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前日譚

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クロフト男爵邸から、一週間、長い馬車の旅を終え、辿り着いたのは、
大きな街の先、湖畔に佇む、オークス伯爵邸だった。
森や広々とした草原を有する敷地、堂々と建った荘厳な館は、まるで城の様だ。

「さぁ、行きましょう!」

アイリスが笑顔で促したが、男爵家とは比べものにならない別世界に、
ミゲルは気後れしていた。
母が病弱な事もあり、これまでミゲルは、碌に男爵家から出た事が無かったのだ。

「お帰りなさいませ、旦那様、奥様」

玄関の前では、執事やメイドたちが迎えに立つ。

「ただいま、この子がミゲルよ、これからお願いね」

「畏まりました、ミゲル様のお部屋はご用意出来ております」

「ありがとう、ヴァイオレットはどうしている?」

ロバートが周囲に目をやる。
奥からバタバタと騒々しい音がしたかと思うと、黒髪の少女が突進してきた。
ミゲルはビクリとし、アイリスの陰に隠れる。

「お父様、お母様、おかえりなさい!ねぇ!赤ちゃんはどこ!?」

「誰が赤ちゃんなんて言ったんだい?」

「だって、弟が出来たんでしょう?」

「ええ、そうよ、この子があなたの弟、ミゲルよ」

アイリスがミゲルの肩を優しく撫でる。
少女の大きな目がミゲルに向けられた。

「赤ちゃんじゃないのね」

つまらない…

ミゲルにはそう聞こえた。

自分は歓迎されていない。
きっと、また、酷い事をされる___!

ミゲルの頭に、意地悪なネイトとマックスの姿が浮かんだ。
ミゲルは隠れる様に、アイリスにしがみ付いた。

「そうよ、ミゲルは7歳なの。
ヴァイオレット、あなたは8歳、お姉ちゃんよ、挨拶出来るでしょう?」

少女は小さな唇を尖らせた。

「わたしは、ヴァイオレットよ、よろしくね!」

意志の強そうな声に気圧され、ミゲルは返事が出来なかった。
だが、ヴァイオレットは容赦なかった。

「ミゲルは挨拶が出来ないの?」

「ミゲルは疲れているのよ、一週間も馬車旅をしたの、少し休ませてあげましょう。
ヴァイオレット、お父様からお土産があるわよ___」

アイリスがヴァイオレットの興味を父親に向けた。
ロバートはヴァイオレットを抱え上げると、「さぁ、こっちだよ、お姫様!」と何処かへ連れて行った。

「ごめんなさいね、ヴァイオレットが勘違いしたみたい。
あなたが来てくれるか分からなかったから、内緒にしていたんだけど、何処からか聞いたみたいね…
さぁ、疲れているでしょう、部屋へ行きましょう、ミゲル」


案内された部屋は、広く、豪華だった。
大きなベッドが置かれ、立派な細工の家具が揃っている。
それに、大きな窓があり、明るかった。
これまで過ごした半地下の部屋とはまるで違う。

「自由に使ってね、衣類は直ぐに届けさせるわ。
少し休む?それとも、何か食べる?」

「休みます」

ミゲルが小さく答えると、メイドが夜着に着替えさせてくれた。

ベッドはふかふかで、大きい。
心地良くはあったが、立派過ぎて、ミゲルは気後れした。

何か粗相をすれば、厳しく折檻されるのではないか?
父やダイアナ、ネイト、マックスの仕打ちを思い出し、
ミゲルは震え、ベッドの端で体を丸めた。

『赤ちゃんじゃないのね』
『ミゲルは挨拶が出来ないの?』

ロバートとアイリスは優しく良い人に思えていたが、一人娘のヴァイオレットは、
気が強そうで、感じの悪い娘だった。

きっと、僕が嫌いなんだ…

だが、ミゲルには分かる気がした。
自分は、ヴァイオレットの家に入り込んだ邪魔者でしかない。
突然、押しかけて来た、ダイアナ、ネイト、マックスを、ミゲルがそう感じた様に。

きっと、あの子は、ネイトやマックスの様に、自分を虐めるだろう。
また、あの地獄の日々に戻るのかと、ミゲルは恐怖に囚われた。

「いやだよ…お母様、はやく、僕を連れて行ってよ…」


◇◇


伯爵家では、ロバートやアイリスと顔を合わせる事は少なく、昼食、
午後のお茶の時間、晩餐位だった。
その度に、ロバートやアイリスは優しく声を掛けてきた。

「どうだい、ミゲル、少しは慣れたかな?」
「自分の家なんだから、遠慮しなくていいのよ」
「そうだよ、庭を走り回ってもいい___」

ロバートやアイリスに会うと、心は安らいだが、
どうしても、隣に座る少女を意識しないではいられない。

両親が自分を構うのを、嫌がっているのではないか?

それで、ミゲルは頷くだけで、視線を落とし、会話から外れる様にしていた。
ロバートやアイリスの居ない所でも、ミゲルは必要最低限しか喋らず、
特に、ヴァイオレットに対しては言葉を発する事は無かった。

「ヴァイオレットには家庭教師を付けているの、ミゲルも一緒に教えて貰う様にしましょうね」

時間を持て余していたので、家庭教師はうれしかったが、
ヴァイオレットと一緒というのは、喜ばしくない。
だが、反対など出来る筈も無かった。

ロバートやアイリスが怒るかもしれない、父の様に自分を殴るかもしれない。
ダイアナの様に酷い言葉で罵るかもしれない、地下に閉じ込められるかも…

ヴァイオレットだって、嫌だと言うに決まっている…

ミゲルはヴァイオレットが断ると思っていた。
『どうして!こんな子と一緒なんて嫌よ!』
そんな風に言われたら…それは、それで、傷つくだろう。
ミゲルは身構えていたが、ヴァイオレットは何も言わず、黙々と菓子を食べていた。
その様子が、ミゲルの不安を煽った。

きっと、後で虐められる…


◇◇


程なく、ミゲルはヴァイオレットの部屋で、家庭教師に習う事になった。

ミゲルは6歳までは、母や乳母から読み書き等を習っていた。
その後は家庭教師を付けて貰ったが、母が流感に掛かった頃から、
家庭教師は来なくなり、ミゲル自身も母に付きっ切りで、勉強はしていなかった。
尤も、本を読む事は好きだった。
いや、好きというよりも、他にする事が無かったからだ___

家庭教師はミゲルの実力を測り、「これなら、直ぐに追いつきますよ」と評価した。
だが、そこに食いついたのが、ヴァイオレットだ。

「直ぐに追いつくって、誰に?わたしにって言う意味?」

ヴァイオレットは「ムッ」とした様に、ミゲルを睨んでいる。

「周囲の貴族子息たちにという意味です。
ヴァイオレット様も追いつかれたくないのでしたら、一層、勉学に励む事です」

家庭教師は慣れているのか、上手く言い包めていた。
ヴァイオレットは「それもそうね!」と機嫌を直したが、
ミゲルにはしっかりと、「負けないから!」と宣言をした。

ヴァイオレットに勝たない様にしないと…

それは、ミゲルの意識に植え付けられた。


勉強が終わり、家庭教師はお茶をして帰って行った。
ミゲルも部屋を出ようとしたが、ヴァイオレットに引き止められた。

「ミゲル、待ちなさいよ!」

強い口調に、ミゲルはビクリとした。

やっぱり、僕を虐めるんだ…

悪い予感に逃げ出したくなったが、逆らう事は出来ず、ミゲルは振り返った。
ヴァイオレットが腰に手をやり、紫色の目を光らせ、自分を見下ろしている。
ヴァイオレットはミゲルより一歳年上だが、二十センチは背が高く、
ミゲルを簡単に見下ろせた。

「体に痣があるって聞いたわ、どうして?」

ミゲルは口を噤み、俯いた。
すると、ヴァイオレットが自分に掴み掛かって来た。

「痣を見せなさい!」

ミゲルは抵抗したが、体型差もあり、彼女は力尽くで、その服を剥ぎ取った。
ミゲルは手で体を隠し、蹲った。
こんな辱めを受けるのは初めてで、ミゲルはショックで、しくしくと泣き出していた。
そんなミゲルを、ヴァイオレットは「ふん、泣き虫ね!」と一蹴した。

「本当に酷いわね!あなた、痩せすぎよ、骨と皮じゃない!それに、痛くないの?」

ミゲルには嘲笑に聞こえ、自分が恥ずかしく、涙が止まらなかった。
すると、ヴァイオレットがミゲルの手を掴み、引っ張った。

「こっちに来なさい、座って!」

ヴァイオレットはミゲルを自分のベッドに座らせた。
ヴァイオレットのベッドは、天蓋付きで、ベッドは全体がピンク色でフリルもたっぷりと使われていた。
ヴァイオレットは、ベッドの真中に寝ている、うさぎの人形を取り、ミゲルの前で振った。

「顔を上げなさいよ!あんまり泣いてると、ハッピーになっちゃうわよ!」

「ハッピー?」

幸せ?

奇妙さに、意図せず涙は止まった。

「この子の名よ!泣いてると目が赤くなるんですって!」

うさぎの人形の目は赤色のボタンが使われていた。

「手当してあげる、そこでハッピーと待ってなさい!」

ヴァイオレットは、うさぎの人形をミゲルに渡し、行ってしまった。
ミゲルはポカンとし、うさぎの人形を見た。


程なく、ヴァイオレットは薬の瓶を持って戻って来た。

「庭師のボブから貰ったわ!痛みが引くんですって!」

ヴァイオレットはそれを指に付け、ミゲルの体に塗り出した。
冷たくて気持ちが良い。
だが、ヴァイオレットが下着まで剥ぎ取ろうとしたので、ミゲルは慌てて逃げ出した。

「いや!やめてよぉ…」

「待ちなさい!まだ終わってないでしょう!」

ヴァイオレットが恐ろしい声を上げ、追い駆けて来る。
幸い、メイドが気付いてくれて、事なきを得た。

「ヴァイオレット様!いけません!」
「どうして?わたしは手当をしてあげただけよ!」

ミゲルは安堵と共に大泣きをしてしまい、
ヴァイオレットはヴァイオレットで、自分の主張を曲げず、
使用人たちはお手上げで、アイリスを呼びに行ったのだった。

「ヴァイオレット、ミゲルを心配したのね、それは素晴らしい事よ。
でも、無理矢理服を脱がせるのは良く無いわ、あなただって嫌でしょう?」

「どうして?メイドはいつも着替えを手伝ってるわ!」

「あなたはメイドじゃないでしょう、それに、ミゲルが『嫌だ』と言ったら、
それはしてはいけない事なの。
その薬はどうしたの?勝手に取って来たんでしょう?返していらっしゃい」

ヴァイオレットは「でもー」と、ミゲルを見る。
アイリスは安心させる様に言った。

「痣は古いものだから、薬は必要ないのよ、時と共に、薄くなるの。
それに、薬が肌に合わなかったら、余計に酷くなってしまうのよ?
分かったら、今度からは私に相談なさい、いいわね、ヴァイオレット」

ヴァイオレットは渋々、「はーい」と返事をし、薬を返しに行った。

「ごめんなさいね、ミゲル。
ヴァイオレットに悪気は無いんだけど、少し荒っぽいから…
それにしても、男の子の服を脱がせるなんて!」

アイリスが額を押さえて嘆息する。

確かに、驚いたが、ヴァイオレットはミゲルを虐めたりはしていない。
傷の手当てをしてくれようとしたのだ。

僕のこと、嫌いじゃないのかな?

完全に信じるにはまだ怖かったが、ミゲルの気持ちは傾いていた。


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