終末のグリモワール

五月雨雫

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序章

第九話「グリモワ」

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 セントーレア学園内、ラウンジ。
 全面がガラス張りの大きな窓からは陽の光が射し込み、照明が無くとも室内を明るく、柔らかく照らす。ノートを広げて勉強に専念するにも、ひたすら読書に没頭するにも、はたまた、束の間の休息――仮眠を取るにも最適な環境であった。
 広大な校舎の各階に点在するこの休憩室は、特に決められた用途が存在せず、言わば多目的室フリースペースのような場所と言っても差しつかえない。昼時に全生徒が集う食堂ほどではないにせよ、少なくとも、会議室の倍以上の広さはあるように思える。
 上記の理由から、大勢の生徒達がゆったりとくつろぐことの出来る憩いの場となっており、その中には度々、教員達まで簡単な話し合いや面談の際に利用している様子も見受けられた。
 無論、今の時間は授業中であるため、広々とした空間にいくつも備えられたテーブルとソファのもとに人影は見当たらない。――ただ一人、例外を除いては。

「…………」
 パラ、と紙をめくる音が、無音の空間に控えめに響く。そこには、広い部屋の片隅、窓辺のソファに深く腰を掛け、黙々と読書にふける青年――シロエの姿があった。
 先ほどから彼が食い入るように読んでいる一冊の本。その表紙には“レヴリ”という単語が記されている。表題から察するに、この世界レヴリの成り立ちや摂理についての書籍のようだ。
(…………グリモワ、かあ)
 グリモワ――この世界に生きる者達が皆、例外なく体内に宿している魔導書こと、生物としての無くてはならない生命の“核”。しかし、彼には“それグリモワ”が存在しない。
 グリモワには所有者の人生がページとして刻まれる。これまで見てきたものや出会った人、成し遂げた事――それから、人知れず抱える本心。仮に記憶を失ったとしても、グリモワの特質上、ある程度の復元は可能なはずだった。

 ◆

「グリモワ……? って、何ですか?」
「…………へっ?」
 時はさかのぼること数時間前、入学の手続き後。何の気なしに投げかけた率直な疑問に、ノエルが目を丸くし固まる。
 自分にはおのれが何者であるのかの記憶が無い。そこで彼女から提案されたのが、まさしく「グリモワを用いた記憶の復元」であった。
 ……が、その結果、導き出されたのは問題の解決どころか、状況をより複雑にする異常事態イレギュラー驚愕きょうがくの事実は場の空気を――それどころか、のちの職員会議さえも酷く混乱させることとなってしまった。
 カガリとユキネがどうにかその場をなだめてはくれたものの、やはり彼女達も動揺や困惑は隠しきれておらず、庇おうと紡がれる言葉の苦しさは否めない。それだけ、普通ではない状態を意味するのだろう。
 ――何も分からないなりに、言外げんがいの雰囲気からは十二分じゅうにぶんに察するものがあった。

 ◆

(これが無いと生きていられないのなら……僕は一体……?)
 彼の大きな藍色の瞳が、少し難しそうに細められる。上手く言い表せない感情――一抹いちまつの不安が頭をよぎるも、今は未知の知識に対する好奇心の方がまさっていた。
 まだ何も分からなくても、きっとこの先、どこかで点と点が繋がるはず。教わったばかりの、最低限の読解力を惜しまずに費やしつつ、シロエは紙面に並んだ文字を無我夢中で読み進めていく。
 そうだ、確証など無くたって構わない。知識を求めたく末が間違いであるはずがないと――一体、記憶を失ったおのれのどこに刻まれていたのか、ふつふつと湧き上がる謎の高揚感こうようかんに、何故だかを覚えた。

「っあ、あの~……?」
 不意に声をかけられ、ぴたりとページをめくる手が止まる。ずっと彼一人だと思っていたその空間には、いつしかもう一人、別の生徒らしき少女の人影があった。
 本来であれば、急に話しかけられた驚きで肩が跳ねても何らおかしくはなさそうな状況。しかし、シロエは至って冷静だった。……一番最初に、微睡の森まどろみのもりでカガリの悲鳴を聞いた時ですら全く動じなかったのだから、当然といえば当然の反応だ。
「こんにちは」
「! こ、こんにちは……!」
 目を引く鮮やかな赤色の長髪に、明朝みょうちょうの淡い空の色をそのまま映したような澄んだ瞳。頭上の大きな獣耳は、あの天狐族てんこぞくの少女達のものによく似ていた。
 小柄ながらも凛とした雰囲気とは裏腹に、控えめな物腰の彼女。紺色のブレザーの袖、肩付近に腕章が巻かれているところを見るに、ごく普通の“一般生徒”ではなさそうだ。
「えと、その……! 教室……戻られないんですか……?」
 遠慮がちにシロエの隣、空いているソファの片側へ腰を下ろした少女が問う。……が、彼からの返事は無い。
 ただ一言、挨拶を交わした以外は目配せすらせず、こちら少女に興味は無いと言わんばかりに、片時かたときも本から目を離さないシロエ。そんな様子を前に彼女は酷く困惑し、あたふたとしている。

「――――ん、ごめん。さっき、何か話してた?」
 視界の片隅で狼狽ろうばいする少女に気が付いたのか、しばしの沈黙の後、ようやく彼が口を開く。今度は視線を完全に彼女の方へと移しており、先ほどまでのような上の空ではない。
「あっ、えっ!? え、えっと……、こんな時間に、お一人でラウンジにいらしたので……! 教室に戻りたくないとか、そんな感じなのかな~と……あ、あはは……」
「教室……」
 彼に自身の存在を気付かれないまま流される――という気まずい事態を回避できた安堵からか、困惑に染まっていた少女の表情がほころぶ。そんな彼女につられるかのように、シロエもそれまで真剣一色だった目元をふっと緩めた。
「それ、“クラス”ってやつ……? ええとね、まだ決まってないらしいんだ」
「なるほど~。そうなんですね――って…………ええ!?」
 困惑、安堵、そして驚き――ころころとせわしなく表情を変える彼女にどこか既視感を覚えつつも、シロエは変わらぬ顔色でぼんやりと少女を見つめる。その真っ直ぐな視線がぶつかると、目の前の彼女はハッと我に返り、気恥ずかしそうに小さく咳払いをした。
「……失礼しました。クラスがまだ決まっていないということは、貴方は転校生さん……?」
「んー……、学園長は“編入生”って言ってたかなあ」
「編入……!? それはまた、珍しいですね……!?」
「そうなの?」
「そうですよ!」
 やや興奮気味に目を輝かせながら、名も知らぬ狐の少女が楽しげに話す。第一印象こそ冷静沈着で、あまり感情を表に出さないように思えた彼女であったが、実際のところは真逆らしい。人は見かけによらないものだな――と心の中で呟いた。
「ああ……自分が情けないです……。このような立場に身を置きながら、在校生の把握すら満足に出来ていないなんて……」
 ふと、何か思うところでもあったのか、まるで自虐を思わせる口振りで少女がぽつりと言う。苦笑くしょうを浮かべたまま少し俯き、伏せられた瞳にはほのかに切なさが滲んでいた。
「仕方ないよ。こんなに人数が多いんだから、僕も誰が誰なのか分からなくなっちゃうと思う」
 シロエの何気ない一言に、彼女は一瞬、ハッと僅かに目を見張る。それから嬉しそうな、それでいながら、どうしようもなく困ったような、どこか意味ありげな微笑みで自身の表情を塗り替えた。
「あはは……ありがとうございます。…………お優しいんですね」
 その一挙一動に、嘘偽うそいつわりは見られない。きっと、どれも複雑に絡み合った本心なのだろう。――もっとも、いまがた知り合ったばかりのシロエが、そんな少女の心境を知るよしなど、どこにも無いのだが。

「……ちょー、――……? ……かーいちょー! どこですか~?」
 その時、遠くの方からまた別の誰かの声が響く。声の主は狐の少女を探しているらしく、呼びかけに反応するように、彼女は大きな耳をぴんと立てた。
「あっ! すみません! 私、そろそろお仕事が……! お話、ありがとうございました。では……!」
「うん。またね」
 挨拶もそこそこに、少女は素早く席を立つと、シロエに向かってぺこりと頭を下げる。そういえば、名前を聞きそびれてしまったと一瞬思いもしたが、この学園にいる以上はまたどこかで会えるだろう――という思考で上書きをされるのに、そう時間はかからなかった。
 そんな事をぼんやりと考えながら、ぱたぱたと早足で駆けていく小さな背中を見送る。彼女とのほんの少しの時間が、何だかとても長いもののように思えた。

 ◇

「お……お待たせしまし、た……!」
 次にシロエが顔を上げたのは、息を切らしてラウンジへと戻ってきたカガリの姿を見た時だった。あれから何時間経ったのだろう。校内案内の途中で、雛芥子ひなげし先生に用事があるからと、彼だけが図書室で借りた本を読むという名目めいもくで待機をしていた。
「おかえりなさい、埋火うずみびさん」
 読みかけの本を膝に乗せた彼がそう言うと、彼女を追いかけて来たらしいユキネも顔を見せる。両者共に、随分と慌ててこちらへ来たことがうかがえた。
「す、すみません……気が付いたら、すごく時間が経っていて……。何もありませんでしたか……?」
「うん、大丈夫だよ」
 シロエは疲弊ひへいし、ぜえぜえと息の上がった二人にとりあえず座るよううながす。向かい側にゆっくりと腰を下ろした少女達を横目に、彼は二人が落ち着くまでの少しの間、再び読みかけの本へと手を伸ばした。
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