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クロネコ

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始、入院する

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「始ぇ!始ぇぇ!」咲の声がした。高木 始は自分がどこにいるのかわからなかった。咲はすごく濡れていて、ひどく取り乱した様子で大きな目を見開いて悲痛な叫び声を上げ、両手で始の肩を揺すっている。始は髪も顔もずぶ濡れで上半身裸の状態、下衣のスウェットも濡れてベランダに立っていることに気づいた。髪伸びたな、ズボンが重いと思った。ひどい雨と風だ 台風みたい 頭がぼんやりする思考が定まらない。 「始ぇ!始ぇぇ」咲がまた強く揺すり叫ぶように呼ぶ。始はよろめいて後ずさった。ベランダと居間の境い目に右の踵が当たる感覚がして始は咲と後ろに倒れた。部屋には風が入り、書類が舞っている あー仕事の書類が と思い「仕事の」と呟くと一緒に倒れ込んでいた咲が顔をがばっと上げ、ずぶ濡れの顔に目から涙を鼻から鼻水をたくさん流し「辞めて!もう仕事辞めてぇ」と叫んだ。始は どうしたんだ咲さん。いつもは始くんとか、始ちゃんって言ってるのにと思ったところで暗くなった。とにかくいいや咲さんが目の前にいる。ひどく安心した真っ暗だ。始は気を失った。 2日後、
 目を覚ました。始は病院のベッドにいた病衣を着て右腕に点滴が刺さっている。部屋を横切る看護師が見えたので、「すみません」と声を掛けた。20代に見える若い看護師は「あっ目が覚めたんですねー気分はどうですか」と聞いた。「大丈夫です。少し頭がぼーっとします」と答えた。ネームに澤田 美海とあった。顔写真はさらに若く見えた。「今、三島さん呼んできます。さっきまでいたんですよ」と澤田看護師は咲の名字を言い、部屋を離れた。すぐに咲が看護服姿で部屋に来た。ネームに三島 咲とあり若い咲が写真の中で微笑んでいた。帯広厚生病院は帯広市内の白樺通り沿いにある帯広の基幹病院で5年前に現在の場所移動した。新病院の建築の際に里真建築も部分的に参加し、始は建築中に何度か現場に行き、完成時披露の際に里中や上島と訪れていた。咲は帯広高等看護学校を卒業後、厚生病院に就職し、現在に至る。「目が覚めて良かったー。始くん大丈夫?2日も寝てたんだよ ここどこだかわかる」と聞いた。「2日も寝てたんだ。 厚生病院かな」と始は答えた。「なんか大丈夫そうだね」と咲は笑い、「始くんのお母さんに連絡しとくね」と部屋を出ようとしたので「ちょっと待って」と始は言った。「どうしたの」咲が聞いたので始は自分の下半身に目を向け「もう自分でトイレに行けるから」と言った。目が覚めてからずっと陰部に繋がった管が気になってしょうがなかった。咲は「あー 本当にトイレ行ける? ちょっと起きてみて」始はゆっくり起き上がりベッド端から足を下ろして、立ち上がり点滴棒を持ちながら数m、歩いて見せた。咲は笑って「わかったバルーン今抜いてから行くね」と言った。そして「入れたのも私だから安心してね」とまた笑った。咲が部屋を出てすぐ携帯電話をみるとたくさんの着信とラインにメッセージが入っていた。まずは始が勤務する里真建築の里中社長に返信した。里中からのラインは始が仕事でそこまで追い詰められていたことを気づかなかった謝罪といつから復帰できるかの内容が6対4で綴られていた。始は迷惑をかけたことを詫び、退院後はすぐに復帰する内容を返した。その後、上司や同僚、母や弟、妹に心配をかけたことを詫びもう大丈夫だという内容のラインを返信した。その後の検査で始の脳や身体に病気は見つからなかった。そして、心療内科でのカウンセリングの結果、担当した50台後半くらいの大柄で豪快な印象の担当医の真田 禅は白髪交じりの坊主頭を右手で掻きながら、始は責任感が強く自分を責めてしまう傾向があり、周囲の援助をうまく受けられず、心の消耗に鈍感になっているとのことだった。「ちゃんと、自分の心と向き合うんだね」と言った。軽度の鬱病と診断された。始は入院時、身長175cm体重53kgだった。食事らしい食事を何ヶ月もせず栄養ドリンクとコーヒーで頭を冴えさせていた。あまり食べると吐いた。それは、検査で胃腸に問題がないことから、それも鬱の症状だと言われた。自分は何か、とても心が弱い人間だ と医者のお墨付きをもらった気がして ため息が出た。何故なら始は自分は全く問題なく心身共に健康だと思っていた。食事していなかったのは、その時間すら惜しいからだ。ウィダーインゼリーとかカロリーメイトで栄養をとっていたしエナジードリンクも飲んでた。食事で吐いたことあるかないか聞かれから、吐いたことを話しただけでいきなり食べすぎただけだから全然、大丈夫だったんですと答えたのに。頭がぼーっとしたらコーヒーやエナジードリンクに頼るのは当たり前でそれで鬱病なら受験生のほとんどが鬱病ではないかと思った。だから始は医者は病名を付けて入院させたいだけで自分は全くの正常。だからカウンセリングで言われた。自分の心知るために何を感じたか書く日記も、落ちた筋力、体力に対するリハビリも全てやる。そして、堂々と退院してやると思った。それなら、咲さんも心配しないし仕事を辞めろ なんて言わなくなるはずだ。咲は勤務先だから毎日、昼休憩と仕事終わり病室に顔を出した。上下が白のパンツスタイルの看護服を着た咲は長い髪を後ろに纏めて姿勢が良かった。そして何だかいつもよりずっと大人びて見えた。塩顔で長髪、無精髭、痩せ型で長身の始と対象的に咲は童顔で小柄で28歳という年齢より幼く見えていた。咲とは同じ帯広北高校の出身で始は咲より2歳年上の30歳だ。同じ高校と言っても高校時代には、部活も違い、始は陸上部に咲はバスケ部にそれぞれ所属していた。高校卒業後に咲と出会ったのは、就職して3年が経った始が25歳の時に会社の同僚が開いた飲み会に来ていた。そこで同じ北高出身だと言うことから話が膨らみ、北高にはスポーツ推薦で入学し、怪我で競技を断念した共通点も一緒だった。過去の傷の共有は強い親近感を生んだ。その上に、その挫折をきっかけに今の仕事を目指した共通点の追加で、特別な意識になった。高校の先生の話題や陸上部、バスケ部にいたそれぞれの知り合いの話しなどから盛り上がり、今の仕事のやりがいや愚痴も言い合い。他のメンバーそっちのけで2人で話した。そして、別れ際、連絡先を交換した。それから1か月ほどで付き合うことになった。始も咲も仕事が忙しく会う時間は限られていた。それでも交際は5年続いた。会う時間が少なくとも会える時間を楽しめたし咲といると仕事を忘れてリラックス出来た。ただここ3か月は電話やラインのやり取りだけで直接会ってはいなかった。そしてあの日、ラインに既読がつかなく電話にも出ないので、咲は仕事を終え、始を心配してマンションに向かった。そして車から始がマンションの4階のベランダに上半身裸で立っているのを見た。合鍵を使って入り始を部屋に入れ、気を失ったあと救急車を呼んだ。
 病室に来ると咲は、体調のことはもちろんのこと、最近の身近に起きた出来事やニュースなど色々と話をしていった。里中社長や上司の上島、会社の同僚、母、礼代や弟、智。妹の久子。咲の両親と変わるがわるに面会に来てくれた。始は職場に早く復帰したい気持ちを募らせていった。ただ咲は「あの日、声の限り始くんに言ったけど、今の仕事はもう辞めてね」と入院一週間経った時に言った。あっさりとしたいい方だけど真っ直ぐこちらを見つめ、有無を言わさない口調だった。始は「あの時の咲さんの言葉は気を失っても覚えてる。だけどオレ大丈夫だから、建築士としてもう一回やらせてよ」と言った。そしたら咲はいきなり始の胸ぐらを掴んで「自殺しようとまでしてまだわかんないの?このままじゃ始くん仕事に殺されちゃうんだよ」「辞めてね絶対」と手を離して、始の胸に額をつけて「うーっ」「ふーっ」声を殺して静かに泣いた。そして、咲は病室を出て行った。始は呆然としていた。「自殺」何を 言ってるんだ。 自殺しようとなんかしてない。咲さんは、誤解している。でも、台風の夜に上半身裸でベランダに立っていた理由がわからない思い出せない。眠気覚ましか?台風の具合が気になったか?そんなこと一度もない。始は自分が自分でわからなくなった。自分自身に恐怖を覚えた。会社は早期復帰を望んでいる。自分も早く復帰したい。だけど、だけど、また働いて訳がわからない内に危険なことをしたら?本当に死ぬような危険なこと?殺すのか?自分の意思とは関係なくオレがオレを殺す。バカな そんなことが まだ死にたくない。始の思考は見えない自分のこれからに、どうしようもない恐怖を感じ全身が震えた。
 カウンセリングで日記を付けてみて、始は自分がいろいろな出来事に感情の起伏がないことに気づいた。それは病院の中で決められた事が多いためかなと思った。日記は自分の事を客観視できて新しい視点を得た気がした。退院後も続けようと思った。リハビリではランニングマシンや自転車エルゴメーターでたっぷり汗をかいて、錘を持って筋トレもした。社長の里中の趣味が筋トレだったのを思い出した。身体を鍛える事は心鍛えることだよ。と得意気に言っていたのも思い出した。始も今後は身体を鍛えようと思った。食事も問題なく取れて入院2週間で体重は58kgになった。元々水分不足もあり5kgも短期間で増え見た目にも体力的にも始は健康を取り戻した。始は担当医の真田から、あと1週間で退院していいと言われた。そして里中社長に来週復帰出来ると伝えた。夕方、咲が病室に来たので始は退院できる日を伝えた。すると咲は「退院したら私と同居するよ」と言った。始は「え、どういうこと?両親は何て言ってるの?どうしたの急に」と聞いた。咲は早口に「両親は関係ない。始くんが心配だし一緒にいたいの。始くんの家族も賛成だよ。智くんが平屋の貸家見つけてくれたし、ペットオッケーだから、うちのクロも連れてくね。」クロは咲の実家の猫だ。始にも懐いている。だけど始は自分が知らない間に外堀を固められて驚いたし、戸惑った「いきなり同棲って結婚するまで一緒に住まないって言ってたの咲さんじゃない。いきなりどうしたの?オレは本当に大丈夫だよ」と言った。咲は始の目を見て、右腕を振って始の頬を打った。「もう大切な人が死のうとしている時に間に合わないかもしれない場所にいるのは嫌なの」と言った。咲は泣いていた。咲の涙を見て、頬の痛みを感じて始は、自分は大切な人にここまで心配をかけていたのかと思うに至り涙が溢れた。2人で病室の床にしゃがみこんで抱き合い泣いた。騒ぎを聞きつけて病室の前に看護師や患者が数人集まってきた。始は2人の様子を見た澤田看護師が「皆さん大丈夫ですよ」と言いそっと病室の戸を閉めるのが見えた。泣いた。涙はいつまでも止まらなかった。北都道大学を卒業し、1級建築士に合格した。一級建築士は合格率が10%程度の難関資格だ。同期46名が受験し合格は6名だけだった。奇跡だと思った。同時に自分は選ばれた人間だと思った。帯広で1番の建築会社に就職した。会社の人は優しく大切に育ててくれた。期待してくれた。頼ってくれた。十勝や北海道のいろんな公共施設や病院、商業施設、家屋等の設計、建築に関わった。経験年数5年を過ぎた頃から積極的に担当以外の仕事にも介入するようになっていた。感謝された。嬉しかった。夢が叶った。まだまだこれからどんどん自分が望む未来が開かれると思ってた。書類に不備が見つかった。修正や補償の話し合い。本来やりたい仕事はあと回し。人が辞めた。その穴を埋める。自分の仕事は後回し、仕事のあとも仕事。クライアントや取引先の担当者と揉めることもあった。残業して帰ってまた仕事仕事やらなきゃいけないオレなら出来る。オレは。オレは全てやる。心配から助けはあった。助けは結局、納得出来る内容として帰ってこなかった。人を責めるな任せたのは自分だ。やるだけだ自分が出来ることをやるだけだ。台風の強さが知りたくてベランダに出た。ぼんやりし続ける頭を覚ましたかった。強風に煽られ雨に濡れた。あの台風の夜。始の頭の中で。何度も流れた言葉が蘇った。「自分だけでやるだけだ」 だけど震えるほど怖かった。すごく怖い。1人では逃げなきゃ無理だ。出来るだけ遠くに逃げなきゃ遠くに逃げなきゃ誰も追ってこれないくらい遠くに逃げなきゃ。そんな考えが離れなくなって、風に吹かれ雨に濡れて立っていた。行くか逃げるか精神はせめぎ合い混沌の中にいた。あの日。
 そして今、必死でオレを止めてくれた咲さんが一緒に泣いてる。逃げない。ずっとオレは泣いてはいられない。逃げるわけにはいかない。守る。
 こんな風に咲さんを2度と泣かせない。唇を強く噛んだ。
 拳をぎっと握った。自分の右頬を右の握り拳で思い切り殴った。「何してんの」と咲さんが驚いて顔を上げた。
 始は笑って咲を優しく抱きしめて言った。
 「オレ 仕事辞めるわ」
  2度と泣かせない。
 始は仕事を辞めると決意した。
 次の日の朝。里中社長に電話し、とにかく退職する旨を伝えた。里中は驚いてはいたがすぐに、「慌てて決めなくていい。休職してしばらく休んだらどうだ」と冷静な口調で言った。そして、その日の午後、始の直属の上司である上島常務を伴って、病室にやって来た。始は咲に頼んで面会室を使わせてもらい、そこで、今後の話をした。里中はいつも整髪された髪型で顔のパーツ全ての主張が強いソース顔180cmほどの長身で筋肉質な体系、黒のスーツに濃紺のネクタイ、黒の革靴でやって来た。年は50代半ばと記憶しているが髪は黒々し、10歳ほど若く見える。一見、厳つくとっつき辛い印象で考え方は理知的で冷たいと感じる事もあるが、涙もろく人情味に厚い。現場にいくとスーツの汚れを気にせず作業していた。作業員の信頼も厚い。上島は里中と対照的な外見で小柄で小太り、現場主義でよく笑いよく喋る会社のムードメーカー的な存在だ。服装はだいたい作業着で頭髪は薄く40代後半と記憶しているが50後半に見える。2人は里真建築の前に働いていた建築会社で同期入社で里中が大卒、上島が高卒だった。現場や社内でうまく馴染めない里中を上島が助け、上島の2級建築士の受験勉強を里中が助け、里中が1級建築士の受験の際は上島が励ました。里中が独立する際に上島を引き抜いて2人は今も一緒に働いている。
 面会室に里中、上島、始の順に入り白い大きめのテーブルを挟んでパイプ椅子に始と里中が座り里中の右横に上島が座った。まずは里中が「昨日も電話で話したけれど、すぐ辞めると決めてしまうのは、いささか急ぎ過ぎではないかな?その前の連絡時には、復帰の方向で話していたじゃないか?どういう心境の変化かな」真っ直ぐ始の目を見て言った。始は「オレ自分がおかしくなっていたのもわからず危険な行為をして、彼女を悲しませました。仕事をしていたらまた1人で抱えこんでそんな事をしでかすかもしれない。もう彼女に心配をさせないと誓ったので辞めます」と言った。「仕事の量を調整したら大丈夫ではないかな」と里中は言った。始が黙っていると「まずは休職して考えて、無期限でいいから」と里中は言った。そして上島が「社長、始が無理しているの気づいてたよ。もちろん、だけど始の成長に必要な時間だと思って仕事を減らす提案をしなかったんだ。オレも心配だった。職場のみんなも始に戻ってきてほしいと思っている。始の意思は尊重する。だけど、結論は時間を置いて出そうな」と笑った。里中は少し涙ぐんで「上さんいい事言うなぁ」と言った。上島は「社長しっかりしてくださいよ。始の穴は大きいよ」とまた笑って言った。始は黙って頭を下げた。話が終わり部屋を出て始は2人の車を見送った。まずは退院して、休んで考えようと思った。病室に戻ると咲が居て、「どうだった」と聞いた。始は2人と話した内容を話した。咲は「いい人たちと働いていたね」と始が退職したように言って笑った。退院の日が来て、始は久しぶりに自分の部屋に入った。散らばっていた書類は咲が始の職場に届けていた。やりかけの仕事のデータは始が入院中、
 咲にノートパソコンを病室に持ってきてもらい会社宛てに送信していた。2日後、引っ越し先の家を咲と見に行って、10月始めには引っ越す予定だ。それまでは咲がこのマンションに、泊まって毎日、ここから出勤することになった。厚生病院も忙しく夜勤もあるので咲は退職することにし、知り合いが働くクリニックに10月から行く予定だ。咲は始と直接会えていなかった時期に退職を伝えていて、始との時間を多く作るつもりで動いていた。始は自分は自分の仕事の事だけしか考えていなかった事を恥じた。そして、改めて、咲を幸せにしたいと思った。
 退院を翌日に控えて、心療内科の真田に最後の診察を受けた。その日は咲も同席した。生活習慣を規則正しくすることや適度な運動、日記の継続。また、始は自己効力感が強いから、まずは自己肯定感をしっかりとすること。自分の心の観察などこれまでの診療の復習の内容の継続を確認された。そして、「鬱病は治りかけが1番怖いからな。気をつけて」と言った。始は治るも何も、鬱病じゃないから と思った。咲は始の隣で真田を見つめしっかりと頷いた。
 退院日の正午。始の母、礼代と咲が迎えに来た。そして、マンションに帰る前に3人で帯広駅前のレストランフジモリで食事をすることになった。
 始を部屋に迎えに行く前に咲は、礼代と2人、病院1階のベンチで並んで話しをした。礼代は「ごめんね。咲さん、迷惑かけて」とこれまでも会うたび口した言葉を言った。咲は「迷惑なんて」と小さく首を横に振ると礼代は「始はどんどん、お父さんに似てきた」と言った。始の父、豊は6年前に亡くっていた。死因は肝臓がんだった。「お医者さんだった」と咲が言うと、礼代は笑って頷き「ここに移転する前の厚生病院でね。整形外科医だったの。結婚前までは私も看護師だった」「今回、始が入院する前みたいに、お父さんも手術に外来、夜勤対応。働いてすぎてね。何回、倒れて点滴したか」そして「それでも、医者を辞めてくれなかったな」とぽつりと言った。咲は「お父さんに医者を辞めるように言ったんですか」と咲が聞くと「高校の同級生でその頃から付き合っていたから。医者に向いてないことや、かなり無理しているのもわかるから」「私が養うから辞めて。とまで言ったわ」と笑った。「そしたら、あの人いつも笑ってね。患者さんはもっと大変だからって言うのよ」「結婚して子供産まれてからも、忙しさは変わらなくて、病院に寝泊まりしてた時期もあったな」「使命感って言うのかな。本当に頑固な人だった」そう言うと礼代は少し笑い小さく息を吐いて「ごめんなさい。始はそこまで頑固じゃないかな」と言った。そして、「でも、陸上で北高に行くことも、建築系の大学に行くことも、お父さんが反対しても絶対に譲らなかったな」と続けた。咲は、黙って頷いた。そうして2人、一緒に立ち上がり始を迎えに歩き出した。フジモリには、始が幼い頃から記念日や外食の際に、高木家でよく利用していた。席について最初に無料でメロンソーダを出すサービスに、始は嬉しかった事を思い出す。席に着いて注文を終え、メロンソーダを飲みながら始は、正面に座る母を見た。母、礼代は、髪に白髪はなく、目立つしわもない。実年齢の56歳より若く見える。背は160弱で中肉中背だ。少し痩せたように見えたから始が聞くと元々、太っていたから、今はダイエット中と笑った。そして、ざるそばをすすりながら「どうやったら、もう少し痩せられる」と聞いた。始は豚丼を食べながら「食わなきゃ痩せるよ」と答えた。ぶっきらぼうに答える始に咲はハンバーグを切っている手を止め「始くんの痩せ方は良くないので、運動して食事をバランスよく減らしてみたらどうですか」と言って笑った。「なかなか難しいのよ」と礼代は笑い「お兄ちゃんもう大丈夫なんでしょ」と聞いた。始は豚丼を口に運びながら「もちろんだよ」と頷いた。それから、10月から智が探してくれた平屋に引っ越す話。そこに咲と同棲する話。仕事は休職してしばらく休む話。礼代のパートの話や趣味で始めたオカリナの話などをして店を出た。別れ際、咲に礼代は「始のこと、よろしくお願いします」と頭を下げた。咲も「はい」と真っ直ぐ礼代を見て答えていた。始は「心配ないから」と礼代に言った。夕方、智と久子がマンションに来て、咲と4人で退院祝いをした。智と久子が惣菜やお酒を持ってきて咲が簡単なつまみを用意した。酒は4人ともビールで乾杯した。智は始の一つ下の29歳で塩顔の始と違い、濃い顔で目鼻立ちがはっきりしていてハーフと聞かれることもある。背は始より少し高い178で体重は80キロを超えたり切ったりしている。営業は接待が多いから太るとよく愚痴を口にしていた。大学卒業後、帯広市内のトータル食品という食品卸し会社に就職し営業職で今は課長になった。昔から根明で要領がよく社交的で交友範囲が広かった。久子は26歳。背は160ほどで痩せている。顔立ちは始と智の中間くらいで本人曰く個性の弱い顔をしている。札幌の理美容専門学校を卒業後、帯広市内の美容室で働いている。昔から美容師になると話していて、始や智はよく髪を切ってもらっていた。今も髪を切る時は久子の美容室を利用し、咲も利用している。「兄ちゃんもう平気なの」と智が枝豆に手を伸ばしながら何気ない口調で聞いた。始は「大丈夫」と答え、久子が「良かった。まぁゆっくり休みなよ。働きすぎだったもん、お兄ちゃん」と言い「髪切りなよ」と笑った。始は肩まで伸びた自分の髪の先を右手で触った。咲も「そうだよーだらしないもん。久子さん始が切る日に私もお願いします」と2人の髪を切る日を予約した。咲はパーマとカラーもしたいと言い楽しみにしていた。「いきなりやることないのも暇じゃない?」と智がビールから日本酒に変えて飲みながら聞いてきた。始は少し考えて「外を走ってジムに行くよ。咲さんと旅行したいし、いろいろあるよ。読書もしようかな」とアルコールで饒舌になったからか、やりたいことがすんなり浮かんできた。「そうだよ。咲さん孝行しなよ。」と久子がワインを飲みながら口を挟んだ。咲は「ありがとう、久ちゃん。どこ行こうか始。まずは、そうだ小樽に行こう。似鳥会長の美術館に行きたい」と言ってレモンの缶チューハイを飲んで言った。始は「美術館いいね。何でも鑑定団だ」とビールを飲んで笑った。そして「ただ休んで趣味を楽しむのもいいけど、全く働かないのも辛いなー」と言った。すると一瞬、場がしらっとした。咲が「まだ働くとかいいから」とやや固い声で言って、さらに空気が重くなった。沈黙が流れた。 
 そこに「あはっはっは」と智が笑い声を上げ、空気を変えた。「まあまあ、兄ちゃんまずは休む。咲ちゃん孝行する。課題は分けて考えよう」とピザを取りながら言った。「休みが課題かよ」と始も笑いピザを取った。久子も「そうだよ、立派な課題。ちゃんと休んでよ。お兄ちゃん」と言ってピザを齧った。咲は兄弟っていいなと思いながら、始がちゃんと休んでくれることを願った。
 次の日、引っ越しをする西帯広の平屋の貸物件を見に行った。平屋は、家賃6万円。築5年で3LDK。和室はなく全てフローリングでバリアフリーだった。南側の窓が大きく日当たりは良好で壁は白。オール電化でカウンターキッチンになっていた。平屋の南側に庭があり、東側に2台分の駐車スペースがあった。ペットOKだが汚れや破損があれば退去時に請求すると不動産屋の橋本という中年の男性担当者が優しい口調で説明した。始も咲もこの物件を気に入り、入居の手続きをした。
 それから一週間後、咲と咲の両親と、緑ヶ丘の平和園で食事をした。その2日前に始は久子に髪を切ってもらい長い髪は耳が隠れる程度で前髪も目にかからないくらいにしていた。咲は髪色を明るくして、緩くパーマをかけて活発な印象の髪型になっていた。咲の父、三島 正治は58歳 170弱で痩せ型、始に会う時はいつもスーツ姿で背筋が伸び姿勢がいい。剣道3段。白髪まじりの頭髪をしっかり整髪し、顔はほりが深く眉太い、柔和な表情をしていて口数は少ない。帯広市役所に勤務している。母、春子は、顔は咲に似て童顔で小柄。薬剤師で市内のサッポロドラックで働いている。始と正治がビール。咲と春子がウーロン茶で乾杯した。焼き肉を焼き食べながら、春子が「始くん、だいぶ調子は良くなったみたい?」と聞いた。始は「もう大丈夫です。しっかり休んで、また頑張ります」と答えた。「まだ頑張ることを考えないでいいから」と咲が言ってカルビを始の皿に入れた。正治が「咲が心配してる。この子は心配症なんだ。始くんも今は無理せず、休んで、咲の言うことを聞いてやってくれ」と笑った。始を見るその目には咲からも感じる信念が見えた。この父と娘の性格はすごく似ている。「ちょっとお父さん、始くんにプレッシャーかけるような事言わないでって言ってたでしょ」と正治を睨んで言った。「すまない。私たちは咲が心配でね」と正治は目を伏せた。すかさず「咲ちゃんお父さんは咲ちゃんのために言ったのよ」と春子が言った。咲は「いいから、この流れ。いつも、そればっかりうんざりだって言ってるでしょ」と咲は春子に言った。正治と春子は目配せし黙って、それぞれに、ビールを飲み、ウーロン茶を飲んだ。そして、いろいろな部位の肉を忙しく焼いていた。始は、会うたびにこの両親の娘に対する愛情の強さに圧倒される。親の愛は兄弟の数で割れてしまうものかもしれないとすら思った。咲の両親2人の愛の矢印は咲だけにいつも注がれている。そしてそれを感じるたびに自分がしっかり咲をしっかりと守らないと思った。
 10月になって平屋に引っ越した。引っ越し前に始の車、黒のレガシーで咲と小樽の美術館に行き、札幌のノースサファリポークに行った。また別日に釧路の動物園に行った。引っ越してからは、朝は必ず7時に起き、ホーマックで買った懸垂バーと腹筋ローラーで筋トレをして、咲の仕事から帰る5時半頃から雨の日以外、毎日2人で30分ほど家の周りを走った。咲が出勤して夕方に走るまでの間は、同じ日に引っ越した猫のクロに餌をあげ、遊び、排泄物の処理をしたり、洗濯、掃除、皿洗いをした。そして読書や映画鑑賞をして過ごした。季節は冬になり、外が走りにくいので西帯広のジョイフィットに週4回通い始めた。始の身体に筋肉がついて引き締まり、咲は腹筋割れてると喜んだ。そして、私も休みに行くかなと自分のお腹の肉をつまんで言った。年が明け、仕事をしなくなって3か月が過ぎた。里中や上島からは退院後、1か月に1回ずつのペースでラインが来た。仕事の話題はなく、始の体調に対する質問や気遣いの内容だった。始の体調は規則正しい生活をし、3食食べ適度に運動をして心身共に安定していた。咲との同棲生活も上手くいっていた。ただ始は不安を感じていた。貯金はあるし、好きな人と暮らしている。日記にはポジティブな記述が溢れた。始は前にも感じたような自分ではどうしようもない不安が大きくなっていく。それを、今は客観的に見ていた。
 3月に積雪140cmの大雪が降った。夕方から雪が降り始め始は除雪しながら時折り、空を見上げ雪を浴びていた、雪は始の顔で溶け、冷たく除雪で熱くなった身体に気持ち良かった。そこに咲が帰って来た。そして咲と2人で除雪した。そして朝方、雪は止んで、始は咲が出勤前、2人が寝てる深夜に積もった雪を綺麗に除雪した。咲は、始に感謝してクリニックに出勤した。咲を見送った後、携帯のラインに智から始の近所のおばあさんが除雪出来なくて困っているとのメッセージがあった。始はすぐに行くから住所を送ってくれと返した。智から送られてきた住所は本当に雪がなければ徒歩5分の場所でその家の前の道を始は何度も通っていた。始はスコップを手にすぐ家を出た。歩道の除雪はされていないので車道を歩いていった。歩いて10分かからない位で始は目的の家に着いた。表札に朝日とある。智がラインで送ってくれた名前と一致した。雪に覆われているが比較的、新しい平屋の家で立派な庭があった。東側の玄関前に車が雪に埋もれて山状になっていた。除雪をしないとインターホンにも辿り着けないため、始はすぐに雪かきを始めた。インターホンまで除雪し、玄関で家主の応答を待った。玄関をフードに出てきた。おばあさんは、「はじめまして、朝日です。突然すみません、来てくださって、ありがとうございます」
 と言った。80歳くらい 髪はきれいな白髪で肩くらいまでの長さ。つぶらな瞳の丸顔。背は140くらいで小太りで優しい印象。智のラインでは独居とあった。 病院に行かないとならないが雪で外に出られないと、困ったが息子は遠くにいて頼れない。近所の人も自分たちの除雪で大変。本当に困り果てて、以前から交流があり、連絡先の知る智に一縷の望みをかけ、助けを求め電話したそうだ。すぐに対処します。と返事のあと、すぐに、兄がそちらに向かいますとメールが来たと話した。始は到着し道花に挨拶をして、1時間ほど家の玄関前、車の周りと庭を除雪をして、車を出せると道代に伝えた。道花は始を家に上げ、「今日、病院に行って薬をもらう予定だったから助かりました。ありがとうございました」と頭を下げた。始は「いえいえ暇なので、病院すぐ行かなくて大丈夫ですか」と尋ねると午後2時に予約しており、車は道が悪いのでタクシーを呼ぶと話した。そして、お茶とお菓子を出した。始にいろいろな話をした。道花は夫との結婚を機に帯広に来たこと。夫と結婚して子供が3人出来て苦労した話。夫が10年前に肺がんで亡くなったこと。夫と行った新婚旅行の話。息子たちは東京にいて、ほとんど帰らないこと。孫はいないこと。結婚前は教師をしていたこと。友達はどんどん亡くなっていなくなったこと。若さはすぐなくなること。盆踊りで歌ったこと。いつ迎えが来てもいいこと。畑は来年でやめることなど。脈絡なくどんどん道花は話した。そして「あ、ごめんなさい。本当に久しぶりに人と話したから」と言った。始は孤独は人を多弁にするのかとこちらの反応は気にせずとうとうと自分の思いつく限りに話をする道花に切なくなった。同情は失礼かとは思ったけど、同情した。そして、いつまでも話を聞いた。1時間ほど話して「長々と同じような話をごめんなさい。良かったら、ごはん食べて行って」と言った。もう昼か。始は少し迷いながらも「いただきます」と頭を下げた。すると道花は嬉しそうに、料理を始めた。そして、「お待たせしました。お口に合うかしら」と、ご飯。ネギと豆腐の味噌汁。焼き鮭。きゅうりの漬物。卵焼きが出てきた。ご飯の固さは丁度良く、焼き鮭や漬物の塩味も除雪で汗をかいた後もあって、とても美味しく、卵焼きはふんわりしてほんのり甘く醤油とあい、味噌汁の具材の火の入り方が絶妙だった。始は黙々と食べた。道花は微笑みながら始が食べるのを見ていた。始が道花の視線に気づくと「ごめんなさい。久しぶりに人とごはん食べるから嬉しくて」と言った。始は「とても美味しいです。卵焼きも味噌汁も、全部うまいです。ありがとうございます」ともぐもぐ口を動かしながら言った。「こちらこそ、美味しそうに食べくれて、ありがとう。この食材はすべて弟さんの会社から宅配してもらっているのよ」と言い「助かるわ」と笑った。始はそういう繋がりかと思い、智の会社が個人向けの宅配を始めたことを話していたことを思い出した。「そろそろ帰ります。ご馳走様でした」と始が席を立とうとすると、道花が「こちらこそ、今日は急なのに来てくれて助かりました。これで病院に行けるわ」と笑い「これ気持ちだから」と封筒を始に渡した。始はお金であると感じ、「いや食事もご馳走様になったし、頂けません」と返そうとした。道花は受け取らず「気持ち良く受け取って」微笑んだまま始を見つめた。始は戸惑いながら、受け取らないのは悪い気がして頭下げて「じゃあ」と受け取った封筒を上着のポケットにしまった。道花はまた「ありがとう」と言った。その笑顔に始は温かい気持ちになった。防寒長靴を履き、「では失礼します」と玄関を出ようとする時、道花が「また来てね」と言った。始は戸惑ったが思い直して「はい、また来ます」と答えて笑った。道花は「ありがとう。高木さんは優しいのね」と言った。道花の家を後にして、雪で歩きにくい道を家から持ってきたスコップを担いで帰りながら、始はなんとも言えない暖かい幸せな気分を味わっていた。
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