「君は最高だ」と全肯定し続けた彼女が、自信がついた途端に俺を捨ててチャラ男へ。支えを失い崩れ落ちる君を、俺は笑って見捨てることにした。

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第1話 肯定という名の鎖が切れる時

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教師が教室を出て行くのと同時に、あちこちで生徒たちの話し声が波のように湧き上がった。
部活動へ急ぐ足音、廊下でふざけ合う男子たちの笑い声、鏡を取り出して前髪を直し始める女子たちの甘い会話。
そんなありふれた高校生の日常の風景の中で、俺、佐伯蓮(さえき れん)は、深く、誰にも気づかれないようにため息をついた。

「ねえ、聞いてるの蓮くん? あの数学の教師、絶対私のこと目の敵にしてるよね? 私がちょっと答えられなかっただけで、あんな言い方しなくてもよくない?」

隣の席から投げかけられる、棘を含んだ甘ったるい声。
一ノ瀬美月(いちのせ みつき)。
この一年半、俺が生活のすべてを捧げる勢いで支え続けてきた、俺の彼女だ。

俺は慣れた手つきで教科書を鞄にしまいながら、彼女の方へ向き直る。
そこには、少し不機嫌そうに唇を尖らせ、上目遣いで俺を見つめる美少女がいた。
艶のある黒髪は緩く巻かれ、計算されたナチュラルメイクが彼女の大きな瞳をより魅力的に引き立てている。制服の着こなしも、スカートの丈も、今の流行りを完璧に押さえている。
クラスの男子なら誰もが一度は目を奪われるであろう、自他共に認める「学校のマドンナ」的存在。

けれど、俺だけは知っている。
この完璧な外見のすべてが、俺のアドバイスとコーディネートによって作り上げられた鎧であることを。
そして、その鎧の中身が、依然として脆く、他者からの承認なしでは立っていられない不安定な精神のままであることを。

「うん、聞いてるよ美月。あの先生、言い方がきついところがあるからね。美月はちゃんと予習してたのに、たまたま緊張して言葉が出なかっただけだろ? 俺は分かってるよ。美月は何も悪くない」

俺の口から、自動販売機のように淀みなく「正解」が吐き出される。
否定しない。議論しない。ただひたすらに肯定し、彼女の自尊心を守る。
それが、俺たちの関係における鉄の掟であり、俺に課せられた役割だった。

俺の言葉を聞いた瞬間、美月の表情が和らぐ。
強張っていた肩の力が抜け、頬に安堵の色が差す。

「だよね! やっぱり蓮くんだけだよ、私のこと分かってくれるの。本当、あの先生ムカつく。……あーあ、なんか疲れちゃった」

そう言って、彼女は机に突っ伏した。
その仕草すらも、今の彼女はどこか計算高く、「守ってあげたくなる美少女」を演じているように見える。
以前の彼女は違った。
高校入学当初、美月は教室の隅で怯えるような地味な少女だった。
中学時代の人間関係のトラブルがトラウマになり、自己肯定感は皆無。人と目が合うだけで過呼吸になりかけ、不登校寸前まで追い込まれていた。
そんな彼女を見かねて、席が近かった俺が声をかけたのが始まりだった。

毎朝のモーニングコール。
学校に来るのが怖いと泣く彼女を、電話越しに一時間かけて励ます日々。
教室では常に隣にいて、周囲の視線から守る盾になった。
ファッション誌を読み漁り、彼女に似合う服やメイクを提案し、美容院にも付き添った。
「君は可愛い」「君は素晴らしい」「君ならできる」
呪文のように毎日、何十回、何百回と繰り返した全肯定の言葉たち。

その甲斐あって、美月は変わった。
学校に通えるようになり、笑顔が増え、外見が見違えるほど垢抜けた。
俺の献身は報われた──はずだった。

「……蓮くん」

突っ伏していた美月が、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、いつものような「私を慰めて」という依存的な色はなく、どこか冷たく、そして妙に昂った光が宿っていた。

「どうしたの?」

俺は努めて優しく問い返す。
いつものルーティンなら、この後は「甘いものでも食べに行こうか」と提案し、彼女の機嫌を取りながらカフェに向かう流れだ。
だが、今日の美月は違った。
彼女は長い睫毛を伏せ、まるで舞台女優が悲劇のヒロインを演じる前のような溜めを作ってから、口を開いた。

「あのね、大事な話があるの」

教室に残っていた数人の生徒たちが、異様な雰囲気を察してチラチラとこちらを見ている。
西日が差し込む教室はオレンジ色に染まり、埃がキラキラと舞っている。
俺は胸の奥で、冷たい予感が警鐘を鳴らすのを感じた。

「大事な話?」
「うん。……私たち、別れよう?」

その言葉は、唐突だったが、不思議と衝撃はなかった。
どこかで「ああ、やっぱりか」と納得している自分がいたからだ。
最近の美月は、俺に対して以前のような感謝を示さなくなっていた。
俺の献身を「当たり前のサービス」として受け取り、それどころか、時折俺を見る目に「値踏み」するような色が混じるようになっていたことに、気づかないふりをしていただけだ。

「……理由を、聞いてもいいかな?」

俺の声は、自分でも驚くほど冷静だった。
美月は俺の反応が薄いことに少し不満げに眉をひそめたが、すぐに気を取り直して、用意していたであろう台詞を語り始めた。

「蓮くんはすっごく優しいよ。私がいちばん辛かった時、支えてくれたのは蓮くんだって分かってる。感謝もしてる。……でもね、優しすぎるの」

美月は立ち上がり、窓際に歩み寄る。
逆光の中で振り返るその姿は、確かに美しかった。俺が丹精込めて磨き上げた宝石そのものだった。

「蓮くんと一緒にいると、私、いつまでも『ダメな私』でいなきゃいけない気がするの。蓮くんは私を過保護に守ろうとするけど、今の私はもう昔の私じゃない。もっと強くて、輝いてる自分になりたいの」

彼女は自分の胸に手を当て、陶酔したように語る。

「私には、もっと高い場所が似合うと思うんだ。今の私のレベルにふさわしい、刺激的で、私を引っ張ってくれる強い人と一緒にいたいの。……蓮くんみたいな、ただ優しいだけの保護者じゃなくて」

保護者。
その言葉が、俺の中で何かが切れる音を響かせた。
俺は彼女の「保護者」になりたかったわけじゃない。ただ、彼女が一人で立てるようになるまで、杖になろうとしただけだ。
だが、杖をついて歩けるようになった彼女は、その杖を「邪魔な古道具」だと判断したらしい。

「それに……私、もう見つけちゃったから」

美月の頬が、恋する乙女のように赤く染まる。
その表情は、俺には一度も見せたことのない、獲物を狙う雌豹のような、あるいは高揚感に酔いしれる少女のような、複雑な色を帯びていた。

「見つけたって……新しい相手を、ってこと?」
「うん。ごめんね、蓮くん。でも、運命だと思っちゃったの」

浮気、あるいは二股。
決定的な裏切りを、彼女は「運命」という安っぽい言葉で美化してみせた。
怒りが湧くべき場面なのかもしれない。
泣いて縋るべき場面なのかもしれない。
だが、俺の心を満たしていたのは、奇妙なほどの「静寂」だった。

ガララッ──。

教室の後ろの扉が、乱暴に開け放たれた。
その音に驚いて視線を向けると、そこにはユニフォーム姿の男子生徒が立っていた。
桐谷翔(きりたに しょう)。
サッカー部のエースで、整った顔立ちと少し斜に構えた態度で女子からの人気が高い、いわゆるスクールカーストの頂点に君臨する男だ。
汗で濡れた髪をかき上げながら、桐谷はニヤリと口角を上げた。

「おいおい、話長いんだけど。美月、まだ終わんねーの?」

桐谷は俺たちの間に割って入るように近づいてくると、馴れ馴れしく美月の肩を抱き寄せた。
美月は抵抗するどころか、とろけるような笑顔で桐谷の胸に寄り添う。
その距離感、その空気感。
一目瞭然だった。二人の関係は、今日始まったものじゃない。
もっと前から──俺が美月の愚痴を聞き、励まし、機嫌を取っていたその裏で、彼らは繋がっていたのだ。

「あ、翔くん! ごめん、蓮くんがなかなか納得してくれなくて」

美月が嘘をつく。俺は一言も反対していないし、納得していないとも言っていない。
ただ、彼女にとって「振られた男は未練がましく縋るもの」というシナリオが必要なのだろう。自分の価値を高めるために。

桐谷は、美月の肩に手を回したまま、値踏みするような視線を俺に向けた。
その目には、明確な侮蔑の色があった。

「へえ、お前が佐伯か。美月から聞いてるよ。なんかストーカー並みに尽くしてくる重い彼氏がいるって」

ストーカー並み。
美月の中で、俺の献身はそんな風に変換されていたのか。
俺が毎朝彼女を起こし、ノートを貸し、夜遅くまで電話に付き合っていたのは、彼女が「そうしてほしい」と泣きついてきたからだというのに。

「お前さ、勘違いしてんじゃねーよ」

桐谷は鼻で笑い、嘲るように言った。

「男ってのはさ、女を守るフリして支配したがる生き物だけど、お前のは度が過ぎてんだよ。美月はお前の着せ替え人形じゃねーし、お前の自己満足のために弱いままでいさせるなんて、最低だろ。そういう湿っぽい優しさ、今の美月には必要ねーんだわ」

桐谷の言葉は、ある側面から見れば正論のように聞こえるかもしれない。
だが、その言葉の裏にあるのは「俺は違う」「俺は特別だ」という、肥大化したエゴだ。
彼は美月の過去を知らない。
彼女がどれほど手のかかる、底なし沼のような依存体質であったかを知らない。
今の「完成された美月」しか見ていない彼にとって、俺はただの「過干渉な前任者」に過ぎないのだろう。

「……翔くん、言い過ぎだよぉ。でも、ありがとう。私のために怒ってくれて」

美月が桐谷を見上げ、うっとりとした声を出す。
完全に二人の世界だ。俺は観客ですらない、ただの背景としてそこに立たされていた。

「ま、そういうことだから。悪りぃけど、美月は俺がもらうわ。お前みたいな地味な奴より、俺の隣にいる方がこいつも輝けるしな」

桐谷が勝利宣言と共に、美月の腰に手を回す。
美月もまた、勝ち誇ったような目で俺を見た。
その目は言っていた。
『見て、私にはこんな素敵な彼氏ができたの。蓮くんよりずっとかっこよくて、強くて、人気者の彼が。悔しいでしょう?』

俺は、二人の姿をじっと見つめた。
怒りはなかった。悲しみも、不思議なほど薄かった。
代わりに、胸の奥底から湧き上がってきたのは──圧倒的な「解放感」だった。

ああ、終わったんだ。
俺はもう、夜中に鳴り響く着信に怯えなくていい。
彼女の顔色を伺い、一言一句間違えないように言葉を選ぶ緊張感から解放される。
休日のすべてを彼女のケアに費やし、自分の趣味や友人との時間を犠牲にしなくていい。
「君は素晴らしい」と、自分自身すら信じていない言葉を吐き続けなくていい。

肩にのしかかっていた鉛のような重りが、音を立てて落下していく。
視界がクリアになり、呼吸がしやすくなる。
俺は、自分が思っていた以上に、疲弊していたのだとようやく自覚した。
そして、この理不尽な別れこそが、俺にとっての「救済」であると悟った。

俺は、自然と口元が緩むのを止められなかった。
それを、彼らがどう解釈したかは分からない。
ただ、俺は憑き物が落ちたような声で、静かに言った。

「……そうか」

俺は美月から視線を外し、桐谷を見た。
そしてまた美月に視線を戻す。

「分かった。別れよう」

あまりにあっさりとした俺の言葉に、美月が一瞬拍子抜けしたような顔をする。
もっと揉めると思っていたのか、あるいは泣いて縋られることを期待していたのか。
だが、俺はもう、彼女のために感情のリソースを割くつもりはなかった。

「美月の言う通りだよ。俺は過保護すぎたのかもしれない。君にはもう、自信も、輝きも、そして……新しい彼氏もいる」

俺は机の上に置いていたスマートフォンを手に取り、画面を操作した。
LINEのトーク画面を開き、一番上にピン留めされていた「美月」の名前を解除する。
そして、そのままトーク履歴を全削除し、友達リストから彼女の名前をブロック、削除した。
指先一つで、一年半の積み重ねが消えていく。
その動作に、一片の迷いもなかった。

「君はもう、一人で大丈夫だよね」

俺は顔を上げ、美月に最後の言葉を贈った。
それは皮肉でも嫌味でもなく、彼女が望んだ通りの、彼女を肯定する言葉だった。
ただし、そこにはもう「俺が支える」という前提はない。
突き放された肯定。
責任の伴わない、他人行儀な賞賛。

「え……?」

美月が、微かに戸惑いの表情を浮かべる。
俺の言葉の裏にある、決定的な「拒絶」と「無関心」のニュアンスを感じ取ったのかもしれない。
だが、桐谷がすぐに彼女の肩を抱き寄せ、その思考を遮断した。

「当たり前だろ。俺がいるんだからな。行くぞ、美月」
「あ、うん……。じゃあね、蓮くん。元気でね」

美月は桐谷に促され、教室の出口へと歩き出す。
去り際、彼女は一度だけ振り返った。
その表情には、まだ「私が捨てたのよ」という優越感が張り付いていたが、どこか落ち着かない色が混じっていた。
俺が追いかけてこないことが、想定外だったのかもしれない。

二人の姿が廊下に消え、話し声が遠ざかっていく。
教室には再び、俺一人だけが残された。
西日はだいぶ傾き、教室の影が長くなっている。

俺は深く、肺の中の空気をすべて入れ替えるように深呼吸をした。
空気が美味い。
ただの教室の空気が、こんなに清々しく感じられるなんて。

「……元気でね、か」

俺は鞄を持ち上げ、肩にかけた。
驚くほど軽く感じた。
物理的な重さは変わっていないはずなのに、まるで重力から解放されたかのような軽やかさだ。

ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
取り出してみると、中学時代からの友人である健太(けんた)からのLINEだった。

『今日、あそこのゲーセン行かね? 久しぶりに新作入ったらしいぜ』

いつもなら、「ごめん、美月と帰るから」と断っていた誘い。
俺は迷わず、フリック入力で返信を打った。

『行く。あと、飯も行こう。今日は俺が奢るわ』

送信ボタンを押すと同時に、既読がつく。
『マジで!? 雪でも降るんじゃねーか? すぐ合流しようぜ!』

画面の向こうの友人の興奮が伝わってきて、俺は声を上げて笑った。
こんなに自然に笑えたのは、いつぶりだろうか。

俺は教室を見渡した。
そこにはもう、俺が守るべき少女も、俺を縛り付けていた義務感もない。
あるのは、どこまでも広がる自由な時間と、これから取り戻すべき俺自身の青春だけだ。

「よし」

短く呟き、俺は教室の扉を開けた。
廊下に吹き抜ける風が、前髪を揺らす。
その風は冷たかったが、今の俺には心地よかった。

美月、桐谷。
お前たちがこれからどうなるか、俺は知らないし、興味もない。
ただ、一つだけ言えることがあるとすれば。
君が言った通り、君は「一人で大丈夫」なんだろう。
その言葉が、いつか君自身の首を絞めることになるとしても、それはもう、俺の知ったことではない。

俺は軽やかな足取りで、夕焼けに染まる廊下を歩き出した。
その背中は、一度も振り返ることはなかった。
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