芥川の怪談

橋平礼

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『高橋の怪』

『高橋の怪』-3

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第三章:朱書きの遺言――あるいは、剥げ落ちた慈悲の仮面

 陽光の下の「高橋」は、昨夜の悪夢が嘘のように、長閑な田園風景の中に聳え立っていた。

  辺りを支配するのは、ただ騒がしい蝉時雨だけだ。それは万物の生を謳歌する声のようでいて、実は何か巨大な「死」を隠蔽するための、狂気じみた騒音にも聞こえた。呪いなど、この眩い光の中のどこに存在し得るだろうか――右馬允(うまのじょう)と藤中将(ふじのちゅうじょう)は、自らの臆病さを笑い飛ばしたい誘惑に駆られていた。

 「一体、あの橋にはどのような因縁があるのだ」 

 右馬允が里の古老に尋ねると、その老人は、まるで地中の泥を掘り起こすような重苦しい口調で、痛ましい物語を語り始めた。

 かつて、この地に一人の童女がいた。六年生ほどの、村でも評判の聡明な娘であった。 

 ある年、里の学芸の儀において、彼女は高貴な「女王(じょおう)」の役を演じることになった。それは彼女にとって、一生に一度の、身分を超えた煌びやかな夢であった。彼女は寝食を忘れ、女王の気品ある立ち振る舞い、そしてその台詞を、来る日も来る日も稽古し続けた。

 あの日も、彼女は夢の中にいた。

  道はまだ踏み固められず、静寂が支配する時刻。童女は「女王」になりきり、誰もいない路上で優雅に袖を翻した。その瞬間――運命という名の、制御を失った荷車が死角から飛び込んできたのだ。

 ――バーン!

 乾いた音が、静かな里に響き渡った。

  童女の小さな体は、まるで千切れた雛人形のように宙を舞い、冷たい土の上に叩きつけられた。女王になる夢を抱いたまま、彼女は「形代」となって果てたのである。

  里の人々は彼女を哀れみ、二度とこのような惨劇を繰り返さぬよう、道を渡らずとも済む「高橋」を築いた。だが、慈悲の心で築かれたはずのその橋が、いつしか彼女の魂を現世に繋ぎ止める「檻」と化したことに、誰も気づいてはいなかったのだ。

 「……そんな、あまりに虚しい話があったとは」

  二人は昨夜の恐怖を「同情」という安全な感情にすり替え、再びあの階段を昇った。欄干を通り過ぎ、降り口に差し掛かったその時、潮風に晒されて色褪せた一枚の立札が目に留まった。そこには、里の人々の祈りにも似た言葉が刻まれていた。

 『この橋は、幼き命を悼み、安全を守らんがために築かれたるものなり。願わくば、往来の人々、心して通られよ』

 だが。  その立札を覗き込んだ右馬允の瞳から、忽ち色が失われた。

  「おい……藤中将。この文字を見ろ。この……朱(あけ)の剥げた跡を……!」

 古びた木の板に、誰が細工したのか、あるいは地の下から滲み出した怨念が成した業か。

  『安全』と書かれた文字の下から、剥げ落ちた塗装の隙間を縫うように、別の黒ずんだ文字が、まるで蠢く虫のように浮かび上がっていたのだ。

 それは、慈悲の言葉ではない。

  童女が死の直前、砕かれた喉から絞り出したであろう、絶叫にも似た呪言であった。

 『 ア タ イ ハ、コ コ ニ、イ ル 』

 あるいは、

 『 ヨ リ シ ロ (形代) ハ、ツ ギ ノ、オ マ エ ダ 』

 その文字を目にした瞬間、真昼の太陽が、どす黒い月のように凍りついた。

  背筋を走る、氷の刃を突き立てられたような悪寒。  誰もいないはずの橋の上。蝉の声が、一瞬にして、断ち切られたように止んだ。

 「カン……コン……」

 背後から、あの音が聞こえてきた。

  昨夜よりも近く、昨夜よりも重く。一段、また一段と。  目に見えぬ「女王の行列」が、彼らを取り囲むように、階段を昇ってくる音が。

 「逃げ……!」

  藤中将の声は形にならず、ただの震えとなって消えた。

  振り返った彼らの瞳に映ったのは、もはや童女の姿ですらなかった。

  欄干の隙間から溢れ出す、無数の黒い髪。そして、朱書きの立札を真っ赤に染め変えていく、生暖かい「何か」の飛沫であった。

 ――夏の風が、再び吹き抜ける。

  そこには、ただ静かに聳える高橋があるばかりだ。

  しかし、もし君がこの橋を渡ることがあるのなら、決して欄干を叩いてはならない。

  そして、もしも朱色の文字が剥げ落ちて見えたなら……。

  その時はもう、君の背後には「彼女」が並んで歩いているのだから。
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