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『黒髪(くろかみ)-くろちゃん』
第一章:這い寄るもの、あるいは家族という名の地獄
しおりを挟む世の中には、理屈では割り切れぬ縁(えにし)というものがある。
これは私が、ある知人の知人――常盤(ときわ)という、どこか捉えどころのない、硝子細工のように冷ややかな眼をした娘から聞いた話である。
当時、大学生であった常盤の家庭は、あたかも底の抜けた桶のように、内側から静かに崩壊しつつあった。
その元凶は、彼女の母親であった。母親はいつの頃からか、精神の平衡を欠き、家庭という聖域を、じわじわと腐敗した沼地へ変えていったのである。
父も、兄も、そして常盤自身も、最初は同情を寄せていた。しかし、狂気というものは、接する者の魂を等しく摩耗させる。やがて家族の間には、氷のような沈黙と、毒を含んだ無視が横行するようになった。
常盤もまた、母親が何か口を開くたびに、「はい、はい」と、あたかも壊れた玩具をあしらうような冷淡さで応じていたのである。自尊心の強い彼女にとって、病める母は、もはや己の平穏を脅かす「異物」に過ぎなかった。
ある湿度の高い、月も出ぬ夜のことである。
母親が、部屋の隅で縮こまりながら、震える声でこう漏らした。
「……廊下を、誰かが這いずり回っている。おぞましい音がするんだよ」
常盤は、読みかけの書物から目を上げることなく、鼻先で笑った。
「また、お母さんの妄想が始まったわ」
母親の言う「音」など、他の誰の耳にも届きはしない。それは、病んだ脳髄が作り出す、救いのない幻聴に決まっている。常盤はそう断じ、暗い廊下の向こうに広がる虚無など、一顧だにしなかった。
しかし、運命というものは、我々が「あり得ぬ」と断じた場所から、音もなく忍び寄るものである。
それから数日後の深夜。
常盤が自室の床の中で、微睡(まどろ)みと覚醒の境界を彷徨っていた時のことだ。
部屋の外、あの「廊下」から、異様な音が響いた。
「ドサッ」
それは、重い肉の塊が、高い場所から無造作に落とされたような、鈍く、湿った音であった。 常盤は一瞬、心臓が跳ね上がるのを感じた。しかし、すぐに思い直した。 (また、お母さんが何か狂言(きょうげん)を仕掛けているに違いない。構ってほしいばかりに、重い物でも投げ出したのだろう) 彼女は、湧き上がる嫌悪感と共に、わざと大きな音を立てて寝返りを打った。部屋を出て確認するなど、愚の骨頂である。関われば最後、狂気の底なし沼に引き摺り込まれる。彼女は耳を塞ぎ、無理やり意識を闇へと沈めた。
ところが、翌朝。
台所で顔を合わせた母親は、昨夜のことなど何一つ知らぬ風で、心なしか穏やかな表情を浮かべていた。
「ゆうべは、静かだったねえ。誰も這いずっていなかったよ」
常盤は背筋に、氷の刃を突き立てられたような寒気を覚えた。母親は一晩中、自室で泥のように眠っていたという。
では、あの「肉の塊」が落ちたような音は、一体誰が立てたのか。
常盤は、昨夜の音がした場所を確認しに行った。
廊下には、何も落ちてはいなかった。ただ、一箇所だけ――。
ワックスの効いた床板の上に、ねっとりとした脂のような、あるいは乾きかけた粘液のような「跡」が、かすかに残っていた。
それは、人間が足で歩いた跡ではない。
まるで、巨大な腹這いの生き物が、自らの重みを引きずりながら移動したような、悍(おぞ)ましい擦過痕(さっかこん)であった。
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