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第一章
播州の春2
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浅野内匠頭が屋敷に戻ると、家老の大石内蔵助がすでに控えていた。
几帳面に髷を整え、無駄のない所作で頭を下げるその姿は、内匠頭にとって、唯一心の許せる存在だった。
「ご出府の件、手配は整えてございます」
「そうか。……気が重いな、内蔵助」
「吉良殿のことですか」
その名を聞いた瞬間、内匠頭の眼に一瞬、鈍く光るものが差した。
だが、それはすぐに消え、静かな声がそれを覆った。
「私は、礼式の不出来を咎められるのが怖いのではない。
ただ、あの男の“目”が我慢ならぬのだ」
「目、でございますか」
「見下すでもなく、侮るでもなく――ただ、嘲るように見ている。
あれは、己が人の上に立つことを疑わぬ者の目だ。
それが、あの場に満ちるとき、私は……」
言葉を飲み込むように、内匠頭は唇を噛んだ。
内蔵助は黙っていた。主の胸中が、もはや礼式の難しさや形式に対する苛立ちではないことを、彼はとっくに察していた。そこにあるのは、名誉を傷つけられた者の痛みと、己を奮い立たせようとする誇りのせめぎあいだった。
「殿。くれぐれも、お心乱されませぬように」
「……心得ている。だがな、内蔵助。人は“辱め”には耐えられぬ生き物だ。
それが己一人のものならよい。だが、藩の者、家族、赤穂の名にまで影を落とすとしたら――」
そのとき、庭先で一陣の風が吹き抜けた。
早咲きの桜の蕾が、ひとつだけ音もなくほころびかけていた。
その小さな兆しに気づいた者は、内匠頭ただ一人だった。
几帳面に髷を整え、無駄のない所作で頭を下げるその姿は、内匠頭にとって、唯一心の許せる存在だった。
「ご出府の件、手配は整えてございます」
「そうか。……気が重いな、内蔵助」
「吉良殿のことですか」
その名を聞いた瞬間、内匠頭の眼に一瞬、鈍く光るものが差した。
だが、それはすぐに消え、静かな声がそれを覆った。
「私は、礼式の不出来を咎められるのが怖いのではない。
ただ、あの男の“目”が我慢ならぬのだ」
「目、でございますか」
「見下すでもなく、侮るでもなく――ただ、嘲るように見ている。
あれは、己が人の上に立つことを疑わぬ者の目だ。
それが、あの場に満ちるとき、私は……」
言葉を飲み込むように、内匠頭は唇を噛んだ。
内蔵助は黙っていた。主の胸中が、もはや礼式の難しさや形式に対する苛立ちではないことを、彼はとっくに察していた。そこにあるのは、名誉を傷つけられた者の痛みと、己を奮い立たせようとする誇りのせめぎあいだった。
「殿。くれぐれも、お心乱されませぬように」
「……心得ている。だがな、内蔵助。人は“辱め”には耐えられぬ生き物だ。
それが己一人のものならよい。だが、藩の者、家族、赤穂の名にまで影を落とすとしたら――」
そのとき、庭先で一陣の風が吹き抜けた。
早咲きの桜の蕾が、ひとつだけ音もなくほころびかけていた。
その小さな兆しに気づいた者は、内匠頭ただ一人だった。
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