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28.長き夜に居る
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「あっ、あのっ、イスラさんっ!?」
イスラさんの黄みのかかった茶色の瞳が、わたしの目をじぃっと覗きこんでくる。それだけじゃなく、イスラさんはわたしの手を両手で包み込むようにして握っていて、離れようにも離れられない。背中を反らすのが精一杯だ。
えぇっと、この体勢は……いったい何事っ?
「俺がいない間さみしいと思うけど、なるべく早く戻ってくるから我慢しててね、ミズカちゃん」
「……はぁ……」
「俺としてもできるだけミズカちゃんの傍に居てあげたいんだけど、これもミズカちゃんのためだから」
「え? あの、わたしのためって……」
イスラさんがさらに顔を近づけてくる。
「うん。一肌も二肌も脱ぐよ、ミズカちゃんのためなら!」
「……っ」
あのっ、イスラさん、顔が……顔が近すぎです! 鼻と鼻がくっつきそうなくらい、顔が近いんですけど!
「あの、ちょっ……イスラさんっ?!」
イスラさんは目を白黒させてうろたえるわたしなどお構いなしだ。わたしの手をがっちり掴んで顔を寄せてくる。
どうしよう……っ!
こわ、……い。……怖くて、たまらない……!
イスラさんが怖いんじゃない。でも、強引に近づけられる行為自体が、怖かった。
喉が腫れてるみたいに痛み、息苦しくなって声が出ない。指先が冷えてくるのが自分でも分かった。
足に力が入らず、その場に崩れ折れそうになった。――その時だった。
「放せ、イスラ」
わたしの肩を、突如足音もなく現れたユエル様が掴み、引き寄せた。わたしの肩と後頭部が、とすんとユエル様の胸にあたった。
「もう大丈夫だ、ミズカ」
「……ユエル様」
肩越しに振り返り、ユエル様の端正な顔を仰ぎ見る。突然な登場に鼓動は跳ねたけど、同時に安堵もした。
「ミズカ、こういう時にこそ平手打ちなり肘鉄なり、思いきり食らわせてやればいい」
「えっと、ユエル様、あ、あれはですねっ、わざとやってるわけじゃなくてっ! とっさに体が動いて勝手にしてしまっただけのことで、だからやろうと思ってできるものではないんです!」
これまでイスラさんに振るってきた、わざとではない突発的な乱暴な仕打ちを思いだして、恥ずかしさのあまり顔が赤くなった。
ユエル様の顔が近いせいも、……あるけれど。
「あれはその……、事故というか、うっかりというか、無意識的なことなので」
「ならば、これからは意識して殴るようにしなさい。できればもっと、思いきり力を入れて」
「そんな、できません! 無茶言わないでください!」
「――イスラ、いつまで掴んでる。放せ。気安くミズカの手を握るな」
わたしの手を握ったままでいたイスラさんだったけど、ユエル様に鋭く睨みつけられ、ようやく放してくれた。
「おー、こわっ」
イスラさんはおどけて笑い、わざとらしく両肩をあげる。怖いなんてちっとも思ってない素振りだ。イスラさんはにやにや笑ってて、その笑みがさらにユエル様の勘気に触れた。
「出かけるのならさっさと行け。帰ってこなくてもいい」
ユエル様の不機嫌指数はうなぎのぼりだ。凍てつくような深緑色のまなざしがイスラさんを睨めつけている。苛立ちを抑えかねた声音はまるで炭火のようだ。炎の揺れる様は見えないけれど、ひどく熱い。
ユエル様の怒りを真正面から受け止めながらも、イスラさんは反省の色を見せない。
「ギスギスしちゃって、いやだねぇ。余裕のない男はモテないぜ、ユエル?」
それどころかさらに煽って、面白がっているようだ。
いじめっ子の心理なのかもしれないけれど、ユエル様みたいな気位の高い人にそれをしちゃぁ、ますます怒りを誘うだけなのではと心配になってしまう。
長い付き合いで、加減は心得ているのだろうけど……それでもやっぱりハラハラしてしまう。
ユエル様とイスラさんの間で板挟み状態になり、おろおろとうろたえているわたしを見かねてのことだろう。アリアさんが口を挟んでくれた。
「もう、イスラ! さっき言ったばかりでしょ? ちょっとは空気を読みなさい」
アリアさんに襟首を引っ張られ、イスラさんは掴みあげられた仔猫みたいに首をすくめた。
「ホラ、もうそのあたりでやめなさい。しつこい男もモテないわよ、イスラ?」
「苦しいって、アリア!」
「ならもう黙りなさい。ユエルはともかく、ミズカちゃんを困らせて。まったくもうっ」
「悪かった。悪かったって」
イスラさんの首根っこを押さえながらアリアさんは大きく息をつき、ユエル様に顔を向けた。
「ユエル、あたし達出かけるけど、大丈夫ね?」
「ああ」
ユエル様はため息まじりに応えた。
窘められたのはイスラさんなのだけど、まるで一緒に叱られたかのような渋い顔をしてる。
「大丈夫だ、アリア」
そう応えてからユエル様も嘆息した。
わたしの肩を掴んだままでいるから、ユエル様の声が耳朶に近く、こめかみあたりにため息がかかって、思わず肩を竦めてしまった。
ユエル様の手の置かれた肩だけじゃなく、全身が熱い。動悸が治まらなくて少し苦しかった。
アリアさんはちょっと小首を傾げ、ユエル様に問いかけた。
「一応訊くけど、何か注文はあって? もうこんな時間だし、できることは限られるけど」
「いや。アリアがいいと思うようにしてくれればいい。任せるよ」
「そう? じゃぁ帰ってから報告はするわ」
「ああ」
ユエル様は短く応えた。
アリアさんは視線を少し下げて、青い双眸をわたしに向けた。
「ミズカちゃん、今日は疲れたでしょう? ゆっくり休んでね」
「あ……はい。あの……」
これからどこへ行くのか、気にかかったけれど訊けなかった。
ただ生気を飲みに行くだけではないらしいことは窺えたけど、どこへ何をしに行くのかを尋ねることはできなかった。訊けば、きっとアリアさんは困った顔をするだろう。
それに、あれこれと詮索して首を突っ込むのは不調法だ。わたしがしていいことでもない。
だからわたしにできるのは、「気をつけていってきてください」と声をかけるだけ。そして、帰りを待つことだけ。
アリアさんは微笑み返してくれた。
「ありがと、ミズカちゃん。さっ、イスラ、行くわよ」
「へーへー。そんじゃ行ってくるね、ミズカちゃん」
イスラさんはアリアさんに腕をぐいぐい引っ張られつつも、名残惜しげに手を振っている。わたしも軽く手を振り、「いってらっしゃい」と声をかけて、二人を送り出した。
玄関の扉が閉まってすぐ、ひときわ大きなため息がユエル様の口からこぼれ出た。
「まったく、あいつはいつでもどこでも相変わらず騒がしいな」
肩越しに振り返り、そこに見たユエル様の顔は、苦虫を大量に噛み潰したような渋面だった。けれど、冷たくも刺々しくもない。
ユエル様の手が肩から離れ、わたしはホッと息をついた。
「賑やかで楽しい方ですね、イスラさんって」
含み笑ってそう言うと、ユエル様は眉間の皺を深めた。
「賑やかにも程がある。ミズカ、イスラをあまり甘やかさないように」
「……はい」
なんだか可笑しくて、口元が緩んでしまった。
イスラさんって、ユエル様を逆撫でるようなことを言ったりもするけど、雰囲気を和らげるのが上手だ。それがイスラさんの持ち味だって、ユエル様もきっと分かってるんだろう。
イスラさんに対し、つれなく冷たいことを平然と言い放つユエル様だけど、心底イスラさんを嫌い抜いているようにも、疎んじているようにも見えない。本気で怒りはするけれど、剥き出しの感情を晒せるほどに信頼しているのだと思う。ちょっと屈折した友情ではありそうだけど、ともあれ信頼関係は成り立っている……と思う。当人たちは真っ向から否定しそうだけど。
「ミズカ」
「はい」
笑いを堪えているわたしを窘めようとしたようだけど、面倒になったらしく、ユエル様はやれやれとため息をついた。
「今日は歩きまわって疲れただろう、ミズカ。アリアの言うように、早く休んだ方がいい」
「はい」
「私も、何やらどっと疲れたよ」
「あ、それじゃぁ、お風呂の支度をしてきますね。疲れた時はゆっくりお風呂につかるのにかぎります」
今、わたし達が仮住まいにしている屋敷は、造られてからの年数はかなり経っているものの、設備は新しくそれなりに充実している。
浴槽に湯をはるのもボタンひとつ押すだけで済むから、支度をするといっても、浴槽に蓋をするとか、タオルを用意するとか、そのくらい。
「他に何かご用はありませんか? 早く休ませてもらうことにしますから、その前にできることがあればしておきます。お手伝いできることがあれば言ってください」
わたしがそう訊くと、ユエル様はにこりと美しい笑みを浮かべた。悪戯っぽい色を帯びたそれは、鼓動を速める促進剤だ。
どきりと胸が鳴って、反射的に身構える。身構えたところで、まったく防御できないのだけど。
「……そうだな。それじゃぁミズカ」
ユエル様は目を細め、軽く握ったこぶしを口元に当てる。含み笑いをごまかしてるようだけど、ちっとも隠しきれてませんよ、ユエル様。
こういう顔する時って、わたしをからかう時だ。
分かってるのに。じゅうじゅう分かってるのに!
「ミズカに、背中でも流してもらおうかな。髪も洗ってもらえるなら、なおいいね」
と言われて、顔どころか、一瞬にして耳まで真っ赤になってしまった。
「なっ、何言い出すんですか、いきなり! でっ、できません、そんなこと!」
頭から湯気が出そうな勢いで慌てふためくわたしを、ユエル様は楽しそうに眺めている。
「いや、そうすればミズカも一緒に風呂に入れるし、私も自分で身体を洗う手間が省けるから、一石二鳥かなと」
「そういうのは一石二鳥って言いませんからっ! というか、ご自分の身体を洗う手間くらいは惜しまないでください!」
「ミズカがそう言うのなら、いたしかたないね。まぁ、無理強いは好きではないし、一人で入るとするよ」
「そうしてくださいっ!」
わたしがむくれてみたところで、ユエル様はその反応すら面白がってる。
はじめから冗談だと分かっているのに、軽く受け流せないのが口惜しい!
だけど、ユエル様って面倒くさがりだから、「身体を洗うのが面倒」というのは、きっと本心だ。そのくせお風呂好きなようで、わたしの倍の時間は入ってる。
何をしてるのか訊いたことがあるけど、本を読んでいたり、音楽を聴きつつうたた寝をしていたりするらしい。
のぼせないのが不思議。体内に冷却装置でも備わってるんではなかろうか。それとも、ユエル様自身の属性が“火”だから、のぼせにくいんだろうか?
「それじゃ用意しておきます。お疲れのようですから、今日の入浴剤はローズマリーのバスソルトでいいですか? それともラベンダーにしましょうか?」
「そうだね、今夜はローズマリーでお願いしようか」
「わかりました。準備が整いましたら、お呼びします」
「頼むよ」
ユエル様はまだくすくす笑っている。
ユエル様のまなざしから逃げるように、わたしはぷいっとそっぽを向いた。けれど目の端にユエル様の微笑みをとらえたままだ。どうしても逸らしきれはしない。
もうっ、いいかげんその艶っぽい微笑はしまってください、ユエル様!
胸の動悸がさっきからちっとも治まらなくて、ユエル様の顔をまともに見られない。笑われているのが悔しいのじゃない。なのに、なぜかしら悔しい思いがふつふつと心中で燻ぶっていた。
……だけど、よかった。
ユエル様、いつものように笑ってくれてる。そのことに安堵した。
すうっと、肩から力が抜けた気分だった。
気になることはたくさんあるけれど、それよりもこうしてユエル様に笑っていてもらうことの方が、わたしにとっては何よりも大切なことだ。
ユエル様には、笑っていてほしい。
そして微笑んでいるユエル様のお傍に、――出来ることならいつまでも、添わせてほしい。
だから……疑問に蓋をしておけばいい。目を瞑っていればいい。
でも……――
わたしは、ばかだ。
自分のことばかりに気を取られて見逃してしまったのだ。
笑うユエル様の顔色が、ほんの僅かだったけれど、蒼ざめていたのに。
イスラさんの黄みのかかった茶色の瞳が、わたしの目をじぃっと覗きこんでくる。それだけじゃなく、イスラさんはわたしの手を両手で包み込むようにして握っていて、離れようにも離れられない。背中を反らすのが精一杯だ。
えぇっと、この体勢は……いったい何事っ?
「俺がいない間さみしいと思うけど、なるべく早く戻ってくるから我慢しててね、ミズカちゃん」
「……はぁ……」
「俺としてもできるだけミズカちゃんの傍に居てあげたいんだけど、これもミズカちゃんのためだから」
「え? あの、わたしのためって……」
イスラさんがさらに顔を近づけてくる。
「うん。一肌も二肌も脱ぐよ、ミズカちゃんのためなら!」
「……っ」
あのっ、イスラさん、顔が……顔が近すぎです! 鼻と鼻がくっつきそうなくらい、顔が近いんですけど!
「あの、ちょっ……イスラさんっ?!」
イスラさんは目を白黒させてうろたえるわたしなどお構いなしだ。わたしの手をがっちり掴んで顔を寄せてくる。
どうしよう……っ!
こわ、……い。……怖くて、たまらない……!
イスラさんが怖いんじゃない。でも、強引に近づけられる行為自体が、怖かった。
喉が腫れてるみたいに痛み、息苦しくなって声が出ない。指先が冷えてくるのが自分でも分かった。
足に力が入らず、その場に崩れ折れそうになった。――その時だった。
「放せ、イスラ」
わたしの肩を、突如足音もなく現れたユエル様が掴み、引き寄せた。わたしの肩と後頭部が、とすんとユエル様の胸にあたった。
「もう大丈夫だ、ミズカ」
「……ユエル様」
肩越しに振り返り、ユエル様の端正な顔を仰ぎ見る。突然な登場に鼓動は跳ねたけど、同時に安堵もした。
「ミズカ、こういう時にこそ平手打ちなり肘鉄なり、思いきり食らわせてやればいい」
「えっと、ユエル様、あ、あれはですねっ、わざとやってるわけじゃなくてっ! とっさに体が動いて勝手にしてしまっただけのことで、だからやろうと思ってできるものではないんです!」
これまでイスラさんに振るってきた、わざとではない突発的な乱暴な仕打ちを思いだして、恥ずかしさのあまり顔が赤くなった。
ユエル様の顔が近いせいも、……あるけれど。
「あれはその……、事故というか、うっかりというか、無意識的なことなので」
「ならば、これからは意識して殴るようにしなさい。できればもっと、思いきり力を入れて」
「そんな、できません! 無茶言わないでください!」
「――イスラ、いつまで掴んでる。放せ。気安くミズカの手を握るな」
わたしの手を握ったままでいたイスラさんだったけど、ユエル様に鋭く睨みつけられ、ようやく放してくれた。
「おー、こわっ」
イスラさんはおどけて笑い、わざとらしく両肩をあげる。怖いなんてちっとも思ってない素振りだ。イスラさんはにやにや笑ってて、その笑みがさらにユエル様の勘気に触れた。
「出かけるのならさっさと行け。帰ってこなくてもいい」
ユエル様の不機嫌指数はうなぎのぼりだ。凍てつくような深緑色のまなざしがイスラさんを睨めつけている。苛立ちを抑えかねた声音はまるで炭火のようだ。炎の揺れる様は見えないけれど、ひどく熱い。
ユエル様の怒りを真正面から受け止めながらも、イスラさんは反省の色を見せない。
「ギスギスしちゃって、いやだねぇ。余裕のない男はモテないぜ、ユエル?」
それどころかさらに煽って、面白がっているようだ。
いじめっ子の心理なのかもしれないけれど、ユエル様みたいな気位の高い人にそれをしちゃぁ、ますます怒りを誘うだけなのではと心配になってしまう。
長い付き合いで、加減は心得ているのだろうけど……それでもやっぱりハラハラしてしまう。
ユエル様とイスラさんの間で板挟み状態になり、おろおろとうろたえているわたしを見かねてのことだろう。アリアさんが口を挟んでくれた。
「もう、イスラ! さっき言ったばかりでしょ? ちょっとは空気を読みなさい」
アリアさんに襟首を引っ張られ、イスラさんは掴みあげられた仔猫みたいに首をすくめた。
「ホラ、もうそのあたりでやめなさい。しつこい男もモテないわよ、イスラ?」
「苦しいって、アリア!」
「ならもう黙りなさい。ユエルはともかく、ミズカちゃんを困らせて。まったくもうっ」
「悪かった。悪かったって」
イスラさんの首根っこを押さえながらアリアさんは大きく息をつき、ユエル様に顔を向けた。
「ユエル、あたし達出かけるけど、大丈夫ね?」
「ああ」
ユエル様はため息まじりに応えた。
窘められたのはイスラさんなのだけど、まるで一緒に叱られたかのような渋い顔をしてる。
「大丈夫だ、アリア」
そう応えてからユエル様も嘆息した。
わたしの肩を掴んだままでいるから、ユエル様の声が耳朶に近く、こめかみあたりにため息がかかって、思わず肩を竦めてしまった。
ユエル様の手の置かれた肩だけじゃなく、全身が熱い。動悸が治まらなくて少し苦しかった。
アリアさんはちょっと小首を傾げ、ユエル様に問いかけた。
「一応訊くけど、何か注文はあって? もうこんな時間だし、できることは限られるけど」
「いや。アリアがいいと思うようにしてくれればいい。任せるよ」
「そう? じゃぁ帰ってから報告はするわ」
「ああ」
ユエル様は短く応えた。
アリアさんは視線を少し下げて、青い双眸をわたしに向けた。
「ミズカちゃん、今日は疲れたでしょう? ゆっくり休んでね」
「あ……はい。あの……」
これからどこへ行くのか、気にかかったけれど訊けなかった。
ただ生気を飲みに行くだけではないらしいことは窺えたけど、どこへ何をしに行くのかを尋ねることはできなかった。訊けば、きっとアリアさんは困った顔をするだろう。
それに、あれこれと詮索して首を突っ込むのは不調法だ。わたしがしていいことでもない。
だからわたしにできるのは、「気をつけていってきてください」と声をかけるだけ。そして、帰りを待つことだけ。
アリアさんは微笑み返してくれた。
「ありがと、ミズカちゃん。さっ、イスラ、行くわよ」
「へーへー。そんじゃ行ってくるね、ミズカちゃん」
イスラさんはアリアさんに腕をぐいぐい引っ張られつつも、名残惜しげに手を振っている。わたしも軽く手を振り、「いってらっしゃい」と声をかけて、二人を送り出した。
玄関の扉が閉まってすぐ、ひときわ大きなため息がユエル様の口からこぼれ出た。
「まったく、あいつはいつでもどこでも相変わらず騒がしいな」
肩越しに振り返り、そこに見たユエル様の顔は、苦虫を大量に噛み潰したような渋面だった。けれど、冷たくも刺々しくもない。
ユエル様の手が肩から離れ、わたしはホッと息をついた。
「賑やかで楽しい方ですね、イスラさんって」
含み笑ってそう言うと、ユエル様は眉間の皺を深めた。
「賑やかにも程がある。ミズカ、イスラをあまり甘やかさないように」
「……はい」
なんだか可笑しくて、口元が緩んでしまった。
イスラさんって、ユエル様を逆撫でるようなことを言ったりもするけど、雰囲気を和らげるのが上手だ。それがイスラさんの持ち味だって、ユエル様もきっと分かってるんだろう。
イスラさんに対し、つれなく冷たいことを平然と言い放つユエル様だけど、心底イスラさんを嫌い抜いているようにも、疎んじているようにも見えない。本気で怒りはするけれど、剥き出しの感情を晒せるほどに信頼しているのだと思う。ちょっと屈折した友情ではありそうだけど、ともあれ信頼関係は成り立っている……と思う。当人たちは真っ向から否定しそうだけど。
「ミズカ」
「はい」
笑いを堪えているわたしを窘めようとしたようだけど、面倒になったらしく、ユエル様はやれやれとため息をついた。
「今日は歩きまわって疲れただろう、ミズカ。アリアの言うように、早く休んだ方がいい」
「はい」
「私も、何やらどっと疲れたよ」
「あ、それじゃぁ、お風呂の支度をしてきますね。疲れた時はゆっくりお風呂につかるのにかぎります」
今、わたし達が仮住まいにしている屋敷は、造られてからの年数はかなり経っているものの、設備は新しくそれなりに充実している。
浴槽に湯をはるのもボタンひとつ押すだけで済むから、支度をするといっても、浴槽に蓋をするとか、タオルを用意するとか、そのくらい。
「他に何かご用はありませんか? 早く休ませてもらうことにしますから、その前にできることがあればしておきます。お手伝いできることがあれば言ってください」
わたしがそう訊くと、ユエル様はにこりと美しい笑みを浮かべた。悪戯っぽい色を帯びたそれは、鼓動を速める促進剤だ。
どきりと胸が鳴って、反射的に身構える。身構えたところで、まったく防御できないのだけど。
「……そうだな。それじゃぁミズカ」
ユエル様は目を細め、軽く握ったこぶしを口元に当てる。含み笑いをごまかしてるようだけど、ちっとも隠しきれてませんよ、ユエル様。
こういう顔する時って、わたしをからかう時だ。
分かってるのに。じゅうじゅう分かってるのに!
「ミズカに、背中でも流してもらおうかな。髪も洗ってもらえるなら、なおいいね」
と言われて、顔どころか、一瞬にして耳まで真っ赤になってしまった。
「なっ、何言い出すんですか、いきなり! でっ、できません、そんなこと!」
頭から湯気が出そうな勢いで慌てふためくわたしを、ユエル様は楽しそうに眺めている。
「いや、そうすればミズカも一緒に風呂に入れるし、私も自分で身体を洗う手間が省けるから、一石二鳥かなと」
「そういうのは一石二鳥って言いませんからっ! というか、ご自分の身体を洗う手間くらいは惜しまないでください!」
「ミズカがそう言うのなら、いたしかたないね。まぁ、無理強いは好きではないし、一人で入るとするよ」
「そうしてくださいっ!」
わたしがむくれてみたところで、ユエル様はその反応すら面白がってる。
はじめから冗談だと分かっているのに、軽く受け流せないのが口惜しい!
だけど、ユエル様って面倒くさがりだから、「身体を洗うのが面倒」というのは、きっと本心だ。そのくせお風呂好きなようで、わたしの倍の時間は入ってる。
何をしてるのか訊いたことがあるけど、本を読んでいたり、音楽を聴きつつうたた寝をしていたりするらしい。
のぼせないのが不思議。体内に冷却装置でも備わってるんではなかろうか。それとも、ユエル様自身の属性が“火”だから、のぼせにくいんだろうか?
「それじゃ用意しておきます。お疲れのようですから、今日の入浴剤はローズマリーのバスソルトでいいですか? それともラベンダーにしましょうか?」
「そうだね、今夜はローズマリーでお願いしようか」
「わかりました。準備が整いましたら、お呼びします」
「頼むよ」
ユエル様はまだくすくす笑っている。
ユエル様のまなざしから逃げるように、わたしはぷいっとそっぽを向いた。けれど目の端にユエル様の微笑みをとらえたままだ。どうしても逸らしきれはしない。
もうっ、いいかげんその艶っぽい微笑はしまってください、ユエル様!
胸の動悸がさっきからちっとも治まらなくて、ユエル様の顔をまともに見られない。笑われているのが悔しいのじゃない。なのに、なぜかしら悔しい思いがふつふつと心中で燻ぶっていた。
……だけど、よかった。
ユエル様、いつものように笑ってくれてる。そのことに安堵した。
すうっと、肩から力が抜けた気分だった。
気になることはたくさんあるけれど、それよりもこうしてユエル様に笑っていてもらうことの方が、わたしにとっては何よりも大切なことだ。
ユエル様には、笑っていてほしい。
そして微笑んでいるユエル様のお傍に、――出来ることならいつまでも、添わせてほしい。
だから……疑問に蓋をしておけばいい。目を瞑っていればいい。
でも……――
わたしは、ばかだ。
自分のことばかりに気を取られて見逃してしまったのだ。
笑うユエル様の顔色が、ほんの僅かだったけれど、蒼ざめていたのに。
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