芥川の怪談

橋平礼

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『連れ』

第一章 晩秋の雨

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第一章 晩秋の雨

 或る年の秋、僕は東京といふ巨大な迷宮へ移り住んでから、丁度(ちゃうど)十度目の季節を迎へてゐた。

  その日は古都、京都での用向きを終へ、新幹線の最終便の客となつて品川の駅へ降り立つたのである。深夜の駅舎を包む空気は、都会の喧騒が底の方へ沈殿した泥のやうに重苦しく、天からは針のやうに細かな雨が、誰の頬をも等しく、かつ冷酷に冷やすべく降り注いでゐた。

 最寄りの停車場から自宅へ向かふ道すがら、僕は蝙蝠傘(かうもりがさ)の柄を強く握り、肩を窄(すぼ)めるやうにして歩みを早めてゐた。そこは、住宅が整然と並びながらも、夜の帳(とばり)の下では死人の列のやうに沈黙してゐる一本道であつた。電信柱に据ゑ付けられた街燈の光は、熱病に浮かされた病人の眼差しのやうに鈍く、濡れたアスファルトの上に、銀鼠(ぎんねず)色の不気味な光沢を投げかけてゐる。


 ふと前方に目を遣ると、その微かな光の輪の中に、一人の女が石像の如く佇んでゐるのが見えた。
 女は漆黒の服を纏(まと)ひ、その両腕には、夜逃げでもするかと思はれるほど不釣り合ひな分量の荷物を、後生大事に抱へてゐた。少しばかり肉の付いたその輪郭は、雨に煙る夜気の中で、却つて異様な生々しさを以て浮き上がつてゐる。近づくにつれ、女の年齢が二十代の後半ほど、或いは三十の大台にさしかからうとする年頃であるのが知れた。

 僕がその横を、何事もなく通り抜けようとした瞬間であつた。女は唐突に、しかし耳を打つやうな丁重な声で、僕の歩みを引き止めた。


 「すみません……」
 その声には、都会の洗練を拒絶するやうな、湿つた土の匂いを孕(はら)んだ地方特有の訛り(なまり)が混じつてゐた。僕は足を止め、傘の縁から覗くやうに女の顔を伺つた。女の瞳は、暗い井戸の底のやうに深く、捉へどころのない不安を湛へてゐる。

 「あの、私、此の附近にあるマンションを探してゐて。……『連速(れんそく)』といふ名に心当たりはございませんか」

 連速。――その奇妙な、いささか無機質な響きに、僕は一瞬、己の聴覚を疑つた。マンションの名にしては、余りに殺伐としてゐるではないか。それは建築物の名前といふよりは、何かの術策、或いは呪詛(じゅそ)の合言葉のやうに僕の耳に響いた。僕は記憶の糸を繰つてみたが、そんな名は聞いたことがないと、冷ややかに首を横に振つた。
 女は落胆した様子も見せず、ただ困つたやうに、薄く微笑んで見せた。その笑みは、生者のそれといふよりは、精巧に作られた人形が浮かべる、感情を欠いた造型のやうであつた。

 「妹の家に行きたいのです。以前、昼間に訪ねた折には、容易(たやす)く辿り着けたのですが。……この暗がりと雨のせいか、どの角を曲がつても同じ場所に立ち戻つてしまふやうで」

 僕は理知的な親切心――或いは、この不気味な女との対話を一刻も早く切り上げたいといふ、功利的な打算から――懐(ふところ)の電話機(スマートフォン)を取り出した。掌(たなごころ)の中に収まる文明の利器は、青白い光を放ちながら、瞬時にして世界の地図を僕の眼前に展開して見せた。

 文字入力の窓に「連速」といふ二文字を打ち込む。検索の円が回る刹那(せつな)、僕は自分の神経が、僅かに逆立つてゐるのを感じた。果たして、このやうな奇体な名の建物が、この整然とした住宅街に実在し得るのだらうか。
 が、意外にも、青い液晶の画面には、一点の迷ひもなく赤い針(ピン)が鮮やかに突き刺さつた。

 「あ、ございますね。ここから五分も歩けば着きますよ。どうやら、少し先の細い路地を入つたところのやうだ」

 僕は画面を見せながら説明した。女は僕の持つ電話機を、あたかも未知の神託を授ける祭具でも見るやうな、貪欲な眼差しで見詰めてゐた。そして、彼女の瞳の奥には、感謝とも、或いは安堵ともつかぬ、底知れぬどす黒い光が宿つたのである。

 「……ああ、有難うございます。それほど近くにあつたのですね」

 女の声は、雨音の中に溶け込むやうに低く、震へてゐた。彼女が抱へてゐる荷物の中からは、何かが擦れ合ふやうな、乾いた「カサリ」といふ音が漏れた。それは衣服の擦れる音であつたか、或いは、死者の骨でも詰め込まれてゐる音であつたか。

 僕は、一人でその暗がりへ向かふ女の後ろ姿を想像し、名状しがたい不安に襲はれた。僕の親切心が、彼女を正しい場所へ導いてゐるのか、それとも、この文明の利器が指し示した座標こそが、この世ならぬ異界への入口であるのか。

 「よろしければ、途中までご一緒しませうか。私も帰路の途(みち)すがらですから」

 僕の口から出た言葉は、僕自身の意志といふよりは、この晩秋の夜気が言はせたものかも知れない。女は深く、深々と頭を下げた。彼女のうなじには、雨の雫(しづく)が真珠のやうに光つてゐたが、その肌の色は、既に体温を失つた大理石の如く蒼白(さうはく)であつた。

 僕たちは歩き出した。

  蝙蝠傘に当たる雨音だけが、虚ろな太鼓の音のやうに、二人の間に響き渡つてゐる。

  僕はまだ知らなかつた。この「連速」といふ二文字が、僕の理知的な日常を、どれほど深く侵食してゆくことになるのかを。そして、僕が親切心から導いたその先に、何が待ち受けてゐるのかを。

 夜の帳(とばり)は、ますます深く、重く、僕たちを呑み込まうとしてゐた。
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