薔薇のまねごと

るうあ

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11.不意の風守り

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 風が強まってきたのか、葉擦れの音がいやに耳につく。ざわざわと、胸がざわめいた。
 暑いとも涼しいともいえない、じっとりと重い湿気のせいで、覚醒がしっくりとこない。
 横たわり、くの字に曲げていた体を伸ばし、仰向けになった。それでも瞼はなかなか上がらず、目をこすった。不覚にも泣いてしまい、そのせいで瞼が腫れたように重い。
 うっすらと目を開けると、部屋が少しだけ暗くなっているのに気がついた。
 どれほど眠っていたのだろう。まだ夕方のようだけど、早く起きなくちゃ。
 気だるくて、目を開けるのすら億劫だった。
 ――でも、起きなくちゃ。
「……カ……ん」
 ――だれ? だれか、傍にいる?
 顔の近くに、何かがある気配がした。人の息遣いが聞こえる。
「……カ……ちゃん……」
「……ん……」
 頭がまだぼんやりとして、重い。
 だけど、もう起きなくちゃ。
 再び目をこすり、両手を額にのせて、そのままゆっくりと目を開けた。その瞬間、予期しなかったものが目に飛び込んできた。
 息がかかるほどの近距離で、わたしの顔を覗き込んでくる明るい茶色の双眸と、ぶつかった。
「やぁ、ミズカちゃん」
「……っ、き……きゃぁぁっ!!」
 ほとんど反射的に、わたしは思いっきり腕を振って、間近にあった人の頬を一切の加減なく、殴ってしまった。……またしても。

 わたしの手のひらも痛かったけれど、叩かれた人の方が、きっともっと痛かったろう。
「おー、いてっ」
 けれど、平手打ちの被害者は、ひっぱたかれた頬をさすりながら、なんだか愉快げに笑っている。
「う~ん、これで二度目かぁ」
「すっ、すみません、イスラさんっ」
 ベッドに座ったまま、わたしは深々と頭を下げて謝った。申し訳ないやら恥ずかしいやらで、顔が赤くなってるのが自分でもわかる。
「ははっ、いいっていいって、気にしないで。驚かせちゃった俺が悪いんだし」
 イスラさんはにこやかにそう言って、片手をひらひらと振った。昨日ひっぱたいたのとは反対側の頬を叩いてしまったので、イスラさんは「これで左右、公平だ」なんて、冗談めかす。
「でもっ、ほんとにすみませんっ! なんだか手が反射的に動いてしまって」
 自分でも不思議なほど、体が勝手に反応してしまう。こんなこと、他の誰にもしたことないのに。
 ほんとにもう、無意識的にとはいえ、なんてことしちゃったんだろう!
「加減せずひっぱたいちゃったから、痛いですよね? ほんとにすみませんっ! あ、湿布! 湿布ありますから、貼った方が……」
 アリアさんが持ってきてくれた湿布はまだサイドテーブルに置いてある。それを取ろうと体を動かしたのだけど、イスラさんは笑ってわたしをとめた。
「いいっていいって、すぐ治るし。だからそんな申し訳なさそうな顔しないでよ」
「でもっ」
「――その通りだ。ミズカ、謝る必要などないと言ったろう」
 いつの間にやってきたのか、ユエル様が忽然と姿を現し、剣呑な顔でイスラさんの肩を掴んでいる。イスラさんは背後に立ったユエル様をちらりと振り返り見、「部屋に入る時は声くらいかけろ」と文句をつけた。
 ドアが開けっぱなしになっていて、昨日と同じように、わたしの悲鳴を聞いて駆けつけてくれたんだろう。
 それにしたってユエル様、気配がなさすぎます! どうしていつもいつも、忽然と現れるんですか! と、責めたいところだったけれど、驚きのあまりとっさに声が詰まってしまった。ぽかんと間の抜けた顔をして、ユエル様とイスラさんを眺めいるばかりだ。
「イスラ、塵となって消えたいのなら、いつでも希望を叶えてやる。まどろっこしいことはせず、私に直接そう言え」
「ミズカちゃんみたいな可愛い女の子の手にかかって消えるのなら本望だが、おまえさんみたいな野暮な野郎に消されるなんて、ご免こうむるね」
「戯言を」
 気まずい雰囲気になってしまうのかと焦ったけれど、どうやらそこまでは至らないようだ。
 イスラさんはユエル様の冷淡な態度や口ぶりには慣れっこになっているようだし、ユエル様もイスラさんの冗談口を(たぶん)本気にはとらず、軽くあしらっている。
 心底いがみ合っているようには見えないし、互いに反目しているようでいて、遠慮がない分、存外気の合った心友だったりするのかもしれない。
 二人の関係性を勝手に斟酌していたわたしの心の内を見透かしたとも思えないけれど、ユエル様はイスラさんを押しのけ、わたしの顔を覗き込んできた。
「ミズカ、イスラの厚かましい面を殴って痛かったろう? 手は、大丈夫?」
「あの、え……ーっと……」
 そりゃぁたしかに痛かったけれど……、そう訊かれると返答に困ります、ユエル様。
「最悪の目覚めだったようだが、少しは休まったかな、ミズカ? まだ疲れの残った顔をしているが」
「ありがとうございます、ユエル様。大丈夫です。足も、もう痛みませんし」
 ユエル様は「そうか」と応えたものの、心配そうな顔のままだった。
 ユエル様の視線を受けていられず、目を逸らしてしまった。挫いた足ではなくて、なぜなのか、胸がきゅぅっと締まるように痛みだして、喉元が苦しくなった。
 ユエル様に心配をかけたくないのに、どうしてこんな態度をとってしまうんだろう。
 自分の感情が、よく分からない。
 下唇を噛み、俯いた。痛みをすり替えようと唇を噛んでも、胸の痛みは消えなかった。
「ミーズカちゃん?」
 ユエル様を押しのけ返し、再びわたしの顔を覗き込んできたのは、イスラさんだった。明るい茶色の双眸で、じっとわたしを見つめる。
「ミズカちゃん、どした?」
「あ、……いえ、なんでもないです。寝起きで、ちょっとぼうっとしてしまっただけで」
 わたしは首を左右に振り、笑みを作った。イスラさんは「そう?」と、ちょっと不審そうな声を返してきたけど、深くは追求してこなかった。横にいるユエル様も同様で、銀糸の髪を物憂げにかきあげて嘆息し、「おまえのせいだろうが」とイスラさんに当てつけて毒づいた後、口を閉ざした。イスラさんは聞こえぬふりをして、話題をかえた。
「実はさ、ミズカちゃんにちょっとお願いというか、プレゼントがあるんだけど」
「え?」
「これ」
 イスラさんは、いったいどこから取り出したものやら、紙袋をわたしに差し出した。
「なんですか?」
 わたしは首を傾げる。
 お願いで、プレゼント……って? どういうこと?
「これさ、ミズカちゃんに着てもらいたくって買ってきたんだ。ぜったい似合うと思うから、着てみてほしいんだ」
 にっこにこの笑顔でイスラさんが頼み込んできた。
 贈り物はもちろん嬉しかったのだけど、いきなりのことで、やっぱりちょっととまどってしまった。
 困惑顔をユエル様に向けると、ユエル様は苦っぽく笑っていた。遠慮せずもらっておきなさい。ユエル様の目がそう語っている気がする。
 断る理由もなかったし、わたしはありがたくそれを受け取った。
「ありがとうございます、イスラさん。あの、中を見てみてもいいですか?」
「もち! てゆーか、今すぐ着てみてよ」
「え、今……ですか?」
「うん。もうさぁ、それ着たミズカちゃんが見たくてそっこーで帰ってきたんだよね。おっと、ユエル、心配しなさんな。下着でも水着でもねーから」
「…………」
 ユエル様は眉間に深々と皺をよせて、イスラさんを睨んでいる。もちろんイスラさんはユエル様の剣呑な目つきなど、まったく気に留めていない……どころか、ユエル様のそういった反応を見、面白がるきらいがあるように思う。イスラさんは、そういった茶目っ気というか悪戯心のある人のようだ。そういうところはユエル様とよく似ている。
 ユエル様の機嫌を損ねかねない軽口をさらりと言えてしまうイスラさん。非友好的な態度を崩さないのにイスラさんを拒絶しきれないユエル様。
 絶対に違うと否定するだろうけど、気が置けない友人、なのじゃないかしら、ユエル様にとってのイスラさんって。
「で、靴も用意しといたから。ここ、置いとくね?」
 これもまた、いったいどこから取り出したものか、手品並みの唐突さと早さで、イスラさんは白い箱をわたしに見せたかと思うと、ぱっと蓋をあけて、中から蝦茶色のショートブーツを取り出した。
「あ、なんなら俺、着替え手伝ってあげよっか? ――って、あっちぃって、ユエル!」
「…………」
 ユエル様は眉をきつくしかめ、無言でイスラさんの首根っこを掴むようにして、手を押し当てている。力を入れている様子はないけれど、“力”を使っているのが分かった。加減はしているのだろうけど……。
「冗談に決まってんだろ。いちいち本気にとるなよ! ほんと余裕ねーな」
「ミズカ、嫌なら着替えなくてもいい」
 ユエル様はまだイスラさんの首根っこを掴んだまま、少しだけ表情をやわらげてわたしの方に視線を移した。
「それに、体がだるいようなら、無理に起きなくてもいい。イスラの言うことなど無視してかまわないから」
「いっ、いえ、もう起きます。それに何か飲みたいから……。あの、それよりユエル様」
 イスラさんが苦しそうです、手を離してあげて下さいと言おうとしたのに、ユエル様は「それならば」と言葉を被せてきた。ユエル様はイスラさんの首から手を離さないし、おそらく“力”も当てたままだ。イスラさんは痛みに顔を歪ませている。
「下のリビングで待っているが、一人で、降りて来られる?」
「はい、大丈夫です。着替えて、すぐに行きます」
「急がなくてもいい。もし足が痛むようなら、呼び鈴を鳴らしなさい。くれぐれも無理はせず、慌てないようにね、ミズカ」
「はい」
「それじゃぁ、先に行っているよ、ミズカ」
 ユエル様はイスラさんの首根っこを掴んだまま、踵を返した。イスラさんはうっとうしげにユエル様の手を払いのけると、わたしに笑いかけ、「じゃ俺も、下で待ってるからね」と、手を振った。
 わたしは、イスラさんを引きずっていくユエル様の背中を、扉が閉まるまで見つめていた。さっきより気が楽になったのは、イスラさんのおかげだ。
 だから、贈られた服を着て見せることで喜んでもらえるのなら、いくらでもって思った。
 とはいえ、……とんでもない服じゃないといいのだけど。
 わたしはおそるおそる、イスラさんから手渡された紙袋を開けた。
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