芥川の怪談

橋平礼

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『黒髪(くろかみ)-くろちゃん』

第三章:降り注ぐ呪縛、あるいは永遠の伴走者

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 それ以来、常盤は「くろちゃん」を忘れた。

  母親の病状は相変わらずであったが、彼女はそれを「日常」として受け入れ、大学を卒業し、社会へと出ていった。

  しかし、彼女の人生に、ある奇妙な法則が定着した。

 それは、彼女が精神的に追い詰められた時。

  仕事で失敗し、孤独に打ち拉がれ、あるいは、かつての家庭の地獄を思い出し、ふと足元が揺らぐような瞬間である。

 たとえば、深夜の誰もいないトイレの中。

  あるいは、湯気に包まれた密室のシャワー室。 

 絶対に、そこにあるはずのない場所から。  天井の隙間から、あるいは虚空から。

「すっ――」

 一本の、長く、黒い髪の毛が、糸のように彼女の肩へと落ちてくるのである。

  常盤は現在、髪を明るい色に染めている。しかし、落ちてくるのは、いつだってあの夜と同じ、濡れたように黒い、長い髪。

  それは、彼女がどれほど拒絶しようとも、彼女の「影」に寄り添い、彼女が弱ったその隙を突いて、自らの存在を誇示する。

 彼女は、悟った。

  あの時、掃除機で吸い取ったのは、怪異の本体ではなかった。

  彼女が「愛でる」と称して、名を与え、魂を吹き込んだその瞬間から、あの毛束は彼女の精神(アニマ)の一部として、永遠に刻み込まれてしまったのだ。

  それは、守護霊などという生易しいものではない。

  彼女が絶望し、再び「あの頃の自分」に戻るのを、じっと列に並んで待っている、貪欲な捕食者である。

 今、この話を聞いているあなた。

  ふとした瞬間に、自分の部屋の隅に、あるいは枕元に、自分のものではない髪の毛を見つけたことはありませんか。

  それを「気味悪い」と思ううちは、まだ救いがある。

  しかし、もしあなたが、それに「名前」を付けて愛でようなどと考えたなら――。

 その瞬間、あなたの背後には、あの「廊下を這いずる者」が、音もなく立ちふさがっているに違いない。  今、あなたの首筋に触れたのは、果たして、ただの隙間風でしょうか。

  それとも、あの黒い、濡れたような……。
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