黒服の女

大山 三郎

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香織

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夜のアパートは静寂に包まれていた。窓の外からは、遠くの車のエンジン音が微かに聞こえるだけだった。キッチンでは、AI制御のスマートポットが低く唸り、シチューのエキゾチックなスパイスの香りが部屋に漂っていた。香織は、黒い薄手のシャツと身体のラインをなぞる黒いパンツに身を包み、シルバーのネックレスとバングルがキッチンの照明の下で妖しく光っていた。彼女はスマートポットのタッチパネルを優雅に操作し、完璧な仕上がりを確認していた。20代後半の若々しい顔立ちに、黒髪が肩に滑るように揺れるその姿は、冷たい美しさと温かな魅力を併せ持っていた。
玄関のドアがガチャリと開き、藤井康平が帰宅した。「ただいま」とぶっきらぼうに呟く声。マティック・ソリューションズの研究開発室長として、ステルス・ナノ素材の開発に追われる彼にとって、この狭い単身赴任先のアパートは一時の逃避行だった。靴を脱ぎ、ジャケットをハンガーに掛ける音が響く。「おかえり」と香織は振り返らず、透明感のある声で答えた。シンクの横に置かれた白ワインのグラスが、照明を受けて揺れている。彼女の指先は、スマートポットの設定を微調整しながらも、別の計算を巡らせていた。
食卓についた康平は、スマートポットが作り上げた濃いめのシチューをひと口食べて「うまい」と呟いた。スパイスの香りが鼻腔をくすぐり、香織の纏う微かなフローラルノートと混じる。いつもなら会話はここで途切れる。だが今夜、香織は軽く微笑み、別の空気を漂わせた。「ねえ、康平さん。なんか今日、疲れた顔してるね。私もさ、ちょっと疲れたな」と、わざとらしくため息をつく。康平は「ふぁん」と曖昧な返事を返し、スプーンを動かし続けた。だが彼の視線は、香織の黒いシャツの隙間から覗く白い肌に一瞬引き寄せられた。妻のいる家に帰るべきだという思いが頭をよぎるが、香織の存在が彼をこの部屋に縛り付けていた。
彼女はワインをもう一口飲み、立ち上がった。「ねえ、康平さん。今日はさ、ちょっと早くベッド行かない?」 甘い声で囁き、彼女の瞳は夜の海のように深く揺れていた。康平の目が一瞬、驚きで丸くなった。「…お前、なんか企んでるだろ」と冗談めかして言うが、その声にはかすかな動揺が混じる。香織は笑って肩をすくめ、「企むも何も、ただの思いつきよ。ほら、行くよ」と彼の手を引いて寝室へと向かった。彼女のシルバーのバングルが、動きに合わせてかすかに鳴った。
ベッドに腰掛けた康平の隣に座り、香織は彼のジャケットのポケットにそっと手を滑らせた。指先に触れるスマホの冷たい感触。気づかれないよう慎重に引き抜き、テーブルの上に置く。康平はまだ彼女の顔を見つめているだけだ。次に、香織は左手首のシルバーのバングルを外し、スマホの隣に置いた。バングルは、近くのデバイスからデータを吸い出す仕掛けを隠している。康平のスマホのデータは、すでに彼女が仕込んだシステムに流れ始めていた。金属がテーブルに触れるカチッという音が、静かな部屋に鋭く響いた。
「康平さん」と香織は囁くように言った。「今夜はさ、ちょっとだけいつもと違うこと、してみない?」 彼女の声は甘く、だがどこか危険な響きを帯びていた。康平の視線が彼女の鎖骨で揺れるシルバーのネックレスに落ち、欲望の影がちらつく。香織の心臓は冷静に、だがほんの少し速く鼓動していた。彼女の頭はすでに次の行動を計算し続けていた。シチューのスパイスの香りとスマートポットのほのかな電子音が漂う部屋の中で、香織は、彼女の目的に向かって着実に動きを進めていた。
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