りんねに帰る

jigoq

文字の大きさ
上 下
64 / 83
第二部

第六十四話――接敵

しおりを挟む


 ――エデン。

 そんな言葉で締められた昔話。愛おしむ音がした。まるで幸せの色だった。少女の向ける瞳は少女ならざる愛情を湛え、ただただディランを向いていた。首をもたげる仕草すら、顔に掛かる髪の毛を除ける仕草すら、この時のほんの一瞬さえ惜しむ思いが見て取れた。少女はそれの言葉を待ち侘びるのだが、それから向けられる瞳は、表情は嫌悪そのもので、その様を見ているだけのクィルナはどうしてか心がじんと痛んだ。そしていよいよ、待ち兼ねたという様子で少女はまた口を開く。それでも笑みを湛えて、言葉をこぼす。

「あなたがどうすれば元に戻るのか、とってもとっても考えたのですよ」

 何のキッカケがあったのか、ディランは少女の隣に立て掛けられた大鎌へ手を伸ばした。その速度はクィルナも目で追えない程。しかしその反抗もあっけなく、少女の翼がディランの腕を優しく、しかし強く包み込み制した。

 歯嚙みするディランへ向け、少女は一際優しい笑みを浮かべて言葉を続ける。まるで子供をあやすように。

「ルルティア姉様を視ていて確信しました。あなたを死神に堕としたオルケノアをどうこうしたところで、あなた自身の呪いは解けない。だから今、ここに来るしか無かったのです。この状況を整えるしか、無かった」

 少女はすっと、ようやくディランから視線を外し、失われた天井から空を見上げた。その瞳は憂い気で、その想いは悲し気で。そのまま口を開いて言った。

「気付いていましたか? リンディーの消えたあの日から、終界との門がつながっていること」

「……そうか。襲撃があるんだな」

 そう付け足したのはタルファ。彼もやはり、訳の分からないことを言う。訳の分からないことを、知った風な口で。

「ええ。それも、複数体の上級天使を連れてきます。あの日の神殿でもそうでした。今回はそれより多い」

 その時、がたんと音がした。見てみれば、ディランが椅子を蹴って立っている。

「ふざけんな。んな話があるわけ……本当な訳あるかよ」

 そう言って彼は大鎌を少女から奪い取ると、窓を突き破って食堂から走り去る。それがきっかけとなったのか、クィルナもまた机を叩いて立ち上がる。

「タルファ……あんたこいつの話信用するわけ? 私に『勘違いするな』なんてえらそーなこと言っといて、この変な奴の話は信用するってわけ?」

 問い詰められてすら彼は眉一つ動かさずに言葉を返す。

「君とペテロア様では話が違う。それだけだ」

「……ああ、そう」

 クィルナは彼らに背を向けた。

 昨晩手を組んだばかりだと言うのに、もうそんなことも忘れてしまったらしい。

「あ、クィルナ! どこに行きますの!」

「アリス、放っておきましょう。これでよいのです」

 そんな声を背に受けつつ、クィルナはその場から去り、レリィナとオルミのいた丘へ戻った。しかし二人の姿は既に無く、柔らかい風が吹きつけるばかり。

 クィルナは大きな木の根元にしゃがみ込む。膝に頭を押し付けて、目を瞑る。泣いてしまいそうな時は、いつもこうやって来た。こうやって、誰も来ないところに隠れて、一人で泣いていた。

 何も分からない。何も分からない世界から、目を背けたい。こんな世界、生まれて来るんじゃなかった。そんな思いばっかりが頭の中をしっちゃかめっちゃかに跳ね回る。どうしてなんだろう。どうしてこうも、居場所が崩れていくのを止められないでいるのだろう。アリスさんでさえ、あっち側なんだ。もう、味方なんて一人もいないんだ。全部全部敵なんだ。そういう世界なんだ。

「私も……もうどっか行っちゃおうかな」

 ついて出た言葉。誰にも届けるつもりの無い言葉。むしろ届いて欲しくは無い、弱い自分の零した言葉。しかしそれを掬い取る不躾な者の声がした。

「――おいおいおいおいおいおいおいそりゃあさ、いただけない思い付きだなぁお嬢さん」

「誰!?」

 聞き覚えの無い声だった。クィルナは咄嗟に顔を上げて振り返る。そこにあるのは木だ。そりゃそうだ。木に寄りかかっていたのだから、振り返れば木があるだろう。しかし声はそこからするのだ。クィルナは恐る恐る、しかし仄かな期待を胸にして問い掛けてみる。

「も……もしかして喋れる、の? えっと、木……さん?」

 そんな言葉を掛けてから、一秒、二秒、とやけに緩慢に思える時が刻まれる。クィルナの心臓は鼓動を早め、この超常現象の正体に思いを巡らしていた。木の妖精? 木の魔人? それとも木の神様? などとその候補は立ち並ぶ。そしてようやく、その“木”から返事が返ってくる。それは――。

「……ぶ、ぶわあっははははは!!」

「……は?」

 まさに抱腹絶倒。そんな様子の笑い声が辺りに響き渡った。木を見上げて呆然と立ち尽くすクィルナ。なぜ笑っているんだろう。何かおかしなことを言ったっけ。直前の発言を思い返しつつ、ひぃひぃと鳴いて止まない笑い声を聞いていた。すると、笑い混じりにようやくその声は話し出す。

「ひ、ひひ……。いやあ君、そりゃないってもんだぜロマンティックなお嬢さん……おっかしすぎて腹で茶が湧かせちまうよ……ぶふっ」

「な、なんなのよあんたぁ! さっきから人のこと馬鹿にしてんの!? 木の……なんだか知らないけど、私が人間だからって甘く見てんじゃないでしょうね!」

「あーっははははははは! も、もうやめてくれ……」

 木のどの部分を見ていいか分からず、適当に真ん中辺りに指をびしっと指して啖呵を切るクィルナ。しかしさらに笑い出すその声は、もはや苦し気だ。一体、何がどうなっているの。

 クィルナの混乱している様子を知ってか知らずか、その声は笑い冷めやらぬ調子でこう言った。

「は、はあ……いやあ、僕にも事情があるってなもんでね。木の裏へ回っておいで……くくく」

 そう言われ、クィルナは木から少し離れつつ、木の裏手へ回る。木から目線を逸らさず、木に体を向けたまま警戒態勢。

「もしかしてあんた、裏っかわに顔があるってわけ……?」

 なんて言いながらクィルナは、これまでの生活でこの木の裏に回ったことがあったかと振り返る。

 ……ある。ぜんっぜんある。いくらでもある。この木の周りなんて何週したかも分からないくらいに、ある!

 では、その木の裏側に顔なんてあっただろうかと振り返る。

 ……ない。まったくない。木の皮を引っぺがしたりもしたはずだけど、どこにもな――。

「あいたぁ!」

 記憶を探る最中、足が何かに取られて転ぶ。「もう、なんなのよ……」と半ばこの役回りに辟易としつつ、自分の足が何に絡め取られたのかを確認する。それは――。

「やあ、初めましてかな? 眠り姫クィルナ・ミティナちゃん。僕のアルテミ・ウェポンを蹴らないで欲しいな」

 そこには上裸の男が仰向けで寝ころび、クィルナへ向けて醜悪な笑みを浮かべていた。

「おや? そんな顔して一体どうしたって――」

「ふ……不審者あああああ!!」

 今日一番の悲鳴がその丘に響き渡った。


 * * *


 三人は夜更けの森を歩いていた。記憶を失った男女と、通りすがりの旅人。彼らは全員が出会ったばかりではあるが、奇妙な縁によってその道程を共にしていた。

 男は旅人に聞いた。どうして旅をしているんですか?

 旅人は答える。ああ、そりゃあ、探し物さ。だってそうだろう? 人はいつでも何かを探している。君らは特に、数えきれない物を探しているはずさ。記憶とか幸せとか人里とかね。

 旅人の答えを聞いた男はなるほど、と得心のいった様子だ。素晴らしい考え方だと喉を唸らせた。しかしそれでは納得のいかない者もいた。故に女は聞いた。

 それじゃあ、旅人さんはまだそれを探している最中なんですね。

 旅人は再び答えた。いやあ、それが案外、見つかっていたりもするよ。まだ、手に入っちゃいないというだけでね。

 どうして手に入れないんですか? と女は少し食い入るようにして聞いた。旅人はそれに笑いつつ答える。

 ははは。なんだい君らは。知りたい盛りかい?

 でも旅人さん。名前も教えてくれなかったじゃないですか。と男は女に助け舟を出すように言う。それに旅人はいやいや、と言って答える。

 僕には名前なんてそんな高尚なものは無いのさ。君らと同じようにね。

 またそうやって茶化すんですか? 僕らには僕ら以外何もありませんが、旅人さんにはまだいっぱい秘密があるじゃないですか。意地悪言わないでくださいよ。

 そんな男の言葉に旅人はやれやれといった様子で溜息を吐いた。

 はいはい、わかったよ。わかった。それで? 探し物を見つけたのに、どうして手に入れないかって話だったっけ? そりゃ簡単さ。僕の目的は探すことだけだったからさ。ほら簡単。

 えー、とやはり納得のいかない様子の二人。男がじゃあ、と再び問いを投げる。

 一体何を探していたんですか? その隣では女も目を丸くして聞いていた。そんな二人に、薄く朝焼ける空を見上げ旅人は答える。

 ……まあ、家族と言えば聞こえはいいか。

 女は聞いた。じゃあじゃあ、他にも言い方があるんですか?

 旅人は答える。憎む相手であり、愛す相手でもある。複雑な相手だよ。彼ら自身ではまた別な感慨を抱いているのだろうけどね。

 またそうやって茶化して……。そう言いかけた男の目には、今度の旅人がどうもそんな雰囲気を纏ってはいないように映った。旅人の口が再び開かれる。

 少なくとも弟の彼だけは、僕のことなんて……いいや、この世界すらどうでもいいだろうさ。なんせ彼はもう、失い過ぎたから。

 男は言い過ぎたと思い、慌てて言葉を探した。えっと、不躾にすみません。弟さん、大変なんですね……。

 旅人はあっけらかんと答えた。いやあ気にするなよ。結局あいつの自業自得なんだからさ。愚か者なんだよ弟は。あっははは。それよりさ、ほら見て。あそこにイノシシだ。狩りの経験は……って君ら、記憶が無いんだったな。

 そう言って旅人は腰から黒いナイフを取り出し、この会話も終わりを迎えた。この直後、男女の記憶に強く残ることとなる『イノシシの開き焼き』が振舞われるが、それはもう語られぬ話。

 そんな山中の確かにあった一幕である。


 * * *


 アステオ聖教支援院の上空で少女は一人佇んでいた。その相貌に湛える笑みは挑戦的で、正面に組まれたその腕もまた、自身を強く見せるポージング。六翼を広げ、私はここだと言わんばかりに光輪を輝かせる。

 少女は視ていた。その忙しなく収斂する瞳で、見渡していた。

「……来ましたね」

 そうこぼした少女の遥か前方、未だ少女にしか視えない距離でまた、宙に佇む少年の影があった。少年の背後では数十の天使達が翼を広げ、静かに整列していた。気だるげな少年は、日の光があって尚感じられるその光輪の輝きに言葉を放つ。

「やア、久しいネ。ようやク愛しいペテロア姉さン」

 そんな言葉が少女にだけは届くことを少年は知っていた。だって彼女はずっと視ているわけだから。その権能で、その執念で、その愛情で、決して見放しはしないのだから。

「さア、終わろウ世界」

「ふふふ、本当に、あなたは愚か者ですね」

 その笑い口に孕む親しみも、少女は溜息と共に吐き捨て、言うのだった。

「我が愚弟オルケノア。始めましょうか。最後の兄弟喧嘩というものを」

 未だ愛しさ冷めやらず。しかし憎しみ、哀しむ二柱はもう、他の道など許されない。
 こうして、神々の兄弟喧嘩は始まった。


 * * *


 深い森の底で一人、男は独り言を呟く。だのに、その言葉は確かに誰かへ向ける思いだった。

「僕がいるってことは、お前もどこかにいるんだろ」

 男にとって、これほど鬱蒼とした森を一人で越えようとするのは、人生において二度目のことだった。一度目の時は追いやられた森で当ても無く、泣きそうになりながら走っていたところを遠くに立ち上る煙に縋り助かった。

 しかし今回は違う。これは自ら踏み込み、行くべき場所を定めて決行した。それに一人じゃない。遥か空に、軍勢が飛んでいる。今度はもう失敗しないと、男は胸に刻んだのだ。

 男は呟く。それは怨念めいた響きを伴いながら、しかし友への思いの丈を乗せた音。もはや半身ですらある彼への執着。

「絶対、見つけるから。あの時みたいに、出会ってみせるから。だから、そしたらさ、一緒に天界へ帰ろうよ。――カガラ」

 目覚めたあの日、ユウ・トウミという名を捨てた。

 彼は比翼隊副隊長中級天使アルタス。執念く友を追い、執念く敵を追う、出来損ないの天使である。


しおりを挟む

処理中です...