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境界線と親子丼
「次の衆院選も、本気で臨むけど、実際は国政にいけなくてもいい」
「弱気だな、野島らしくない」
「長期的な視野を持ったんだよ」
「へーえ。実は僕が応援演説すると得票率があがるらしいんだよ」
「は?」
与埜は浮かれていた。目の前の一番の友人――そしてこの世界でもっとも敬愛するといってもいい友人――彼が国政に、自分の近くにきたらさぞ楽しいだろう。
思い出すのは、ゼミでコンペ大会に出た時や、討論をしたときだった。
真面目一辺倒、疑問や要望はすぐに口に出すような煙たい存在だった野島の存在、しかし、次第に『参加するだけ』のゼミを変えていった。
ゼミの担当教員も、野島がまっとうに求める活動に対して、最初は渋々ながら、しかし次第に意気揚々と応じるようになった。それまでの日和見をやめて、テーマを決め、課題図書を出し、討論会のセットアップをする。この教授の一般科目も履修していたが、教授の〝教授らしい〟ふるまいを与埜はそのゼミで初めて見た。
憲法九条、死刑問題、夫婦別姓、同性婚、非核三原則、東アジア外交、失われた二十年を取り戻すための経済政策……与埜はもちろん、最初は真面目なテーマに口ごもって発言するのをためらっていたゼミ生たちが、四年の後半になると熱く社会のことについて語りはじめるのは面白かったし、これが政治なんだと、血が湧くような気がしたのだ。
――今思えば、それは青春の勢い、みたいなものだったのだろう。
それでも、野島は周りの空気をかえる力があるのだ。それを与埜は知っている。
だから、多少党のおえらいさんに渋い顔をされても、個人的に、手を差し伸べるのは、悪いことじゃないだろう?
合点がいっていない野島の、喜ぶ顔が見たくて、静かに興奮する気分のまま、与埜はさらに言った。
「だから、僕が応援演説しに行ってやろうか」
「断る」
――だが、野島は与埜のように浮かれてはいなかったらしい。一刀両断されてもひと瞬き、与埜は何が起こったのかよくわからなかった。
「え?」
「断る」
もう一度、野島は念を押すように繰り返す。茶化すでもなく真剣にノーをつきつけられて、与埜は目の前にひびが入ったような気持ちになった。
「な、なんでだよ、党が違うからか?」
冗談だってば、おまえは野党だもんな、そんな真に受けるなよ。
――と、本当は言えればよかった。だが、野島の前で与埜は自分をとりつくろえなかった。焦った声は裏返った。国政選挙ではあまり見ないが、地方議会の選挙では党の垣根を超えて弁士を呼ぶなんてままあることだ。
しかし野島はそんな与埜をなだめるでも笑うでもなく、ただうつむいて口もとに手をやる。もう片方の手のひらの中で、七分目ほどになったグラスがくるくると回っていた。
「うーん、それもあるけど、決定打じゃない」すっと眼差しが上を向いた。「与埜、お前は俺の応援演説で何をしゃべるつもりだ?」
「何、って、お前に投票してもらうように、お前の名前だけは覚えてもらえるように」
「へえ、誰に向けて?」
「有権者に決まっているだろ、バカにしているのか」
「有権者って言ってもたくさんの人がいる。男性、女性、老人、十代の新成人もいるな。なあ、お前は誰に、何の言葉を届けたくてしゃべっているんだ、今回の選挙において、党にとって――いや、お前にとって、大事なことはなんなんだ?」
大事なこと……と言われて、ぐるりと目の前が回るようだった。その間をどうとらえたのか、野島は容赦なく続ける。
「それを答えられない……いや、外部には言えない政治家、って言ったほうがいいのかな。そんな人に俺は自分の応援演説は頼めない」
「政治の場で、言わないことの一つや二つ、あってもいいだろう」
「…………俺は、基本的に情報はアクセス容易でクリーンでなければならないと思っている。なぜならこの国は民主主義を掲げているからだ。――実体はそうでなくても。だから、政治家として、政策を開示できない人に、俺の代わりに演説を頼むのは、俺を支持してくれている人に不誠実だと思う」
「……きれいごとばっかりだな」
まくしたてられる言葉に、与埜は吐き出した。拗ねているのだ、と口にしながらわかっていた。
野島も、黙っていた。
まるで会話が途切れたのを見計らったかのように、「失礼します」とカーテンの向こうから声がした。与埜が返事をすると、スル、と静かな衣擦れの音を立てて、カーテンがめくられる。
「『とり善』の親子丼です」
「親子丼?」
野島が、ひっくり返った声を上げる。思わず、与埜も吹き出してしまった。年齢不詳のスタッフは、つつましやかに微笑んだままだ。
「与埜様からのご要望です」
「無茶言ったのに、ありがとう」
「いいえ、いつもお越しいただいておりますから」
スタッフが去っていく。いかにもな隠れ家バーの個室に、漆塗りのどんぶりに乗せられた、湯気の立つ親子丼が鎮座する。瑞々しい半熟玉子の色に、炭火の香ばしい香りが、今まさに出来立てだと教えてくれる。
「与埜、おまえが、準備してくれたのか」
「勝手っていうのか? いいんだよ、僕たち国会議員が御用達ってことで、売り文句にもなるし、テイクアウトは店の正規のサービスだ」
「……俺の、好物じゃないか」
「それは良かった。好みが変わっていたらどうしようかと思ってたから。冷める前に食べてよね、ここ、すっごい美味しくてさ、いつか野島に食べさせてやるって思ってたんだ」
「…………うん」
パチン、パチン、と箸を割る音が少しずれて響く。とろとろの卵に、柔らかい鶏肉、それに鼻腔を楽しませる炭火と三つ葉の香り。
たかが親子丼だが、されど親子丼だ。そして、野島に伝えたことは本当だ。初めて父親に連れて食べさせてもらって、あまりのおいしさに衝撃を受けた。そして、丼ものが大好きな野島に、いつか食べさせてやりたい、そう思ったのも、すべて真実だ。
「与埜」
「うん?」
「ごめん、意地悪、言って」
「はは、意地悪だったのか?」
「…………いや、違うって、わかってるよ」
熱いものが腹に落ちると、自然と気持ちが鷹揚になる。頭に上った熱が、胃袋に吸収されていく感覚。
「日頃さ、社交辞令ばっかりだから、野島が正直なやつだって、思い出すのに時間がかかる」
「うん」
「僕こそ、付き合ってくれてありがとうな。夜遅い時間なのに――」
ふと野島のほうを見て、ぎょっとして言葉を失った。目が赤く、瞳孔が濡れているように見えた。一口、親子丼を食して、反対の手にもった白いペーパーで口と、鼻と、目元をぬぐう。泣いていた。
「の、のじま、どうしたんだ。僕、なんかした?」
「違う、――いや、なんか、したけど」
「え、ごめんって、無理に食べなくていいから――」
「違う、違うんだ」
首を振りながら、しかし泣いているにしては豪快に、野島は目の前のどんぶりを食し続ける。貪るように、という表現が的を射ている。時折鼻をすする音が混じるのが、コミカルだ。
「与埜、うまかった。ありがとう」
与埜が半分ほど食した頃、野島は完食した。いい食べっぷりだった。
「アルコール、もう一杯頼んでいいか」という言葉に頷く。梅酒と日本酒を混ぜたような最近の酒だ。野島は昔から、酒は好きでも、好むのは度数の控えめの、甘いフルーツの風味の酒が好きだ。「女の子のようだ」とゼミの飲み会で誰かが言って、焼酎好きの女子学生と比較されていた。
その時、二人はどんな反応をしていたっけ。
靄がかった記憶をさかのぼりながら、自分もスパークリングの日本酒を頼んだ。普段の仕事ではこういう、変わり種の酒を自分の好みで選ぶことはない。相手の好みや、場に合った飲み物を選び、饗してばかりだ。
「それで、与埜、おまえは?」
「ん?」
「最近、何してんだよ。何も、四六時中、選挙活動ばっかりしてるわけじゃないだろ」
ぽつぽつと、お互いの近況や、知り合いの近況を情報交換しながら、毒にも薬にもならなそうな話をする。与埜の応援演説の話も、野島の涙も、話題には上らない。
間延びした空気によそよそしさすら感じて、かつての親密な空気を取り戻せないことに、与埜の腹にもどかしさが積もっていく。
話が途切れるたびに、野島が小さく酒を飲んでいく。薄い金色の液体が、ロンググラスの三分の一ほど残っている。あれがすべて飲み終わったら、解散のタイミングだ。野島にとっての”ほどよい”酒量と、お互い明日もある大人だということを鑑みて、妥当なところだろう。
――このまま終わりたくないな。
「……誤解しないでほしいんだけど」
与埜は、湧き上がった言葉を、止めることができなかった。口にしながら、野島がいったいどう誤解するのだろうか、とうまく想像できないでいた。あるいは、どう誤解されるのを、自分が恐れているのだろうかと。
「僕は、野島は国政に来るべきだと思うし、その気があるなら応援したいと思っている。そのために、僕は自分ができることをしたいんだ」
「……もし、俺が、国政に行ったら、おまえの敵になるとしても?」
「政策の違いで討論しあう仲になるのが、敵なのか? 討論は、より優れた政策や法案を生み出すためのものじゃないのか?」
青い、青すぎる自分の言葉。そんなこと、この十年一度たりとも考えたことはない。野党議員の誰に対しても、そんなことを思ったことはない。自分が参加する国会で、そんな実感を得たこともない。
ただ、野島だけ。野島となら。野島がいれば。
野島は、与埜の前で、深くソファに腰を下ろしていた。リラックスした身体。充血して潤んだ目が眇められて、右の口の端があがる。
――ずっと向かい合って話していたのに、先ほど応援演説を断られてから、彼の顔をまっすぐに見ていなかった。
野島は、皮肉屋の表情をしていた。そして、優しい目をしていた。――あるいは、愛すら感じられる眼差し。
この世で、こんなふうに与埜を見るのは、後にも先にも彼だけだ。
「そんなこと言ってくれるなんて、うれしいね」
「信じてくれ」
「ああ、信じるよ。……おまえは、俺と二人きりの時は、嘘をつかなかったから」
そう言って、野島はロンググラスを飲み干した。与埜も、半分残っていた酒を煽った。
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