悲劇の悪女【改稿版】

おてんば松尾

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1 始まりの日

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*ミリアside


私、近藤沙奈は、仕事帰りにスマホの画面に夢中になっていた。
26歳の普通のOLだった。

帰宅途中、読み耽っていたのは、今どき珍しくもない“ざまぁ系”の恋愛ファンタジー小説。
「悲劇の悪女」だ。

物語の主人公の夫は、自分の子どもすら見殺しにする外道。
亡き兄の妻であるエリザベスを優先し、その子供であるジェイを可愛がる。

子どもが同時に怪我を負ったときに、愛人の子を助けてしまう。
その報いとして主人公に制裁され、何もかも失う。
最後には主人公が新しい伴侶と歩み出すという話だった。

けれど私は、画面を眺めながら小さく眉を寄せた。

「これ……主人公、本当に幸せなのかな……」

結局、主人公は自分の子どもを亡くしてしまう。

その悲しみを抱えながら、新しい人生を歩むことが幸せなのか、私は分からないと思った。

ふと前方を見る。

まだ電車は来ないようだ。

私が立っている踏切は、地元では“魔の遮断機”と呼ばれている。
ひとたび閉まり始めれば五分は開かない、悪名高い踏切だ。

今日も例に漏れず、延々と警報音だけが響いている。


私はスマホを持ったまま、音が止むのを待っていた。

その、ほんの一瞬後だった。

背後から、けたたましいブレーキ音がした。

次の瞬間、凄まじい衝撃。
悲鳴を上げる間もなく、私の身体は前へとはじき飛ばされた。

ブレーキとアクセルを踏み違えた車に追突され、私はそのまま――

命を落とした。



***




次に目を開けたとき、私は荒唐無稽な光景に息を呑んだ。
場所は湖、傍には中世ヨーロッパの衣装を着た子どもがいる。

何となく見覚えがあるような気がした。

ついさっきまで読んでいた小説――

そこは、ファンタジー小説「悲劇の悪女」の世界だった。

恋愛ファンタジー小説の中で、異世界へ転生する話は鉄板ストーリーだ。

「うそ……本当に、異世界転生……?」

そんなはずはない、と何度も否定する。
私の体はどう見ても、幼児。
着ているものはドレスで、手足だって子どものそれだった。


自分は、今まさに命を落とそうとしている主人公の娘、「ミリア」に転生していた。

もし転生するなら、この場合、主人公のティナになるはずだ。
娘のミリアになるなんて、あり得ない……
なぜなら、冒頭で死んでしまうキャラだからだ。

そうは思っても、実際に今の自分は幼女だった。

物語りの最初で、ミリアは従兄のジェイに桟橋から蹴り落とされる。
そう、蹴られて湖に落とされるのだ。

私は、必死に桟橋の手すりを掴んだ。

だが現実は残酷だった。

今、幼いミリアの小さな身体は桟橋で揺れていた。
従兄のジェイに突き落とされかけている沙奈、いや“ミリア”の視界に、少年の冷たい笑みが映る。


ジェイの手が、私の小さな腕を乱暴に掴んだ。
今まさに、彼は間違いなく、私を桟橋から突き落とそうとしている。

私は爪を立てるように必死に手すりを掴む。

彼女はまだ五歳だ。八歳の男の子の力には敵わない。

「だめ!やめてっ!」

声は裏返り、喉からは細い悲鳴しか出ない。
小さな指は力が入りにくい。

次の瞬間――

「落ちろよ、ミリア」


落とされまいと、抵抗するその小さな足を、ジェイは容赦なく蹴りつけた。
乾いた音とともに、私の体がぐらりと揺れた。

ドボンッ――!

湖面がはぜる音と同時に、私の体は水の中に呑まれていった。

蹴った反動でジェイの足が桟橋の手すりに叩きつけられ、鈍い音が響いた。


水は氷みたいに冷たい。
ドレスは水を吸って重く、足に巻きつく。

(苦しい――だれか――)

必死に水を掻こうとしても、小さな手足は思うように動かない。
肺に迫る恐怖と冷たさが、私を確実に死の淵へと沈めていった。

岸辺からそれを見ていた母親のティナが叫びながら、桟橋を駆ける。

「ミリア!!」
「ジェイ!」

背後からはミリアの父親、ブライアンとジェイの母エリザベスも走ってきた。

水面では、私が苦しげに泡を吐き、必死に水を掻いている。
そのすぐ傍らで、桟橋に転がるジェイは異様なほどの声を張り上げていた。

「いたい!いたいよぉぉ!足が!折れちゃう!うわああああん!!」

絶叫に近い声。
それは痛みの訴えというよりも、誰よりも自分に注意を向けさせようとする叫びだった。


そのとき――


あれ?私……泳げるんじゃない?


物語りの中で、ミリアは泳げない設定だった。
けれど私は日本人だ。

日本のすごいところは、小、中学校にプールがあり、皆が水泳の授業を受けるところだ。

国民皆水泳。子どもは皆、泳がされるのだ。

洋服は水を吸って重いが、泳げる私は、作中のミリアのように、むやみやたらと手足を動かしたりしない。

物語りの中では、湖から救出された後、ミリアは後頭部から出血していた。
しかも、その傷に気がつくのは夜になってから。

頭のケガは、ミリアの死因。

溺れたときに、桟橋の柱か何かで後頭部をぶつけて出血したに違いないと思った。

駄目だ、それだけは回避しなければならない。

「死んでたまるか……!」

私はできるだけ立ち泳ぎで、何とか周りを冷静に確認した。


桟橋の上に転がるジェイは異様なほどの声を張り上げていた。

「いたい!早く!いたいよぉぉ!助けてぇ!!」

耳をつんざくような叫びは、苦痛よりも周囲の視線を奪うための悲鳴に聞こえた。

作中では父親のブライアンは一応、私を助けるはず……
そう信じながら私は桟橋の上へ視線を向けた。

ジェイは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、父の足へしがみついていた。

私はなんとか顔を水面に上げながら、泣き叫ぶジェイの様子を見る。

ジェイの腕は父の足を必死に掴んで放さなかった。

そのとき、母親のティナが桟橋から私の腕を掴んだ。

助かった……

「ミリア、しっかり!」

母は私の服の袖を掴んでいるけれど、彼女はそれほど力がありそうには見えなかった。
一人の力では私を持ち上げられないだろう。


「ブライアン助けて!ミリアが!」

母は大声で父の名を呼んだ。

父はジェイの身体を自分から引きはがす。

ジェイは凄まじい悲鳴を上げている。

足にしがみつくが、父は力ずくで腕をこじ開け、ジェイの母親であるエリザベスの胸へとジェイを押しつけた。

エリザベスは蒼ざめた顔で我が子を抱きしめる。

「いやだ!叔父さん!置いていかないで!足がいたい!」

泣き声で自分の存在を主張しているが、足を桟橋にぶつけたのは自分が私を蹴ったからだ。
自業自得としか言えない。

けれど誰もそれを見ていないことになっている。
まぁ、そう言うストーリーなのだから仕方がない。


父は桟橋の縁へと駆け寄ると、コートを脱いで湖に飛び込んだ。


水を掻き分け、今にも沈みそうな私の小さな身体を掴んだ。

「ミリア!」

彼は私の名を呼ぶと同時に腕力で、一気に身体を桟橋の上へ押し上げた。



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