。

 ――私の婚約者だ。 

「昔からずっと一緒だったものね」

 そう言ってちらりとこちらを見る。

「私が一番、貴方のことを分かっているわ」

 軽い視線なのになぜか胸の奥が冷たくなる。

 婚約者は何も言わない。
 その沈黙が、肯定のように感じられてしまうのが、何より苦しかった。

 それが、この関係のすべてだと思っていた。

 彼は無口で、話しかけても会話が続かない。
 夜会でも一曲だけ踊って離れる。
 贈り物も形式的。

 私はずっと、この婚約はただの形なのだと思っていた。
 彼にとって一番近いのは、きっと――私ではないのだと。



 その日は、婚約者と二人きりのお茶会のはずだった。
 けれど彼の幼馴染は、まるで自分の席であるかのように当然の顔でそこにいた。

「あなた、本当にあの人と釣り合ってると思う?」

 何気ない調子で彼の幼馴染が小さく首を傾げる。

「悪い意味じゃないの。ただ、あの人ってああ見えて繊細だから。ちゃんと理解してあげられる人じゃないと、きっと困ると思うの」

 柔らかい言い方だった。
 けれど、言葉の意味ははっきりしていた。あなたでは足りない、と。

「私は、昔から見てきたもの。あの人のこと」

 誇るように言って、くすりと笑う。

「私は婚約を解消していただいても構いません」

 幼馴染が勝利を確信したように口元を押さえる。
 「やっぱりそう思うわよね」と小さく笑う声。

 カサリと音がして振り返れば、そこには執務で来るのが遅れていた婚約者が立っていた。
 いつからそこにいたのかは、分からない。

 どこか呆然としているのは気のせいだろう。
 けれど、婚約者はすぐには何も言わなかった。

「失礼します」

 これ以上ここに居ても意味がない。

「……さきほどのは、君の意思か?」

 すれ違う瞬間に、思わずといった風にこぼれた言葉。

「私は、最初から必要とされていなかったのでしょう? でしたら、これ以上お邪魔する理由もありません」

 彼らの間に私は不要なのだから。

 また沈黙が落ちる。
 彼は少しだけ目を伏せ、それから短く言った。

「……そうか」

 それだけだった。引き留める言葉も、否定もない。
 やはりそうだったのだと、どこか納得してしまう自分がいた。

 私は一礼して、その場を離れた。
 背後で幼馴染が彼に何か話しかける声がしたが、振り返らなかった。

 ――これで終わりだと思った。



 その日の夕刻、寛いでいた私のもとに来客が告げられた。
 名を聞いた瞬間、胸がわずかに揺れる。

 応接間へ向かうと彼は椅子にも座らず、立ったままだった。
 外套も脱がず、そのままの姿で。

「無礼は承知だが、どうしても今日のうちに話したかった」

 低く、まっすぐな声だった。

 最後ぐらい二人で話すのもいいだろう。
 その方がきっと静かに忘れられる。

「……お座りください」

 促すと、彼は頷き、向かいに腰を下ろす。
 距離は昼間と同じはずなのに、空気が違う。

「先ほどの話だ。誤解があるように思う、少し話がしたい」
「お気になさらないでください。このまま……お忘れいただいて構いません」
「違う、そうではないっ……君が、なぜああ感じたのか、教えてほしい」

 言葉を探すように、ゆっくりと紡がれる声。
 もう終わったことなのに、優しい人。

 でもそうね、最後ぐらい本音を言ってしまおうかしら。
 そしてキチンと失恋して、泣き終わったらお父様に新しい婚約者を探してもらいましょう。

 私は息を整える。

「……近すぎたからです。あの方が、あなたの隣にいるのが当たり前で。私が入る余地はないのだと、そう見えました」

 こちらに向けられる勝ち誇った笑み。
 あの笑みを向けられた瞬間、胸の奥に言葉にならないものが溜まっていくのを感じていました。

「近すぎた、か」

 彼は小さく繰り返し、わずかに目を伏せる。
 静かな声が続く。

「君がそう思うほど、私は何も伝えられていなかった」
「……それだけでは、ありません」

 言葉は少なく、距離はいつも同じで。
 何もかもが、最初から決められているように見えました。

 伝えることは、できなかったのでしょうか。
 いいえ、もしかしたら私と同じ、伝える機会さえなかったのかもしれない。

「だから、場を変えた。きちんと話すために」

 私はしばらく何も言えなかった。
 あの沈黙が無関心ではなかったのだと、ようやく理解する。

「……では、あの方は」
「関係ない」

 間を置かずに否定される。

「彼女は昔からの知人だ。だが、それだけだ」

 はっきりとした線引きだった。

「そうは、見えませんでした」
「すべて誤りだった。君がそう受け取るとは思っていなかった」

 ……どう受け取れば、よかったのでしょう。
 胸の奥が、少し冷たくなる。

「怖がらせたと思っていた」

 彼が静かに言う。

「初めて会った日、君は私を見て固まった。だから無理に近づくべきではないと判断した」

 同じ令嬢である幼馴染がいれば少しは安心すると思っていたと、そう小さく呟く。

 思い出す。
 あの日、確かに何も言えなかった。
 でもそれは――

 「違います」と、思わず口にする。

「あれは、その……緊張してしまって」

 身内の男性以外と二人きりになったのは、初めてだったのだ。

 言ってから、顔が熱くなる。
 彼は一瞬だけ言葉を失い、それから小さく息を吐いた。

「……そうか」

 短い一言だったが、先ほどとはまるで違う響きだった。

「君を怖がらせた時点で、私の責任だ」

 わずかに口元が緩む。
 その言葉に張り詰めていたものがわずかにほどけた。

「だが、婚約解消は受け入れない」
「命令、ですか」
「いいや、これは……頼みだ」

 思わず笑ってしまう。

「では、条件があります」

 私は小さく言う。

「これからは、きちんと伝えてください。分からないままにしないで」
「約束する」
「善処では困ります」
「……分かった」

 今度は迷わず頷いた。



 翌日。
 落ち着かないまま過ごしていた私のもとに、来客が告げられた。

 前触れのない訪問。
 本来なら断ってもいい。

 今までの私は、婚約者に嫌われるのが怖くて、ずるずると彼女を許してしまっていた。

 けれど――

 目を閉じ、静かに息を整える。

「客間ではなく、庭へご案内して」

 よく手入れされた庭に出ると、柔らかな日差しが落ちていた。
 風は穏やかで、どこまでも静かだ。

 その中央に、彼女は立っていた。
 振り返る動作すらゆったりとしていて、まるでここが自分の場所であるかのように。

「急に来てしまって、ごめんなさい」

 口ではそう言いながら、まったく悪びれた様子はない。

「構いません。ご用件を」

 私がそう返すと、彼女は小さく笑った。

「昨日のことよ。少し驚いたわ」

 ゆっくりと歩み寄りながら、視線をこちらに向ける。

「でも……良かったと思っているの。ああいうのは、はっきりさせた方がいいもの」

 穏やかな口調。けれど、その奥にあるものは隠されていない。

「何のことでしょう」

 あくまで静かに返す。
 彼女は一瞬だけ眉を上げ、それから肩をすくめた。

「強がらなくてもいいのよ」

 くすりと笑う。

「だって、あなた自身が言ったのでしょう? 婚約を解消しても構わないって」

 言葉を重ねるごとに距離が詰まる。

「そうですね」

 私は小さく頷いた。

 彼女の笑みが、わずかに深くなる。

「ようやく分かってくれたのね」

 安堵したような、満足したような声だった。

「昔からそうだったでしょう? あの人の隣にいるのは、私の方が自然なの」

 その言葉はどこまでも当然のように落とされる。

「あの人は、少しだけ……寄り道してしまっただけ」

 柔らかい声のまま、最後にそう付け足す。
 まるで慰めるように。

「……ええ」

 小さく息を吐く。
 胸の奥に残っていた何かが、静かに形を変えていく。
 もう、昨日までの私ではいられない。

「その通りですね」

 顔を上げると、彼女の目を真っ直ぐに見た。

「ですから――」

 言葉を続けようとしたその時、砂利を踏む音が静かに響いた。
 二人同時にそちらを振り返る。

 視線の先に立っていたのは――彼だった。
 外套を羽織ったまま、真っ直ぐにこちらを見ている。

「庭にいると聞いた」

 私に近寄り、頬に親愛のキス。
 離れた顔は少し赤かった。

 ――昨日、交わした約束。
 家族になるために、少しずつ歩み寄ると決めた。

 幼馴染の表情が固まっていた。
 彼の視線がこちらから、ゆっくりと彼女へ移る。

「……昨日の件だが」

 彼は静かに言う。

「誤解があっただけだ。訂正しておく、婚約は解消しない」
「え……?」

 かすれた声が漏れる。

「それは……どういう」
「そのままの意味だ」

 彼は一切視線を逸らさない。

「それから、彼女の前で同じ発言は控えてもらいたい」

 声は静かだったが、逃げ場はなかった。

「理解できないのであれば、距離を置いてもらう」

 静かな断定。
 それだけで、すべてが決まる。
 幼馴染の表情が、ゆっくりと崩れていく。

「わ、私は、ずっと一緒にいたのよ」
「知っている」

 短い肯定。

「だが共に歩むのは、彼女だ」

 はっきりと線が引かれる。

 逃げ道のない言葉だった。
 幼馴染は完全に言葉を失い、その場に立ち尽くす。

 幼馴染は何か言いかけて、結局、言葉にならないまま唇を閉じた。
 空気を察したのか、控えていた侍女が一歩前に出る。

「お帰りはあちらです」

 柔らかな声だったが、有無を言わせない響きがあった。
 幼馴染はわずかに視線を揺らし、それ以上何も言えないまま、侍女に導かれるようにその場を去って行った。

 やがて、庭に静けさが戻る。

 私はゆっくりと息を吐いた。
 胸の奥に残っていた重たいものが、少しずつほどけていく。

 彼は何も言わない。
 ただ、隣に立っている。

 でも、その距離が昨日までとは違って感じられた。

「出掛けるのは中止にするか?」
「いいえ、楽しみにしていたんです」

 今までの分まで約束を重ね、言葉と時間を取り戻そうと誓った。
 差し出された腕に手を添える。

 私は顔を上げた。

 庭には穏やかな光が満ちている。
 一番近くにいるのは誰か――もう、迷うことはなかった。
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