元・聖女ですが、旦那様の言動が謎すぎて毎日が試練です

おてんば松尾

文字の大きさ
1 / 23

1 プロローグ

しおりを挟む
その灯台は海辺の絶壁にひっそりと建っていた。
かつて船乗りを導く光を放っていたが、今は苔むした壁と割れた窓を残すばかり。
風に揺れる扉が軋む音だけが響いていた。

公爵夫人ステファニー・シュタインは、灯台の最上階から果てしなく広がる波の連なりを見つめていた。
ガラスのない窓から吹き込む強い海風が、彼女の長い銀髪を揺らす。
ステファニーは窓枠に手をかけ、両腕に力を込めて身を乗り出した。
上半身が宙に浮き、足の裏が石の床から離れる。

その瞬間、背後から低く響く男の声が聞こえた。

「天気は良く、海は凪いでいるが……今夜は時化(しけ)だな」

ステファニーはハッとして振り返った。腕の力が抜け、浮いていた足がゆっくりと石の床に戻る。

彼女の背後には、背の低いずんぐりとした男が立っていた。

「飛び降りるつもりかい?」
「あなたは……誰?」
「俺は、灯台守さ」

男は喉にかかったような低い声で答えた。薄汚れた麻布のシャツとズボンを身にまとい、鼠色の頑丈なコートを羽織っている。見た目は、確かに灯台守だった。

(……ここは忘れられた灯台。人が来るはずはない)ステファニーは訝しげに眉をひそめた。

「この灯台に、灯りを灯しているの?」

男は彼女の問いには答えず、静かに問い返した。

「あんたは、ここから飛び降りて死ぬつもりかい?」

「死ぬつもりなんて、ないわ……」

灯台守はステファニーの隣に歩み寄り、窓の下を見下ろして呟いた。

「まぁ、ここから落ちたって死にはしない。大怪我をして、不自由な暮らしを送るだけさ」

男の口元では、顎を覆う長い髭が風に揺れていた。
ステファニーは小さくため息をついた。

本気で死ぬつもりはなかった。
ただ、この景色を見ていると、自由になりたいという衝動が胸を突いただけだ。

疲れ果てた心は、ふと「死んでもいいか」と思うほどに擦り切れていた。

ステファニーはポケットから、チューリップの刺繍が施された白いハンカチを取り出し、額の汗をぬぐった。いつの間にか、汗が流れていたようだった。

窓の外では、波の砕ける音とカモメの甲高い鳴き声が、潮風に乗って響いていた。


***

しばらくすると、ステファニーは、灯台守に誰にも打ち明けたことのない心の内を語っていた。

伯爵家の長女として生まれた彼女は、典型的な貴族令嬢だった。
けれど、十三歳のある日、突然、光の魔力に目覚めた。
手から放たれる光は、どんな病も瞬時に癒す力を持ち、その威力は過去に類を見ないほど強大だった。人々は敬意を込めて彼女を「聖女様」と呼び、ステファニーは国民の希望の象徴となった。

毎日、病や傷を癒し、命を救うことが聖女としての責務だ。
善行であり、正しい行為だからこそ、どれほど過酷でも逃げることは許されなかった。
繰り返される奉仕の重圧に、彼女の体は疲弊し、心は静かに悲鳴を上げていた。

人々は彼女を崇めたが、その力は平民や貧しい者には届かなかった。
神官たちは患者を選び、神殿に高額の寄付ができる者だけが癒された。

「平等とは何なのか」

――ステファニーは何年も悩み続け、自分にできることを模索した。
上司である神官はこう言った。

『貧しい者も裕福な者も、病人に違いはない。貴族だからといって治療しないわけにはいかない』

私はこう返した。

『では、恵まれない人々にも同じように治療を施します』

『できるのか?そんな大人数を癒せるなら、やってみるがいい』

神官の言葉はもっともだった。
ステファニー一人の力で国民すべてを救うことはできない。

そして、癒すかを決める決定権は彼女にはなかった。

聖女の魔力は、強大であるがゆえに不平等な力だった。
神殿は金のためにその力を使い、ステファニーは神官たちの私腹を肥やすための「金の卵を産む鵞鳥」だった。
彼女は悩み、苦しみ、いつしか生きることに希望を持てなくなっていた。

魔力は連続して使えるものではなく、発動のたびに体に負荷がかかる。
治癒の後は数時間動けず、力が戻ればまた次の患者を癒す。
その繰り返しは、終わりの見えない長いトンネルを歩いているようだった。

「一日の奉仕を終えると、体は動かず、目を開けることさえできなくなるほど消耗するの。なんとか馬車に乗って屋敷に帰り、翌日の奉仕のために無理やり食事を詰め込んで、ベッドに倒れ込む毎日だったわ」

「あんたは十三歳からずっと聖女として、神殿にこき使われていたってことか?」

灯台守は驚いたように眉を上げた。

「そうね……この十年間、それが私の仕事だった。『奉仕』と呼ばれる聖女の責務よ。この力がある限り、使うことは当然で、使わなければ、それは罪だった」

「聖女は人を助けて当然。治療は善行だから、拒めばそれは悪になる……そういう世の中ってことか」

ステファニーはゆっくりと頷いた。
嬉しい時も、悲しい時も、どんなに辛くても、彼女は聖女でいなくてはならなかった。
いつしか、感情は表に出なくなり、笑うことも、泣くことも忘れてしまっていた。

***


灯台守はランタン室の扉を開け、灯火台に油を注ぎ始めた。

「この灯台、まだ使われていたのね。知らなかったわ」

ステファニーが呟くと、灯台守が答えた。

「今夜は嵐だ。船が迷わないように、俺が灯りを灯す」

彼の手が灯火台に触れると、埃や錆が消え、機材が静かに光り始めた。

不思議な光景だった。
嵐の夜だけこの灯台は使われるのかもしれないと思いながら、ステファニーは彼の動きを見つめていた。

「灯台守は長くやってるが、俺の役目はそれだけじゃないんだ」
「……それだけじゃない?」
「あんたが光の魔法を使えるように、俺も魔法が使える」
「どんな魔法?」
「知りたいか?なら、あんたの望みを言ってみな。叶えてやる」

灯台守はニヤリと笑った。

(本当に魔力があるのかしら?)
ステファニーは少し考えてこう言った。

「もし本当に何でもできるなら、私の聖女の力をなくしてほしい」
「ハハッ、それくらいなら簡単さ」

そう言ってはいるが、彼はもくもくと灯火の準備を続けるだけだった。

(冗談だったのね)
この世界には、魔力を持つ人がいる。貴族に多く、平民にはほとんどいない。力の強さも人によって違う。ステファニーほどの魔力を持つ者は、めったにいない。
彼女は、軽く流すような口調で話を続けた。

「私の力がなくなったら、国中が騒ぎになるわ。国王陛下も巻き込まれる」
「世間が騒ごうが、俺には関係ない」
「私は責められるでしょうね。騒ぎに巻き込まれるのは面倒だわ」
「なら、記憶も消せばいい」

「記憶?」
「ああ。聖女だったことを忘れれば、何が起きても気にならない」
「そうね……罪も責任も忘れられるなら、楽かもしれない」
「でも、家族も友人も、思い出も全部忘れることになる」
「それでも、構わないわ」

ステファニーには、忘れて困るような記憶はなかった。
光の力を得てから、友人たちは離れていった。
聖女は神のような存在。人々は敬い、恐れ、近づこうとはしなかった。

だからといって、誰かに冷たくされたり、無視されたりしていたわけではない。
ただ、人々は「恐れ多い」と感じて、彼女との間に遠慮の壁をつくり、自然と距離を置いた。

「あんた、家族は?結婚はしてないのか?」

ステファニーは結婚していた。
聖女の力を受け継ぐ子を得るため、国王の命令でレイモンド・フォン・シュタイン公爵と結ばれた。
彼は王族の血を引く人物で、王家は聖女の力を血筋に取り込みたかったのだ。

「結婚して五年になるけど、子どもはいない。私たちの間に愛はないわ。王命での結婚だったし、彼も無理やり夫にされたようなものよ」
「貴族なら、そういう結婚も普通なのか」
「だから、夫との思い出はそれほど大事じゃないの」

父の死後、レイモンドが公爵位を継いだ。
それ以前から、彼は影の魔力を使って王国の公安調査を担っていた。
国の安全を守るため、表に出ない仕事を続けていた。
公爵家の仕事と城での任務に追われる日々。
どちらも辞めることはできなかった。
ステファニーと年齢が近かった彼は、政略結婚を強いられた「気の毒な公爵」だった。
彼女はハンカチに刺されたチューリップの模様を指でなぞった。
それは、レイモンドの好きな花だった。

「寂しい話だな。忘れてもいいような夫婦ってのは、どうなんだ」

「同じ屋敷に住む同居人って感じかしら。でも、彼のことは嫌いじゃないし、冷たくされたこともない。会えば挨拶はするわ」

「挨拶だけか?」

ステファニーは頷いた。
屋敷は広く、部屋も離れていて、顔を合わせることはほとんどなかった。
最初の頃は一緒に眠ることもあったが、忙しさに追われ、夫婦の時間は次第に消えていった。
愛や恋を考える余裕もなかった。

「仕事の内容が違うから、話も合わなかったの。彼も忙しくて、ここ数ヶ月は顔も見ていないわ」
「じゃあ、夫の記憶もいらないってことか」

長く一緒に暮らしてきたけれど、神殿で働くステファニーと、外に出ることの多い夫では生活のリズムが違っていた。
食事も別々、夜会やお茶会も一緒に出ることはなく、旅行や散歩なんて夢のようだった。
五年も夫婦だったのに、彼のことをほとんど知らない。だから、記憶が消えても困らないと思えた。

「夫婦なのに変だと思われるかもしれないけど、これが現実なの。思いやる余裕なんてなかった。でも、それが楽だったのよ。気を使う力も残ってなかったから」

聖女の血を継ぐ子を産む使命はあったが、子どもは授からなかった。
一緒に眠ったのも数えるほどで、どちらも積極的ではなかった。
ここ数年は、別々の寝室だった。

妊娠すれば責任が増えることはわかっていたし、ステファニーはそれを望まなかった。
自分の力を子どもが受け継ぐことも、良いことだとは思えなかった。

「あんたの望みは、光の魔力を消すこと。それと記憶をなくすこと。今のところ、その二つだけでいいのか?」

ステファニーは、ほかに何か望みがあるか考えた。

「そうね……できるなら、もっと明るい性格になりたい。希望を持って、前向きに生きられたら理想的。でも私は、すぐに諦めてしまうし、いつも悲観的なの。暗い性格で、自分でも嫌になるわ」

「それは、まぁ……これまでの環境のせいかもしれないな」

「見た目も地味で、無表情で冷たいって言われる。人に感謝されても、おいしいものを食べても、感情が出てこないの」

「望んでも変わらないと思ってるから、表情もなくなってしまったんだろうな。笑うことも、喜ぶことも忘れてしまった」

「ええ、そうかもしれないわ」

灯台守は咳払いをして、話を続けた。

「一つ目は魔力を消す。これは一生なくてもいいのか?それとも、いつかまた使えるようになりたいと思うか?」

「いらない。一生いらないわ」

「二つ目は記憶を消す。何年か後に思い出すようにするのはどうだ?両親のことまで忘れてしまうぞ」
「それは……そうね……」

ステファニーは息を呑み、少し考えてから答えた。

「記憶は、数年後に思い出すくらいがいいかも」

灯台守はうなずいた。

「三つ目は性格を明るくする。いつも元気でやる気いっぱいってのは、ちょっと疲れるかもしれないぞ」
「そうね……ほどほどに前向きな感じがいいわ」
「細かい注文だな。他にはないか?後悔しても知らないぞ」

「それは、やってみないと分からないわよね。人って、手に入らないものに憧れて、手に入れたら面倒に感じることもあるから」

「人間ってのは本当にややこしいな。もし元に戻したくなったら、またここに来るといい。嵐の夜、海が荒れている日に、俺がここにいるかもしれない。運が良ければ、また会えるだろうさ」

ステファニーは、静かにうなずいた。
灯台守はランタンを灯火台に設置し、光が遠くの海まで届くようにレンズを丁寧に調整した。
その姿は、まるで儀式のようだった。
話に夢中になっていたステファニーが顔を上げると、外はすっかり夜になっていた。

「それじゃあ、点火するぞ」

灯台守は火打ち石を取り出し、慎重に火花を散らした。カチン、カチンと音が響き、やがて芯に火がついた。
光はすぐに広がり、部屋全体を照らし、外の闇を切り裂くように伸びていった。
その光は強く、ステファニーは思わず目を細めた。

次の瞬間、心臓が速く打ち、耳鳴りがした。空気が薄くなったような息苦しさが襲い、激しい頭痛が走った。

そして、闇がすべてを包み込み、ステファニーの意識は静かに途切れた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妹の身代わりに殺戮の王太子に嫁がされた忌み子王女、実は妖精の愛し子でした。嫁ぎ先でじゃがいもを育てていたら、殿下の溺愛が始まりました・長編版

まほりろ
恋愛
 国王の愛人の娘であるアリアベルタは、母親の死後、王宮内で放置されていた。  食事は一日に一回、カビたパンやまふ腐った果物、生のじゃがいもなどが届くだけだった。  しかしアリアベルタはそれでもなんとか暮らしていた。  アリアベルタの母親は妖精の村の出身で、彼女には妖精がついていたのだ。  その妖精はアリアベルタに引き継がれ、彼女に加護の力を与えてくれていた。  ある日、数年ぶりに国王に呼び出されたアリアベルタは、異母妹の代わりに殺戮の王子と二つ名のある隣国の王太子に嫁ぐことになり……。 「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します。 ※小説家になろうとカクヨムにも投稿しています。 ※中編を大幅に改稿し、長編化しました。2025年1月20日 ※長編版と差し替えました。2025年7月2日 ※コミカライズ化が決定しました。商業化した際はアルファポリス版は非公開に致します。

離婚寸前で人生をやり直したら、冷徹だったはずの夫が私を溺愛し始めています

腐ったバナナ
恋愛
侯爵夫人セシルは、冷徹な夫アークライトとの愛のない契約結婚に疲れ果て、離婚を決意した矢先に孤独な死を迎えた。 「もしやり直せるなら、二度と愛のない人生は選ばない」 そう願って目覚めると、そこは結婚直前の18歳の自分だった! 今世こそ平穏な人生を歩もうとするセシルだったが、なぜか夫の「感情の色」が見えるようになった。 冷徹だと思っていた夫の無表情の下に、深い孤独と不器用で一途な愛が隠されていたことを知る。 彼の愛をすべて誤解していたと気づいたセシルは、今度こそ彼の愛を掴むと決意。積極的に寄り添い、感情をぶつけると――

【完結】氷の令嬢は愛を請わない - 捨て子の『義妹』に愛も家族も奪われたマリーローズの逆襲

恋せよ恋
恋愛
銀髪紫眼の美貌の侯爵令嬢、マリーローズ。 完璧な淑女に育った彼女だったが、母は捨て子ジュリエットを寵愛。 婚約者の公爵家嫡男アレックスも、友人も、次々に奪われる――。 家族に裏切られ、すべてを失った彼女が下した決断は、 家族を見かぎり、国を捨て、自らの人生を取り戻すこと。 理不尽な悲恋を力に変え、運命をひっくり返す令嬢の逆転劇! 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!

私が、良いと言ってくれるので結婚します

あべ鈴峰
恋愛
幼馴染のクリスと比較されて悲しい思いをしていたロアンヌだったが、突然現れたレグール様のプロポーズに 初対面なのに結婚を決意する。 しかし、その事を良く思わないクリスが・・。

【完結】嫌われ公女が継母になった結果

三矢さくら
恋愛
王国で権勢を誇る大公家の次女アデールは、母である女大公から嫌われて育った。いつか温かい家族を持つことを夢見るアデールに母が命じたのは、悪名高い辺地の子爵家への政略結婚。 わずかな希望を胸に、華やかな王都を後に北の辺境へと向かうアデールを待っていたのは、戦乱と過去の愛憎に囚われ、すれ違いを重ねる冷徹な夫と心を閉ざした継子だった。

さようなら、私の初恋

しょくぱん
恋愛
「さよなら、私の初恋。……もう、全部お返しします」 物心ついた時から、彼だけが世界のすべてだった。 幼馴染の騎士団長・レオンに捧げた、十数年の純粋な初恋。 彼が「無敵」でいられたのは、アリアが無自覚に与え続けた『治癒の加護』があったから。 だが婚約直前、アリアは知ってしまう。 彼にとって自分は、仲間内で競い合う「賭けの対象」でしかなかったことを。 「あんな女、落とすまでのゲームだよ」

追放された養女令嬢は、聖騎士団長の腕の中で真実の愛を知る。~元婚約者が自滅する横で、私は最高に幸せになります~

有賀冬馬
恋愛
「お前のような無能な女、私の格が下がるのだよ」 最愛の婚約者だったはずの王子に罵られ、雨の夜に放り出されたエルナ。 すべてを失った彼女が救われたのは、国の英雄である聖騎士団長・レオナードの手によってだった。 虚飾の社交界では見えなかった、本当の価値。 泥にまみれて子供たちを笑顔にするエルナの姿に、レオナードは心を奪われていく。 「君の隣に、私以外の居場所は作らせない」 そんな二人の裏側で、エルナを捨てた王子は破滅へのカウントダウンを始めていた。

両親に溺愛されて育った妹の顛末

葉柚
恋愛
皇太子妃になるためにと厳しく育てられた私、エミリアとは違い、本来私に与えられるはずだった両親からの愛までも注ぎ込まれて溺愛され育てられた妹のオフィーリア。 オフィーリアは両親からの過剰な愛を受けて愛らしく育ったが、過剰な愛を受けて育ったために次第に世界は自分のためにあると勘違いするようになってしまい……。 「お姉さまはずるいわ。皇太子妃になっていずれはこの国の妃になるのでしょう?」 「私も、この国の頂点に立つ女性になりたいわ。」 「ねえ、お姉さま。私の方が皇太子妃に相応しいと思うの。代わってくださらない?」 妹の要求は徐々にエスカレートしていき、最後には……。

処理中です...