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甘やかな日常 ◆◆維月視点
想い染め 4
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始まりも、やはり彼女からだった。
「わたし達、つきあっちゃおっか」
ひどく軽率な口調だった。だから俺も思わず頷き、彼女の誘いに安易にのってしまった。
彼女はいつも先手を打つ。
彼女――今村唯美恵は、いわゆる俺の「初めての彼女」だ。もうずいぶんと昔、十年以上も前のことだ。
付き合い、別れてから、十年あまりの月日が経つが、その間彼女とは一度も会うことはなかった。連絡もとらず、音信不通のまま、ただ人づてに彼女が結婚したことだけは知っていた。逢いたいと思ったことはなく、できれば逢わぬままでいたいとすら思っていた。
だというのに、まさか所属しているテニスクラブのイベントで彼女と再会しようとは。
再会の時も、彼女から声をかけてきた。わたしのこと憶えてるかしら、などと勿体ぶった言葉など使わず、ひどく気さくに近寄ってきた。
「逢えてよかったわ」
そう言った彼女に、俺は笑みを返せなかった。
今村唯美恵と出逢った当時、俺はまだ高校生、十七歳の青臭い子供で、彼女は五つ年上の二十二歳。大学の三回生だった。
そんな彼女とは、兄の嘉月を介して知り合った。
「嘉月くんとは似てないのね」
それが、彼女が俺に掛けた最初の言葉だったように思う。
賑やかで活発な兄の友達の中で、彼女は場に馴染んでいるようでいて、馴染み切れていないようにも見えた。兄の友人には珍しいタイプで、多分それが彼女への興味に繋がった。
二つ年上の兄は、明るく社交的で、男女も年齢も問わず友人が多かった。大雑把な性格で、多少粗忽な面もあったが、それが愛嬌として他人の目には映るのだろう。見た目は悪人面といえなくもない強面だったが、兄の周りには自然と人が集まり、いつも楽しげな笑い声が絶えなかった。
陽気で闊達な兄に、おそらくは俺は嫉妬めいたものを感じていたのだろう。今でこそ普通に接せられるが、当時は兄と話すのが苦手で、常に距離を置き、時には冷たくあしらうこともあった。兄は頓着せず、ずかずかとこちらのテリトリーに入りこんできては、やたらと「兄面」を向けてきた。俺を心配してのことだったのだろうが、それすら疎ましかった。
当時の俺は、兄にだけではなく、家族の誰に対してもよそよそしい態度をとって、一人、殻に閉じこもることが多かった。さしたる理由はなかった。遅い反抗期だったのかもしれない。「家族」が煩わしく、そんな風に思う自分こそが何よりも煩わしかった。わかりやすく「ぐれる」ようなことがなかっただけに、兄はかえって不安を覚えていたようだ。「長男」としてなんとかせねばという使命感のようなものを、頼まれもしないのに、持っていたのかもしれない。兄、嘉月は、おせっかいで構いたがりな性格だ。
ちなみに、中学生だった妹の実月は、自ら「ブラコン」を称していたくらいだから、嘉月の「シスコン」ぶりも大歓迎だったようで、いつも「お兄ちゃんお兄ちゃん」とくっつきまくっていた。俺に対しても同様だったが、顔色を窺いながら、遠慮がちに接してくることが多かった。聡い実月は俺の「反抗期」を敏感に察して、無遠慮に場を侵す真似はしなかった。
兄に対する苛立ち、コンプレックスは、「要するに愛情の裏返しなのよね」と、ずけりと言ってのけたのは、彼女だった。
彼女は、兄の友人の一人だったが、もとは「友達の友達」という程度の間柄だった。彼女の一つ年上の「先輩」が兄と親しく、その先輩のオマケのようにして彼女は兄の友達の輪に入っていた。彼女の一つ上の先輩である女性、その「先輩」が、後に兄の嫁となるのだが、当時はまだ二人はつきあってはいなかった。だが、お互いを意識してはいる、という状態ではあったようだ。それを教えてくれたのは、彼女だった。
そして俺は気がついた。兄を見る彼女のまなざしの切なさに。
彼女は、兄が好きなのだろう。勝手にそう断じた。
仲の良い先輩が兄の嘉月に好意を持ち、さらに先輩も嘉月に好意を抱いていると察し、身を引いたのだろう。だが諦められずにいる……。
それを彼女に訊いた。何故尋ねたのか。嫉妬心があったのかもしれない。
「維月くんて、ロマンチストなのねぇ」
俺の憶測を、彼女は笑った。そして、違うわよ、とあっさり否定した。
「嘉月くんはいいやつだと思うし好きだけど、異性として見たことはないわ」
言ってから、彼女はからかうように、「ホッとした?」と俺の顔を覗きこんできた。否定したが、彼女は笑ったままで取り合わなかった。
そうして俺は、あっけなく彼女の術中に墜ちた。まだ高校生の俺など、彼女にしてみれば、手玉に取るのは容易かっただろう。
それから程なくして、彼女から「付き合っちゃおっか」と軽いノリで告白された。出逢い、話すようになって、まだ幾許も経たぬ頃で、会った回数も片手で足りるほどだった。
何故、という疑問を口に出さぬまま、俺はその誘いを容れ、彼女と付き合い始めた。彼女に惹かれていたのも事実で、断る口実もなかった。
彼女は、市松人形を成長させたような容貌で、普段は口数少なく、内気そうに見えたが、時々童女のようにはしゃぐこともあり、周りには「お天気屋」と言われていた。おとなしいのか賑やかなのか、掴みどころのない女性だった。
そんな彼女だったが、付き合い始めてすぐ、おそらくは誰にも言っていないだろう秘事を、俺に話して聞かせた。
「誰にもナイショよ」と言いながら、それを語る口調はやけに気軽で、しかし寝物語にしては穏やかとはいえないものだった。
あっけらかんと、「わたし、不倫してるのよね」と。
「だから、嘉月くんや眞知先輩みたいな純な関係見てると、羨ましかったりするし、なんだか自分が……ちょっと汚れちゃってるみたいな、ね」
実際汚れちゃってるわけだけど、と、彼女はおどけたように笑った。
「それで切ない気分になっちゃって、無性に、誰かれ構わず喋りたくなっちゃう時があるのよね……」
ありていにいえば、彼女が俺に求めたものは、一時の安らぎだった。あるいは、不倫の虚しさを紛らわせるためだった……のだろう。
彼女は彼女なりに、現状を打開しようとは、していたらしい。「不倫」を清算したい気持ちが彼女にはあり、そのきっかけが欲しかったと語った。本心からだったろう。軽々しく口にしながら、しかし瞳はいつも苦しげだった。
相手が、何故俺だったのか。まだ高校生でしかない、五つも年下の。
その疑問はついに口に出さずじまいだった。それを訊けるほど、俺と彼女は親密ではなかった。
「維月くんて、甘え下手よね。兄と妹に挟まれちゃってるからかしら?」
わたしに甘えてくれちゃってもいいのよと笑う彼女に、しかし俺は、甘えた我儘を言ったりはしなかった。子どもだと侮られないよう、意地を張り、背伸びをし、彼女から何を言われ、聞かされても、余裕ぶり、鷹揚な態度をとり続けた。
体の繋がりだけの関係でも構わなかった。むしろそれでこそ、良かった。
兄、嘉月への対抗心が、そう思わせていたのだろう。くだらぬことでもいい。優越感に浸りたかった。
彼女が俺を利用するのなら、俺も彼女を利用すればいい。
そういう、打算的なつきあいだったのだ、彼女とは。
そう割りきっていた。……別れを告げられるまでは。いや、今までそう思ってきたのかもしれない。
彼女との付き合いは、結局半年にも満たなかった。
別れましょうと彼女に言われても、何故だと食い下がることもしなかった。釈然としない気持ちはあったが、駄々をこねるようなみっともない真似はしなかった。彼女が、不倫相手とも別れたと知ったからかもしれない。不倫相手と縁を切った。だから、俺とも切るのだと。
そして、未練など微塵もない風を装い、彼女とは別れた。
彼女は、俺にとってはただの行きずりの女で、「恋人」などではなかった。彼女にとってもそうだっただろう。
長くそう思っていた。そう思い、記憶の底に彼女を埋めた。
――だが、あれもまた、恋だった。
いびつな形の、ひどく不器用な「恋」だった。
そう思うに至ったのは、今日の、彼女の再会がきっかけではない。
木崎美鈴という恋人の存在が、俺を悟らせた。
美鈴に恋をして、初めて、あれもまた恋だったのだと、遅まきながら、気づいたのだ。
「維月くん、いい顔してるね?」
彼女が、俺を見やってそう言った。ホッとしたような、淋しそうなような、相変わらず底意を見せない笑みを浮かべて。俺は、返事に窮した。適当に相槌を打てばいいだけのことだと内心思いつつ、それがうまくできない。もの慣れぬ十代の頃に戻った気分だった。
彼女は結婚し、一児の母になっていた。少しふっくらとした体つきになっていたが、見違えるほどには変わっていなかった。
声をかけてきたものの、彼女は多くは語らなかった。無遠慮に距離を詰めてきたりもしなかった。交わされた会話は、他愛ない世間話だった。傍に人がいたせいもあったろう。ただ、「よかった」と安堵のため息をひとつ、こぼした。俺に恋人がいると知り、ひどく嬉しげな様子だった。
「わたしがよかったっていうのは、ちょっと違うっていうか、思い上がりかもだけど」
彼女のおっとりとした笑みは、母親になったからこそ自然に浮かんでくるものなのかもしれない。
何故声をかけてきたのか、何か言いたいことでもあるのか。
胸をざわつかせていた疑惑は薄れ、やがて消え、俺も平静を取り戻せていた。
――言いたいことがあったのは、俺の方こそだった。
だが、もういい。
やけっぱちにではなく、そう思えた。
やっと気づけた。
彼女も、俺に恋をしかけていたのかもしれない、と。
冗談めかして、「付き合っちゃおっか」と笑った時、あっさりと別れを告げた時、彼女の目には乞うような陰翳があった。あの時は、何か言いたげなのには気がつけても、その何かを察せられるほど、俺は大人ではなく、余裕のひとかけらもなかった。
彼女の想いも、俺自身の想いをも、俺は長く無視し続けてきた。
愚かだった。彼女も、俺も。
傷つけあうことすらできなかった、不器用で未熟な「恋」。
再会は、まったくの偶然だった。彼女も「まさかこんなところで会うなんて」と笑っていた。それは、嘘ではなかったろう。
そして彼女は偶然を無駄にはしなかった。
心の奥、秘めたところで長く引きずったままでいた想いを、彼女から断ち切ってくれた。
彼女はもう一度、別れの言葉を口にした。俺をまっすぐに見つめて。
「じゃあね、維月くん、元気で」
たったそれだけの、短い言葉とすがすがしい笑み。
あの時と同じようにあっけらかんとした笑顔で。そして彼女は、秋風のように颯爽と去っていった。
彼女とは、二度と会わないだろう。
たとえ街中ですれ違ったとしても、もう知らない者同士だ。視線を交わすことも、声をかけることもない。
俺も、最後の言葉を彼女に告げる。今だからこそ言える言葉だった。
「――ありがとう」
彼女は振り返らなかった。俺もまた踵を返し、別の方向へと歩き出した。
「わたし達、つきあっちゃおっか」
ひどく軽率な口調だった。だから俺も思わず頷き、彼女の誘いに安易にのってしまった。
彼女はいつも先手を打つ。
彼女――今村唯美恵は、いわゆる俺の「初めての彼女」だ。もうずいぶんと昔、十年以上も前のことだ。
付き合い、別れてから、十年あまりの月日が経つが、その間彼女とは一度も会うことはなかった。連絡もとらず、音信不通のまま、ただ人づてに彼女が結婚したことだけは知っていた。逢いたいと思ったことはなく、できれば逢わぬままでいたいとすら思っていた。
だというのに、まさか所属しているテニスクラブのイベントで彼女と再会しようとは。
再会の時も、彼女から声をかけてきた。わたしのこと憶えてるかしら、などと勿体ぶった言葉など使わず、ひどく気さくに近寄ってきた。
「逢えてよかったわ」
そう言った彼女に、俺は笑みを返せなかった。
今村唯美恵と出逢った当時、俺はまだ高校生、十七歳の青臭い子供で、彼女は五つ年上の二十二歳。大学の三回生だった。
そんな彼女とは、兄の嘉月を介して知り合った。
「嘉月くんとは似てないのね」
それが、彼女が俺に掛けた最初の言葉だったように思う。
賑やかで活発な兄の友達の中で、彼女は場に馴染んでいるようでいて、馴染み切れていないようにも見えた。兄の友人には珍しいタイプで、多分それが彼女への興味に繋がった。
二つ年上の兄は、明るく社交的で、男女も年齢も問わず友人が多かった。大雑把な性格で、多少粗忽な面もあったが、それが愛嬌として他人の目には映るのだろう。見た目は悪人面といえなくもない強面だったが、兄の周りには自然と人が集まり、いつも楽しげな笑い声が絶えなかった。
陽気で闊達な兄に、おそらくは俺は嫉妬めいたものを感じていたのだろう。今でこそ普通に接せられるが、当時は兄と話すのが苦手で、常に距離を置き、時には冷たくあしらうこともあった。兄は頓着せず、ずかずかとこちらのテリトリーに入りこんできては、やたらと「兄面」を向けてきた。俺を心配してのことだったのだろうが、それすら疎ましかった。
当時の俺は、兄にだけではなく、家族の誰に対してもよそよそしい態度をとって、一人、殻に閉じこもることが多かった。さしたる理由はなかった。遅い反抗期だったのかもしれない。「家族」が煩わしく、そんな風に思う自分こそが何よりも煩わしかった。わかりやすく「ぐれる」ようなことがなかっただけに、兄はかえって不安を覚えていたようだ。「長男」としてなんとかせねばという使命感のようなものを、頼まれもしないのに、持っていたのかもしれない。兄、嘉月は、おせっかいで構いたがりな性格だ。
ちなみに、中学生だった妹の実月は、自ら「ブラコン」を称していたくらいだから、嘉月の「シスコン」ぶりも大歓迎だったようで、いつも「お兄ちゃんお兄ちゃん」とくっつきまくっていた。俺に対しても同様だったが、顔色を窺いながら、遠慮がちに接してくることが多かった。聡い実月は俺の「反抗期」を敏感に察して、無遠慮に場を侵す真似はしなかった。
兄に対する苛立ち、コンプレックスは、「要するに愛情の裏返しなのよね」と、ずけりと言ってのけたのは、彼女だった。
彼女は、兄の友人の一人だったが、もとは「友達の友達」という程度の間柄だった。彼女の一つ年上の「先輩」が兄と親しく、その先輩のオマケのようにして彼女は兄の友達の輪に入っていた。彼女の一つ上の先輩である女性、その「先輩」が、後に兄の嫁となるのだが、当時はまだ二人はつきあってはいなかった。だが、お互いを意識してはいる、という状態ではあったようだ。それを教えてくれたのは、彼女だった。
そして俺は気がついた。兄を見る彼女のまなざしの切なさに。
彼女は、兄が好きなのだろう。勝手にそう断じた。
仲の良い先輩が兄の嘉月に好意を持ち、さらに先輩も嘉月に好意を抱いていると察し、身を引いたのだろう。だが諦められずにいる……。
それを彼女に訊いた。何故尋ねたのか。嫉妬心があったのかもしれない。
「維月くんて、ロマンチストなのねぇ」
俺の憶測を、彼女は笑った。そして、違うわよ、とあっさり否定した。
「嘉月くんはいいやつだと思うし好きだけど、異性として見たことはないわ」
言ってから、彼女はからかうように、「ホッとした?」と俺の顔を覗きこんできた。否定したが、彼女は笑ったままで取り合わなかった。
そうして俺は、あっけなく彼女の術中に墜ちた。まだ高校生の俺など、彼女にしてみれば、手玉に取るのは容易かっただろう。
それから程なくして、彼女から「付き合っちゃおっか」と軽いノリで告白された。出逢い、話すようになって、まだ幾許も経たぬ頃で、会った回数も片手で足りるほどだった。
何故、という疑問を口に出さぬまま、俺はその誘いを容れ、彼女と付き合い始めた。彼女に惹かれていたのも事実で、断る口実もなかった。
彼女は、市松人形を成長させたような容貌で、普段は口数少なく、内気そうに見えたが、時々童女のようにはしゃぐこともあり、周りには「お天気屋」と言われていた。おとなしいのか賑やかなのか、掴みどころのない女性だった。
そんな彼女だったが、付き合い始めてすぐ、おそらくは誰にも言っていないだろう秘事を、俺に話して聞かせた。
「誰にもナイショよ」と言いながら、それを語る口調はやけに気軽で、しかし寝物語にしては穏やかとはいえないものだった。
あっけらかんと、「わたし、不倫してるのよね」と。
「だから、嘉月くんや眞知先輩みたいな純な関係見てると、羨ましかったりするし、なんだか自分が……ちょっと汚れちゃってるみたいな、ね」
実際汚れちゃってるわけだけど、と、彼女はおどけたように笑った。
「それで切ない気分になっちゃって、無性に、誰かれ構わず喋りたくなっちゃう時があるのよね……」
ありていにいえば、彼女が俺に求めたものは、一時の安らぎだった。あるいは、不倫の虚しさを紛らわせるためだった……のだろう。
彼女は彼女なりに、現状を打開しようとは、していたらしい。「不倫」を清算したい気持ちが彼女にはあり、そのきっかけが欲しかったと語った。本心からだったろう。軽々しく口にしながら、しかし瞳はいつも苦しげだった。
相手が、何故俺だったのか。まだ高校生でしかない、五つも年下の。
その疑問はついに口に出さずじまいだった。それを訊けるほど、俺と彼女は親密ではなかった。
「維月くんて、甘え下手よね。兄と妹に挟まれちゃってるからかしら?」
わたしに甘えてくれちゃってもいいのよと笑う彼女に、しかし俺は、甘えた我儘を言ったりはしなかった。子どもだと侮られないよう、意地を張り、背伸びをし、彼女から何を言われ、聞かされても、余裕ぶり、鷹揚な態度をとり続けた。
体の繋がりだけの関係でも構わなかった。むしろそれでこそ、良かった。
兄、嘉月への対抗心が、そう思わせていたのだろう。くだらぬことでもいい。優越感に浸りたかった。
彼女が俺を利用するのなら、俺も彼女を利用すればいい。
そういう、打算的なつきあいだったのだ、彼女とは。
そう割りきっていた。……別れを告げられるまでは。いや、今までそう思ってきたのかもしれない。
彼女との付き合いは、結局半年にも満たなかった。
別れましょうと彼女に言われても、何故だと食い下がることもしなかった。釈然としない気持ちはあったが、駄々をこねるようなみっともない真似はしなかった。彼女が、不倫相手とも別れたと知ったからかもしれない。不倫相手と縁を切った。だから、俺とも切るのだと。
そして、未練など微塵もない風を装い、彼女とは別れた。
彼女は、俺にとってはただの行きずりの女で、「恋人」などではなかった。彼女にとってもそうだっただろう。
長くそう思っていた。そう思い、記憶の底に彼女を埋めた。
――だが、あれもまた、恋だった。
いびつな形の、ひどく不器用な「恋」だった。
そう思うに至ったのは、今日の、彼女の再会がきっかけではない。
木崎美鈴という恋人の存在が、俺を悟らせた。
美鈴に恋をして、初めて、あれもまた恋だったのだと、遅まきながら、気づいたのだ。
「維月くん、いい顔してるね?」
彼女が、俺を見やってそう言った。ホッとしたような、淋しそうなような、相変わらず底意を見せない笑みを浮かべて。俺は、返事に窮した。適当に相槌を打てばいいだけのことだと内心思いつつ、それがうまくできない。もの慣れぬ十代の頃に戻った気分だった。
彼女は結婚し、一児の母になっていた。少しふっくらとした体つきになっていたが、見違えるほどには変わっていなかった。
声をかけてきたものの、彼女は多くは語らなかった。無遠慮に距離を詰めてきたりもしなかった。交わされた会話は、他愛ない世間話だった。傍に人がいたせいもあったろう。ただ、「よかった」と安堵のため息をひとつ、こぼした。俺に恋人がいると知り、ひどく嬉しげな様子だった。
「わたしがよかったっていうのは、ちょっと違うっていうか、思い上がりかもだけど」
彼女のおっとりとした笑みは、母親になったからこそ自然に浮かんでくるものなのかもしれない。
何故声をかけてきたのか、何か言いたいことでもあるのか。
胸をざわつかせていた疑惑は薄れ、やがて消え、俺も平静を取り戻せていた。
――言いたいことがあったのは、俺の方こそだった。
だが、もういい。
やけっぱちにではなく、そう思えた。
やっと気づけた。
彼女も、俺に恋をしかけていたのかもしれない、と。
冗談めかして、「付き合っちゃおっか」と笑った時、あっさりと別れを告げた時、彼女の目には乞うような陰翳があった。あの時は、何か言いたげなのには気がつけても、その何かを察せられるほど、俺は大人ではなく、余裕のひとかけらもなかった。
彼女の想いも、俺自身の想いをも、俺は長く無視し続けてきた。
愚かだった。彼女も、俺も。
傷つけあうことすらできなかった、不器用で未熟な「恋」。
再会は、まったくの偶然だった。彼女も「まさかこんなところで会うなんて」と笑っていた。それは、嘘ではなかったろう。
そして彼女は偶然を無駄にはしなかった。
心の奥、秘めたところで長く引きずったままでいた想いを、彼女から断ち切ってくれた。
彼女はもう一度、別れの言葉を口にした。俺をまっすぐに見つめて。
「じゃあね、維月くん、元気で」
たったそれだけの、短い言葉とすがすがしい笑み。
あの時と同じようにあっけらかんとした笑顔で。そして彼女は、秋風のように颯爽と去っていった。
彼女とは、二度と会わないだろう。
たとえ街中ですれ違ったとしても、もう知らない者同士だ。視線を交わすことも、声をかけることもない。
俺も、最後の言葉を彼女に告げる。今だからこそ言える言葉だった。
「――ありがとう」
彼女は振り返らなかった。俺もまた踵を返し、別の方向へと歩き出した。
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