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ドレスコードと妖怪
ロジェリーは赤坂にあるバーだった。カウンター席と個室の両方があった。いわゆる、〝先生方ご用達〟というわけ。
とはいえ、与埜も父親から連れてこられて以来、片手で数えるほどしか使ったことがない。
オーセンティックバーというクラシックな雰囲気のバーなのだが、どこか温かみのある雰囲気が仕事で使うのをもったいなく思わせる。かと言って、女の子をデートに連れてくるにはとっつきにくすぎる。野島のような相手と待ち合わせるためにあるような店だと、予約してからぼんやりと思った。
夜十時の赤坂は、寝静まるには早いが、どこか落ち着いた色に染まり始める頃合いだ。
東京駅で秘書と別れた与埜はタクシーを使った。車内でネクタイを外し、首元のボタンを緩め、汗の滲んだ顔をタオルでぬぐう。店の入り口に飾ってある小さな鏡で、身なりをチェックする。
若く見えるよう気を遣っているとは言え、そこにいたのは仕事に追われ、草臥れたアラサーの男だ。
最後に野島と顔を会わせて十年も経っている。幻滅されないといいけど、と今更なことを思いながら、スタッフに案内された個室のドアを開けた。
そこには野島がいた。ぎこちなくこちらを振り仰いで、「よ」と片手を上げる動作が、どこか機械的だ。
思わず噴き出した。
「野島、なんでおまえ、そんなかしこまってるの、おっかし」
「バカ、こんな格調高そうな店だと思わなかったんだよ! 俺こんなカジュアルな格好で来ちゃって、本気でビビったんだからな」
「なるほどなあ」
腹筋を試す笑いが止まらないまま、与埜はたっぷり時間をかけて、野島の頭からつま先までを観察する。シャワーを浴びたばかりなのか、昼間の暑さからは信じられないほど涼やかな見た目だった。洗い立ての髪の毛はやわらかそう。麻のワイシャツに七分丈のスラックスに、ここまで走ってきたと言わんばかりのランニングシューズ。
今の野島は、とても政治家には見えなかった。学生とは言わないまでも、在宅ワークのシステムエンジニアがせいぜいだろう。もちろん彼のもうひとつの顔である弁護士のようにも見えない。
「ごめんって。ドレスコードがあるような店じゃないから安心して」
「嘘だろ、サンダルとジーンズはお断りされるだろ」
「…………そうかも?」
恨めし気な目線を投げかけられる。宥めるようにその肩に手を置くと、びく、と反応する素直さが可愛かった。
「いいから、座りなよ。折角の個室なんだ、どうせ誰も見ていない」
野島の肩をさすりながら、ゆっくりと背もたれへと押してやる。抵抗はかすかで、柔らかいソファに野島の身体が沈んでいくとともに、その身体から息が抜けていくのがわかる。ふう、という空気の音とともに、野島の両目が与埜を見上げた。迷子のような目線に自然の頬が緩む。
ジャケットを脱いで後ろについていたスタッフに渡す代わりに、縦長のメニューをもらう。とは言っても値段は書いていないし、なんならドリンク名も書いていない。あるのは置いてある酒の銘柄だけ。実際には、メニューにないものだって、大抵のものは出てくる。
「何飲む? 普通の居酒屋みたいに頼んでも問題ないよ」
「それは、かえって申し訳ない」
「いいから。ビールは相変わらず苦手か?」
「…………いや」少し考えるように目を眇めても、野島の目線はずっと与埜を向いている。「柑橘系の、アルコール度数低めなやつがいい」
「だそうだ。ちなみに、食事は?」
「さっきサンドイッチ食べてきた」
「それで足りるの?」
「できるなら何か食べたい」
「了解。――僕はスコッチのおすすめで、炭酸割にしてほしい。あと予約の時に頼んだ軽食、出してもらえる?」
かしこまりました、とスタッフは静かに答えて去っていった。身軽になった与埜は、野島の向かいの席に腰を下ろす。ソファは柔らかい座面を深く沈み込ませて受け止める。
野島に倣うように息を吐いた。野島もやっと落ち着いたのか、居心地悪そうにしながらも、与埜を待つ間に出されていた水のグラスを煽って飲み干した。その目線が、じっと与埜を見上げた。
「与埜は、いつもこういうところで食事しているのか」
「いや? ここは、僕も何回かしか使ったことないよ。会食はマァ、人目が気にならないところを選ぶけど、普段は普通にスーパーの惣菜だったりするよ。良くて駅弁とか?」
「ふは、出張の話だろう。良い方って言っていいのか?」
「でもご当地気分は味わえる。それに美味しい。料亭の会食弁当もいいけど、僕ははらこ飯のほうが好きかな」
「それは単に地元が好きなだけじゃん」
「そうかも」
スタッフが二人分のグラスを持ってきたので、「ここ、電子タバコいいですか」と野島が律儀に聞く。乾杯をして唇と喉を塗らすと、炭酸の刺激とアルコールの匂いに解放感がこみあげてくる。
亥の刻にやっと本当の姿になれる。僕たちは妖怪みたいなものだ。
目の前の野島は、ロンググラスに入ったライムをマドラーでつぶしている。果実の実が無惨につぶされていくのに、与埜は笑った。
「こーら、そんなにお行儀悪いことしないの、野島くん」
声をあげて笑うのなんて、いつぶりだろう。野島の前では、何もかもが愉快だった。
「いいだろ、このくらいつぶれてた方が美味しい。俺は育ちが悪いんだ」
「政治家に育ちが悪いやつがいるかよ」
「……いたほうが、健全だろう」
「そうかもな。むきになるなよ、現実的な話だ」
野島はライムつぶしに満足したのか、やっとグラスを傾ける。一杯飲んで、電子タバコを咥えた。彼が息を吐くと、香ばしいメンソールの香りが個室に漂う。
「さすがに煙草はやめたのか」
「今時吸う場所もないしね。俺はもとからメンソール派だったし、電子タバコぐらいでいいんだ。与埜はやめたんだな」
「あー……僕は学生の好奇心みたいなもんだったし、だいたい付き合いってやつ?」
特に野島の、と付け足そうしたのを呑み込む。
与埜と野島は、大学を卒業するころは四六時中一緒にいた。法科大学院の受験勉強のために、ほとんど家か図書館にこもりきりだったこの男を追いかけて、「息抜きだ」と学食を奢ったり真夜中の学内のベンチで酒を飲んだり。
「つーか、十時に人を呼び出すとか、相変わらず横暴だな、おまえは。そんなんで政治家ができるのかよ」
「これが出来てるんだなぁ」
「嫌な奴」
野島の色の薄い瞳が、少し遠いところから与埜を見る。
その目が自分を見ているということに、久々に胸が躍る感覚がした。
「文句言いながら来てくれる友達もいるし」
「俺のこと?」
「そうだけど」
「……そうだよなあ、おまえはそういうやつだよなあ……」
野島は右の口角をあげる笑い方をする。ポスターの中で知らない表情で笑っていた野島が、だんだん与埜の知っている人間になっていく。気難しくて、斜に構えていて、空気は読まずに吸って、正論を吐いて突きつけては大学生たちに煙たがれていた。頭はいいけど短気で不愛想。
いつだか、野島に大学に入る前はどうだったのか聞いたら、いろいろと言葉を濁しながら「物を壊さなくなっただけマシ……」と言っていたのに、笑いが止まらなかった。
「なんだよ、ジロジロ見やがって」
「お互い様だろ」
野島の、静かなのに光をゆらめかせる双眸が、ずっと与埜を見ている。でも、それがわかるくらい、与埜もずっと目の前の男を見つめていた。
その瞳は、色が薄いのに印象は濃い。弁護士で、政治家。老けて見えるわけではないが、手や、首の筋が深い。ニコチンがしみ込んで、立派な骨格がソファの上で柔らかくなっていく、その変化にも色気がある。
日の当たるところで生きているのに、こんなに夜が似合う人はいない。暗いところで見る野島は、何よりも魅力的だ。
「で、国政選挙に出るって聞いたけど」
「まあね」
「念願?」
「そうだよ」持ってこられたナッツを口に放り込んで、答えた。「与埜にとっては大したことないだろうけど」
「嫌味な言い方。今感じ悪かったよ」
「俺はもともとこうだろ」
「久しぶりなんだから、もっと優しくしてくれてもいいじゃないか」
「なんだよ、俺なら甘やかしてくれると思ったのか。相手を間違えているぞ」
言葉に険はあるが、野島は肩を震わせながら笑った。そして、少し眉間に皺を寄せて、タバコを吸う。
野島は煙草を不服そうに吸う。それは昔からだった。あまりおいしそうには見えない。けれども煙を吐き出してその顔の上に白く靄がかかるときに、とても寛いだ表情を見せるのだ。世界で煙草を吸う最後の一人になるのは野島なんじゃないだろうかと与埜は思っている。
「何年ぶりに会うんだ?」
「野島が司法試験を受ける前だから……十年位ぶりかな」
「この際だから言っておくが、俺はおまえのせいで司法浪人になった」
「僕のせいなのかよ!」
「ってことに俺の中ではしている。――まあ、最終的には悪くなかったけど」
大学時代の後半から、野島が法科大学院に通い、与埜が議員秘書として働き始めた頃の、数年。それが与埜と野島が一番親密な時期だった。週に一度、もしくはそれ以上の頻度で会っていた。
野島昴は、与埜の大学での同級生だ。二人とも法学部で、それぞれ違う意味でそこそこの有名人だったと思うのだが、明確に知り合ったのは三学年時に所属したゼミだった。
与埜は、大学の法学部に通い、卒業後すぐに永田町に入るつもりだった。一方、野島は弁護士を目指し、ロースクールのための勉強会にも所属していた。必修の授業で二人がとったゼミは政治経済系で、弁護士を目指すなら民法や憲法系のゼミのほうが、コネも作れて有利なのではないか……といぶかしんだのが第一印象。
ゼミに在籍していた学生は、野島を除いては、与埜のような代議士志望、平たく言うと親が議員のような人間ばかりだった。実際のところ、コネづくりのためのようなゼミだった。
その中で、野島は浮いた。バカみたいに浮いた。真面目な優等生で、金よりも社会のために弁護士になろうとしている学生は、与埜にとって不思議で、そして新鮮な存在だった。
夕方の授業を終えて、そのまま飲み屋に行くのが定石だった。だけどその飲み会にも、野島はなかなかこなかった。よければ五回に一回。
「バイトがあるから」
「…………一時間だけ、飯だけでもどう?」
「断る」
きっぱり断る彼は不愛想の権化のような顔をしていて、〝陽キャ〟だとか〝チャラ男〟と言われるような、社交を楽しみ、そして武器にしていく気満々のギラついた他のゼミ生にとっては、まさに珍獣のような存在だったのだ。
当時の与埜は、気になった人間へのコミュニケーションにためらいがなかった。政治家になると腹を括り始めた時期で、同じゼミにいた〝珍獣〟に心を開かせたくてたまらなかった。
「バイト、どこでしてるの?」
「渋谷」
「へぇ、渋谷ってさ、ナイトシアターってのがあるみたいなんだけど一緒に行かないか? 一晩中映画見んの」
「やだよ、寝かせろよ。明日も朝から講義なんだけど」
「一晩くらいいいじゃん。なぁ、奢るからさ」
「…………一晩だけな?」
そして、奢るから、と言って誘ったくせに、野島は財布を出した。実家が太いボンボンの周りにはいろんな人間が集まるが、多分、野島のそういうところも、好ましく思えたのだ。
野島はとっつきにくいし一見不愛想だが、だからと言って人間嫌いだとか、友達がいないというわけではなかった。何より押しに弱い。「みんなで飲みに行こうぜ」はすげ無く断るが、「おまえと飯を食いたい」と言えば、十中八九、いや確実に時間を作った。攻略法を知れば、彼と距離を縮めるのは容易だった。
とはいえ、実際、彼は忙しかった。夜は短い時間で単価がよく、拘束時間が少ない塾講師と、学生ではいけないようなダイニングバーのスタッフのバイトを掛け持ちしていた。法学部の三年次は授業が少なくなって学校に来なくなる学生も多くなるのに、月から土曜まで学校に通って、隙間時間も勉強していた。母子家庭の実家暮らしで、看護師の母親が夜勤の日は野島が家事をやっていること。野島のチャーハンはとても美味しいこと。案外自分以外にも、野島の家に出入りする友人が少なからずいること。
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