芥川の怪談

橋平礼

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縹渺(ひょうびょう) ―― あるいは曇り硝子の向こう側

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 深夜のコンビニエンス・ストアは、死の如き静寂の中で、僕は一人レジに立っていた。蛍光灯の白々しい光は、棚に並んだ色とりどりの商品を、あたかも供え物の如く不気味に浮かび上がらせている。そこへ、突如として転がり込んできたのが、あの男であった。

 男は、幽霊を見たというよりも、自ら幽霊になりつつあるような顔をしていた。

「助けてくれ! 車の中に、変なものがいるんだ。確認してくれ、頼む!」

 男は私の袖を掴み、泣きつかんばかりの醜態をさらした。自尊心の強い私であれば、本来、こうした野卑な動揺には冷淡であるべきだった。しかし、男の指先の、氷の如き冷たさに、私は得体の知れぬ戦慄を覚えたのである。

 私は渋々、監視カメラの受像機(モニター)を覗き込んだ。

 駐車場の端、男の軽乗用車が闇の中に沈んでいる。奇妙なことに、そのフロント硝子だけが、真冬の吐息を吹きかけたように真っ白く曇り果てていた。

 すると、その白濁した膜の上に、内側から指でなぞったような文字が、じわじわと浮かび上がってきたのである。

―― た す け て ――

 文字は歪み、のたうち回り、まるで断末魔の呻きを視覚化したかのようであった。

 男は店内の隅にうずくまり、耳を塞いで絶叫した。

「外に誰か立っている! 開けてくれ、開けてくれって、ずっと言ってるんだ!」

 しかし、私の耳に届くのは、冷凍庫の低い唸り声ばかりである。硝子戸の外には、銀鼠色の夜闇が広がっているだけで、人影一つ見当たりはしない。

 その時である。

 店内の空気が、急激に、墓穴の奥底のような冷気を帯び始めた。

 ふいに「ピンポーン」と乾いた電子音が鳴り、誰もいないはずの自動ドアが、不自然なほど滑らかに左右へ開いた。センサーは何一つ物体を検知していない。それなのに、扉は開閉を繰り返し、そのたびに、床にうずくまっていた男の体が、見えない力に足首を掴まれたかのように、出口の方へと少しずつ、引きずられてゆく。

 タイルを擦る嫌な音が響く。男は必死に棚に縋りついたが、目に見えぬ「力」は、情容赦なく彼を外の闇へと手招きしていた。

 私は、その光景を呆然と受像機越しに眺めていた。そして、ある決定的な異変に気づき、心臓が凍りついた。

 画面の中、男の車の曇り硝子に反射して映っている風景――。

 そこには、白々しいコンビニの看板も、舗装されたアスファルトも、街灯の光さえも存在しなかった。

 反射の中に横たわっていたのは、鬱蒼と茂る「深い森の中の廃屋」であった。

 私は、喉を掻きむしるような衝撃に襲われた。

 この男は、最初からこの店になど辿り着いてはいなかったのだ。

 私が今まで言葉を交わし、怯える姿を眺めていたのは、すでに人里離れた廃屋で「何か」に飲み込まれ、肉体を咀嚼されかけている男が見せた、末期の幻覚に過ぎなかったのである。

 受像機の中で、男の姿が完全に暗黒の森へと吸い込まれ、消失した。

 その瞬間――。

 目の前のコンビニの照明が、まるで蝋燭の火を吹き消したように、すべて消え失せた。

 闇。
 完全なる、沈黙の闇。

 ふと気づけば、私の足元にあったはずの冷たいタイルは、湿った土と腐った落ち葉に変わっている。鼻を突くのは、コンビニ特有の薬品の匂いではなく、古い樹木が腐敗してゆく死の臭気であった。

 私は、自分が深い森の真ん中、今にも崩れ落ちそうな廃屋の前に、ただ一人立ち尽くしていることを知った。

 背後で、みしりと音がした。

 あの男の、あるいは男を飲み込んだ「何か」の、ねっとりとした吐息が首筋に触れた。
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