森の魔女と訳あり王子の恋物語

るうあ

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春光の午睡

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 ゆるやかな風が、蜜とハーブの香りを絡ませ、少女の鼻先をくすぐった。
 中庭の木陰に敷いた綿の敷布に座って、淹れたてのハーブティーを堪能する、のどかな春の午後。
 少女の長い黒髪を何気なく指に絡めているのは、国境領地リマリックを治める領主という立場にある亜麻色の髪の青年だ。名を、セレンという。そしてそのセレンに髪をいじられている少女は、「森の魔女」と呼ばれている。事実、魔法薬作りの名人と名高い「魔女」だ。
 森の魔女の名は、「魔女」だからという理由で秘されている。
 今現在、森の魔女の真名を知る人間はセレンだけだ。
 名は、呪文なのだという。真名という、魔法だと。ゆえに魔術を生業にしている者の多くは名を秘している。大抵は通称で呼ばれる。
 だがそれも、ある種「長年の癖みたいなもの」であると森の魔女は語る。習慣になってはいるが、絶対的に守らねばならぬことではない。悪意を持った魔術師、敵意を持った魔女などが多くいるわけでもない。まして人語を理解し、発声できる魔物の出現もめっきり減った現在、平穏そのものといっていい土地で本名を明かしても、さほど困ることはない。当の森の魔女はあっけらかんと語る。
 とはいえ、先代の森の魔女である師匠から、名は秘しておきなさいと言われた以上、容易くは明かせない。魔女としての立場を守るためでもある。
 秘密にするほどたいそうな名前ではないのだけど、と森の魔女は苦笑気味に言った。
「けれど」
 セレンは亜麻色の瞳を細めて、微笑した。
「やはり、他の誰にも明かしてほしくないな。私だけがと、思っていたいからね」
 己の独占欲を、セレンは隠そうともしない。しかもそれを、さらりと言ってしまえるのだ。
 セレン以外に森の魔女の名を知っているのは、眷属のリフレナスだ。金褐色のネズミ姿の眷属は、いわば森の魔女にとっては身内のようなものだ。さすがにセレンも、魔女の眷属に対して今はさほどの対抗心はもっていない。とはいえ、未だ「身内」ではない自分が森の魔女の真名を知っているのは特別なこと、という意識がセレンにはあった。
 それはどうやら森の魔女自身も同じであるらしい。
 森の魔女はほのかに頬を朱にそめて、セレンを見つめ返して言った。
「明かしませんってば。王子は特別なんです……って、そう言ったはずです」
 森の魔女は拗ねたようにツンと顔を背ける。照れくさがっている時は、こうして赤らめた顔を背けるのだと、セレンはもう知っている。


 半ば唐突に、セレンは「お願いがあるのだけど」と、森の魔女の手をやんわりと掴み、言った。
「……なんですか?」
 森の魔女は反射的に身構えてしまう。艶麗な笑みを浮かべているセレンは、油断がならない。セレンの「お願い」は迷惑ではないし、むしろ嬉しいと言えるのだが、森の魔女を照れさせる「お願い」が多いのだ。
「近頃、仕事の量が多くてね」
 言ってから、セレンは短いため息を吐く。やや伸びすぎた感のある前髪を気だるげにかきあげる。その仕草も妙に艶めいて、それを間近に見やる森の魔女の鼓動はどうしたって速くなる。恋仲になってからだ、セレンの挙動一つ一つに、艶めいた色気を感じてしまい、落ち着かなくなってしまう。
「こなせない仕事量ではないし、周りも協力してくれるのだけどね」
「…………」
 森の魔女は口を挟まず、セレンの顔色を窺う。たしかに、亜麻色の瞳にすこしばかり悪戯な含みはあるようだけれど、疲れているのは本当らしい。顔色がすぐれない、というほどでもないが、たしかに疲労の翳が診てとれる。
「深刻ではないのだけれど、少し、睡眠不足でね。……――だから膝を」
 言うが早いか、セレンは身体を傾け、無防備に寝転ぶ。そしてとまどう森の魔女の膝に頭を乗せて、その場に身体を横たえさせた。
 膝を貸して、小声で呟き、セレンはそのまま瞼を落としてしまった。
「ちょ、ちょっと、王子ってば」
 あんまり突然で、森の魔女は一瞬身を硬直させた。
 そんな森の魔女に構うことなく、セレンは腹部あたりで両手を組み、片足だけ膝を立てて、すっかり寛いでしまっている。ゆっくりと深い呼吸が数度、やがて呼気は静かになり、どうやら眠ってしまったらしい。
「王子ってば……」
 本当にいつも、不意打ちでどきどきさせてくるんだから、もう!
 という文句を、森の魔女は口に出さなかった。
 何もこんなところでお昼寝なんて、と思わないでもなかったが、こんなところだからこそ、気が休まるのかもしれない。
 速まっていた鼓動は、徐々に落ち着いていった。気恥しさは消えないけれど、心地よくもある。
 森の魔女はセレンの白皙をしみじみと見つめた。
 やや面長にみえるセレンの顔立ちは、母親似なのだろう。全体的に華奢な印象があり、女性的と言えなくもないのだが、こうして目を閉じていると、さほど女性的には感じない。髪の同じ色のふっさりと長い睫毛が目元に翳を落としている。存外、彫りの深い顔立ちでもある。森の魔女は、セレンの父親……国王陛下の顔を知らない。セレンは自身も認める通り母親似だが、凛々しい造形もあり、そこはきっと父の面影を受け継いでいるのだろう。
 セレンの亜麻色の双眸は優しく穏やかな印象を与える。甘やかな雰囲気は、そのまなざしにある。森の魔女は、セレンのそのまなざしを好ましく思っている。穏やかでまろやかで、とても優しい。
 その瞳は今、閉ざされている。
 目元に不自然な力みはなく、寝息も安らいでいる。嘘寝ではなさそうだ。
 森の魔女は、そぅっと、セレンの額にかかる髪をはらった。額に手をのせると、思ったよりひんやりとしていた。
「…………」
 森の魔女は、魔法薬作りの名人として名高い。亡き先代ほど知名度は高くないが、その腕前は勝るとも劣らず、といったところだろう。魔法薬の販売で生計を立てられるほどには、リマリック領内での評判は良い。森の魔女が住まう館には、常に何種類かの薬がストックされているのだ。
 ――持ってくればよかったな……。
 セレンに膝を貸し、身動きのとれない状態でいる森の魔女から、細いため息がこぼれた。
 疲労回復や滋養の薬も、作って置いてある。でも、いつでも持って歩いているというわけではない。
 いっそ、一気に疲労を回復させる魔法が使えたらいいのに、と森の魔女は内心で何度目かのため息を吐く。
 森の魔女は、まだその魔法の使い方を会得していない。もしかしたらできるかもしれない。けれど出来なかった場合、どのような「副作用」が起こるのかが分からない。
 森の魔女の魔力の属性は「光」だ。それは精神に作用しやすい魔力で、その力も非常に強いという。先代の森の魔女が言うには、治癒魔法は光属性の特性だから治癒の魔法に特化しやすいらしい。だが加減が難しい。力加減を誤れば、かえって肉体に悪影響を及ぼしかねない。
 森の魔女はまだ「魔女」としての経験値が低い。いまはまだできぬことの方が多い。それを自覚しているから、今、ここで快復の魔法を行使することはできないのだ。万が一にでも加減を誤ったら、という畏怖がある。
 だからせめて、いくつか薬を持参すればよかったな、と思うのだ。
 森の魔女は落胆し、セレンに気付かれない程度の小さなため息を零す。
 敷布の上に、長い黒髪が魔方陣のように流れている。まっすぐに伸びた黒髪を、セレンはとても気にいっている。ただ長いだけの黒髪だけれど、セレンが好んでくれるから、以前以上に髪の手入れを丁寧に行うようになった。
 身だしなみを整えるだけではない。それ以上のことを森の魔女は気にかけるようになった。
 不思議とも言える、心の変わりようだった。それこそ「魔法」のような。
「…………」
 森の魔女は顎をあげて、ゆっくりと深呼吸をした。春の陽射しは暖かく、撫ぜてくる風も仄かに甘い。
 その香りを感じながら気息を整え、清涼な空気を体内に取り込んだ。
 森の魔女は細く長く息を吐き出し、顎を引いた。呼気を深く、静かなものにする。そしてセレンの額に軽く手を当て、目を閉じた。……そうして。

 魔法が、森の魔女の体内を巡り、満ちていく。
 ほとんど無意識のうちに、森の魔女は「光」の魔法を使っていた。魔法を遣っている意識は、ない。それは「祈り」だった。音に変換されない、想い。祈り。それが「光」となる。
 あたたかな光が、セレンの身を包んでいた。
 ――少しでも癒されますように。
 魔法ではない。それは光となった「祈り」だった。森の魔女の想いが、セレンを抱擁する。
 加減に誤りはない。無意識的な抑制が魔法を最小にしている。無意識にだからこそ、できたことだったろう。
 森の魔女は心の内で祈るだけだった。
 セレンを想う、ただそれだけの。

 どれほどの時間、そうしていただろうか。さほど長い時間ではない。日は西に傾きつつあったが、陽射しに黄昏の色はない。
 ほんのひと時の、春の午睡と光の魔法。

 セレンは目覚め、片手をついて上半身を起こした。
 森の魔女はまだ目を瞑っている。眠っているかのように、呼吸も静かだった。
 セレンは身体を支えていない方の片手を森の魔女の頬にあてがい、当然のことのように、口づけた。そっと触れるだけのつもりの接吻だったが、柔らかな口唇に触れた瞬間に、セレンの唇に情熱が宿った。
「――っ!」
 森の魔女は目を見開き、肩をびくりと上げた。
 いきなりの口づけに驚きはしたが。とっさにセレンの体を突き飛ばして拒むようなことはしなかった。あまりにも突然で、身体が硬直しているせいもあったが。
 ほんのわずかのキスで、セレンは一旦唇を離した。名残惜しそうに、親指の腹で森の魔女の唇をなぞった後、もう一度、軽く口づけてから、言った。
「――キラ」
 沁みいるような微笑を湛え、セレンは恋人の名を声にする。
 恋人の名、それは美しい「光」の意を持つ。セレンにとってかけがえのない「光」、それがキラであり、「愛」そのものといっていい。
 疲れきっていた心身を快癒させた「光」を、セレンは見ずとも感じ取っていた。それがキラの「想い」であることも。
 耳たぶまで真っ赤に染めているキラは、どうやら光の魔術を施していたことを自覚していないようだった。キラの身体から放たれている光が、ゆるりと収縮し、身の内に溶け込んでいった。
 尊いものを眺めるように、セレンはその様を見つめていた。そして声に出して言えたのは、たったの一言。
「ありがとう、キラ」
 他に言葉が浮かばない。想いを伝えるのに言葉は不完全すぎる。
 だから――……
 抱きしめて、再び口づけようとしたのだが、今度は逃げられてしまった。
「お、王子ってば、起きてくださいっ!」
 寝惚けていると思ったのか、あるいは照れ隠しなのか、キラは大仰に慌てふためいて身体をのけぞらせた。
 セレンは小さく笑い、姿勢を直した。
「起きているよ、キラ」
 それから、悪戯な少年のような表情をする。亜麻色の瞳だけは、ひどく艶めき色香が増していて、少年らしさとは程遠い。キラは身構えてはみるものの、抗えない自分も知っていた。
「けれど、疲れはまだ残ってるみたいだから、……今宵、また」

 私に、君という「愛」をと、請う。
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