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◆2011年4月1日
その日の朝、橋野将は、自宅のベッドにて目覚ましが鳴る前に目覚めた。あと数分でその時間という事で、そのまま起床することにした。ベッドから出て着替えを始めると、目覚ましが鳴る。すぐにそれを止めた。
「今日からか。だが、今日だけだ。」
全国音楽生産業連合会、通称「全楽連」の事務局長として初出勤をする日と改めて将は噛み締めた。この日は金曜日。カレンダー通りの休みが設けられている「全楽連」は、明日は休みとなる。まずは、今日という日を乗り越えようと思いつつ、自らの朝食と昼食用の弁当を用意した。
「やはり、悲惨だな。」
将は、朝食を食しながらつけたテレビから流れる先月発生した未曾有の大災害の映像を目にする。正直、この大災害に関連して、事務局長就任時期が遅れればいいとは思ったが、そうはいかなかったようだ。
「いってきます。」
諸々の作業を終え、戸締りを確認すると、誰も答えない出かけの挨拶をする。そして、施錠をし、アパートの5階から階段で駐車場へと足を運び、マイカーに乗り込む。マイカーは、いつものエンジン音を響かせながら、発進していった。
◆全楽連
将は、いつもの朝とは違う道を運転し、古びた無味乾燥のビルに到着。駐車場に車を停め、ビルの3階へとエレベーターにて上がった。そして、少し歩いた先にあった一室のネームプレートを見る。「一般社団法人全国音楽生産業連合会」と書いてあるのを確認すると、そこへ入室していった。
「おはようございます。」
始業時間の約30分前、8時半頃の第一声だった。そこに出勤していた事務局の職員は、新顔の将に挨拶を返した。
愛和音では、社長室があり、基本1人での仕事であったが、ここは違う。窓際に自らの席があり、職員たちを見渡しながらの仕事となるようだ。一旦ロッカーに荷物を保管し、宛がわれたデスクに着席した。机上には、前任の事務局長、財前真介が作成した「引継書」が置かれていた。早速それに目を通し始めるが、すぐに始業時間の9時となった。10名の職員が全員席に着いていることを確認すると、将は立ち上がった。
「本日から事務局長を務めさせていただく、橋野将です。よろしくお願いします。なにぶん、全楽連の仕事を内側から見たことのないものですから、何か不手際があるかもしれませんが、ご指導いただければ幸いです。」
将は、職員へそんな挨拶をした。そして、職員へ自己紹介を促した。男性7名、女性3名の職員たちは、立ち上がりながら勤続年数が長い順で自らの名前を名乗った。
「梶原文俊です。」
そう名乗った男性職員の声は、聞き覚えがあった。そして、電話越しでない文俊の声を聞くのは初めてだと思った。
将は、10名全員の自己紹介を聞き届けると、こう言った。
「改めて、皆さんよろしくお願いします。これより、業務に戻ってください。」
将を含めた全員が着席した。資料作りや電話応対などをし始める。
将は、読みかけだった引継書に再び目を通し始める。
◆襲来
引継書を一字一句逃さず読み終わった将は、文俊の元へと行った。
「梶原さん、事務局長就任の打診の際は、負担をかけてしまってすみませんでした。直接会った時にあなたには謝らなければならないと思いましてね。」
「ああ、いいえ。」
文俊は、多少恐縮した様子でこう返した。そう、この梶原文俊41歳は、昨年の6月頃、将に毎日電話をかけねばならなかった職員だった。この少し気弱そうな雰囲気の中に温和さが見てとれる男性職員に南山は「あの事」を強要したのだろうと将は腹を立てた。文俊は、こう続けた。
「あの、これからよろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
そう言葉を返した将の目に、とある影が。
「やぁ、やぁ、皆、よくやってるかい?」
この日から、全楽連の代表理事となった男が事務局の部屋へと入室してきた。
「初日だからね、顔を出したよ。」
この年、74歳となる南山源太の襲来であった。将は、表向きの冷静さを崩さずにこう挨拶した。「事務局長」として。
「代表理事、ごあいさつありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします。」
そんな将を見る南山の目は、笑っていた。それが純粋な笑みなのか、将を嘲り笑っているのかはわからなかったが、将は儀礼的な笑顔を南山へと返した。南山は、一瞬無表情になり、再び笑顔を浮かべながら職員1人1人に声をかけに行った。
◆本腰
ひととおり職員に声をかけ終わった南山は、嵐のように去って行った。将は、胸を撫で下ろすと、自らの席に戻る。
全楽連の主たる業務は、総合音楽会社に勤務する労働者への労働保障を行う事。そのための資金を総合音楽会社から一律で徴収し、それをそれぞれの会社の事情に合わせて分配していく。また、全楽連独自で収入も得て分配の金額を増額できるようにするのもひとつの命題である。
愛和音は、この全楽連の労働保障を請求したことはあまりなかったため、将は全くの「外野」から突如根幹へと連れてこられたような気分ではあった。
しかし、自らと南山の「いざこざ」に巻き込まれ、その座を追われた前任者の真介の無念を思ったら、「知らない」事を理由に適当な仕事は出来ないと、閉じられた引継書を見つめ気合いを入れた。
◆新人時代
将は、内心「あの時」の自分とは違うなと思った。そう、ジェントルに入社した初日の事。
「企画経理部に配属になりました、橋野将と申します。高卒です。よろしくお願いいたします。」
と、真面目に挨拶はした。しかし、いざジェントルの企画経理部のフロアに行くと、先輩からの研修を話し半分で聞いた。妹の京子と遊ぶ金欲しさに一応、就職した。「仕事」などするつもりは毛頭なかった。ただただ、出勤し、入った給料で「遊ぶ」事しか考えてなかったあの未成年だった頃をこの年46歳になる将は自嘲した。そんな昔への旅をしている将の頭に、女性職員の声が届く。
「郵便です。」
「わかりました。」
何通かあったその事務局長宛の郵送物に目を通し始めた。しばらくすると、文俊がこう声をかけてきた。
「就任初日ですが、決裁お願いします。」
「はい。」
それを受け取り、そちらにも目を通す。まだ引継書の内容はうろ覚えなため、再びそれを開き、該当の部分を読みながら、決裁の判を押していいものか判断する。それは、判を押していいものと確認したため、「橋野」の判を事務局長欄に押した。
「こちら、よろしくお願いします。」
将は、判を押した決裁文書を管理担当の男性職員に手渡した。
◆初日終了
そうしていると、時計は17時。業務終了時間となった。1人、また1人と退勤していく。その度に、将は声をかけた。
「お疲れ様。」
そして、自らも退勤する。階段で1階まで下りて駐車場へと足を運ぶ。マイカーに乗り込み、自宅の手前まで運転したが、愛和音のことも気になったため、道を変えた。
そして、愛和音に到着。18時過ぎだった。残業をしている社員はいなかったため、社屋の中には人影がなかった。
昨日までいた社長室へと入室すると、特に変化はなかった。すぐに社屋から出て、今度こそ帰路についた。
「今日は何もなかったが、これからはそうはいかないだろう。どんな周期で様子を見に行こうか。」
将は運転中、ひとりごちた。
19時手前、アパートの駐車場に到着した。エレベーターで5階まで上がり、自宅の鍵を開けた。朝と変わらない部屋の中で、はじめに夕飯を準備する。南山の襲来という事以外は何事もなく1日が終わってよかったと思いつつ、夕飯を食し始める。朝とは違い、音楽をかけながら食事を進める。そんな将の夕飯のお供は、「響義浩」の曲だった。
◆初心に
将は心の中で、「小橋。」と言った。初心に戻りたくて選んだのは、「響義浩」のファーストアルバムであった。ランダム再生をした3曲目に、「君のための翼」が選ばれた。続いての4曲目は、「月下の心」。将は呟いた。
「勤務態度を改めた『あの日々』を思い出せ、という事、示してくれたな。」
ジェントルに入社して4年目、22歳になる1987年の事だった。まさに「ちゃらんぽらん」という言葉が当てはまる当時の将の耳に入ったその2曲。時間差はあったが、大きな衝撃を与えていった。
心を離さないその歌声を持つ同じ会社の年下の新人の仕事ぶりは、将の心に「誇り」を植え付けた。そして、同時にそれまでの勤務態度への「恥」も植え付けた。
そして、とある日上司や先輩たちに頭を下げた。
「お願いします!俺に、再度『研修』をしてください!!」
だが、上司も先輩たちも難色を示した。「本気かどうかわからない」と。将は、それまでの行動を悔いた。それからと言うものの、1つ1つの仕事を自分が考えられる「最上」の物にしようと心がけた。
休みの日も、所属が企画経理部だった事から主に経理に関する勉強をし始めた。
「悪い、京子、お前とは遊べなくなった。」
そんな一言も発した。妹は、泣きそうな顔をし、罵声を浴びせてきた。「お兄ちゃんの馬鹿!」と。それを機に妹にも更生を促したかったが、それよりも当時は一流の社員になりたいという気持ちが走り、「それ」には着手せず、それから京子とは一時疎遠になった。
「『あの日々』同様、事務局長としての知識を蓄えなければ。」
食し終えた夕飯の光景を見つつ、アルバムも全曲が終了したことから後片付けに向かい、入浴後、ベッドに入った。感じている以上に1日で疲労が溜まってしまっていたのか、数分で夢の中へと旅立った。
◆やる気
あっという間に、4月2日、3日の2連休が終わり、5日連続という先週とは違う1週間の全楽連での勤務が始まる。将は、心の中で「久しぶりに『やりたくない』仕事をしている」と。きっとこの1週間は、長い物になる、と、覚悟した。
似たような事はあった。ジェントルに小橋寿人が入社してきて2年目の事だった。将は、勤務態度を改めた事を次第に認められ、試しにと「最重要作業」を任された。そう、それは「マスコミへ送りつける一覧の作成」と「寄付金の振り込み作業」だった。
「わ、わかりました。」
その一連の作業を先輩に見守られながら作成すると、完璧な物が完成した。それをもって、将は「企画経理部の一員」と認められ、毎月の作業になるそれらを数人の先輩と交代で作成する担当となった。
最初は認められた喜びで頑張っていたが、毎回一覧に書かねばならない「響義浩」の文字にだんだん嫌気がさしてきた。そして、ある日誰にも聞こえない小声でこう言った。
「響義浩を、小橋寿人を、『駒』にするな。」
ミスしたふりをして、一度だけ一覧に「響義浩」を書かなかったことはあったが、上司に見つかり、怒られた。それ以降は、やらないようにしたが、自らの手で「響義浩」を「作られた人気という地獄」に落としている感覚に陥った。
「やりたくない。」
つい口をついて出た言葉は、幸いなことに誰の耳にも届かなかった。
それからというものの、響義浩を支持する人々は増えていき、寿人は一大スターへと登り詰めた。
そんな様子を見て、将は心の中で叫んだ。「なんとなく、テレビやラジオ、雑誌で『人気』だと言われて『響義浩』を支持するな。ジェントルの社員としては、あなた方はありがたい存在だが、いち響義浩のファンとしては、お前たちは不要だ。削ぎ落としたい。どうせ、お前たちはいつか、『響義浩』から去っていくんだろう?なら、最初から支持などするな。」
そうして、「認められたきっかけの仕事」は、「一番やりたくない仕事」へと成り下がった。
きっかけは違えど、あの時と心境は同じだ。しかし、あの時は、寿人の歌声に鼓舞され、引き続き「最上」の仕事をした。今は、その寿人は自らの代行を愛和音で頑張っているだろう。よって、ここでも「最上」の仕事をしなければ、と、改めて仕事に対する気合いを入れ直した。
◆準備
4月に入ってから何度も過去を思い出しては自らを鼓舞してきた将。なぜなら、引継書によると、4月中に開かれる「理事会」に向けて、自分が関わってなかった3月までの事業報告を事務局長としてやらねばならず、そのための準備が必要なのだ。
「まさか、職員が用意したものをただ読んで終わりなんて俺はそんな事は出来ない。」
愛和音の株主総会では、会社のすべてを把握し、質問があれば適切な答えを返した。それと同じ事を理事会でもやらねばと考えた。そして、1月から3月までの全楽連の動きを把握しようと、通常業務の合間を縫って資料を読み込むことにした。
「成る程。」
そう呟きながら。そんな将の様子に、とある中堅の男性職員が話しかけてきた。
「局長、熱心ですね。」
「いや、理事会をそつなく終わらせたい。」
「そうですか。」
そんな会話をしつつ、3ヶ月分の事業内容をある程度頭に入れた。そして、大事そうな箇所はメモを残し、将の理事会への準備は終了した。
◆小さな無茶振り
4月20日。全楽連は、3ヶ月に一度の「理事会」を開く。将は、事務所の隣の会議室にて理事会の会場設営の指揮を事務局長として行わねばならない。昨日読み込んだ引継書にて頭に入れたすべての流れをこなした。
「皆さん、ひとまずお疲れ様でした。」
準備が終わる。そして、職員は司会担当の女性職員を除き、一時撤退していく。将は、事務局長として会場に残った。
それからすぐのこと。理事たちが続々と入室してくる。9人の理事の中には、当然代表理事の南山もいる。将は、無視をしたかったが、その立場がそれを許さず、話しかけに行った。
「本日は、お疲れ様です。よろしくお願いします。」
「うん。」
だいぶそっけない南山の返答だった。
やがて、女性職員がこう言った。
「定刻になりました。平成23年度第1回全楽連理事会を開会いたします。」
そして、将の事業報告の時間がやってくる。
「平成22年度第4四半期の事業報告をいたします。」
そんな一言から始まる事業報告は、職員が用意してくれた原稿通りに進む。そして、こんな一言でその時間は終わりを告げる。
「以上で事業報告を終わります。」
それを確認すると、女性職員がこう言った。
「何か、ご質問はありますか?」
8人の理事たちは「なし。」と口々に言った。将は、これまでの「準備」が無駄だったと内心思った。そんな中、残りの1人、代表理事の南山は質問の代わりにこんな言葉を発した。
「質問じゃないけれども、あのね、事務局長?初めてここに来たんだからさ、挨拶があってもいいんじゃないか?自己紹介くらいしなさい。」
8人の理事の疑問の目と、女性職員の予定にないことが起きた事への動揺の目が将や南山に注がれる。将は、動揺している女性職員の視線に「大丈夫だ。」という気持ちを込めた頷きを見せた。そして、南山にこう返した。
「大変失礼しました、南山代表理事。」
深々と頭を下げた。苦々しい表情を隠すために。気を取り直し、自己紹介を始める。
「ご挨拶が遅れた事、大変申し訳ありません。只今よりこの場を借りて自己紹介をさせていただきます。この4月より全楽連の事務局長に就任いたしました、橋野将と申します。株式会社愛和音の社長を兼任しながらの勤務となりますが、誠心誠意務めさせていただきますので、何卒、ご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。」
再び将が頭を下げると、南山は、拍手した。
「良くできたね。はい、事業報告は、終わりね。」
将は、南山に「隙」を見せてしまったと思いつつ、理事会の残りの時間を過ごした。一方、南山は気持ちよさそうな顔を崩すことなく残りの時間、そこにいた。
そんな時間は過ぎ、女性職員がこう言った。
「これをもちまして、平成23年度第1回全楽連理事会、閉会いたします。皆さん、ありがとうございました。」
それを合図に、続々と理事たちは南山も含めて帰って行った。それを見届けた後、将は、女性職員へ声をかけた。
「予定にない事を起こしてしまいましたね。驚いてしまったでしょう?すみませんでした。」
「いいえ。」
女性職員は、短く返す。そんなやり取りをしていると、後片付けに再び職員が会場にやってきて、ものの10分程度でそれは終了。
「お疲れ様。」
将は、そう職員に声をかけつつ、帰り際の南山の勝ち誇った笑みを思い出した。
また、自分は南山の「下」の者になってしまった。その事実は、将の心に暗い気持ちをもたらした。
ふっと、将は文俊を見る。そして、こう思った。「いや、それは考えるのを止めよう。梶原さんに失礼だ。」と。
◆日程
事業報告の理事会は終わったが、今度は、昨年度の決算報告の理事会を来月開かねばならないのだ。非効率だと将は思いつつも、決算の手続きが滞りなく進んでいるか確認した。
「決算の方は大丈夫ですか?」
「なんとか、という感じです。」
男性職員がそう返す。
「よくわからなくて申し訳ありませんが、やはり、事業報告の件が負担でしたか?」
その男性職員は、苦笑いで誤魔化した。そんなやり取りをすぐそばで聞いていた文俊は、こう言った。
「規定で決められていますから。」
「そうですか。」
4月の通常業務を進めつつ、事業報告や決算報告のための手続きをしなければならない。かなりタイトな月だと思った。なんとか楽な月にしてやれないかと考えた。
愛和音では、四半期の諸々の報告は文書で簡単な内容にて関係者に周知し、決算期の報告は、株主総会の時に対面で説明等をしていた。そこまで簡略化できるとは思わないが、4月と5月の連続した理事会をなんとか1回にまとめられないかと思うようになった。
しかし、まだ全楽連の全容を把握していない自分がここで声を上げるのは混乱しか与えられないと、今後の課題とすることにした。
◆社長室
一方、愛和音も3月末で決算となっているため、そちらの把握もしておかねばならない。それは会社にとって最重要事項、時間をかけてやりたかったことから、休日を使うことにした。世間が大型連休に入った4月29日の金曜日、経理部から上がった資料を誰もいない社屋内部の社長室にて、将は確認し始める。
「さすがに、こちらの情報は、頭にすんなり入ってくるな。」
ひと月前まで、ここにいたのだから当然の事。
見方を変えながら何度も資料を確認する。まだ、すべての決算の資料は揃ってはいないのだが、提出された資料に関する株主総会用の説明の文書をパソコンを使い用意し始めた。経理部が作成する資料に入れ込んで欲しい内容を指定するためだ。
朝9時から始めた作業は、お昼過ぎの14時に終わる。
「来年は、真逆になるんだろうな。」
今年は愛和音の状況はわかり、全楽連の状況がわからない状態だが、来年以降は、愛和音の状況がわからず、全楽連の状況がわかるのだろう。それが物凄くさびしかった。
「小橋、俺に力を貸してくれ。」
社長室にあった寿人が歌ったデモを適当に選び、それを再生した。寿人の「棒読みの歌」が社長室に流れる。まだ、自らが愛和音の社長一本で過ごせていた時の曲が、次第に将の心を鼓舞していった。
「ありがとう、小橋。」
◆チャリティーアルバム
5月31日に決算報告のための理事会を開き、無事にそれは終了した。
そんな中であった。6月に入り、2011年7月13日に発売される「愛和音チャリティーアルバム」の宣伝のためのポスターが全楽連の事務所に届く。
「小橋。」
そのポスターには、愛和音の歌唱部の人員が全員映っていた。勿論、歌わない寿人の顔は映ってはいないのだが、将は、その奥に寿人の存在を見た。
「ポスターか。」
その寿人とマスターのバーで初めて話をした夜の事を思い出した。寝てしまった寿人を自分のベッドに寝かせたのはいいが、自らの部屋には数枚の「響義浩」のポスターが貼ってあった。酔った頭だったが、さすがにまずいと思い、一時外した。ついでに、CDや写真集も見えないように引き出しに一旦しまった。そんな思い出に少し将は笑う。そんな将を文俊はそばで見ていた。そして、こう言った。
「局長のそういう風に笑った顔、初めて見ました。」
「そうですか?」
「何かいいことでもありましたか?」
「いいえ、我が社の社員が、『頑張った』な、と思いましてね。」
「ああ、『チャリティーアルバム』ですか。売れるといいですね。」
「ありがとうございます。」
将は、誤魔化した。
◆愛和音の社長として
2011年6月30日、木曜日。愛和音の株主総会が開かれる。将は、全楽連の方から時間休をもらい、愛和音社屋内の会議室へと出向く。総務部や経理部の社員たちが将を迎え入れた。
「社長。」
「お疲れ様。いつもより負担をかけてしまってすまない。」
「いいえ。」
昨年までは、定期的に社長室にて関連する部署とは綿密に打ち合わせをしてから株主総会に臨んではいたが、今年からはそうはいかない。結局の所、決算内容等の精査を例年以上に社員に任せた。うまくいくか心配ではあったが、株主総会は、午前10時に始まった。司会の総務部の男性社員がこう言った。
「定刻になりました。株式会社愛和音、第14回定時株主総会を開会いたします。」
そして、将は定款により、株主総会の議長に選ばれる。
「只今、議長に選任いただきました、橋野将です。よろしくお願いいたします。」
総会は、決算内容を説明する時間となった。
「平成22年度決算に関しまして、詳細をご説明いたします。」
冒頭、いつもの文言が経理部部長の男性社員から発せられ、説明が始まる。経理部部長の説明を、議長として聞きながら将は様々な事を考える。株主に説明するのは、主に「数字」が前回よりどう変化したか、という所。しかし、その「数字」の奥には、社員たちの「働き」がある。特に、昨年度は「早川新こと中山隼人の『研修』」が主なテーマとなった。寿人や陽太が頭を悩ませながら研修していった。そんな様子が頭を駆け巡る。そして、そんな中、自らは毎日のように文俊と電話でやり取りした日々も。
詳細を伝えるためにいつも長くなるこの説明時間。この年も長くなった。経理部部長の説明が終わると、将はこう言う。
「只今の説明にご質問やご意見はありますか?」
株主は、揃って「異議なし。」と言った。いつもの流れ。安心感を抱きつつも、残りの株主総会の時間を将は過ごした。そんな株主総会を将はいつもとは違う言葉で締めくくった。
「只今をもちまして、議長の任をおりさせていただきます。ご協力ありがとうございました。株主総会は閉会となりますが、今回はこの場を借りて、ひとつ申し上げます。私事で恐縮ではございますが、既に文書でお知らせしました通り、全楽連の事務局長就任に伴い、私、橋野将は、この4月より非常勤の社長となりました。時限措置としたいとは思ってはいますが、常勤への復帰時期は見通せません。必ず戻り、職務に邁進していきたいと思っておりますので、その間の愛和音全社員へのご支援を賜りますよう、お願い申し上げます。」
将は、頭を深々と下げた。そして、次々に株主は「異議なし。」と声を上げてくれた。「やはり、愛和音の株主は、あたたかい。」と、将は心の中で思った。大半が無関心で一部自分に敵意を向けている全楽連の理事たちとは違うと思った。
そして、男性社員のこんな一言で株主総会は終わりを告げた。
「以上をもちまして、株式会社愛和音、第14回定時株主総会を閉会いたします。皆様、ありがとうございました。」
続々と株主は帰路についた。それを見送ったあと、将は社員へこう言った。
「いつもは共に作業したが、今年からは議事録の作成をすべて任せることになる。これ以降も負担をかけるが、頼んだぞ。」
社員たちは、少し気が重そうだったが、表向きの快諾の意思を将に伝えてくれた。それを見届けると、将は全楽連の方に戻って行った。
戻る車中、将は運転をしながら自らが30歳だった頃に株主へ最初に言った事を思い出した。
「今の私は、何の後ろ盾も実力もありません。しかし、『良質な音楽』を世間に提供したいという思いはこの日本で一番強く持っていると自負しています。そして、愛和音は『それ』を必ずや成し遂げます。根拠も示す事も今は出来ません。疑うお気持ちも理解しております。しかし、絶対に損はさせません。出資していただいた事を誇りに思える会社を、愛和音をお目にかけたい。だから、どうか少額でも出資をしていただきたい。お願いします。」
長く深く下げた将の頭の中には、「小橋寿人が作り最初に世に出た曲」である「闇夜の影 / 水島良典」が流れていた。あれから10年以上。株主に少しでも「誇り」を与えられているだろうかと思った。
正午が過ぎ、30分程度経ったであろうか、将は全楽連の事務所に着き、軽く昼食を摂った後、この日の事務局長としての勤務を始めた。
◆原石
7月13日、「愛和音チャリティーアルバム」は、発売された。それ以前に「資料」として完成品が社長である将の元に提出されてはいたが、指揮をすべて寿人が執ったことから、あえて発売まで聴かなかった。「解禁日」としたこの日、帰宅した後の夕飯時のお供としてこのアルバムを聴き始めた。大災害に見舞われた人々へわかりやすく寄り添うような曲もあれば、逆に明るく気持ちを引っ張って行けそうな曲もあった。
「中山君。」
ため息混じりの将の声が響く。相変わらず早川新は「荒削りの元気な歌声」だったからだ。
「小橋も悩んだろうな。」
残酷なまでに目立つその歌。収録しない手もあっただろうが、寿人はやってのけた。それなら受け入れなければ、と思った。
愛和音は、創立10年を過ぎ、「音楽界の未来を担う人材育成のフェーズ」に入ったと思った。だから、寿人や陽太にきつい思いをさせながら「原石」を探してもらった。しかし、今回は失敗なのかもしれない。もう一度、「原石」を探す必要があるのかもしれない。と将は自省した。仮に「もう一度」をやるとしたら、寿人や陽太に負担をかけられないと、自らが常勤の社長に復帰した後になると思いつつ、その日は終わりを告げた。
◆渡ってきたもの
8月上旬になった。この頃、将は夜間愛和音の方に出向く周期を決めた。月曜日、水曜日、金曜日の週3日、愛和音の状況を確認するのがベストと判断した。
そんな日であった。
「同じ数字を見るとはな。」
7月の愛和音と全楽連の詳細な現金等の動きを別々の日ではあったが、将は確認。愛和音から引き落としで支払われた全楽連の会費。愛和音側は支出として、全楽連側は収入として計上されたその数字を思い出し、帰宅中の車内でそう呟いた。
◆逆
「やはりな。」
2012年4月下旬のある日、将は全楽連の自らの席にて呟いた。
昨年決めた通りに月曜日、水曜日、金曜日の夜に愛和音の社長室へ行き、愛和音の状況を把握しには行っていたが、何せそれは短時間。終日あの社長室にいた時と比べたら短すぎてなかなか状況が掴めない。愛和音の株主総会の説明に「自分の言葉」が乗らない事に焦りを感じた。
一方、全楽連の流れはすべて把握済みで、数日前に行った「理事会」もそつなくこなせた。来月の「理事会」で話す内容ももう既に決まっている。昨年の懸念がそのまま現実の物になったことに軽く絶望していた。
絶望と言えば、愛和音の早川新の成績、ジェラン週間初登場59位。隼人を「遊軍」にする処分の検討に将は入った。
◆改革ののろし
6月になった。愛和音の株主総会への追い込みの時期だが、将は昨年考えた全楽連の方の「連続した理事会への対策」を職員たちに提案した。
「少し、お話いいですか?皆さん。」
一斉に10人の職員が将を見た。
「『理事会』への事業報告の資料の件ですが、毎月その前の月の分を作成する、と言うことに変更したいのですが、皆さんは、どうでしょうか?」
職員は、急な提案に戸惑った。文俊が困惑の声をあげた。
「事業報告の資料は、理事会直前に作成すると言うのが決まった流れで、それに合わせて仕事をしていたんですが。」
「やはり、駄目でしょうか?」
文俊はためらいながらもこう返した。
「事務局長のご提案ということならば、従うしかないとは思いますが。」
そんな文俊に、職員の中で一番の古株の男性職員が続けた。
「梶原君の言うことに私は同意しますが、急な提案ですね。」
将は、それに返した。
「急ですみません。しかし、私が事務局長に就任した昨年から思っていた事なんです。4月の業務が忙しいと思いましてね。皆さんになんとか楽に仕事をしてもらえないかとこの1年考えていました。」
その言葉に職員の表情が少しだけいいものに変わった。それを認めた将は、こう続けた。
「この1年、皆さんの業務を見させていただきました。月初めは忙しいようですから、月中に前の月の事業報告を作ってしまいましょう。そして、3ヶ月分を繋げて理事会に報告する形に変更しましょう。その方が、後々楽になると思います。」
その提案を聞いた文俊は、ある懸念を抱く。
「しかし、それでは4月の20日前後に開く事業報告の理事会に向けての作業は、あまり変わらないと思います。」
「『今の規定』ではきっと事業報告を事前に準備しても、4月の忙しさは余り変わらないでしょう。なので、『規定の変更』も視野に入れています。『4月の理事会を廃止』するんです。」
職員は、一様に動揺した。古株の男性職員がこう言った。
「そんな事、前例はありません。」
「そうですね。しかし、やらせてください。皆さんの負担をなるべく『均して』やりたいんです。ですから、規定の変更作業は、皆さんに負担はかけません。私が全て動きます。その前に、実務をやる皆さんの作業形態を変えなければならないと思いましてね。今日お話させていただきました。よろしいでしょうか?」
その将の言葉に反論できる職員は、いなかった。
◆戦い
将は、それから6月末に開催された愛和音の株主総会を何とか乗り越えた。懸念した通り、経理部の説明には、あまり自分の言葉を乗せられなかった。そのことに対する忸怩たる思いを残した。
「これは、休日を返上する必要があるな。」
そこから、将は、月曜日、水曜日、金曜日の夜間のみならず、土曜日と日曜日を自らの愛和音への出勤日と定めた。
一方、全楽連の「4月理事会廃止」の件は、理事会の承認を得る必要がある。規定を読むと、重要事項の変更は、理事会の3分の2以上の賛成で可能となる。と言うことは、6名以上の理事が「賛成」に手を上げれば、「廃止」出来る。そんな事がわかった将の元に、4月から6月分の事業報告が上がってくる。文俊が提出してきた。
「局長、お目通しお願いします。」
「わかりました。これが、最後になりますね。『まとめて』の事業報告は。」
「その、理事会は、動いてくれそうなんですか?」
「まだ、わかりません。今月の理事会で決まるかどうかは。けれども、毎月の報告は、続けてください。」
「はい。」
おそらく、南山は最後まで反対に回るだろう。それでも、南山以外の理事8名全員の理事が賛成すれば、「廃止」出来る。楽観視すれば、何も心配などないのだが、南山は、何らかの「正論」を持ち出し、反対してくる事も考えられた。その「正論」を聞き、反対に回ってしまう理事も出てくるかもしれない。それが3名以上になれば「この件」は通らない。
「さて、どうしたものか。」
予め、無作為に選んだ6名の理事に根回ししようとは思ったが、断念した。不確定要素の「南山の正論」に考えを変えられたら根回し自体が「無駄」となる。出たところ勝負、ということにした。
そして、7月の理事会が開催された。司会の女性職員には、事前に「例の件」の提案を会の終わりにすると伝えていた。そして、女性職員は、こう進行した。
「今回の理事会は、事務局長から1点、ご提案がございます。」
南山含めて理事たちは首を傾げた。その様子を見つつ、将は話を始める。
「これまで年5回開かれておりました、『理事会』を、年4回に減らしたく、提案します。」
会場は、一瞬ざわっとした。それをかき分けるように、将は続ける。
「具体的に言いますと、4月と5月に開催している理事会を、5月に統合し、その『5月理事会』にて、前年度の第4四半期の事業報告と、決算報告を行うことにしたいのです。」
「待ちたまえ、事務局長。」
想定内過ぎる南山の一声がかけられた。将は、「さあ、どんな『正論』で反対してくる?」と心の中で言った。
「それでは、事業報告が遅れる。その影響で、理事会としての判断が遅れた結果、何らかの重大事案が発生したらどのように責任を持つつもりだね?」
「それも想定済みです。それを防ぐ為に、5月末開催をわずかですが、10日程度前倒しして、5月20日前後の開催に変更したいと考えております。それをもってしてでも、その『重大事案』が発生した場合、私は、事務局長を辞します。」
反論の躊躇を南山は見せる。その南山を放っておき、将は理事たちに訴えた。
「この話は、理事の皆さんや、職員の負担軽減になると思っております。いかがでしょうか?賛成の方々の挙手を求めます。」
7名の理事が手を挙げた。将は、いとも簡単に「可決」という「勝利」を得た。南山は、苦虫を噛み潰したような顔をしてこう言った。
「まぁ、事務局長なりに、色々考えたようだね。だが、いささか、無理矢理な採決じゃないかね?」
「申し訳ありません。一刻も早く負担を軽減したかったので。」
将は、南山に向け、軽く頭を下げた。そして、賛成してくれた7名の理事に感謝のお辞儀も見せる。
「急な提案に、耳を傾けてくださり、また、賛成の挙手をしていただきまして、ありがとうございました。」
そして、将は女性職員に目配せした。女性職員は、それを受け、こう言った。
「これをもちまして、平成24年度第3回全楽連理事会、閉会いたします。皆さん、ありがとうございました。」
その後、全楽連の規定は将の手で書き直され、改定された。
◆勝利の余韻からのどん底
この改革により、全楽連の職員の毎月の仕事は確実に増えてしまったが、10月も終わりの頃、この年度の4回目の理事会を終えた後に文俊がこう将に声をかけてきた。
「局長の配慮、今になって身に染みてます。仕事が楽になりました。提案していただいた時は、反論してしまって申し訳ありませんでした。」
「謝る必要はありません。当然の反応と思っていましたから。その上で、梶原さんだけでも『楽になった』のでしたら、骨を折った甲斐がありました。」
将は、文俊に微笑んだ。文俊も柔らかい表情を返してくれた。
その翌日、木曜日の午前中に将の携帯が鳴った。
「小橋?」
珍しい着信だった。廊下に出て、それを通話状態にした。電話口の寿人は、こう言った。
「橋野、今夜、社長室に来るか?」
「行く予定はないが、どうした?」
「中山さんの事で、重い相談がある。『本来』の社長のお前に判断を仰ぎたいんだ。」
将は、心の中でこう呟いた。「小橋、お前も同じ思いか。」と。そして、こう返した。
「すべて任せる。お前の判断は、俺の判断、という事にする。」
「何で!『急ぎ』の判断だけだ!俺が任されてるのは。」
「小橋、落ち着け。俺の答えは、『それ』だ。『やれ』と言うことだ。」
「出来れば、電話じゃない形で話し合いたかった。」
「時間かけても、結論は一緒なんだから、時間の無駄だ。」
寿人の重く短いため息が将の耳に届く。
「そうだな。わかった。近いうちに『やる』。」
「頼んだぞ。」
通話が切れた後、将も重く短いため息をついた。そして、再び心の中で呟いた。「小橋、辛い宣告をさせてすまない。だが、その『言葉』はお前の言葉ではない。俺の言葉だ。気に病むな。」と。
◆成果
2013年、4月となった。全楽連は初の「理事会なし」の4月を迎える。3月の事業報告を作成した後、前年度の決算報告の作業に速やかに移った。その作業は、4月中にほぼ終わる。
そんな状況に、古株の男性職員は、将にこう言った。
「局長からの提案、はじめは驚くばかりでしたが、よくよく考えてみれば、本来ならばこちら側が提案しなければならない事でしたね。いや、お恥ずかしい話です。」
「いえ、こういうことは誰が提案してもいいんです。組織がいい方向に行くことが重要ですから。」
全楽連の事務所は、穏やかな空気に包まれた。
一方、休日返上で愛和音に「出勤」した事から、将は愛和音の状況も常勤だった頃よりは掴みづらいのは変わりなかったが、昨年よりは格段に状況を把握でき、株主総会の経理部の説明に盛り込んで欲しい情報を与える事が出来る見通しがついた。
◆前任者
ある日、就任以来自らの机上に置いてある引継書が目に入る。
「財前さん、今、どうされているんだろうな。」
振り返ってみれば、真介に挨拶もせずにここまで来てしまっていた。一度だけでも話をすべきと思い立った。そして、文俊に尋ねた。
「もし、おわかりになればの話ですが、前任の財前さんの連絡先を教えていただけませんか?」
「え?ああ、お待ちください。」
文俊は、資料を探した。
「確か、ここに残してあったと思うけど。」
と、独り言を言いながら。すると、「それ」は見つかる。
「ああ、これです。」
「ありがとうございます。」
将は、それをメモし、電話をかけた。
「全楽連の橋野と申します。」
この年50を迎える財前真介がそれを受けた。
「橋野さん?ええと?」
「事務局長を引き継がせていただいた橋野です。」
「ああ、そうですか。どうされました?」
「色々、思うところはあるとは思いますが、財前さんがよければ一度お会いしたくてお電話しました。」
「まぁ、大丈夫ですが。」
「では、ご都合のいい日に財前さんの所にお伺いしたいと思いますが、どうでしょうか?」
「次の、土曜日でもいいですよ?ええと、10時かな?」
「ありがとうございます。では、土曜日10時にお伺いします。」
そして、その日が来た。
「まさか、あなたと話をする事になるとは思いもよりませんでしたけどね。」
素朴さの中に、理知的な雰囲気をたたえた真介は、少し苦笑いしていた。将は、菓子折りを手に軽く頭を下げる。その後、真介に向き直ると、こう言った。
「お会い出来ない可能性も考えておりました。この機会を設けていただき、ありがとうございました。」
「いいえ。」
「その、後れ馳せながらご挨拶と謝罪をさせていただきたくて。」
「謝罪?」
真介はその表情で「何の事を言っているのかわからない。」と言った。
「突然、事務局長の交代を余儀なくされたと想像しておりまして。私の存在があったばかりに。」
「確かに、あの時は驚くばかりでしたよ。何か私に落ち度があったのかと思いましたが。」
「全くそのような事はありません。おそらく、私への『制裁』を南山代表理事がやろうとした結果、その煽りを受けて、あなたは事務局長の座を追われたんです。」
「『制裁』?」
「私は、ジェントルの社員でした。しかし、愛和音を立ち上げて、ジェントルに敵対しました。その事への『制裁』の一環なんです。これは。」
「なかなかの話ですね。では、あなたは望んで全楽連に来たわけではない、と?」
将は、刹那のためらいを見せたが、それに答えた。
「正直な話、そうなんです。」
真介は大きく息を吸いながら一旦考えた。
「私もですね、正直あの席に戻りたいですよ。アメージングサウンドの社外取締役だけでは、暇すぎて。」
将は、真介に頭を下げる。
「申し訳ありません。どうしても『やりたい事』がありまして、愛和音を立ち上げました。けれど、こんな事になるとは想定していませんでした。」
その言葉に、真介は唸るような声を将に聞かせた。
「『何でも想定内』の人生なんてあり得ませんが、少し、あなたは考えが足りなかったのでは?」
「おっしゃる通りです。」
「それに、その『やりたい事』は、達成したんですか?」
「いいえ、道半ば、というところです。」
真介は、右手を額に当てながらこう返す。
「お互い、望まない立場に今は置かれている、と、解釈していいんでしょうかね?」
「それは、間違いないです。」
再び真介は、唸るような声をあげた。
「かと言って、どうすることも出来ないですけどね。」
「本当に、申し訳ありません。」
その場に、沈黙の時間が流れた。将は、必死で考えた。
「あの、財前さん、時間はかかるかもしれませんが、『事務局長に戻っていい』と言われたら、戻りますか?」
「え?」
真介は、目を丸くした。一瞬の検討の時間を経てこう答えた。
「それは、戻りたいですよ。」
「そうですか。」
将は、再び真介に頭を下げた。
「そのお気持ちを考慮せずに、全楽連の『改革』を少ししてしまいましたが、財前さんが全楽連に戻れるよう、力を尽くします。少し、お待ちいただけないでしょうか?」
「『改革』?いや、あまり待てませんが、その『改革』とは?」
「『4月理事会』を廃止しました。」
「ええ?」
「『5月理事会』に統合し、その『5月理事会』を少し早めの時期に開催されるように変えてしまいました。そこで第4四半期の事業報告と決算報告をするようになりました。」
「また、それは『少し』どころの騒ぎではないでしょう。」
「申し訳ありません。」
「いやはや、豪胆ですね。就任してすぐでしょう?」
「はい、2年目にしました。」
「それで、今年度は大丈夫だったんですか?」
「職員からは、良好な反応をもらえました。」
「なら、よかったです。それを聞いて安心しました。詳しい事はわかりませんが、戻ってもよさそうです。」
真介の表情が緩んだ。それを見て、将は宣言した。
「私も、あまり長く全楽連にいるつもりはありません。5年くらいが限度と思っております。そこまでは待てますか?」
「待てます。大丈夫です。」
「なら、『その方向』で動きます。」
その後、将は真介の元を後にした。
◆脱出への検討と躊躇
帰りの車中で、将は考えた。どうやったら自分は事務局長を辞められるかを。
「今回は、『正攻法』で行こうか。」
それは、理事会に「辞表」を提出する事。南山に「それ」を提出するのは2度目だと思いながら、「覚悟」を決めた。そして、土曜日の愛和音の社長室へと足を運ぶと、「辞表」を書き、自宅に持ち帰った。
翌週通常通りに将は出勤した。少しぼんやりと職員の仕事ぶりを見ていると、文俊が電話応対をしていた。2010年の6月頃、文俊はこうやって自分に電話をかけてきたのだとふっと考えた。
「まずい。」
将は、呟いた。真介をここに戻してやりたいのだが、戻す事は、あの文俊の1ヶ月を蔑ろにする行為だと気づいたからだ。
「しまった。」
翌日、将は朝一で「辞表」をシュレッダーにかけた。衝動的と言っていい行動だったが、「それ」を提出するのは、保留にした。
◆過去の電話
それから一週間後。将は文俊にこう声をかけた。
「明日、2人で昼食を外で摂りませんか?」
「えっ?」
文俊は、驚く。少し間を空けた後返答をする。
「わかりました。」
「ありがとうございます。ここの近くの食堂でいいですか?」
「はい。それは、もうどこでも。」
そして、翌日。食堂にて将と文俊は昼食を注文。それが運ばれてくるまでの間にお冷やを飲みつつ将は、こう切り出した。
「時間もありませんから、単刀直入に言います。実は、数年以内に私は事務局長を辞めたいと思ってます。」
「局長?」
文俊の顔は、戸惑いの色に染まった。そして、こう続けた。
「それは、局長のご自由になさっていいことでは?何故私にこんなに場を設けてまでそんな事を?」
「ひとつ引っかかる事がありましてね。」
「何でしょう?」
「『あの時』の電話の件です。あなたのあの時の1ヶ月の苦労を考えたら、『そう』するのはどうかと思いまして。」
「そんな。」
そう文俊が言うと、注文した物が運ばれてきた。将は、こう言った。
「ひとまず、食べましょう。」
「はい。」
将と文俊は、それを食した。ひととおり食べ終わった後、文俊が今度は切り出した。
「『あの時』、ですか。南山理事からの命令でした。」
「やはり、ですか。」
将と文俊は、2人の最初の電話のやり取りを思い出す。
「お電話代わりました、橋野です。」
「全楽連の梶原と申します。お世話になっております。」
「こちらこそ、お世話になっております。」
「実は、橋野社長に全楽連の事務局長に就任してただきたくてお電話しました。」
「はい?いつからですか?」
「来年度からお願いしたいのですが。」
「誠に心苦しい事ですが、お断りします。」
「そうですか。承知しました。」
大変、短い電話だった。それで終わると思った。しかし、翌日も2人の電話はあった。
「連日、お電話をかけてしまって申し訳ありません。事務局長の就任の件、考え直していただけないでしょうか?」
「そんな、昨日と変わりませんよ?答えは。」
「そこをなんとか、お願いします。」
文俊の声が必死になる。しかし、将はそんな文俊を切って捨てた。
「申し訳ありませんが、お電話、切らせていただきます。お断りする気持ちは、変わりませんから。」
将は、一方的に電話を切った。そんな事を思い出した将は、目の前の文俊に改めて謝罪した。
「2度目の電話は、あなたに配慮せずに電話を切ってしまって申し訳ありませんでした。」
「いいえ、当然の反応だと思いましたから。全く気にしません。」
文俊の顔が暗くなってくる。
「しかし、苦しかったのは、間違いないです。」
「申し訳ありません。」
「『あの日々』の終わりを迎えるのが、1ヶ月後だとは思ってませんでしたが。」
再び、「終わりの時」の電話のやり取りを将と文俊は思い出す。
「本日もお電話に出ていただき、ありがとうございます。私自身どう話していいかわかりません。けれども、私がお電話した、という事は橋野社長、用件はおわかりだと思います。」
その文俊の声色は、疲労、焦燥感、ありとあらゆる負の感情が色濃く出ていた。その声に、将は絶句した。その反応に文俊は、絶望感を抱いた。
「今日も、駄目ですよね。明日、またお電話します。」
そうして、文俊は「失礼します。」と告げようとした。将は、それに制止の言葉をかけた。もう、嫌な思いさせたくなかったから。
「お待ちください、梶原さん。毎日、毎日お疲れ様でした。もう、明日はお電話いただかなくて結構です。」
「橋野社長。」
文俊の声は、どん底に落ちた。
「引き受けます。だから、もう、明日はお電話いただかなくて結構です。」
「え。」
文俊は、それ以降、言葉を紡げなくなった。将は、そんな文俊が今、全楽連の事務所にてどんな状況になっているか察してこう伝えた。
「まずは、お気持ちを整理してください。そして、その後に『上層部』へ『この事』を伝えてください。よろしくお願いします。こちらから、お電話を切らせていただきます。失礼します。」
文俊は、その後の自分を思い出して、こう将に切り出した。
「あの電話を切った後は。」
それに、将は制止の言葉をかけた。
「話さなくても、わかります。」
そんな言葉に文俊の目は潤んだ。「それ」が落ちないように、としながら文俊はそれから今までの思いを将に告げた。
「局長は、いい人だと思います。愛和音の電話番の方に私の電話を取り次がないよう言うことも出来た筈なのに、それをしなかった。毎日、毎日私の電話を受け入れてくださった。」
将は、微笑む。
「そんないい人に、私は理事命令とはいえ、嫌な事を引き受けさせようとしている。あの日々は、そんな事を思っていました。だから、苦しかったです。局長の決断を否定するかもしれませんが、2ヶ月でも、3ヶ月でも、拒否し続けていいと思いました。その先に、私はクビになっても構わないとまで考えました。」
「梶原さん。それは、大変な思いをさせてしましたね。」
「それは、こちらが言いたいことです。しかし、1ヶ月で局長は引き受けてくださった。あの時は、解放されたという思いと、引き受けさせてしまったという思いで、どうしようもなかったです。」
文俊は、将をまっすぐ見つめ、こう言った。
「だから、局長には今度は自由な選択をさせたいです。私の事を考慮していただかなくて構いません。」
今度は、将の目が潤みそうになる。
「ありがとうございます。梶原さん。」
◆戦いの始まり
将は、それから破棄した「辞表」を書き直した。「10月理事会」の際に理事たちにそれを提出するために。その様子を文俊は見て穏やかな表情を浮かべた。
そして、10月24日、全楽連の理事会が開かれた。そして、将は、その理事会の最後にこう切り出した。
「最後に、こちらを提出させていただきます。」
理事9名の目に映ったのは、将の「辞表」だった。ざわめく会場。そして、南山はその辞表を手に取る。
「どう言うことだね?」
「限界です。二足のわらじを履き続けるのは『きつい』と判断しました。」
「認めないよ。」
そして、南山は将の「辞表」をその場で破り捨てた。
「こんな物はなかった。いいね?」
将は、さすがに絶句した。そんな将を南山は、勝ち誇ったように見つめる。
「はい、はい、この理事会は終わりね。」
南山は、手を何度も鳴らしながら、その場を後にした。
「戻りたい。戻らせてやりたい。なのに。」
そんな将の呟きが、空になった会場に響いた。
表向きの冷静さを取り繕いながら事務所に戻った将の元に文俊が来る。
「『辞表』、どうでしたか?」
「認められなかった。」
可能な限り捨てられた「辞表」を拾ってはきた。それが将の手に収まっていた。文俊は、それを見た。
「局長。」
それでも、ここで崩れるわけにはいかない。将は、文俊に可能な限りの笑顔を見せた。
「『正攻法』でうまくいかなかっただけの事です。次の一手を考えます。時間を要するかもしれませんが。」
◆社長室
その日の夜、木曜日と決めた曜日ではなかったが、愛和音の社長室に将は足を向けた。
「小橋。」
昨日の水曜日にはなかった新曲のデモが上がっていた。それを早速再生した。
「小橋は、変わらない。変わらない小橋をこれからも俺は、社長として見ていくんだ。」
棒読みの歌が流れれば流れるほど、将の目に力が沸いてくる。
「絶対に、戻る。ここに、常勤の社長として。」
◆スリリング
とは言うものの、それ以降、将は「辞めるための一手」をいつまで経っても思いつかなかった。2つの「仕事」に忙殺される日々を過ごすうちに、2014年は5月を迎えた。「5月理事会」の準備が終わり、後は当日を迎えるだけとなった夜、将は夕飯を摂りながら観ていた音楽番組にてとある「歌」を聴く。
「これは?」
王子様然とした歌声に耳が奪われる。その歌声は、愛和音の歌手ではない。
「久保聖真?」
ジェントルの新人歌手であった。
「悔しいが、いい。愛和音に採れなかったのが悔しい。だが、いい傾向だ、ジェントル。そのまま、『良質な音楽』をこれから生み出せ。それこそ、愛和音を俺が立ち上げた『目的』のひとつだからな。」
ちらつく南山の顔。しかし、その時ばかりは「いい顔」だった。
それから、1ヶ月も経たないとある水曜日。将は夜間、愛和音の社長室へ。そこには「決裁資料」が置いてあった。
「加藤君の新曲か。」
早速、資料に目を通しながらデモを聴く。
「よし、これで行け。」
いつもの通りに決裁の判を押した。
更に、2週間後の金曜日。将の元に「西森音彦の新曲に関する決裁資料」が上がっていた。
「先々週もなかったか?同じのが重複してるんじゃないか?」
資料に目を通すと、どうやら「違う」。デモを聴くと、やはり「違う」。
「小橋?」
しかし、その「出来」は最高品質で、決裁の判を押さない理由はなかった。
更にそれから3週間後の水曜日。将は再び「西森音彦」の文字を見る。
「どう言うことだ?」
寿人の意図を考えてから将は判を押すと決め、少し考えた。すると、とある「仮説」が浮かぶ。
「久保聖真対策か?『そんな事』はしなくていい、小橋。だが、文句は言わない約束だったからな、『これ』も聴いてやる。」
デモを再生。すると、ため息が出る。
「いい出来だ。」
判を押しながら、将は呟いた。
「加藤君が潰れなければいいが。それだけが心配だが、うまくやれよ。」
それに、何か「違う」感じも受けたが、純粋にその曲の「良質さ」を受け、寿人に「この件」は当初の約束通りに任せることにした。そして、将は更に呟いた。
「『久保聖真』という『南山』と小橋は戦う事にしたようだな。なら、俺は、俺も南山と戦わなければな。何か、何か考えなければ。ここに俺が戻れるように。そして、財前さんがあそこに戻れるように。」
◆クビ
将は、それから全楽連の事務局長と愛和音の社長の仕事をこなしながら、合間に全楽連から去り、愛和音に帰る方法を思案した。もう、「正攻法」は使えない。と言うことは、「奇策」を考えなければならない。
「ネックは、『それ』なんだ。」
将は、その「奇策」が浮かばなかった。今の今まで。しかし、文俊との会話の中に、「クビ」とあった。
「『そう』なるしか、道はなさそうだな。」
そして、作成する必要はないとは思ったが、真介への引継書を作り始める。唯一、自分が全楽連に変更を加えた部分がわかるように。
それと同時に自分がどう「クビ」になるかを思案する。一番、南山が関心を向けそうな事項で「何か」を起こす事を決めた。その上で、南山がどんな人物かを振り返った。
「南山は、『金』が絡むと、目の色を変える。」
ジェントルの一覧でハイリスクハイリターンの博打をする事から、試しに「響義浩名義借用の件」を持ちかけた。勿論、絶対に契約を結ぶつもりではあったが、自分なりの「仮説」を立証したくて「響義浩名義を使用した際の売上を全額支払う事」と、「20年後に買い取る事」を約束した。「金」が絡んだ事から、南山は、乗ってきた。あの時は、「やはり。」と思った。
「辞めさせてくれたらいくらでも払うと、南山に言うか?」
しかし、それは「クビ」に繋がらない。それに、「搾取」されてどうする、とも考えた。
そして、将はとある考えに行き着いた。2015年度を迎えていた。後は、「それ」をいつやるか、という検討に入った。
そんな中であった。将は、とある愛和音からの新曲の完成品を自宅にて聴いた。
「中山君!」
そう、「英雄の朝 / 早川新」だ。「決裁」の時のデモは、寿人の棒読みの歌であった。急に「早川新の新曲」が出てきた事に疑問の目を向けつつ、いつもの通り「良質な音楽」だった事から判を押した。その「疑問への答え」が、これだった。
「よくやった!それにしても、小橋、神谷君、中山君にどんな魔法を使ったんだ?」
将は、その勇ましい曲と精悍な歌声が合わさった曲を何度も聴いた。
「しかし、『英雄』か。これから、俺は失敗したら『犯罪者』になってしまうのだがな。」
そうして、将は「クビになるための行動」を「辞表」が破られた「10月理事会」を開催した後に起こす事を決めた。
◆協力
将は、その「10月理事会」が終わった翌日、経理担当の女性職員にこう声をかけた。
「確か、振り込みは、ネットバンキングで行ってますよね?」
「はい。」
「やり方を教えてください。」
「え?」
戸惑う女性職員に文俊が話しかける。
「教えてやってください。」
「はい。」
そうして、女性職員は自分がいつもタブレットを使って振り込んでいる手続きを振り込む手前まで実演して見せた。
「では、最初からやってみますので、合っているかどうか指導してくれませんか?」
「わかりました。」
そうして、教えられた通りに将は振り込み手続きを振り込む手前まで進めた。
「そして、ここを押せば振り込み完了、ですね。」
「はい。そうです。」
「わかりました。」
将はそう言うと、職員全員にこう宣言した。
「私は、この3月をもって、クビになる予定です。後任は、財前さんと考えています。」
職員は、一旦驚いたが、橋野という事務局長ならやりかねないと思ったのと、後任予定者の名前に安心してそれぞれ後押しする意思を示した。
「ありがとうございます。その為に、このタブレットを持ち出します。その時は、よろしくお願いします。」
◆ジェントル社屋内
将は、南山にアポイントを取り、ジェントルの社長室に入った。10月30日の事だった。
「お時間いただきまして、ありがとうございます。」
南山に向かって頭を下げた将の手には、タブレットが。
「今日は何だね?」
「やはり、1年経っても気持ちは変わりません。全楽連の事務局長を辞めたい気持ちは。」
「認めないね。去年、言っただろう?」
「それは、覚えていますよ。鮮明に。」
「なら、受け入れなさい。」
「受け入れたくありません。私は、辞めたいのです。どうしたら、辞めさせていただけますか?」
「そんなものは、皆無だ。」
「では、仕方ありませんね。」
将は、おもむろにタブレットを南山に見えるよう机上に上げる。
「何だね?」
「これは、全楽連の振り込み作業に使用しているタブレットです。」
将は、話しながら振り込み手続きを進めていく。
「代表理事がどうしても私が辞める事を認めてくださらないのなら、私は、全楽連の預金全額を私の口座に振り込みます。そして、私の自由意思でこのお金を使わせていただきます。」
「何っ?それは、横領と言うものだ!!」
「知ってますよ。『これ』が成立すれば、私は立派な『犯罪者』になります。ひとつ訊きますが、私を全楽連の事務局長に推薦したのは、代表理事でしょう?」
「そうだよ。」
「そんな『犯罪者』を推薦した、とあれば、代表理事の名誉が著しく傷つけられるとは思いませんか?ここを押せば『それ』が現実のものになります。」
「わかった。わかったから、落ち着きたまえ。そして、今度の理事会で辞表を提出しなさい。」
「ありがとうございます、代表理事。」
将は、タブレットを操作し、ネットバンキングからログアウトした。
「私の後任は、財前さんでよろしいでしょうか?」
「誰でもいい。」
「ありがとうございます。」
そして、将は「クビ」ではなく「辞職」を選ぶ事が出来た。
◆勝利宣言
その後、将は全楽連の事務所に戻った。職員にこう報告した。
「おかげさまで、『1月理事会』に「辞表」を提出することが出来るようになりました。皆さん、ありがとうございます。」
文俊は、ほっとした様子だった。
「あと、残り5ヶ月ですが、引き続きよろしくお願いします。」
◆帰還宣言
2016年になった。約束通り将は「辞表」を用意し、この月に行われる「理事会」に提出するのみとなった。少々勇み足だが、将は寿人にこの事を知らせたくなり、電話をかけた。
「はい、小橋。」
「橋野だ。まだ確定ではないが、4月から俺は完全に愛和音に戻れる。」
「本当か?」
「今月、『辞表』を提出して、『それ』が確定するんだが、ほぼ間違いなくそれは受理されるだろうから早めに知らせたくなってな。」
「そうか。丸5年、だったな。どうする?こっちの社員に知らせるか?」
「ああ、頼んだ。」
「いや、4月が楽しみだな。色々、話を聞かせてくれな。」
「勿論だ。」
そんな電話を終わらせ、将は全楽連の事務所へと戻った。
◆最後の
全楽連の平成28年度第4回理事会が開かれた。将は、2度目の辞表提出をする。
「やはり、体力の限界を感じておりまして、この3月で事務局長の任をおりさせていただきます。事前の相談に対して、ご助言いただきました南山代表理事には感謝申し上げます。2011年4月からの5年間、理事の皆さんには大変お世話になりました。」
将は、深々と頭を下げる。それに対して、南山は文句は言えなかった。そして、こう言いつつ拍手をした。
「橋野事務局長、ご苦労さん。」
それに続き、他の理事も拍手をした。
「ありがとうございました。」
そんな将の言葉で理事会での事務局長辞職の挨拶は終わる。提出した辞表は、しっかり南山の手に渡った。
理事会が終わると、辞職が確定した事から将は真介に電話をかけた。
「はい、財前です。」
「橋野です。お世話になっております。」
「どうしました?」
「今しがた、今年度の最後の理事会が終わりまして、そこで、私の辞職が決まりました。4月から事務局長に戻って来てください。」
「おお、お疲れ様でした。わかりました。ご連絡、ありがとうございます。」
「色々、ご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。そして、4月からのご活躍をお祈りします。」
「こちらこそ、愛和音でのご活躍をお祈りしますよ。頑張ってください。」
「はい。」
◆2016年3月31日
将は、いつも通り全楽連の事務所に出勤する。昨日のうちに机上等の片付けは終わっていたが、決裁等の仕事が残っていて、通常勤務をした。
そして、業務終了時間の17時近くになった。
「皆さん、よろしいですか?」
そんな将の声かけに職員は、「遂にこの時間か。」と言うような表情をした。
「私の事務局長としての仕事は、これをもって終わりになります。正直、皆さんを振り回してしまったと思っておりますが、それでもついて来てくださってありがとうございました。5年間、お世話になりました。来年度以降の皆さんのご活躍をお祈りします。」
将は、頭を下げた。そんな将に職員は、次々と声をかけていった。勿論、文俊も。
「『あの電話』の時から5年半、局長と関わる事が出来てよかったと思います。お疲れ様でした。そして、こちらこそお世話になりました。愛和音に戻られてもお元気で。」
「ありがとうございます、梶原さん。」
そうして、将は全楽連の事務所を後にした。5年間使用した事務局長の机上に自らが作成した「引継書」を残して。
その日の朝、橋野将は、自宅のベッドにて目覚ましが鳴る前に目覚めた。あと数分でその時間という事で、そのまま起床することにした。ベッドから出て着替えを始めると、目覚ましが鳴る。すぐにそれを止めた。
「今日からか。だが、今日だけだ。」
全国音楽生産業連合会、通称「全楽連」の事務局長として初出勤をする日と改めて将は噛み締めた。この日は金曜日。カレンダー通りの休みが設けられている「全楽連」は、明日は休みとなる。まずは、今日という日を乗り越えようと思いつつ、自らの朝食と昼食用の弁当を用意した。
「やはり、悲惨だな。」
将は、朝食を食しながらつけたテレビから流れる先月発生した未曾有の大災害の映像を目にする。正直、この大災害に関連して、事務局長就任時期が遅れればいいとは思ったが、そうはいかなかったようだ。
「いってきます。」
諸々の作業を終え、戸締りを確認すると、誰も答えない出かけの挨拶をする。そして、施錠をし、アパートの5階から階段で駐車場へと足を運び、マイカーに乗り込む。マイカーは、いつものエンジン音を響かせながら、発進していった。
◆全楽連
将は、いつもの朝とは違う道を運転し、古びた無味乾燥のビルに到着。駐車場に車を停め、ビルの3階へとエレベーターにて上がった。そして、少し歩いた先にあった一室のネームプレートを見る。「一般社団法人全国音楽生産業連合会」と書いてあるのを確認すると、そこへ入室していった。
「おはようございます。」
始業時間の約30分前、8時半頃の第一声だった。そこに出勤していた事務局の職員は、新顔の将に挨拶を返した。
愛和音では、社長室があり、基本1人での仕事であったが、ここは違う。窓際に自らの席があり、職員たちを見渡しながらの仕事となるようだ。一旦ロッカーに荷物を保管し、宛がわれたデスクに着席した。机上には、前任の事務局長、財前真介が作成した「引継書」が置かれていた。早速それに目を通し始めるが、すぐに始業時間の9時となった。10名の職員が全員席に着いていることを確認すると、将は立ち上がった。
「本日から事務局長を務めさせていただく、橋野将です。よろしくお願いします。なにぶん、全楽連の仕事を内側から見たことのないものですから、何か不手際があるかもしれませんが、ご指導いただければ幸いです。」
将は、職員へそんな挨拶をした。そして、職員へ自己紹介を促した。男性7名、女性3名の職員たちは、立ち上がりながら勤続年数が長い順で自らの名前を名乗った。
「梶原文俊です。」
そう名乗った男性職員の声は、聞き覚えがあった。そして、電話越しでない文俊の声を聞くのは初めてだと思った。
将は、10名全員の自己紹介を聞き届けると、こう言った。
「改めて、皆さんよろしくお願いします。これより、業務に戻ってください。」
将を含めた全員が着席した。資料作りや電話応対などをし始める。
将は、読みかけだった引継書に再び目を通し始める。
◆襲来
引継書を一字一句逃さず読み終わった将は、文俊の元へと行った。
「梶原さん、事務局長就任の打診の際は、負担をかけてしまってすみませんでした。直接会った時にあなたには謝らなければならないと思いましてね。」
「ああ、いいえ。」
文俊は、多少恐縮した様子でこう返した。そう、この梶原文俊41歳は、昨年の6月頃、将に毎日電話をかけねばならなかった職員だった。この少し気弱そうな雰囲気の中に温和さが見てとれる男性職員に南山は「あの事」を強要したのだろうと将は腹を立てた。文俊は、こう続けた。
「あの、これからよろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
そう言葉を返した将の目に、とある影が。
「やぁ、やぁ、皆、よくやってるかい?」
この日から、全楽連の代表理事となった男が事務局の部屋へと入室してきた。
「初日だからね、顔を出したよ。」
この年、74歳となる南山源太の襲来であった。将は、表向きの冷静さを崩さずにこう挨拶した。「事務局長」として。
「代表理事、ごあいさつありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします。」
そんな将を見る南山の目は、笑っていた。それが純粋な笑みなのか、将を嘲り笑っているのかはわからなかったが、将は儀礼的な笑顔を南山へと返した。南山は、一瞬無表情になり、再び笑顔を浮かべながら職員1人1人に声をかけに行った。
◆本腰
ひととおり職員に声をかけ終わった南山は、嵐のように去って行った。将は、胸を撫で下ろすと、自らの席に戻る。
全楽連の主たる業務は、総合音楽会社に勤務する労働者への労働保障を行う事。そのための資金を総合音楽会社から一律で徴収し、それをそれぞれの会社の事情に合わせて分配していく。また、全楽連独自で収入も得て分配の金額を増額できるようにするのもひとつの命題である。
愛和音は、この全楽連の労働保障を請求したことはあまりなかったため、将は全くの「外野」から突如根幹へと連れてこられたような気分ではあった。
しかし、自らと南山の「いざこざ」に巻き込まれ、その座を追われた前任者の真介の無念を思ったら、「知らない」事を理由に適当な仕事は出来ないと、閉じられた引継書を見つめ気合いを入れた。
◆新人時代
将は、内心「あの時」の自分とは違うなと思った。そう、ジェントルに入社した初日の事。
「企画経理部に配属になりました、橋野将と申します。高卒です。よろしくお願いいたします。」
と、真面目に挨拶はした。しかし、いざジェントルの企画経理部のフロアに行くと、先輩からの研修を話し半分で聞いた。妹の京子と遊ぶ金欲しさに一応、就職した。「仕事」などするつもりは毛頭なかった。ただただ、出勤し、入った給料で「遊ぶ」事しか考えてなかったあの未成年だった頃をこの年46歳になる将は自嘲した。そんな昔への旅をしている将の頭に、女性職員の声が届く。
「郵便です。」
「わかりました。」
何通かあったその事務局長宛の郵送物に目を通し始めた。しばらくすると、文俊がこう声をかけてきた。
「就任初日ですが、決裁お願いします。」
「はい。」
それを受け取り、そちらにも目を通す。まだ引継書の内容はうろ覚えなため、再びそれを開き、該当の部分を読みながら、決裁の判を押していいものか判断する。それは、判を押していいものと確認したため、「橋野」の判を事務局長欄に押した。
「こちら、よろしくお願いします。」
将は、判を押した決裁文書を管理担当の男性職員に手渡した。
◆初日終了
そうしていると、時計は17時。業務終了時間となった。1人、また1人と退勤していく。その度に、将は声をかけた。
「お疲れ様。」
そして、自らも退勤する。階段で1階まで下りて駐車場へと足を運ぶ。マイカーに乗り込み、自宅の手前まで運転したが、愛和音のことも気になったため、道を変えた。
そして、愛和音に到着。18時過ぎだった。残業をしている社員はいなかったため、社屋の中には人影がなかった。
昨日までいた社長室へと入室すると、特に変化はなかった。すぐに社屋から出て、今度こそ帰路についた。
「今日は何もなかったが、これからはそうはいかないだろう。どんな周期で様子を見に行こうか。」
将は運転中、ひとりごちた。
19時手前、アパートの駐車場に到着した。エレベーターで5階まで上がり、自宅の鍵を開けた。朝と変わらない部屋の中で、はじめに夕飯を準備する。南山の襲来という事以外は何事もなく1日が終わってよかったと思いつつ、夕飯を食し始める。朝とは違い、音楽をかけながら食事を進める。そんな将の夕飯のお供は、「響義浩」の曲だった。
◆初心に
将は心の中で、「小橋。」と言った。初心に戻りたくて選んだのは、「響義浩」のファーストアルバムであった。ランダム再生をした3曲目に、「君のための翼」が選ばれた。続いての4曲目は、「月下の心」。将は呟いた。
「勤務態度を改めた『あの日々』を思い出せ、という事、示してくれたな。」
ジェントルに入社して4年目、22歳になる1987年の事だった。まさに「ちゃらんぽらん」という言葉が当てはまる当時の将の耳に入ったその2曲。時間差はあったが、大きな衝撃を与えていった。
心を離さないその歌声を持つ同じ会社の年下の新人の仕事ぶりは、将の心に「誇り」を植え付けた。そして、同時にそれまでの勤務態度への「恥」も植え付けた。
そして、とある日上司や先輩たちに頭を下げた。
「お願いします!俺に、再度『研修』をしてください!!」
だが、上司も先輩たちも難色を示した。「本気かどうかわからない」と。将は、それまでの行動を悔いた。それからと言うものの、1つ1つの仕事を自分が考えられる「最上」の物にしようと心がけた。
休みの日も、所属が企画経理部だった事から主に経理に関する勉強をし始めた。
「悪い、京子、お前とは遊べなくなった。」
そんな一言も発した。妹は、泣きそうな顔をし、罵声を浴びせてきた。「お兄ちゃんの馬鹿!」と。それを機に妹にも更生を促したかったが、それよりも当時は一流の社員になりたいという気持ちが走り、「それ」には着手せず、それから京子とは一時疎遠になった。
「『あの日々』同様、事務局長としての知識を蓄えなければ。」
食し終えた夕飯の光景を見つつ、アルバムも全曲が終了したことから後片付けに向かい、入浴後、ベッドに入った。感じている以上に1日で疲労が溜まってしまっていたのか、数分で夢の中へと旅立った。
◆やる気
あっという間に、4月2日、3日の2連休が終わり、5日連続という先週とは違う1週間の全楽連での勤務が始まる。将は、心の中で「久しぶりに『やりたくない』仕事をしている」と。きっとこの1週間は、長い物になる、と、覚悟した。
似たような事はあった。ジェントルに小橋寿人が入社してきて2年目の事だった。将は、勤務態度を改めた事を次第に認められ、試しにと「最重要作業」を任された。そう、それは「マスコミへ送りつける一覧の作成」と「寄付金の振り込み作業」だった。
「わ、わかりました。」
その一連の作業を先輩に見守られながら作成すると、完璧な物が完成した。それをもって、将は「企画経理部の一員」と認められ、毎月の作業になるそれらを数人の先輩と交代で作成する担当となった。
最初は認められた喜びで頑張っていたが、毎回一覧に書かねばならない「響義浩」の文字にだんだん嫌気がさしてきた。そして、ある日誰にも聞こえない小声でこう言った。
「響義浩を、小橋寿人を、『駒』にするな。」
ミスしたふりをして、一度だけ一覧に「響義浩」を書かなかったことはあったが、上司に見つかり、怒られた。それ以降は、やらないようにしたが、自らの手で「響義浩」を「作られた人気という地獄」に落としている感覚に陥った。
「やりたくない。」
つい口をついて出た言葉は、幸いなことに誰の耳にも届かなかった。
それからというものの、響義浩を支持する人々は増えていき、寿人は一大スターへと登り詰めた。
そんな様子を見て、将は心の中で叫んだ。「なんとなく、テレビやラジオ、雑誌で『人気』だと言われて『響義浩』を支持するな。ジェントルの社員としては、あなた方はありがたい存在だが、いち響義浩のファンとしては、お前たちは不要だ。削ぎ落としたい。どうせ、お前たちはいつか、『響義浩』から去っていくんだろう?なら、最初から支持などするな。」
そうして、「認められたきっかけの仕事」は、「一番やりたくない仕事」へと成り下がった。
きっかけは違えど、あの時と心境は同じだ。しかし、あの時は、寿人の歌声に鼓舞され、引き続き「最上」の仕事をした。今は、その寿人は自らの代行を愛和音で頑張っているだろう。よって、ここでも「最上」の仕事をしなければ、と、改めて仕事に対する気合いを入れ直した。
◆準備
4月に入ってから何度も過去を思い出しては自らを鼓舞してきた将。なぜなら、引継書によると、4月中に開かれる「理事会」に向けて、自分が関わってなかった3月までの事業報告を事務局長としてやらねばならず、そのための準備が必要なのだ。
「まさか、職員が用意したものをただ読んで終わりなんて俺はそんな事は出来ない。」
愛和音の株主総会では、会社のすべてを把握し、質問があれば適切な答えを返した。それと同じ事を理事会でもやらねばと考えた。そして、1月から3月までの全楽連の動きを把握しようと、通常業務の合間を縫って資料を読み込むことにした。
「成る程。」
そう呟きながら。そんな将の様子に、とある中堅の男性職員が話しかけてきた。
「局長、熱心ですね。」
「いや、理事会をそつなく終わらせたい。」
「そうですか。」
そんな会話をしつつ、3ヶ月分の事業内容をある程度頭に入れた。そして、大事そうな箇所はメモを残し、将の理事会への準備は終了した。
◆小さな無茶振り
4月20日。全楽連は、3ヶ月に一度の「理事会」を開く。将は、事務所の隣の会議室にて理事会の会場設営の指揮を事務局長として行わねばならない。昨日読み込んだ引継書にて頭に入れたすべての流れをこなした。
「皆さん、ひとまずお疲れ様でした。」
準備が終わる。そして、職員は司会担当の女性職員を除き、一時撤退していく。将は、事務局長として会場に残った。
それからすぐのこと。理事たちが続々と入室してくる。9人の理事の中には、当然代表理事の南山もいる。将は、無視をしたかったが、その立場がそれを許さず、話しかけに行った。
「本日は、お疲れ様です。よろしくお願いします。」
「うん。」
だいぶそっけない南山の返答だった。
やがて、女性職員がこう言った。
「定刻になりました。平成23年度第1回全楽連理事会を開会いたします。」
そして、将の事業報告の時間がやってくる。
「平成22年度第4四半期の事業報告をいたします。」
そんな一言から始まる事業報告は、職員が用意してくれた原稿通りに進む。そして、こんな一言でその時間は終わりを告げる。
「以上で事業報告を終わります。」
それを確認すると、女性職員がこう言った。
「何か、ご質問はありますか?」
8人の理事たちは「なし。」と口々に言った。将は、これまでの「準備」が無駄だったと内心思った。そんな中、残りの1人、代表理事の南山は質問の代わりにこんな言葉を発した。
「質問じゃないけれども、あのね、事務局長?初めてここに来たんだからさ、挨拶があってもいいんじゃないか?自己紹介くらいしなさい。」
8人の理事の疑問の目と、女性職員の予定にないことが起きた事への動揺の目が将や南山に注がれる。将は、動揺している女性職員の視線に「大丈夫だ。」という気持ちを込めた頷きを見せた。そして、南山にこう返した。
「大変失礼しました、南山代表理事。」
深々と頭を下げた。苦々しい表情を隠すために。気を取り直し、自己紹介を始める。
「ご挨拶が遅れた事、大変申し訳ありません。只今よりこの場を借りて自己紹介をさせていただきます。この4月より全楽連の事務局長に就任いたしました、橋野将と申します。株式会社愛和音の社長を兼任しながらの勤務となりますが、誠心誠意務めさせていただきますので、何卒、ご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。」
再び将が頭を下げると、南山は、拍手した。
「良くできたね。はい、事業報告は、終わりね。」
将は、南山に「隙」を見せてしまったと思いつつ、理事会の残りの時間を過ごした。一方、南山は気持ちよさそうな顔を崩すことなく残りの時間、そこにいた。
そんな時間は過ぎ、女性職員がこう言った。
「これをもちまして、平成23年度第1回全楽連理事会、閉会いたします。皆さん、ありがとうございました。」
それを合図に、続々と理事たちは南山も含めて帰って行った。それを見届けた後、将は、女性職員へ声をかけた。
「予定にない事を起こしてしまいましたね。驚いてしまったでしょう?すみませんでした。」
「いいえ。」
女性職員は、短く返す。そんなやり取りをしていると、後片付けに再び職員が会場にやってきて、ものの10分程度でそれは終了。
「お疲れ様。」
将は、そう職員に声をかけつつ、帰り際の南山の勝ち誇った笑みを思い出した。
また、自分は南山の「下」の者になってしまった。その事実は、将の心に暗い気持ちをもたらした。
ふっと、将は文俊を見る。そして、こう思った。「いや、それは考えるのを止めよう。梶原さんに失礼だ。」と。
◆日程
事業報告の理事会は終わったが、今度は、昨年度の決算報告の理事会を来月開かねばならないのだ。非効率だと将は思いつつも、決算の手続きが滞りなく進んでいるか確認した。
「決算の方は大丈夫ですか?」
「なんとか、という感じです。」
男性職員がそう返す。
「よくわからなくて申し訳ありませんが、やはり、事業報告の件が負担でしたか?」
その男性職員は、苦笑いで誤魔化した。そんなやり取りをすぐそばで聞いていた文俊は、こう言った。
「規定で決められていますから。」
「そうですか。」
4月の通常業務を進めつつ、事業報告や決算報告のための手続きをしなければならない。かなりタイトな月だと思った。なんとか楽な月にしてやれないかと考えた。
愛和音では、四半期の諸々の報告は文書で簡単な内容にて関係者に周知し、決算期の報告は、株主総会の時に対面で説明等をしていた。そこまで簡略化できるとは思わないが、4月と5月の連続した理事会をなんとか1回にまとめられないかと思うようになった。
しかし、まだ全楽連の全容を把握していない自分がここで声を上げるのは混乱しか与えられないと、今後の課題とすることにした。
◆社長室
一方、愛和音も3月末で決算となっているため、そちらの把握もしておかねばならない。それは会社にとって最重要事項、時間をかけてやりたかったことから、休日を使うことにした。世間が大型連休に入った4月29日の金曜日、経理部から上がった資料を誰もいない社屋内部の社長室にて、将は確認し始める。
「さすがに、こちらの情報は、頭にすんなり入ってくるな。」
ひと月前まで、ここにいたのだから当然の事。
見方を変えながら何度も資料を確認する。まだ、すべての決算の資料は揃ってはいないのだが、提出された資料に関する株主総会用の説明の文書をパソコンを使い用意し始めた。経理部が作成する資料に入れ込んで欲しい内容を指定するためだ。
朝9時から始めた作業は、お昼過ぎの14時に終わる。
「来年は、真逆になるんだろうな。」
今年は愛和音の状況はわかり、全楽連の状況がわからない状態だが、来年以降は、愛和音の状況がわからず、全楽連の状況がわかるのだろう。それが物凄くさびしかった。
「小橋、俺に力を貸してくれ。」
社長室にあった寿人が歌ったデモを適当に選び、それを再生した。寿人の「棒読みの歌」が社長室に流れる。まだ、自らが愛和音の社長一本で過ごせていた時の曲が、次第に将の心を鼓舞していった。
「ありがとう、小橋。」
◆チャリティーアルバム
5月31日に決算報告のための理事会を開き、無事にそれは終了した。
そんな中であった。6月に入り、2011年7月13日に発売される「愛和音チャリティーアルバム」の宣伝のためのポスターが全楽連の事務所に届く。
「小橋。」
そのポスターには、愛和音の歌唱部の人員が全員映っていた。勿論、歌わない寿人の顔は映ってはいないのだが、将は、その奥に寿人の存在を見た。
「ポスターか。」
その寿人とマスターのバーで初めて話をした夜の事を思い出した。寝てしまった寿人を自分のベッドに寝かせたのはいいが、自らの部屋には数枚の「響義浩」のポスターが貼ってあった。酔った頭だったが、さすがにまずいと思い、一時外した。ついでに、CDや写真集も見えないように引き出しに一旦しまった。そんな思い出に少し将は笑う。そんな将を文俊はそばで見ていた。そして、こう言った。
「局長のそういう風に笑った顔、初めて見ました。」
「そうですか?」
「何かいいことでもありましたか?」
「いいえ、我が社の社員が、『頑張った』な、と思いましてね。」
「ああ、『チャリティーアルバム』ですか。売れるといいですね。」
「ありがとうございます。」
将は、誤魔化した。
◆愛和音の社長として
2011年6月30日、木曜日。愛和音の株主総会が開かれる。将は、全楽連の方から時間休をもらい、愛和音社屋内の会議室へと出向く。総務部や経理部の社員たちが将を迎え入れた。
「社長。」
「お疲れ様。いつもより負担をかけてしまってすまない。」
「いいえ。」
昨年までは、定期的に社長室にて関連する部署とは綿密に打ち合わせをしてから株主総会に臨んではいたが、今年からはそうはいかない。結局の所、決算内容等の精査を例年以上に社員に任せた。うまくいくか心配ではあったが、株主総会は、午前10時に始まった。司会の総務部の男性社員がこう言った。
「定刻になりました。株式会社愛和音、第14回定時株主総会を開会いたします。」
そして、将は定款により、株主総会の議長に選ばれる。
「只今、議長に選任いただきました、橋野将です。よろしくお願いいたします。」
総会は、決算内容を説明する時間となった。
「平成22年度決算に関しまして、詳細をご説明いたします。」
冒頭、いつもの文言が経理部部長の男性社員から発せられ、説明が始まる。経理部部長の説明を、議長として聞きながら将は様々な事を考える。株主に説明するのは、主に「数字」が前回よりどう変化したか、という所。しかし、その「数字」の奥には、社員たちの「働き」がある。特に、昨年度は「早川新こと中山隼人の『研修』」が主なテーマとなった。寿人や陽太が頭を悩ませながら研修していった。そんな様子が頭を駆け巡る。そして、そんな中、自らは毎日のように文俊と電話でやり取りした日々も。
詳細を伝えるためにいつも長くなるこの説明時間。この年も長くなった。経理部部長の説明が終わると、将はこう言う。
「只今の説明にご質問やご意見はありますか?」
株主は、揃って「異議なし。」と言った。いつもの流れ。安心感を抱きつつも、残りの株主総会の時間を将は過ごした。そんな株主総会を将はいつもとは違う言葉で締めくくった。
「只今をもちまして、議長の任をおりさせていただきます。ご協力ありがとうございました。株主総会は閉会となりますが、今回はこの場を借りて、ひとつ申し上げます。私事で恐縮ではございますが、既に文書でお知らせしました通り、全楽連の事務局長就任に伴い、私、橋野将は、この4月より非常勤の社長となりました。時限措置としたいとは思ってはいますが、常勤への復帰時期は見通せません。必ず戻り、職務に邁進していきたいと思っておりますので、その間の愛和音全社員へのご支援を賜りますよう、お願い申し上げます。」
将は、頭を深々と下げた。そして、次々に株主は「異議なし。」と声を上げてくれた。「やはり、愛和音の株主は、あたたかい。」と、将は心の中で思った。大半が無関心で一部自分に敵意を向けている全楽連の理事たちとは違うと思った。
そして、男性社員のこんな一言で株主総会は終わりを告げた。
「以上をもちまして、株式会社愛和音、第14回定時株主総会を閉会いたします。皆様、ありがとうございました。」
続々と株主は帰路についた。それを見送ったあと、将は社員へこう言った。
「いつもは共に作業したが、今年からは議事録の作成をすべて任せることになる。これ以降も負担をかけるが、頼んだぞ。」
社員たちは、少し気が重そうだったが、表向きの快諾の意思を将に伝えてくれた。それを見届けると、将は全楽連の方に戻って行った。
戻る車中、将は運転をしながら自らが30歳だった頃に株主へ最初に言った事を思い出した。
「今の私は、何の後ろ盾も実力もありません。しかし、『良質な音楽』を世間に提供したいという思いはこの日本で一番強く持っていると自負しています。そして、愛和音は『それ』を必ずや成し遂げます。根拠も示す事も今は出来ません。疑うお気持ちも理解しております。しかし、絶対に損はさせません。出資していただいた事を誇りに思える会社を、愛和音をお目にかけたい。だから、どうか少額でも出資をしていただきたい。お願いします。」
長く深く下げた将の頭の中には、「小橋寿人が作り最初に世に出た曲」である「闇夜の影 / 水島良典」が流れていた。あれから10年以上。株主に少しでも「誇り」を与えられているだろうかと思った。
正午が過ぎ、30分程度経ったであろうか、将は全楽連の事務所に着き、軽く昼食を摂った後、この日の事務局長としての勤務を始めた。
◆原石
7月13日、「愛和音チャリティーアルバム」は、発売された。それ以前に「資料」として完成品が社長である将の元に提出されてはいたが、指揮をすべて寿人が執ったことから、あえて発売まで聴かなかった。「解禁日」としたこの日、帰宅した後の夕飯時のお供としてこのアルバムを聴き始めた。大災害に見舞われた人々へわかりやすく寄り添うような曲もあれば、逆に明るく気持ちを引っ張って行けそうな曲もあった。
「中山君。」
ため息混じりの将の声が響く。相変わらず早川新は「荒削りの元気な歌声」だったからだ。
「小橋も悩んだろうな。」
残酷なまでに目立つその歌。収録しない手もあっただろうが、寿人はやってのけた。それなら受け入れなければ、と思った。
愛和音は、創立10年を過ぎ、「音楽界の未来を担う人材育成のフェーズ」に入ったと思った。だから、寿人や陽太にきつい思いをさせながら「原石」を探してもらった。しかし、今回は失敗なのかもしれない。もう一度、「原石」を探す必要があるのかもしれない。と将は自省した。仮に「もう一度」をやるとしたら、寿人や陽太に負担をかけられないと、自らが常勤の社長に復帰した後になると思いつつ、その日は終わりを告げた。
◆渡ってきたもの
8月上旬になった。この頃、将は夜間愛和音の方に出向く周期を決めた。月曜日、水曜日、金曜日の週3日、愛和音の状況を確認するのがベストと判断した。
そんな日であった。
「同じ数字を見るとはな。」
7月の愛和音と全楽連の詳細な現金等の動きを別々の日ではあったが、将は確認。愛和音から引き落としで支払われた全楽連の会費。愛和音側は支出として、全楽連側は収入として計上されたその数字を思い出し、帰宅中の車内でそう呟いた。
◆逆
「やはりな。」
2012年4月下旬のある日、将は全楽連の自らの席にて呟いた。
昨年決めた通りに月曜日、水曜日、金曜日の夜に愛和音の社長室へ行き、愛和音の状況を把握しには行っていたが、何せそれは短時間。終日あの社長室にいた時と比べたら短すぎてなかなか状況が掴めない。愛和音の株主総会の説明に「自分の言葉」が乗らない事に焦りを感じた。
一方、全楽連の流れはすべて把握済みで、数日前に行った「理事会」もそつなくこなせた。来月の「理事会」で話す内容ももう既に決まっている。昨年の懸念がそのまま現実の物になったことに軽く絶望していた。
絶望と言えば、愛和音の早川新の成績、ジェラン週間初登場59位。隼人を「遊軍」にする処分の検討に将は入った。
◆改革ののろし
6月になった。愛和音の株主総会への追い込みの時期だが、将は昨年考えた全楽連の方の「連続した理事会への対策」を職員たちに提案した。
「少し、お話いいですか?皆さん。」
一斉に10人の職員が将を見た。
「『理事会』への事業報告の資料の件ですが、毎月その前の月の分を作成する、と言うことに変更したいのですが、皆さんは、どうでしょうか?」
職員は、急な提案に戸惑った。文俊が困惑の声をあげた。
「事業報告の資料は、理事会直前に作成すると言うのが決まった流れで、それに合わせて仕事をしていたんですが。」
「やはり、駄目でしょうか?」
文俊はためらいながらもこう返した。
「事務局長のご提案ということならば、従うしかないとは思いますが。」
そんな文俊に、職員の中で一番の古株の男性職員が続けた。
「梶原君の言うことに私は同意しますが、急な提案ですね。」
将は、それに返した。
「急ですみません。しかし、私が事務局長に就任した昨年から思っていた事なんです。4月の業務が忙しいと思いましてね。皆さんになんとか楽に仕事をしてもらえないかとこの1年考えていました。」
その言葉に職員の表情が少しだけいいものに変わった。それを認めた将は、こう続けた。
「この1年、皆さんの業務を見させていただきました。月初めは忙しいようですから、月中に前の月の事業報告を作ってしまいましょう。そして、3ヶ月分を繋げて理事会に報告する形に変更しましょう。その方が、後々楽になると思います。」
その提案を聞いた文俊は、ある懸念を抱く。
「しかし、それでは4月の20日前後に開く事業報告の理事会に向けての作業は、あまり変わらないと思います。」
「『今の規定』ではきっと事業報告を事前に準備しても、4月の忙しさは余り変わらないでしょう。なので、『規定の変更』も視野に入れています。『4月の理事会を廃止』するんです。」
職員は、一様に動揺した。古株の男性職員がこう言った。
「そんな事、前例はありません。」
「そうですね。しかし、やらせてください。皆さんの負担をなるべく『均して』やりたいんです。ですから、規定の変更作業は、皆さんに負担はかけません。私が全て動きます。その前に、実務をやる皆さんの作業形態を変えなければならないと思いましてね。今日お話させていただきました。よろしいでしょうか?」
その将の言葉に反論できる職員は、いなかった。
◆戦い
将は、それから6月末に開催された愛和音の株主総会を何とか乗り越えた。懸念した通り、経理部の説明には、あまり自分の言葉を乗せられなかった。そのことに対する忸怩たる思いを残した。
「これは、休日を返上する必要があるな。」
そこから、将は、月曜日、水曜日、金曜日の夜間のみならず、土曜日と日曜日を自らの愛和音への出勤日と定めた。
一方、全楽連の「4月理事会廃止」の件は、理事会の承認を得る必要がある。規定を読むと、重要事項の変更は、理事会の3分の2以上の賛成で可能となる。と言うことは、6名以上の理事が「賛成」に手を上げれば、「廃止」出来る。そんな事がわかった将の元に、4月から6月分の事業報告が上がってくる。文俊が提出してきた。
「局長、お目通しお願いします。」
「わかりました。これが、最後になりますね。『まとめて』の事業報告は。」
「その、理事会は、動いてくれそうなんですか?」
「まだ、わかりません。今月の理事会で決まるかどうかは。けれども、毎月の報告は、続けてください。」
「はい。」
おそらく、南山は最後まで反対に回るだろう。それでも、南山以外の理事8名全員の理事が賛成すれば、「廃止」出来る。楽観視すれば、何も心配などないのだが、南山は、何らかの「正論」を持ち出し、反対してくる事も考えられた。その「正論」を聞き、反対に回ってしまう理事も出てくるかもしれない。それが3名以上になれば「この件」は通らない。
「さて、どうしたものか。」
予め、無作為に選んだ6名の理事に根回ししようとは思ったが、断念した。不確定要素の「南山の正論」に考えを変えられたら根回し自体が「無駄」となる。出たところ勝負、ということにした。
そして、7月の理事会が開催された。司会の女性職員には、事前に「例の件」の提案を会の終わりにすると伝えていた。そして、女性職員は、こう進行した。
「今回の理事会は、事務局長から1点、ご提案がございます。」
南山含めて理事たちは首を傾げた。その様子を見つつ、将は話を始める。
「これまで年5回開かれておりました、『理事会』を、年4回に減らしたく、提案します。」
会場は、一瞬ざわっとした。それをかき分けるように、将は続ける。
「具体的に言いますと、4月と5月に開催している理事会を、5月に統合し、その『5月理事会』にて、前年度の第4四半期の事業報告と、決算報告を行うことにしたいのです。」
「待ちたまえ、事務局長。」
想定内過ぎる南山の一声がかけられた。将は、「さあ、どんな『正論』で反対してくる?」と心の中で言った。
「それでは、事業報告が遅れる。その影響で、理事会としての判断が遅れた結果、何らかの重大事案が発生したらどのように責任を持つつもりだね?」
「それも想定済みです。それを防ぐ為に、5月末開催をわずかですが、10日程度前倒しして、5月20日前後の開催に変更したいと考えております。それをもってしてでも、その『重大事案』が発生した場合、私は、事務局長を辞します。」
反論の躊躇を南山は見せる。その南山を放っておき、将は理事たちに訴えた。
「この話は、理事の皆さんや、職員の負担軽減になると思っております。いかがでしょうか?賛成の方々の挙手を求めます。」
7名の理事が手を挙げた。将は、いとも簡単に「可決」という「勝利」を得た。南山は、苦虫を噛み潰したような顔をしてこう言った。
「まぁ、事務局長なりに、色々考えたようだね。だが、いささか、無理矢理な採決じゃないかね?」
「申し訳ありません。一刻も早く負担を軽減したかったので。」
将は、南山に向け、軽く頭を下げた。そして、賛成してくれた7名の理事に感謝のお辞儀も見せる。
「急な提案に、耳を傾けてくださり、また、賛成の挙手をしていただきまして、ありがとうございました。」
そして、将は女性職員に目配せした。女性職員は、それを受け、こう言った。
「これをもちまして、平成24年度第3回全楽連理事会、閉会いたします。皆さん、ありがとうございました。」
その後、全楽連の規定は将の手で書き直され、改定された。
◆勝利の余韻からのどん底
この改革により、全楽連の職員の毎月の仕事は確実に増えてしまったが、10月も終わりの頃、この年度の4回目の理事会を終えた後に文俊がこう将に声をかけてきた。
「局長の配慮、今になって身に染みてます。仕事が楽になりました。提案していただいた時は、反論してしまって申し訳ありませんでした。」
「謝る必要はありません。当然の反応と思っていましたから。その上で、梶原さんだけでも『楽になった』のでしたら、骨を折った甲斐がありました。」
将は、文俊に微笑んだ。文俊も柔らかい表情を返してくれた。
その翌日、木曜日の午前中に将の携帯が鳴った。
「小橋?」
珍しい着信だった。廊下に出て、それを通話状態にした。電話口の寿人は、こう言った。
「橋野、今夜、社長室に来るか?」
「行く予定はないが、どうした?」
「中山さんの事で、重い相談がある。『本来』の社長のお前に判断を仰ぎたいんだ。」
将は、心の中でこう呟いた。「小橋、お前も同じ思いか。」と。そして、こう返した。
「すべて任せる。お前の判断は、俺の判断、という事にする。」
「何で!『急ぎ』の判断だけだ!俺が任されてるのは。」
「小橋、落ち着け。俺の答えは、『それ』だ。『やれ』と言うことだ。」
「出来れば、電話じゃない形で話し合いたかった。」
「時間かけても、結論は一緒なんだから、時間の無駄だ。」
寿人の重く短いため息が将の耳に届く。
「そうだな。わかった。近いうちに『やる』。」
「頼んだぞ。」
通話が切れた後、将も重く短いため息をついた。そして、再び心の中で呟いた。「小橋、辛い宣告をさせてすまない。だが、その『言葉』はお前の言葉ではない。俺の言葉だ。気に病むな。」と。
◆成果
2013年、4月となった。全楽連は初の「理事会なし」の4月を迎える。3月の事業報告を作成した後、前年度の決算報告の作業に速やかに移った。その作業は、4月中にほぼ終わる。
そんな状況に、古株の男性職員は、将にこう言った。
「局長からの提案、はじめは驚くばかりでしたが、よくよく考えてみれば、本来ならばこちら側が提案しなければならない事でしたね。いや、お恥ずかしい話です。」
「いえ、こういうことは誰が提案してもいいんです。組織がいい方向に行くことが重要ですから。」
全楽連の事務所は、穏やかな空気に包まれた。
一方、休日返上で愛和音に「出勤」した事から、将は愛和音の状況も常勤だった頃よりは掴みづらいのは変わりなかったが、昨年よりは格段に状況を把握でき、株主総会の経理部の説明に盛り込んで欲しい情報を与える事が出来る見通しがついた。
◆前任者
ある日、就任以来自らの机上に置いてある引継書が目に入る。
「財前さん、今、どうされているんだろうな。」
振り返ってみれば、真介に挨拶もせずにここまで来てしまっていた。一度だけでも話をすべきと思い立った。そして、文俊に尋ねた。
「もし、おわかりになればの話ですが、前任の財前さんの連絡先を教えていただけませんか?」
「え?ああ、お待ちください。」
文俊は、資料を探した。
「確か、ここに残してあったと思うけど。」
と、独り言を言いながら。すると、「それ」は見つかる。
「ああ、これです。」
「ありがとうございます。」
将は、それをメモし、電話をかけた。
「全楽連の橋野と申します。」
この年50を迎える財前真介がそれを受けた。
「橋野さん?ええと?」
「事務局長を引き継がせていただいた橋野です。」
「ああ、そうですか。どうされました?」
「色々、思うところはあるとは思いますが、財前さんがよければ一度お会いしたくてお電話しました。」
「まぁ、大丈夫ですが。」
「では、ご都合のいい日に財前さんの所にお伺いしたいと思いますが、どうでしょうか?」
「次の、土曜日でもいいですよ?ええと、10時かな?」
「ありがとうございます。では、土曜日10時にお伺いします。」
そして、その日が来た。
「まさか、あなたと話をする事になるとは思いもよりませんでしたけどね。」
素朴さの中に、理知的な雰囲気をたたえた真介は、少し苦笑いしていた。将は、菓子折りを手に軽く頭を下げる。その後、真介に向き直ると、こう言った。
「お会い出来ない可能性も考えておりました。この機会を設けていただき、ありがとうございました。」
「いいえ。」
「その、後れ馳せながらご挨拶と謝罪をさせていただきたくて。」
「謝罪?」
真介はその表情で「何の事を言っているのかわからない。」と言った。
「突然、事務局長の交代を余儀なくされたと想像しておりまして。私の存在があったばかりに。」
「確かに、あの時は驚くばかりでしたよ。何か私に落ち度があったのかと思いましたが。」
「全くそのような事はありません。おそらく、私への『制裁』を南山代表理事がやろうとした結果、その煽りを受けて、あなたは事務局長の座を追われたんです。」
「『制裁』?」
「私は、ジェントルの社員でした。しかし、愛和音を立ち上げて、ジェントルに敵対しました。その事への『制裁』の一環なんです。これは。」
「なかなかの話ですね。では、あなたは望んで全楽連に来たわけではない、と?」
将は、刹那のためらいを見せたが、それに答えた。
「正直な話、そうなんです。」
真介は大きく息を吸いながら一旦考えた。
「私もですね、正直あの席に戻りたいですよ。アメージングサウンドの社外取締役だけでは、暇すぎて。」
将は、真介に頭を下げる。
「申し訳ありません。どうしても『やりたい事』がありまして、愛和音を立ち上げました。けれど、こんな事になるとは想定していませんでした。」
その言葉に、真介は唸るような声を将に聞かせた。
「『何でも想定内』の人生なんてあり得ませんが、少し、あなたは考えが足りなかったのでは?」
「おっしゃる通りです。」
「それに、その『やりたい事』は、達成したんですか?」
「いいえ、道半ば、というところです。」
真介は、右手を額に当てながらこう返す。
「お互い、望まない立場に今は置かれている、と、解釈していいんでしょうかね?」
「それは、間違いないです。」
再び真介は、唸るような声をあげた。
「かと言って、どうすることも出来ないですけどね。」
「本当に、申し訳ありません。」
その場に、沈黙の時間が流れた。将は、必死で考えた。
「あの、財前さん、時間はかかるかもしれませんが、『事務局長に戻っていい』と言われたら、戻りますか?」
「え?」
真介は、目を丸くした。一瞬の検討の時間を経てこう答えた。
「それは、戻りたいですよ。」
「そうですか。」
将は、再び真介に頭を下げた。
「そのお気持ちを考慮せずに、全楽連の『改革』を少ししてしまいましたが、財前さんが全楽連に戻れるよう、力を尽くします。少し、お待ちいただけないでしょうか?」
「『改革』?いや、あまり待てませんが、その『改革』とは?」
「『4月理事会』を廃止しました。」
「ええ?」
「『5月理事会』に統合し、その『5月理事会』を少し早めの時期に開催されるように変えてしまいました。そこで第4四半期の事業報告と決算報告をするようになりました。」
「また、それは『少し』どころの騒ぎではないでしょう。」
「申し訳ありません。」
「いやはや、豪胆ですね。就任してすぐでしょう?」
「はい、2年目にしました。」
「それで、今年度は大丈夫だったんですか?」
「職員からは、良好な反応をもらえました。」
「なら、よかったです。それを聞いて安心しました。詳しい事はわかりませんが、戻ってもよさそうです。」
真介の表情が緩んだ。それを見て、将は宣言した。
「私も、あまり長く全楽連にいるつもりはありません。5年くらいが限度と思っております。そこまでは待てますか?」
「待てます。大丈夫です。」
「なら、『その方向』で動きます。」
その後、将は真介の元を後にした。
◆脱出への検討と躊躇
帰りの車中で、将は考えた。どうやったら自分は事務局長を辞められるかを。
「今回は、『正攻法』で行こうか。」
それは、理事会に「辞表」を提出する事。南山に「それ」を提出するのは2度目だと思いながら、「覚悟」を決めた。そして、土曜日の愛和音の社長室へと足を運ぶと、「辞表」を書き、自宅に持ち帰った。
翌週通常通りに将は出勤した。少しぼんやりと職員の仕事ぶりを見ていると、文俊が電話応対をしていた。2010年の6月頃、文俊はこうやって自分に電話をかけてきたのだとふっと考えた。
「まずい。」
将は、呟いた。真介をここに戻してやりたいのだが、戻す事は、あの文俊の1ヶ月を蔑ろにする行為だと気づいたからだ。
「しまった。」
翌日、将は朝一で「辞表」をシュレッダーにかけた。衝動的と言っていい行動だったが、「それ」を提出するのは、保留にした。
◆過去の電話
それから一週間後。将は文俊にこう声をかけた。
「明日、2人で昼食を外で摂りませんか?」
「えっ?」
文俊は、驚く。少し間を空けた後返答をする。
「わかりました。」
「ありがとうございます。ここの近くの食堂でいいですか?」
「はい。それは、もうどこでも。」
そして、翌日。食堂にて将と文俊は昼食を注文。それが運ばれてくるまでの間にお冷やを飲みつつ将は、こう切り出した。
「時間もありませんから、単刀直入に言います。実は、数年以内に私は事務局長を辞めたいと思ってます。」
「局長?」
文俊の顔は、戸惑いの色に染まった。そして、こう続けた。
「それは、局長のご自由になさっていいことでは?何故私にこんなに場を設けてまでそんな事を?」
「ひとつ引っかかる事がありましてね。」
「何でしょう?」
「『あの時』の電話の件です。あなたのあの時の1ヶ月の苦労を考えたら、『そう』するのはどうかと思いまして。」
「そんな。」
そう文俊が言うと、注文した物が運ばれてきた。将は、こう言った。
「ひとまず、食べましょう。」
「はい。」
将と文俊は、それを食した。ひととおり食べ終わった後、文俊が今度は切り出した。
「『あの時』、ですか。南山理事からの命令でした。」
「やはり、ですか。」
将と文俊は、2人の最初の電話のやり取りを思い出す。
「お電話代わりました、橋野です。」
「全楽連の梶原と申します。お世話になっております。」
「こちらこそ、お世話になっております。」
「実は、橋野社長に全楽連の事務局長に就任してただきたくてお電話しました。」
「はい?いつからですか?」
「来年度からお願いしたいのですが。」
「誠に心苦しい事ですが、お断りします。」
「そうですか。承知しました。」
大変、短い電話だった。それで終わると思った。しかし、翌日も2人の電話はあった。
「連日、お電話をかけてしまって申し訳ありません。事務局長の就任の件、考え直していただけないでしょうか?」
「そんな、昨日と変わりませんよ?答えは。」
「そこをなんとか、お願いします。」
文俊の声が必死になる。しかし、将はそんな文俊を切って捨てた。
「申し訳ありませんが、お電話、切らせていただきます。お断りする気持ちは、変わりませんから。」
将は、一方的に電話を切った。そんな事を思い出した将は、目の前の文俊に改めて謝罪した。
「2度目の電話は、あなたに配慮せずに電話を切ってしまって申し訳ありませんでした。」
「いいえ、当然の反応だと思いましたから。全く気にしません。」
文俊の顔が暗くなってくる。
「しかし、苦しかったのは、間違いないです。」
「申し訳ありません。」
「『あの日々』の終わりを迎えるのが、1ヶ月後だとは思ってませんでしたが。」
再び、「終わりの時」の電話のやり取りを将と文俊は思い出す。
「本日もお電話に出ていただき、ありがとうございます。私自身どう話していいかわかりません。けれども、私がお電話した、という事は橋野社長、用件はおわかりだと思います。」
その文俊の声色は、疲労、焦燥感、ありとあらゆる負の感情が色濃く出ていた。その声に、将は絶句した。その反応に文俊は、絶望感を抱いた。
「今日も、駄目ですよね。明日、またお電話します。」
そうして、文俊は「失礼します。」と告げようとした。将は、それに制止の言葉をかけた。もう、嫌な思いさせたくなかったから。
「お待ちください、梶原さん。毎日、毎日お疲れ様でした。もう、明日はお電話いただかなくて結構です。」
「橋野社長。」
文俊の声は、どん底に落ちた。
「引き受けます。だから、もう、明日はお電話いただかなくて結構です。」
「え。」
文俊は、それ以降、言葉を紡げなくなった。将は、そんな文俊が今、全楽連の事務所にてどんな状況になっているか察してこう伝えた。
「まずは、お気持ちを整理してください。そして、その後に『上層部』へ『この事』を伝えてください。よろしくお願いします。こちらから、お電話を切らせていただきます。失礼します。」
文俊は、その後の自分を思い出して、こう将に切り出した。
「あの電話を切った後は。」
それに、将は制止の言葉をかけた。
「話さなくても、わかります。」
そんな言葉に文俊の目は潤んだ。「それ」が落ちないように、としながら文俊はそれから今までの思いを将に告げた。
「局長は、いい人だと思います。愛和音の電話番の方に私の電話を取り次がないよう言うことも出来た筈なのに、それをしなかった。毎日、毎日私の電話を受け入れてくださった。」
将は、微笑む。
「そんないい人に、私は理事命令とはいえ、嫌な事を引き受けさせようとしている。あの日々は、そんな事を思っていました。だから、苦しかったです。局長の決断を否定するかもしれませんが、2ヶ月でも、3ヶ月でも、拒否し続けていいと思いました。その先に、私はクビになっても構わないとまで考えました。」
「梶原さん。それは、大変な思いをさせてしましたね。」
「それは、こちらが言いたいことです。しかし、1ヶ月で局長は引き受けてくださった。あの時は、解放されたという思いと、引き受けさせてしまったという思いで、どうしようもなかったです。」
文俊は、将をまっすぐ見つめ、こう言った。
「だから、局長には今度は自由な選択をさせたいです。私の事を考慮していただかなくて構いません。」
今度は、将の目が潤みそうになる。
「ありがとうございます。梶原さん。」
◆戦いの始まり
将は、それから破棄した「辞表」を書き直した。「10月理事会」の際に理事たちにそれを提出するために。その様子を文俊は見て穏やかな表情を浮かべた。
そして、10月24日、全楽連の理事会が開かれた。そして、将は、その理事会の最後にこう切り出した。
「最後に、こちらを提出させていただきます。」
理事9名の目に映ったのは、将の「辞表」だった。ざわめく会場。そして、南山はその辞表を手に取る。
「どう言うことだね?」
「限界です。二足のわらじを履き続けるのは『きつい』と判断しました。」
「認めないよ。」
そして、南山は将の「辞表」をその場で破り捨てた。
「こんな物はなかった。いいね?」
将は、さすがに絶句した。そんな将を南山は、勝ち誇ったように見つめる。
「はい、はい、この理事会は終わりね。」
南山は、手を何度も鳴らしながら、その場を後にした。
「戻りたい。戻らせてやりたい。なのに。」
そんな将の呟きが、空になった会場に響いた。
表向きの冷静さを取り繕いながら事務所に戻った将の元に文俊が来る。
「『辞表』、どうでしたか?」
「認められなかった。」
可能な限り捨てられた「辞表」を拾ってはきた。それが将の手に収まっていた。文俊は、それを見た。
「局長。」
それでも、ここで崩れるわけにはいかない。将は、文俊に可能な限りの笑顔を見せた。
「『正攻法』でうまくいかなかっただけの事です。次の一手を考えます。時間を要するかもしれませんが。」
◆社長室
その日の夜、木曜日と決めた曜日ではなかったが、愛和音の社長室に将は足を向けた。
「小橋。」
昨日の水曜日にはなかった新曲のデモが上がっていた。それを早速再生した。
「小橋は、変わらない。変わらない小橋をこれからも俺は、社長として見ていくんだ。」
棒読みの歌が流れれば流れるほど、将の目に力が沸いてくる。
「絶対に、戻る。ここに、常勤の社長として。」
◆スリリング
とは言うものの、それ以降、将は「辞めるための一手」をいつまで経っても思いつかなかった。2つの「仕事」に忙殺される日々を過ごすうちに、2014年は5月を迎えた。「5月理事会」の準備が終わり、後は当日を迎えるだけとなった夜、将は夕飯を摂りながら観ていた音楽番組にてとある「歌」を聴く。
「これは?」
王子様然とした歌声に耳が奪われる。その歌声は、愛和音の歌手ではない。
「久保聖真?」
ジェントルの新人歌手であった。
「悔しいが、いい。愛和音に採れなかったのが悔しい。だが、いい傾向だ、ジェントル。そのまま、『良質な音楽』をこれから生み出せ。それこそ、愛和音を俺が立ち上げた『目的』のひとつだからな。」
ちらつく南山の顔。しかし、その時ばかりは「いい顔」だった。
それから、1ヶ月も経たないとある水曜日。将は夜間、愛和音の社長室へ。そこには「決裁資料」が置いてあった。
「加藤君の新曲か。」
早速、資料に目を通しながらデモを聴く。
「よし、これで行け。」
いつもの通りに決裁の判を押した。
更に、2週間後の金曜日。将の元に「西森音彦の新曲に関する決裁資料」が上がっていた。
「先々週もなかったか?同じのが重複してるんじゃないか?」
資料に目を通すと、どうやら「違う」。デモを聴くと、やはり「違う」。
「小橋?」
しかし、その「出来」は最高品質で、決裁の判を押さない理由はなかった。
更にそれから3週間後の水曜日。将は再び「西森音彦」の文字を見る。
「どう言うことだ?」
寿人の意図を考えてから将は判を押すと決め、少し考えた。すると、とある「仮説」が浮かぶ。
「久保聖真対策か?『そんな事』はしなくていい、小橋。だが、文句は言わない約束だったからな、『これ』も聴いてやる。」
デモを再生。すると、ため息が出る。
「いい出来だ。」
判を押しながら、将は呟いた。
「加藤君が潰れなければいいが。それだけが心配だが、うまくやれよ。」
それに、何か「違う」感じも受けたが、純粋にその曲の「良質さ」を受け、寿人に「この件」は当初の約束通りに任せることにした。そして、将は更に呟いた。
「『久保聖真』という『南山』と小橋は戦う事にしたようだな。なら、俺は、俺も南山と戦わなければな。何か、何か考えなければ。ここに俺が戻れるように。そして、財前さんがあそこに戻れるように。」
◆クビ
将は、それから全楽連の事務局長と愛和音の社長の仕事をこなしながら、合間に全楽連から去り、愛和音に帰る方法を思案した。もう、「正攻法」は使えない。と言うことは、「奇策」を考えなければならない。
「ネックは、『それ』なんだ。」
将は、その「奇策」が浮かばなかった。今の今まで。しかし、文俊との会話の中に、「クビ」とあった。
「『そう』なるしか、道はなさそうだな。」
そして、作成する必要はないとは思ったが、真介への引継書を作り始める。唯一、自分が全楽連に変更を加えた部分がわかるように。
それと同時に自分がどう「クビ」になるかを思案する。一番、南山が関心を向けそうな事項で「何か」を起こす事を決めた。その上で、南山がどんな人物かを振り返った。
「南山は、『金』が絡むと、目の色を変える。」
ジェントルの一覧でハイリスクハイリターンの博打をする事から、試しに「響義浩名義借用の件」を持ちかけた。勿論、絶対に契約を結ぶつもりではあったが、自分なりの「仮説」を立証したくて「響義浩名義を使用した際の売上を全額支払う事」と、「20年後に買い取る事」を約束した。「金」が絡んだ事から、南山は、乗ってきた。あの時は、「やはり。」と思った。
「辞めさせてくれたらいくらでも払うと、南山に言うか?」
しかし、それは「クビ」に繋がらない。それに、「搾取」されてどうする、とも考えた。
そして、将はとある考えに行き着いた。2015年度を迎えていた。後は、「それ」をいつやるか、という検討に入った。
そんな中であった。将は、とある愛和音からの新曲の完成品を自宅にて聴いた。
「中山君!」
そう、「英雄の朝 / 早川新」だ。「決裁」の時のデモは、寿人の棒読みの歌であった。急に「早川新の新曲」が出てきた事に疑問の目を向けつつ、いつもの通り「良質な音楽」だった事から判を押した。その「疑問への答え」が、これだった。
「よくやった!それにしても、小橋、神谷君、中山君にどんな魔法を使ったんだ?」
将は、その勇ましい曲と精悍な歌声が合わさった曲を何度も聴いた。
「しかし、『英雄』か。これから、俺は失敗したら『犯罪者』になってしまうのだがな。」
そうして、将は「クビになるための行動」を「辞表」が破られた「10月理事会」を開催した後に起こす事を決めた。
◆協力
将は、その「10月理事会」が終わった翌日、経理担当の女性職員にこう声をかけた。
「確か、振り込みは、ネットバンキングで行ってますよね?」
「はい。」
「やり方を教えてください。」
「え?」
戸惑う女性職員に文俊が話しかける。
「教えてやってください。」
「はい。」
そうして、女性職員は自分がいつもタブレットを使って振り込んでいる手続きを振り込む手前まで実演して見せた。
「では、最初からやってみますので、合っているかどうか指導してくれませんか?」
「わかりました。」
そうして、教えられた通りに将は振り込み手続きを振り込む手前まで進めた。
「そして、ここを押せば振り込み完了、ですね。」
「はい。そうです。」
「わかりました。」
将はそう言うと、職員全員にこう宣言した。
「私は、この3月をもって、クビになる予定です。後任は、財前さんと考えています。」
職員は、一旦驚いたが、橋野という事務局長ならやりかねないと思ったのと、後任予定者の名前に安心してそれぞれ後押しする意思を示した。
「ありがとうございます。その為に、このタブレットを持ち出します。その時は、よろしくお願いします。」
◆ジェントル社屋内
将は、南山にアポイントを取り、ジェントルの社長室に入った。10月30日の事だった。
「お時間いただきまして、ありがとうございます。」
南山に向かって頭を下げた将の手には、タブレットが。
「今日は何だね?」
「やはり、1年経っても気持ちは変わりません。全楽連の事務局長を辞めたい気持ちは。」
「認めないね。去年、言っただろう?」
「それは、覚えていますよ。鮮明に。」
「なら、受け入れなさい。」
「受け入れたくありません。私は、辞めたいのです。どうしたら、辞めさせていただけますか?」
「そんなものは、皆無だ。」
「では、仕方ありませんね。」
将は、おもむろにタブレットを南山に見えるよう机上に上げる。
「何だね?」
「これは、全楽連の振り込み作業に使用しているタブレットです。」
将は、話しながら振り込み手続きを進めていく。
「代表理事がどうしても私が辞める事を認めてくださらないのなら、私は、全楽連の預金全額を私の口座に振り込みます。そして、私の自由意思でこのお金を使わせていただきます。」
「何っ?それは、横領と言うものだ!!」
「知ってますよ。『これ』が成立すれば、私は立派な『犯罪者』になります。ひとつ訊きますが、私を全楽連の事務局長に推薦したのは、代表理事でしょう?」
「そうだよ。」
「そんな『犯罪者』を推薦した、とあれば、代表理事の名誉が著しく傷つけられるとは思いませんか?ここを押せば『それ』が現実のものになります。」
「わかった。わかったから、落ち着きたまえ。そして、今度の理事会で辞表を提出しなさい。」
「ありがとうございます、代表理事。」
将は、タブレットを操作し、ネットバンキングからログアウトした。
「私の後任は、財前さんでよろしいでしょうか?」
「誰でもいい。」
「ありがとうございます。」
そして、将は「クビ」ではなく「辞職」を選ぶ事が出来た。
◆勝利宣言
その後、将は全楽連の事務所に戻った。職員にこう報告した。
「おかげさまで、『1月理事会』に「辞表」を提出することが出来るようになりました。皆さん、ありがとうございます。」
文俊は、ほっとした様子だった。
「あと、残り5ヶ月ですが、引き続きよろしくお願いします。」
◆帰還宣言
2016年になった。約束通り将は「辞表」を用意し、この月に行われる「理事会」に提出するのみとなった。少々勇み足だが、将は寿人にこの事を知らせたくなり、電話をかけた。
「はい、小橋。」
「橋野だ。まだ確定ではないが、4月から俺は完全に愛和音に戻れる。」
「本当か?」
「今月、『辞表』を提出して、『それ』が確定するんだが、ほぼ間違いなくそれは受理されるだろうから早めに知らせたくなってな。」
「そうか。丸5年、だったな。どうする?こっちの社員に知らせるか?」
「ああ、頼んだ。」
「いや、4月が楽しみだな。色々、話を聞かせてくれな。」
「勿論だ。」
そんな電話を終わらせ、将は全楽連の事務所へと戻った。
◆最後の
全楽連の平成28年度第4回理事会が開かれた。将は、2度目の辞表提出をする。
「やはり、体力の限界を感じておりまして、この3月で事務局長の任をおりさせていただきます。事前の相談に対して、ご助言いただきました南山代表理事には感謝申し上げます。2011年4月からの5年間、理事の皆さんには大変お世話になりました。」
将は、深々と頭を下げる。それに対して、南山は文句は言えなかった。そして、こう言いつつ拍手をした。
「橋野事務局長、ご苦労さん。」
それに続き、他の理事も拍手をした。
「ありがとうございました。」
そんな将の言葉で理事会での事務局長辞職の挨拶は終わる。提出した辞表は、しっかり南山の手に渡った。
理事会が終わると、辞職が確定した事から将は真介に電話をかけた。
「はい、財前です。」
「橋野です。お世話になっております。」
「どうしました?」
「今しがた、今年度の最後の理事会が終わりまして、そこで、私の辞職が決まりました。4月から事務局長に戻って来てください。」
「おお、お疲れ様でした。わかりました。ご連絡、ありがとうございます。」
「色々、ご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。そして、4月からのご活躍をお祈りします。」
「こちらこそ、愛和音でのご活躍をお祈りしますよ。頑張ってください。」
「はい。」
◆2016年3月31日
将は、いつも通り全楽連の事務所に出勤する。昨日のうちに机上等の片付けは終わっていたが、決裁等の仕事が残っていて、通常勤務をした。
そして、業務終了時間の17時近くになった。
「皆さん、よろしいですか?」
そんな将の声かけに職員は、「遂にこの時間か。」と言うような表情をした。
「私の事務局長としての仕事は、これをもって終わりになります。正直、皆さんを振り回してしまったと思っておりますが、それでもついて来てくださってありがとうございました。5年間、お世話になりました。来年度以降の皆さんのご活躍をお祈りします。」
将は、頭を下げた。そんな将に職員は、次々と声をかけていった。勿論、文俊も。
「『あの電話』の時から5年半、局長と関わる事が出来てよかったと思います。お疲れ様でした。そして、こちらこそお世話になりました。愛和音に戻られてもお元気で。」
「ありがとうございます、梶原さん。」
そうして、将は全楽連の事務所を後にした。5年間使用した事務局長の机上に自らが作成した「引継書」を残して。
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