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2話
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翌日も王子は森へやってきた。その次の日も、さらにその次の日も。連日、やってきた。その都度、「惚れ薬の調合は進んでいるかな」と尋ねてくるが、急かすような口ぶりには聞こえなかった。が、少々試すかのような口調に、森の魔女には感じられた。
「暇なんですか、王子」
口惜しくて、嫌みの一つでも言いたくなるというものだ。だが王子はにこにこと笑うばかりだ。
暇なわけがない。森の魔女はそれを知っている。王子はかりにも「領主」なのだ。すべき仕事は山ほどあるはずだ。それに王子は政務を怠けてここに来るような、不真面目な性格でもない。わざわざ時間をつくって森へやってきているのだろう。長居することはほとんどないから、それが分かる。本当に森の魔女の顔だけを見に来た、という日すらある。
以前は、こんなことなかったのに。
会えない日が続く方が多かったくらいだ。だから会うごとに「お久しぶりです」の挨拶がまず頭についた。それくらい、会わないでいることの方が多く、それが当たり前だった。
他愛無い会話を少しだけして、王子は帰っていく。そんな日が続いた。
雲の多い、やや肌寒い日のことだった。
王子はいつも単身、愛馬に騎乗して森にやってくるのだが、その日は珍しく供を一人連れていた。
身だしなみの良い初老の男だ。魔女も何度か面識がある。名は、ハディスという。王子の居城を取り仕切る家令でもあり、政務の補佐も勤める謹厳な執事だ。
「お久しゅうございます、森の魔女殿」
きちんと整えられた茶の髪にはわずかに白いものが混じっている。しかし幼い頃に会ったときから見た目はほとんど変わらないように思う。魔女はこの厳格な執事が、ほんの少しだけ苦手だった。
「あ、はい、……どうも、お久しぶりです」
ハディスのもの堅く慇懃な態度と挨拶に、森の魔女は慌てて挨拶を返した。とっさのことで礼儀にかなった言葉ひとつ出てこなかった。
ハディスは礼儀正しい人物だ。「魔女」だからといって、目の前にいる娘に蔑視の眼差しを向けることはない。内心はどうあれ、感情をあらわにはしない。
が、今日のハディスは僅かながらも表情を動かした。
探るような視線を森の魔女に向け、それをあえて隠さずにいる。
森の魔女は訝しんだ。不躾といっていい視線だ。謹厳なハディスが、なぜ。
不愉快とまではいかない。ただ、品定めをされているかのような居心地の悪さをおぼえ、いつも以上に委縮してしまう。
王子は森の魔女とハディスの間に立ち、その視線を遮った。
「ハディス、先に帰ってくれ。もう用は済んだろう」
いつになく低いトーンの声で王子は言う。魔女からは王子の顔は見えなかったが、王子が自分を庇ってくれたのだろうということだけは分かった。それにしても、王子とハディスの間にある、不穏とまではいかない、すこしばかりピリついた空気は、いったい何なのだろう。魔女は気もそぞろだった。
「左様ですな。では、私はこれで」
一礼した後、ハディスはあっさりと引き下がり、森の魔女を一瞥した後、馬上の人となった。
用とはなんのことだろうと魔女は首を捻る。
「本日は、お早く戻られますように」
「わかっている。時間までには、必ず戻る」
王子は嘆息して応えた。声の調子はひどく冷ややかだ。
ハディスは何か言いたげだったが、軽く会釈するにとどめ、手綱をひき、馬を駆らせて去って行った。
ややあってから、森の魔女は王子の顔を覗き込んで訊いた。
「どうしたんですか、王子? らしくないですね?」
「らしくない、とは?」
もう王子の顔にはいつもの美妙な笑顔が戻っていて、鋭さも冷たさも感じられない。ただ少しだけ、気疲れした風でもある。
「なんか今日は、ちょっと違うっていうか。何か……嫌なことでもあったんですか?」
王子は微苦笑して応えた。
「嫌なことというより、面倒なことがあるのだよ。それで少々憂鬱な気分になっている、といったところかな」
「へえ? あ、お茶、用意しますね。……お茶、飲んでいけるくらいの時間はありますか?」
「いただくよ。ありがとう」
疲れた風の王子を、いつものように無碍に追い返そうとするのもいかがなものかと、森の魔女は茶の用意をし始めた。
お疲れのようなら、気分を和らげるハーブティーを淹れますね。そう言って森の魔女は手際よく自家製のブレンドティーを用意した。
森の魔女が淹れてくれるハーブティーは、いつも王子の心を安らげる。淹れている当人の顔を見ることも大切な要素なのだ。
「面倒なことって、なんなんですか? 訊いてもよいことでしょうか?」
「ああ、構わないよ。最近、縁談が多いんだ、仕方のないことだけれどね」
「それじゃぁ、今日は見合いがあるとか?」
「まあ、そうだね。晩餐に招かれているんだよ。面倒だけどね」
「あ、それで惚れ薬なんですか?」
「それで、とは、どこにかかる言葉なのかな。いきなり惚れ薬とは、意味が分からないね」
「縁談なんでしょう? だったら面倒を減らすために惚れ薬を使いたいのかなぁって。気にいった女性だったら、余計な時間をとるのも面倒だから、惚れ薬でさくっと話をまとめよう、とか」
王子は失望したような顔で深々とため息をついた。
「君は勘が鋭いのか鈍いのか、まったく読めないね。困ったな」
「王子こそなんですけど。意味不明で、意味深で、読めなくて、困ってるのはわたしの方こそですから!」
「君は、まったく……」
わざとかい? そう問うと、森の魔女は目をぱちくりさせてから、少し怒ったように聞き返してきた。
「王子ってば、最近ちょっと性質悪くなってませんか? わざわざ森の奥までわたしをからかいに来てるんですか?」
「そんなことより、ね。以前から言っているけれど、王子と呼ぶのは、そろそろやめてもらえないかな?」
「どうしてですか? だって、王子は王子だし」
「王に認知された子供だから、王子には違いないけど、そう呼ばれて嬉しいものでもないんだよ」
「そうなんですか? でも、ずっとそう呼び慣れてきちゃったからなぁ。ねぇ、リプ?」
同意を、いつの間にかテーブルの上に現れていた眷属に求めた。
リフレナスは王子に軽く会釈をし、挨拶を済ませた。
「俺も、できればきちんとした名前で呼ばれたいね」
リフレナスのそっけない応えに、魔女は不満そうな声をもらす。
王子は美麗な笑みを浮かべ、頬杖をついた。
「まさか名前を忘れているなんてことはないだろうね? 君なら有り得るが」
「どういう意味です。憶えてます、失礼な。いいじゃないですか、王子で。今さら急に変えられません」
「……頑固だね、君は」
「魔女ですから」
膨れっ面になって、頑固な魔女はそっぽを向いた。
こういう時の王子は、苦手だ。
何か言いたそうな顔をして、じっとこちらを見ている王子の視線が、横面にチクチク刺さる。
最近とくにそうだ。王子はどことなく切なげな顔をして黙り込んでしまうことが、ままある。そうして亜麻色の瞳でじっと魔女を見つめるのだ。
王子の言動は不可解なことだらけだ。
風が、梢を揺らした。葉がこすれあい、涼やかな香りを運んでくる。しじまが魔女と王子の間に落ちた。
森の魔女の長い黒髪が風を受けて、さらさらと揺れる。黒絹のような豊かな髪は、座っていると地につくほど長い。
美しく長い黒髪だと、王子は思う。
以前森の魔女から聞いたことだったが、髪は多少なりとも魔力に影響を及ぼすらしい。だからできれば長く伸ばしなさいと、先代の森の魔女に言われたらしい。亡き師匠の言いつけを守って森の魔女は髪を伸ばし続けている。
板みたいにまっすぐな髪なんて、ちっとも可愛くないと森の魔女はよく愚痴をこぼしていた。森の魔女は、陽光を受けて光るさざ波のような王子の亜麻色の髪に憧れていた。
黒絹のように艶やかで、とても美しいのに。
王子がそう言っても、森の魔女は本気には受け取らなかった。かえって拗ねてしまうことすらあった。
おそらくは、照れているのだろう。
王子の名前を呼ばないのも照れているからだろうと考えていたが、はたしてどうだろう。
王子は落胆したが、さほどには落ち込んでいない。
「私を名前で呼んでもらえないのも残念だが」
森の魔女の大きくて黒い硝子玉のような瞳が、王子を映す。
まじろぎもせずに見つめ返してくる黒い双眸は、幼い頃から変わらない。だが、森の魔女もう幼いばかりの少女ではないはずだ。
「魔女殿、いつになったら君の名を教えてもらえるのかな?」
この十数年、王子は森の魔女の名を知らずにいた。幾度となく尋ねたのだが、教えてはもらえなかった。魔女だから、という理由で。
「師匠が、特別な人以外には教えるなって言ったんです。魔女にとって名前は重要だからって。だから、今生きていてわたしの名前を知っているのは、リプだけです」
「特別、ね」
やれやれというように、王子はため息をついた。苦味のある笑みが秀麗な顔を曇らせる。
「呼ぶ名前がないというのは、不便なように思えるが?」
「そんなことはありません。町のみんなは、お弟子さんとか二代目さんとか魔女さんとかで呼ぶし。王子だって今まで名前なしでも普通にわたしと会話していたじゃないですか」
「教えたくない、ということかな?」
「別にそういうわけじゃありません。飛躍しすぎです。ただ、なんか今さらってだけで」
「…………」
王子は二度目のため息をつき、それを機に立ちあがった。
「そろそろ帰るよ。遅刻するわけにはいかないからね」
「……そうですか」
森の魔女は機嫌を損ねたようだ。無愛想な返答をし、王子の顔も見ない。
「魔女殿、そろそろ惚れ薬はできそうかな?」
「できません。作ってませんから」
「困ったね。……仕方がないな。別の魔女に依頼したほうがよいかな。隣国に、たしか優秀な魔女がいるという噂を聞いたから、いっそそちらに」
あてつけにそう言っているだけだ。そう分かっていても、少なからず気にかかった。
そうまでして惚れ薬がほしいと思う、王子の心情が。
「王子。惚れ薬なんて、よくないです」
森の魔女は真剣なまなざしを王子に向けた。
「惚れ薬は、作れたとしてもそれは一種の毒薬です。薬物や魔法の力で相手の心を強制的に自分の思い通りに変えようとするなんて、良いやり方ではありません」
「…………」
「王子はそういうことができる人じゃ、ないはずです」
「それは買いかぶりというものだよ、魔女殿」
「王子とはそこそこ長い付き合いなんですよ? それくらい分かります」
「分かってほしいことは、分かってくれないのにね」
王子の声はあまりに小さく、森の魔女の耳には届かなかった。「なんですか」と訊き返しても、王子は笑ってごまかすばかりだ。笑みは、ひどく切なげにも見える。
「今日のところは、これで。またね、魔女殿」
王子は名残惜しげな様子ではあったが、馬上の人となるや、ただの一度も振り返らず、森の魔女の館から去って行った。
消化不良気味に取り残された森の魔女は、冷めたハーブティーを一気に飲み干し、乱暴にカップを置いた。
「……なんなの、もうっ」
わからないことだらけだ。
ハディスの来訪もだが、王子も相変わらず意味深で。だけど、いちばん分からないのは、自分の胸の内のもやもやだ。
口内に残ったハーブの香りが、ひどく苦いものに感じられた。
「暇なんですか、王子」
口惜しくて、嫌みの一つでも言いたくなるというものだ。だが王子はにこにこと笑うばかりだ。
暇なわけがない。森の魔女はそれを知っている。王子はかりにも「領主」なのだ。すべき仕事は山ほどあるはずだ。それに王子は政務を怠けてここに来るような、不真面目な性格でもない。わざわざ時間をつくって森へやってきているのだろう。長居することはほとんどないから、それが分かる。本当に森の魔女の顔だけを見に来た、という日すらある。
以前は、こんなことなかったのに。
会えない日が続く方が多かったくらいだ。だから会うごとに「お久しぶりです」の挨拶がまず頭についた。それくらい、会わないでいることの方が多く、それが当たり前だった。
他愛無い会話を少しだけして、王子は帰っていく。そんな日が続いた。
雲の多い、やや肌寒い日のことだった。
王子はいつも単身、愛馬に騎乗して森にやってくるのだが、その日は珍しく供を一人連れていた。
身だしなみの良い初老の男だ。魔女も何度か面識がある。名は、ハディスという。王子の居城を取り仕切る家令でもあり、政務の補佐も勤める謹厳な執事だ。
「お久しゅうございます、森の魔女殿」
きちんと整えられた茶の髪にはわずかに白いものが混じっている。しかし幼い頃に会ったときから見た目はほとんど変わらないように思う。魔女はこの厳格な執事が、ほんの少しだけ苦手だった。
「あ、はい、……どうも、お久しぶりです」
ハディスのもの堅く慇懃な態度と挨拶に、森の魔女は慌てて挨拶を返した。とっさのことで礼儀にかなった言葉ひとつ出てこなかった。
ハディスは礼儀正しい人物だ。「魔女」だからといって、目の前にいる娘に蔑視の眼差しを向けることはない。内心はどうあれ、感情をあらわにはしない。
が、今日のハディスは僅かながらも表情を動かした。
探るような視線を森の魔女に向け、それをあえて隠さずにいる。
森の魔女は訝しんだ。不躾といっていい視線だ。謹厳なハディスが、なぜ。
不愉快とまではいかない。ただ、品定めをされているかのような居心地の悪さをおぼえ、いつも以上に委縮してしまう。
王子は森の魔女とハディスの間に立ち、その視線を遮った。
「ハディス、先に帰ってくれ。もう用は済んだろう」
いつになく低いトーンの声で王子は言う。魔女からは王子の顔は見えなかったが、王子が自分を庇ってくれたのだろうということだけは分かった。それにしても、王子とハディスの間にある、不穏とまではいかない、すこしばかりピリついた空気は、いったい何なのだろう。魔女は気もそぞろだった。
「左様ですな。では、私はこれで」
一礼した後、ハディスはあっさりと引き下がり、森の魔女を一瞥した後、馬上の人となった。
用とはなんのことだろうと魔女は首を捻る。
「本日は、お早く戻られますように」
「わかっている。時間までには、必ず戻る」
王子は嘆息して応えた。声の調子はひどく冷ややかだ。
ハディスは何か言いたげだったが、軽く会釈するにとどめ、手綱をひき、馬を駆らせて去って行った。
ややあってから、森の魔女は王子の顔を覗き込んで訊いた。
「どうしたんですか、王子? らしくないですね?」
「らしくない、とは?」
もう王子の顔にはいつもの美妙な笑顔が戻っていて、鋭さも冷たさも感じられない。ただ少しだけ、気疲れした風でもある。
「なんか今日は、ちょっと違うっていうか。何か……嫌なことでもあったんですか?」
王子は微苦笑して応えた。
「嫌なことというより、面倒なことがあるのだよ。それで少々憂鬱な気分になっている、といったところかな」
「へえ? あ、お茶、用意しますね。……お茶、飲んでいけるくらいの時間はありますか?」
「いただくよ。ありがとう」
疲れた風の王子を、いつものように無碍に追い返そうとするのもいかがなものかと、森の魔女は茶の用意をし始めた。
お疲れのようなら、気分を和らげるハーブティーを淹れますね。そう言って森の魔女は手際よく自家製のブレンドティーを用意した。
森の魔女が淹れてくれるハーブティーは、いつも王子の心を安らげる。淹れている当人の顔を見ることも大切な要素なのだ。
「面倒なことって、なんなんですか? 訊いてもよいことでしょうか?」
「ああ、構わないよ。最近、縁談が多いんだ、仕方のないことだけれどね」
「それじゃぁ、今日は見合いがあるとか?」
「まあ、そうだね。晩餐に招かれているんだよ。面倒だけどね」
「あ、それで惚れ薬なんですか?」
「それで、とは、どこにかかる言葉なのかな。いきなり惚れ薬とは、意味が分からないね」
「縁談なんでしょう? だったら面倒を減らすために惚れ薬を使いたいのかなぁって。気にいった女性だったら、余計な時間をとるのも面倒だから、惚れ薬でさくっと話をまとめよう、とか」
王子は失望したような顔で深々とため息をついた。
「君は勘が鋭いのか鈍いのか、まったく読めないね。困ったな」
「王子こそなんですけど。意味不明で、意味深で、読めなくて、困ってるのはわたしの方こそですから!」
「君は、まったく……」
わざとかい? そう問うと、森の魔女は目をぱちくりさせてから、少し怒ったように聞き返してきた。
「王子ってば、最近ちょっと性質悪くなってませんか? わざわざ森の奥までわたしをからかいに来てるんですか?」
「そんなことより、ね。以前から言っているけれど、王子と呼ぶのは、そろそろやめてもらえないかな?」
「どうしてですか? だって、王子は王子だし」
「王に認知された子供だから、王子には違いないけど、そう呼ばれて嬉しいものでもないんだよ」
「そうなんですか? でも、ずっとそう呼び慣れてきちゃったからなぁ。ねぇ、リプ?」
同意を、いつの間にかテーブルの上に現れていた眷属に求めた。
リフレナスは王子に軽く会釈をし、挨拶を済ませた。
「俺も、できればきちんとした名前で呼ばれたいね」
リフレナスのそっけない応えに、魔女は不満そうな声をもらす。
王子は美麗な笑みを浮かべ、頬杖をついた。
「まさか名前を忘れているなんてことはないだろうね? 君なら有り得るが」
「どういう意味です。憶えてます、失礼な。いいじゃないですか、王子で。今さら急に変えられません」
「……頑固だね、君は」
「魔女ですから」
膨れっ面になって、頑固な魔女はそっぽを向いた。
こういう時の王子は、苦手だ。
何か言いたそうな顔をして、じっとこちらを見ている王子の視線が、横面にチクチク刺さる。
最近とくにそうだ。王子はどことなく切なげな顔をして黙り込んでしまうことが、ままある。そうして亜麻色の瞳でじっと魔女を見つめるのだ。
王子の言動は不可解なことだらけだ。
風が、梢を揺らした。葉がこすれあい、涼やかな香りを運んでくる。しじまが魔女と王子の間に落ちた。
森の魔女の長い黒髪が風を受けて、さらさらと揺れる。黒絹のような豊かな髪は、座っていると地につくほど長い。
美しく長い黒髪だと、王子は思う。
以前森の魔女から聞いたことだったが、髪は多少なりとも魔力に影響を及ぼすらしい。だからできれば長く伸ばしなさいと、先代の森の魔女に言われたらしい。亡き師匠の言いつけを守って森の魔女は髪を伸ばし続けている。
板みたいにまっすぐな髪なんて、ちっとも可愛くないと森の魔女はよく愚痴をこぼしていた。森の魔女は、陽光を受けて光るさざ波のような王子の亜麻色の髪に憧れていた。
黒絹のように艶やかで、とても美しいのに。
王子がそう言っても、森の魔女は本気には受け取らなかった。かえって拗ねてしまうことすらあった。
おそらくは、照れているのだろう。
王子の名前を呼ばないのも照れているからだろうと考えていたが、はたしてどうだろう。
王子は落胆したが、さほどには落ち込んでいない。
「私を名前で呼んでもらえないのも残念だが」
森の魔女の大きくて黒い硝子玉のような瞳が、王子を映す。
まじろぎもせずに見つめ返してくる黒い双眸は、幼い頃から変わらない。だが、森の魔女もう幼いばかりの少女ではないはずだ。
「魔女殿、いつになったら君の名を教えてもらえるのかな?」
この十数年、王子は森の魔女の名を知らずにいた。幾度となく尋ねたのだが、教えてはもらえなかった。魔女だから、という理由で。
「師匠が、特別な人以外には教えるなって言ったんです。魔女にとって名前は重要だからって。だから、今生きていてわたしの名前を知っているのは、リプだけです」
「特別、ね」
やれやれというように、王子はため息をついた。苦味のある笑みが秀麗な顔を曇らせる。
「呼ぶ名前がないというのは、不便なように思えるが?」
「そんなことはありません。町のみんなは、お弟子さんとか二代目さんとか魔女さんとかで呼ぶし。王子だって今まで名前なしでも普通にわたしと会話していたじゃないですか」
「教えたくない、ということかな?」
「別にそういうわけじゃありません。飛躍しすぎです。ただ、なんか今さらってだけで」
「…………」
王子は二度目のため息をつき、それを機に立ちあがった。
「そろそろ帰るよ。遅刻するわけにはいかないからね」
「……そうですか」
森の魔女は機嫌を損ねたようだ。無愛想な返答をし、王子の顔も見ない。
「魔女殿、そろそろ惚れ薬はできそうかな?」
「できません。作ってませんから」
「困ったね。……仕方がないな。別の魔女に依頼したほうがよいかな。隣国に、たしか優秀な魔女がいるという噂を聞いたから、いっそそちらに」
あてつけにそう言っているだけだ。そう分かっていても、少なからず気にかかった。
そうまでして惚れ薬がほしいと思う、王子の心情が。
「王子。惚れ薬なんて、よくないです」
森の魔女は真剣なまなざしを王子に向けた。
「惚れ薬は、作れたとしてもそれは一種の毒薬です。薬物や魔法の力で相手の心を強制的に自分の思い通りに変えようとするなんて、良いやり方ではありません」
「…………」
「王子はそういうことができる人じゃ、ないはずです」
「それは買いかぶりというものだよ、魔女殿」
「王子とはそこそこ長い付き合いなんですよ? それくらい分かります」
「分かってほしいことは、分かってくれないのにね」
王子の声はあまりに小さく、森の魔女の耳には届かなかった。「なんですか」と訊き返しても、王子は笑ってごまかすばかりだ。笑みは、ひどく切なげにも見える。
「今日のところは、これで。またね、魔女殿」
王子は名残惜しげな様子ではあったが、馬上の人となるや、ただの一度も振り返らず、森の魔女の館から去って行った。
消化不良気味に取り残された森の魔女は、冷めたハーブティーを一気に飲み干し、乱暴にカップを置いた。
「……なんなの、もうっ」
わからないことだらけだ。
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