芥川の怪談

橋平礼

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『信濃路の這い髪(しなのじのはいがみ)』

第二章:黎明(れいめい)の刻印、あるいは消えぬ指痕

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 明け方になり、東の空が白(しら)み始める頃、私はようやく目的地の配送所へと辿り着いた。

  全身は冷や汗でぐっしょりと濡れ、魂を抜かれた抜け殻のようになっていた私は、荷下ろしの準備に取り掛かろうとした。

  その時、右手首に刺すような痛みが走った。

 私は、袖を捲(まく)り上げて驚愕した。

  そこには、昨夜、あの女に掴まれた場所が、紫黒(しこく)い痣(あざ)となって浮き出ていた。いや、単なる痣ではない。五本の細長い「爪の跡」が、肉を抉(えぐ)らんばかりの深さで、くっきりと刻印されていたのである。

  それは、私の正気が見た幻覚などではないことを、無慈悲に証明していた。

 配送所の老人が、私の様子を怪訝(けげん)に思い、声をかけてきた。

 「お前さん、昨夜はどの道を越えてきた」
  私が、あの黒い女の出没した峠の名を告げると、老人は眉を顰(ひそ)め、声を潜めてこう云った。

「……あそこか。あそこには、昔、飢饉(ききん)の折に、髪を売って家族を食わせようとしたが、騙(だま)されて命を落とした女の怨霊が出るという。その女は、通りかかる旅人の腕を掴んでは、自分の『代わり』に連れて行こうとするのだよ」

 私は、自分の手首に残る爪跡を、思わず隠した。

  あの時、もし馬を止めず、そのまま走り続けていたら、今頃、私の肉体はあの荷台の中で、あの女の髪に絡め取られていたに違いない。

  私はその場で、お守り代わりに持っていた護符を握りしめたが、手首の痛みは一向に引く気配がなかった。

 それ以来、私は夜の山道を往くことを辞めた。

  だが、今でも。

  夏の暑い夜、風が窓をバタバタと叩く音を聞くたびに、私はあの漆黒の髪を思い出す。

  そして、ふと自分の手首に目をやると、そこには今も薄っすらと、あの夜の「爪の跡」が、消えぬ痣のように残っているのである。

 今、あなたの背後で、カーテンが風に揺れてはいませんか?

  その布の色は、本当に、あなたの知っている通りの色でしょうか。

  もしかすると、その揺らめきは……。
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